結末なんてそんなもの

 ど、どうしよう。

 腰を上げきると彼のほうを向いて、迷いながらも一歩下がった。

 誠司さんはわたしから2メートルの位置で一旦立ち止まると、今度はゆっくりと歩みを進めた。

 わたしたちの距離が縮まっていく。

 わたしは、ごくりと唾を飲み込んだ。


「……やっとつかまえたで」

 誠司さんの口元がニヤリと笑みを形作る。

「誠司さん。ど、どうかしたの?」

 どう反応したらいいのかわからなくて、まるで何もなかったかのように問うた。

 すると、誠司さんは眉間にしわを寄せて、不機嫌そうな表情になった。

「それは俺のセリフやろ」

 だよねぇ、と思い自分で自分に苦笑いしてしまう。


「……俺、何かした?」

 ころころと変わる彼の表情は、今度は両眉を下げ、まるで捨てられた子犬のようなものになった。

 その姿を見ると、胸を掴まれたような気持ちになる。

 誠司さんは何も悪くない。

 悪いのはわたしだ。


 それなのに、わたしはそれを言葉にできなくて、ただ首を横に振った。

 わたしと誠司さんは付き合っているわけじゃないんだから、彼が誰といたって、他の女性と何をしたって文句を言う資格なんてない。

 そうわかっているつもりでも、悲しくて、どうしたらいいのかわからない。


「何かあったから、この頃ずっと俺を無視してたんやろ? 俺は知る権利がある。教えてや」

 わたしはもう一度首を振る。

「何もないの。だけど、ごめんなさい」

 言葉を区切って、息を大きく吸った。

「もうお弁当は作れない」


「なんでや」

 説明もなしでは当然、納得してくれない。

 説明しなきゃと思うのに、何も言えずに俯いた。

 米を持つ手がじんじんと痛む。


「俺な、理由をずっと考えてたんや。でも、見つからんかった。最後にお弁当を届けてくれたときは、いつも通りに笑って話して、変わったことはなかったと思うんや」

 わたしは迷った末に頷いた。

 たしかに、あの朝はいつも通りの幸せな朝だった。


「じゃあ、あの後か。何があったねん。隠さずに教えてくれ」

「ほんとに何もないの。ただ、自分がどんなに厚かましいことをしているのか気づいただけで……」

 袋を持つ手の力を強める。

「厚かましい?」

 意味がわからない、と声から感じとれて、顔をあげた。

「だって、彼女でもないのにお弁当を作るなんて。誠司さんの彼女さんがどう思うかって考えたら、もう作れない」


「ちょい待ち」

 誠司さんは眉間のしわを一瞬深くすると、すぐに緩めて、わたしの両肩を掴んだ。

 覗きこまれて、間近で目が合う。わたしは驚いて、目を見開き、息を止めた。

 肩に力が入る。誠司さんの指先が熱い。

 心はドキドキと脈打つ。

 だけど、彼の黒い瞳を見るうちに、不思議と心が落ち着いてきて、息をついた。


「なんやの、彼女って。そんなんいたら、お弁当作ってもらうわけないやろ」

 誠司さんはまじめな顔をして言う。

 その言葉の意味をすぐには理解できなくて、頭のなかで繰り返した。

「……もしかして、いないの?」

「ああ」


 頷く彼を見て、体の力が抜けた。

「当たり前やん。そこまでデリカシーのない男ちゃうつもりやで。もちろん、女遊びだってせえへん。好きな女がそばにいてくれたら、それでええ」

 誠司さんは仏頂面で言った。かすかに眉が上がっていて、怒っているようだ。

「あ、あの、初めて会った日に女に困ってないって言ってたから、てっきり……」

 彼女なのか、遊びの女なのかわからないけど、誰かがいるんだということを、あの綺麗な女性を見たときに思い出したんだ。

「それ、フォローになってへんやん。俺のこと、そんな最低な男やと思ってたってことか」

「あ、ごめんなさい!」

 口を開けば開くほど、どつぼにはまる気がして、謝ると口をつぐんだ。

 誠司さんははぁっと息をはいて、わたしから手を離すと、スーパーの袋を代わりに持ってくれた。


「あんなん嘘や」

 言いながら、わたしに背を向けて歩き出す。

「嘘?」

「ああ、ほんまはそういうこと、彼女おらへんこの一年はしてへん。正直にそう言うたら、俺が襲うんじゃないかってカスミは不安になるやろ」

「う……うん」

 それはそうかも。実際、あの時は誠司さんの言うことを信用していいのか、かなり疑った。

「俺はよう知らん女抱く気ならへんけど、会ったばかりのカスミに信じてもらうんも無茶やし。そやから、女に困ってないように言ったほうがカスミは安心すると思ったんや。それに、気強そうな女に見えたから、怒らすような言い方したほうがついてくるかもってな」

 話を聞きながら、夜に溶け込んでいまいそうな彼の広い背中を眺めていた。

 どんな顔で話しているのかはわからない。


「どうしてそこまでして、一緒に食べようと思ったの?」

「最初は、捨てられるおせちがもったいなくて声かけたんや。ずっとお正月らしいことしてへんかったから、あのとき言ったとおり、捨てられるくらいなら俺が食べたいって思った」

 誠司さんがゆっくりと振り向き、わたしの瞳を見つめた。

 たった1メートル先から彼に見られていると思うと、血が騒ぎ、喉がからからになった。


「せやけど、おせちのためだけやったら、知らない女の作ったおせちをホンマに食べたりせえへんかった。カスミが心配やったねん。強がり言うわりには今にも壊れそうで、一人にしたらあかんって思った」

