冷たい夜の底で
御手紙 葉
冷たい夜の底で
僕は彼女と向かい合ってアイスティーを飲みながら、今度聴きに行くコンサートについて話し合った。彼女はピアノをやっていて、食事をしながら発表会を行う、というこのコンサートに参加することになっていた。
「私、あんまり練習してないからうまく弾けないかもしれないけど」
彼女は少し困ったように笑いながら僕の貸した本をぺらぺら捲り、それに視線を向けて僕の言葉を待っている。僕は彼女の少し憂いを帯びたようなその面立ちをじっと見つめ、別に弾けなくてもいいよ、と笑った。
「美味しいフレンチを食べながらピアノの演奏を聴けるなんてすごく楽しそうじゃないか。佐代子のショパン、すごく楽しみにしてるよ」
「うん。そうね、下手でも頑張って弾いてみるわ」
彼女はそう言って、やはり宵闇を映した海に広がる薔薇の花びらのような魅力ある笑みを見せるのだった。
僕は彼女から借りた本を捲りながら、楽しみだな、ともう一度繰り返した。
そうして僕は彼女と別れることになった。彼女が遠くへ旅立ってしまったのだ。
僕は電気も点けないまま、薄暗い自室でベッドに座り、指を組み合わせて俯いていた。涙も枯れ果て、唇からは噛み締めた血の滴が零れ落ちていた。
彼女の生きた証は僕の胸にあるはずなのに、どんなに探してもそこには哀しみしかなかった。憂いの面持ちをしていた彼女が残したのは、やはり憂いの記憶だけだったのだろうか。どんなに彼女の笑顔を想像しても、もう僕には何も残っていなかった。
佐代子、と何度もつぶやく。ピアノのコンサートが開かれる一週間前に彼女は失踪し、僕の前から姿を消してしまった。家族にも連絡せず、一体どこにいってしまったのだろう、と僕は彼女の足跡を探したけれど、やがて彼女はひっそりと郊外で息を引き取っていた。
彼女にどんな苦しみがあったのか、僕には全くわからなかったけれど、それはきっと僕が想像できないほどの心の軋みだったに違いないのだ。何故僕は彼女の変化に気付いてあげられなかったのだろう、と何度も自分の膝を打つが、骨が軋むだけで全く僕の命は蝕まれることはなかった。
彼女と会いたかった。会ってまず、言いたかった。君には僕が付いているよ、と。そして、もう一つ、言いたかった。君のこと、本当に愛しているよ、と。
でも、それはもう叶わない。彼女は大きな石垣を越えて、永遠と広がる大地へと足を踏み出していってしまったのだ。
僕は涙も出ずにただ何度も叫び、佐代子、と言葉を繰り返した。僕が付いていたのに、こんな結果になってしまったのは、僕にも責任がある、と家族に謝ったけれど、家族はただ僕を慰めるだけで決して責めようとはしなかった。
どうしてなんだ。佐代子、君は僕といるのがそんなに耐えられなかったのか?
考えても答えは出なかった。僕の想いはただ生暖かい風に溶かされて、地面に跡形もなく吸い込まれていくだけだ。
僕はもうどうしていいのかわからなかった。彼女はこの世におらず、何一つとして彼女に触れることはできなかった。僕の生きていく道筋は慟哭と焦燥と喪失感で無残にも踏み荒らされ、掻き消されていた。
これからどうやって生きて行けばいいんだ。彼女と共にあることを何よりも望んでいたのに、その大切な人を失ってしまった。
自業自得なのはわかっているけれど、それでもこの哀しみをどうしていいのかわからなかった。
だから、ただ彼女を呼び続けることしかできない。
そうやって僕の命は削られていくのだ。
冷たい夜の底で 御手紙 葉 @otegamiyo
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