C10H14N2(ニコチン)。

ひどく背徳的ななにか

C10H14N2(ニコチン)。

 あんことの出会いはそれほどドラマティックなものではなかった。

 たまに寄る程度のバーのカウンターで、終電を越えて一人で飲んでいたら、同じく一人で深酒をしていたあんこが話しかけてきて、意気投合し、そのまま男女の仲になった。今となっては、何を話したかも覚えていない。

「あんた、死相が出てるよ。今日死ぬんじゃない?」

 ベッドの上でいたずら猫のように微笑みながら、あんこは言った。口にくわえられたマルボロのメンソールがぴょこぴょこと上下する。

 その夜以来、あんこはおれの家に居ついている。荷物はスーツケース1つという身軽さだった。必要なものは全て買って、おれの家に居候している。

 あんこはいわゆる、だった。あんこ、という名前も、おそらく本名ではないだろう。彼女は夜遅くに街に立って、名も知らぬ男に抱かれて、おれが出勤する朝早くに帰ってくる。

「あんた、死相が出てるよ。今日死ぬんじゃない?」

 そういって毎日、おれを見送ってくるのだった。

 あんこは、家にいるときはいつもスーツケースからトランペットを出して吹いている。近所迷惑だし、なにより下手だった。「スウィングのつもりか?」と聞いても、構わず吹き続ける。

「あんたが、わたしのどうでもいい歌を涙流して有難がるまで、わたしトランペット辞めないわ」

 ふふ、とあんこは笑った。

 おれとあんこの休みが被ると、出会ったバーで飲むのが通例になった。あんこは煙草をぷかぷかと吸いだす。煙草を吸わないおれからしたら、迷惑極まりない。煙草を辞めることを勧めたこともあるが、彼女は応じなかった。

「遠い空から降ってくるっていうってやつが、わたしに分かるまで、煙草は辞めないわ」

 そう言って、彼女は煙草をおれの顔に吹き掛けた。

 また、ある夜のことだ。あんこに「おれが養ってやるから、を辞めたらどうだ」と尋ねたことがある。彼女は笑って、

「あんたがわたしと寝た男たちと、お酒を飲める日が来るまで、この仕事は辞めないわ」

モヒートをぐっとあおり、マルボロを取り出して、100円ライターで火を着けた。紫の煙が、細くたちのぼっていった。

 奇妙な同棲生活も三ヶ月が経過したある日、おれの出勤前にあんこがいつものように「今日、死ぬんじゃない?」と言った時だ。

「おまえ、たまにはもう少しマシな見送り方でもしてくれないか」

 別にイライラしていたわけではないが、仕事に行く前くらい、景気の良い言葉が聴きたかった。あんこは火の着いたマルボロを吸い、ふうっと煙を吐き出した。

「ずっと言い続けるよ。わたしの言葉がピタリと当たるまで。あんたと、わたしの、死ぬときがわかるまで」

 あんこは、猫のように目を細めて笑うのだった。

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