第6話 寝ても覚めても
目覚めて最初の挨拶は、父にでも母にでもなく。
「おじちゃーん! おはよう!」
ベッド脇の窓から身を乗り出す朝六時。すでに明るい太陽に目を細め、私は笑顔で呼び掛ける。
「おはよう、
手に持った新聞で示されたところは、触ってみるともじゃもじゃと可愛げのない手触りがする。
「直してやるから着替えて降りてこい」
言われるままにTシャツとショートパンツに着替え、父と母への挨拶もそこそこに飛び出した先は、家の向かいにある小さな小さな美容院『Aurora』。おじちゃんのお母さんが始めた店で、今はおじちゃんがひとりで切り盛りしている。
カランとドアベルの音をさせると、ブラシやドライヤーを用意していたおじちゃんが「いらっしゃーい」と迎えてくれた。
クルリとやさしく回転する美容院のイスってお姫様にでもなれた気分。なんて、笑顔で鏡を見たら、お姫様には似つかわしくない髪の私を、おじちゃんが面白そうに眺めていた。
「これ、すごいな。どうやって寝たらこんな型がつくの?」
そんなことを言いつつも、手早く手際よく、複雑に絡まった髪を解きほぐす。おじちゃんの指が髪を通ると、髪の毛の方から素直になるみたい。
「どうやって寝てるか見たい?」
「機会があったら一晩中観察させてもらうよ」
「機会ならいつでも」と言う私の言葉はドライヤーに掻き消され、前髪をセットされたせいでおじちゃんの顔も見えなくなった。
「おお~、すごい! さすがプロだね、おじちゃん!」
つやつやサラサラになった髪の感触を楽しみながら振り返ると、天然パーマの髪を揺らしながらおじちゃんは苦笑い。
「俺、まだギリギリ二十代なんだけどな」
“おじちゃん”と言っても、本当は私と七歳しか違わない。だから私が引っ越してきた時はまだ高校生だったんだけど、生まれ持った体格の良さと強力な天然パーマのおかげでとても十代には見えなかったのだ。
「おじちゃん自身の見た目はともかく、腕はいいんだよね」
この辺りではみーんな知ってる人気店。しかも女性客多数。おじちゃんにスタイリングしてもらうと恋が叶う、なんて噂まである。
実際、この店に来た女の人は、みんなきれいになって幸せそうな顔で帰って行くけれど、それは美容院帰りなら誰でもそうなるのか、おじちゃんの手によるからなのか、どっちなのかわからない。
「おじちゃん本人はずーっと独り身なのにね」
『朝陽が嫁に行く時は、俺が世界で一番きれいにしてやる』
ずっとそう言われてきた。
『おじちゃんは?』
って聞き返すと、
『俺は朝陽がちゃーんと嫁ぐのを見届けないと、安心して嫁なんてもらえないよ』
って。
サラサラ揺れる髪は、確かに恋を呼ぶらしく、よく「きれいな髪だね」って褒められる。
だけどおじちゃんは親でもないくせに過保護で、私の帰りが遅いと不機嫌になるからデートもできない。窓の灯りでバレちゃうから誤魔化せないし、どうしても帰り時間が気になって、残業や職場の飲み会すら気を使う始末。私に彼氏ができないのは絶対おじちゃんのせいだ。
おじちゃんにもずっと彼女はいなくて、何年も何年も、時が止まったように同じ関係の私たち。
そろそろ恋に目覚めたいなって思う。実はもうずっと思ってる。
「おじちゃん」
美容師特有の髪だけを撫でるような仕草を鏡越しに見る。
「今日、仕事が終わったら来てもいい?」
「ああ、いいよ」
「今夜は世界一きれいにしてくれる?」
私の毛先で一瞬手が止まった後、何でもないように軽い声で言う。
「……なんだ、デートか?」
「うん」
デートに誘われた。やっぱり今回も「きれいな髪だね」って言われて。
『
職場で人気のある人だったから、私より友人たちの方が盛り上がってしまって大変だった。言われなくてもこれはチャンスだなって、私も思った。
だけど迷って。考えて。悩んで。迷って、迷って。それでおじちゃんに予約を入れた。
それでもまだ迷ってる。
迷ってる。
迷ってる。
迷っているのはデートに行きたいのか、行きたくないのかじゃなくて、もっと別のこと。
◇
おろしたての淡いブルーのシャツワンピース。腰にはリボン。潤んで見える目。バラのような唇。つやつやに輝く髪の毛は、自然な感じにゆるくまとめられて。手際のいいおじちゃんの作業が、今日は終わらない。
『朝陽がきれいになりますように』
『朝陽が幸せになりますように』
たくさんの祈りを込めてくれるおじちゃんの手が大好きだった。事実、おじちゃんに髪を撫でられるたび、私はきれいになったし、幸せになれた。
だけど今日は、どうか今日だけは、祈らないで欲しい。「デートに行く」って言ったんだから。
「もういいんじゃない?」
「いや、まだ。ちょっと、ここが跳ねてる」
「そんなの風が吹けば同じだよ」
「うん、……でも」
「遅れちゃう」
名残惜しげに後れ毛の位置を調整して、ピンを直して、前髪を整えて。髪だけを撫でるいつもの美容師の手じゃなくて、もっと気持ちのこもった手で、私の髪を、頭を、かすめるように首筋を、何度も何度も撫でる。
何度も何度も何度も何度も。
それでもとうとうすることがなくなって、おじちゃんの手が離れた。
「世界一きれいになった?」
「俺がやったんだから当然」
「えへへ、ありがと」
忙しそうに後片づけするおじちゃんは、いつもみたいに見送ってくれない。
「おじちゃん」
「ん?」
やっぱりおじちゃんは丁寧に丁寧に床を掃くばかりで、私のことは見ないまま。
「今夜は、遅くなるから」
おじちゃんは返事をせずに、ずーっとずーっと同じところばかり、丁寧に丁寧に掃き続けている。店は全然きれいになっていかないのに、無駄な掃除を続ける。
そんな状態なのに、やっぱり何も言ってくれないんだね。
店を出た私はひとりで歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
田中クリーニング店の前を通って、サンサンマートの前を通って、清水小児科クリニックの前を通って、歩く。歩く。歩く。
立ち止まって振り返るけど、おじちゃんは追いかけてなんて来てくれてなくて、何度も直した後れ毛が、夏の匂いを含んだ夜風に揺れるばかり。
いいの? おじちゃん。私が別の人のものになっても、本当にいいの?