 誠司さんが立ち止まり、つられてわたしも立ち止まっていたけど、誠司さんが距離を詰める。彼の右手がわたしの頬に伸び、首筋がぶるっと震えた。

 その震えが伝わることを恐れ、とっさに「……あ、ありがとう」とかすれた声で呟いた。

 心配してくれたことへのお礼。

 しかし、それをきちんと説明することはできなくて、彼に通じたのかはわからない。


「それで、なんで急に俺に彼女がおるなんて思ったんや」

 誠司さんは荷物を地べたに置くと、わたしの両頬を手で挟み、目をあわした。

 誠司さんが腰を曲げて、わたしの顔にその顔を近づける。月明かりしか照らすものはないというのに、誠司さんの真剣な瞳と薄い唇が見える。

 あまりの近さに、さらなる緊張が体を駆け抜けた。


「だ、だって……」

 言いたいのに、それ以上言うことができなかった。

 彼を意識すればするほど、言葉が砂のように崩れ落ち、出てこない。

 見られ続けていることに耐えられなくなって、ぎゅっと目をつむった。


「“だって”なんや?」

 誠司さんの息がわたしの瞳をくすぐる。

 左頬に添えられた手が撫でるように首筋へと移動する。

 わたしは体の横にたらした両手をきつく握りしめた。


「だって」

 同じことを繰り返しながら、一気に言った。

「誠司さんの家から綺麗な女の人が出てくるのを見たんだもの」

 彼女じゃないなら、どうして一人暮らしの男の家から異性が出てくるのだろう。


「俺の家……女?」

 彼の声が聞こえたけれど、わたしをくすぐるものはない。そのことに気づいて、うっすらと瞳を開けた。

 誠司さんは寄せていた顔を離して、眉を寄せて上を見るようにして考えこんでいた。


「ああ、そっか」

 30秒もしないうちに彼は納得したような声をあげた。

 わたしに向き直ったその顔は晴れ晴れとしている。

「な、なに?」

 気になって、問いかけた。

「女の人が出てきたのって、最後の弁当の日やろ?」

「ええ」

 わたしの返事を聞いて、誠司さんはにんまりと笑った。


「それ、姉貴やねん」

「アネキ……お姉さん?」

 誠司さんの言葉が上手く飲み込めなくて、呟きながら、意味を理解した。

 その途端、「嘘!」と叫んでしまう。

「あの人、若かったよ!? 32歳の誠司さんよりも年上には見えなかった」

 綺麗で若い独身女性。そう見えたからこそ、不安だったんだ。

 まして、大阪にいるはずの彼の家族がここにいるなんて、思いつきもしなかった。


「それ、姉貴に言ってやったら喜ぶよ」

「本当、なの?」

「ああ。結婚が決まったからって、わざわざ旦那になる人連れて挨拶に来たんや。ほら、俺が正月にも帰らへんから」

「結婚の挨拶に?」


 旦那さんの姿なんて見かけなかった。

 わたしの疑問に気づいたのか、誠司さんは付け加えた。

「旦那さんは先に下りて、車を回しに行ってたから、ちょうど姉貴と二人きりでおるとこを見たんやろ」

「……なんだ」


 安心して、力が抜け、体が崩れ落ちそうになった。

 そんなわたしを支えるように、いつの間にか彼の両手は背中と腰に回され、わたしは彼の腕の中にいた。

 耳元で誠司さんがささやく。

「なあ、俺のことが好きなん?」

 それを聞いて、ものすごく恥ずかしくなった。顔に熱が集中する。

 見なくても、真っ赤になっているのは間違いない。


 彼女がいるって誤解して、連絡を絶って彼に心配かけて、そしてすべてをぶちまけて。はっきり好きって言ったわけじゃないけど、そう叫んだも同じだ。

 誠司さんのかたい胸に顔を押しつけて、彼から隠した。


「悪い? 誠司さんみたいにだらしない男を好きになるなんてって思うけど、なっちゃったものは仕方ないでしょ」

 彼の服を掴む手は震えているくせに、出てくる言葉は可愛くないもので、自分が情けなくなる。

 こんな可愛げのない女、誠司さんは好きじゃないかもしれない。

 ああ、ちょっとしたことでも気になってしまうくらい、彼が好き。

 どこがどうとか、いつからとか、よくわからない。

 家庭の味に飢えてる誠司さんに母性本能が刺激されたのがきっかけだったんだろうか。さりげなく優しく、あたたかい誠司さんのそばにいたいって思った。

 こんな人が家族になってくれたらって。


「悪くないよ」

 彼の力がこもり、聞こえた声に胸が熱くなった。

「俺も会ったときからカスミに惹かれてた。なんか寂しそうで、ずっとそばにいたいって思ったんや。俺の彼女になってくれへんか」

 わたしは彼の大きな背中にそっと腕を回し、彼の中で頷いた。


 そのとき、いきなり強い風が吹いた。

「わっ」

「なんや、突風か」

 誠司さんがわたしを守るように、風よけとなってくれる。彼の隙間から、白っぽいものが風に舞い上がっているのが見えた。

「誠司さん、桜」

「あ?」

 二人して、桜を見上げた。今の風で、花びらの一部が落ちてしまったようだ。

「せっかくの満開の桜なのに、すぐに散っちゃうのかな?」

「まあ、でも、雨は降ってへんから明日は大丈夫やろ。明日、お花見に来よか」

「うん!」

 また明日。

 わたしたちは手を繋いで、公園をあとにした。

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Happy Garden. 高梨 千加 @ageha_cho

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