脚が痛くなるピンヒールでふたたび歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
高校の前を通って、サワハタ書店の駐車場を通り抜けて、向かう先は、ぐるりと回って元の位置。
いつもより早く“CLOSED”のプレートが出た店の灯りは、まだ煌々とついていて、閉店作業も全部放り出したおじちゃんが、さっきまで私がいたイスにポツンとひとりで座っていた。
「あれ? デートは?」
ドアベルの音にビックリしたおじちゃんは、私を見て更に目を見開いた。
「デートなんてね、誘われた次の日くらいに断っちゃったよ」
「なんで?」
「なんでだと思う?」
途方にくれたような瞳の奥に、浮かんでは消える期待。
本当に、仕方のない人だな。だけど仕方ないのは私も同じ。
「おじちゃんは私を世界一きれいにしてくれたんでしょう?」
「うん」
「だったら、おじちゃんもそう思ってくれるってことだよね?」
狭い店内にコツコツと靴音を響かせて、座り込むおじちゃんのすぐ目の前、スカートの裾が触れるくらいの位置まで近づく。
「だったら私でいいんじゃない?」
おじちゃんは何も言わず、惚けたように私を見上げている。
「私が幸せな結婚をしないと、おじちゃんは安心できないんでしょう? だったらおじちゃんが私を幸せにしてよ。そうすれば万事丸く収まるじゃない」
毎日何人もの女の人をきれいにしていくおじちゃんの手が、もし誰かに特別に触れたら……。そう考えて苦しくなったのは、いつ頃からだろう?
『朝陽が嫁に行く時は、俺が世界で一番きれいにしてやる』
嬉しかったその言葉が、呪いのように辛くなったのはいつ頃からだろう?
お嫁に行く時は、世界一きれいじゃなくていい。だっておじちゃんが仕上げてくれるってことは、別の誰かに差し出されるってことだから。だから、世界一きれいじゃなくていい。おじちゃんが隣に立ってくれる方がいい。そうじゃないと、きれいになっても意味がない。
靴を脱いで、おじちゃんの膝の上にペタンと座り込む。
「ずっと思ってた。私が
恋のチャンスが訪れて、迷った。「行った方がいいんだろうな」って。「でも行きたくないな」って。「私がデートしたいのはおじちゃんなんだけどな」って考えて、「おじちゃんはどうなのかな?」って悩んで。迷って、迷って、ちょっとズルい賭けに出た。「デート」って言ったら、真人さんは引き止めてくれるんじゃないかな、って。
私は賭けに勝てなかった。だけど、負けたわけじゃない。
固まったままのおじちゃんの天然パーマに指を絡ませ、ちょっと意地悪な気持ちを込めてぐいっと引っ張った。
「いてっ!」
わざと痛くしたの! 私を引き止めなかった罰だ、コノヤロー!
固くて少し乾燥して、ポカンと開いたままの真人さんの唇に、さっき彼が塗ってくれたリップを呪いのようにベッタリと付けた。テクニックなんてないからギュウウッと押し付けて、ゆっくりと離れる。
「私だってもう二十二になったんだよ。そろそろ、私と恋を始めませんか?」
唇に移ったリップを指でなぞる。
「……というより、真人さんのせいで今のがファーストキスなんだから責任取ってよ」
やさしい美容師の手じゃ足りない。あなた全部で私を幸せにしてください。
◇
「遅くなる」とは言ったけど、「帰らない」とは言わなかったのにな。
ぐったり見上げる天井は、昨日の夜、真人さんの肩越しにずーっと見続けたもの。その天井にカーテンの隙間から、朝日がラインを描く。
いつもの目覚めより少し遅い朝七時。カーテンを開けたらきっと、誰もいない私の部屋の窓が見える。
きれいに結い上げられたはずの髪の毛はグッチャグチャ。メイクも落としてないから多分ボロボロ。シャツワンピースはしわしわ。ちなみに靴は、脱いだまま店のイスの前に置きっ放しで連れて来られた。
女の人を美しく仕上げる魔法使いは、その手で私を見られないほどめちゃくちゃにした。「一晩中観察させてもらう」って言ってたくせに、きっと下着の柄だって見てなかったと思う。
ずっと「おじちゃん」って呼んできたのに、男の人って、ちゃんと男の人なんだな。それでやっぱり私も女だったんだな。
体中に散らされた模様は、バラの花びらのよう……というよりも、つけられるたびにチクチク痛くて、私を縛る茨の呪縛。
おかげで身体は酔っ払った後みたいにだるくて、このまま一緒に百年の眠りに落ちたいところだけど、美容院は土日も営業。だから初めて見る寝顔もそろそろおしまい。
今日も彼は、私じゃないたくさんの女の人をきれいに幸せにする。だけど、私だけを幸せにする手を、もう知ってるから。
目覚めて最初の挨拶は、父にでも母にでもなく。
「おはよう、真人さん」
キスとともにあなたに。
fin.
フェアリーテイルによく似た 木下瞳子 @kinoshita-to
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