#8 虚空のスキャット(8)

「おげえっ、がはっ、ごほっ……」


 グッドマンは、喉奥からこみ上げてきたものを、一気に便器の中にぶちまけた。

 もう限界だった。自分を解放してくれ。この役目から離してくれ。そんな気持ちでいっぱいだった。

 同じ人間のはずじゃないのか。だのになぜ、あそこまでのことが出来てしまうのか。


「落ち着いて水を飲めよ、旦那。干からびちまうぜ」


 後ろから聞こえてきた声は、歌うようだった。キャラメルのように通りのいい声。

 だが、今のグッドマンにとってそれは、戦慄しかもたらさない。


「ばー……バリー……」


「ほらほら。リラックスだぜ、リラ~~~~ックス…………」


 動けないでいる彼のうしろにバーバリーは現れて、背中を擦っている。抵抗も、何も出来ない。もしかしたら、この動作そのものも彼の『ギフト』なのではないかと疑ったが、どうやらそうではなかったらしい。しかし、それが安心になることはない。自分など取るに足りない存在であると知らしめていることになるからだ。


「お客さんがたはもう帰っちまったよ。あんたも見送ればよかったのにな」


 後ろから、囁くように。背中に氷の柱が突っ込まれたような感触。

 その後、彼は言った。それは提案ではなかった。では? ひとつしかない。


「さぁ……地上に居るかわいこちゃん達に連絡してやりなよ……でかい花火の理由」


「……」


 グッドマンは失禁しそうになる恐怖をおさえながら、自分に何度も言い聞かせる。呪術のように。

 ――これは必要なことだ。フェイ達がムチャをやるのを止めるには、十分な効果だ。

 ――これ以上、余計な犠牲を出す前に……逃げろ。逃げろ、フェイ。おまえたちが巻き込まれているのは、もはや正義だの大義だの、そんなものが通用する規模の世界じゃない。

 ……そして。震える手で、端末を取り出した……。



 地上に出る。身体中の血が沸騰する感覚。長い眠りからさめたあとの頭痛。そのいずれともとれる、どこか酩酊感を含むような。フェイの中にあるのは確かにそれだった。不快感はなかった。そのはずだった。

 だが、それも。復活した通信で届いた、グッドマンの言葉――必死の言葉を、聞くまでのあいだだった。


「……グッドマン」


 空の上で、激しい光を見た。それは天蓋の端から漏れるように見えて、こぼれ落ちるような炎の残骸を見た。そして、彼の言葉。

 それが意味するものはつまり、流れがまた悪くなったということだ。


「お前は、勝てるといったぞ……フェイ・リー」


 後ろから、声。

 フレイ・アールヴヘイムが、暗闇の帳から追いついてきたのだ。その足取りは、こちらに近づくたびしっかりしてくる。


「だが、お前たちは勝てない。アレはお前たちが助けたいと願う連中の、第一の策が失敗に終わったという証だ。そうなれば、第二の策……より危険な方に賭けるしかなくなる」


「……急に、よく喋るようになったじゃあないか」


「貴様こそ。先程までの減らず口は、どこへ行った――……足元が、おぼついていないぞ」


 ……フェイは、フレイと睨み合った。

 それに呼応するように、上空の雲行きが怪しくなる。

 雨が、近づいている。



 至るところがへしゃげ、弾痕が刻まれたバンが街路を疾走する。左右にぶれながら、脇芽もふらずに進んでいく。


「どこへ行く気だ――」


 助手席でチヨが言った。

 運転手はトレント。後部座席には、ミハイル。彼を気遣うようにして隣りに座っているのがモニカであった。


 ……数分前。

 彼らは、ホールドアップを要求してきた警察……SCCのリカルド達と相対していた。

 トレント達は、彼らの突きつける銃口の群れを強行突破した。

 少なからず、負傷した……だが、突っ切るしかなかった。

 誰もが疲弊していたが、今こうして抜け出して進んでいた。


「……ヘブンズソードだ」


 トレントが吐き出すようにして言った。実際、血の塊が吐き出されたようにも見えた。

 彼は全身に銃撃による負傷を受けていた。彼が殿となったのだ。チヨ達は軽症で済んでいた。時間がないのは、ミハイルだけではないようだった……。


「バカを言うな、そんな目立つ場所に向かってどうする……思うツボだぞ。奴らの包囲が――」


 何度も道が蛇行し、ゴミと落書きと浮浪者だらけの路地を駆け巡っていく。果てのない巨大な蜘蛛の巣の中を進んでいるような感覚に陥ってしまう。


「だがそれでも、行くしかないんだ」


 またトレントが言った。自分に言い聞かせているようにしか聞こえない。


「その先で、貴様はどうする」


 チヨは問うた。

 トレントはガタガタと振動する車内にあって、その問いに答えなかった。


「答えろ――」


 それでも答えない。チヨは苛立ち、更に言葉をぶつけようとした。その時……。


「――伏せてっ!!」


 後ろから、モニカの叫び声。


 直後。

 連続して殺到する銃撃音とともに、バンの窓ガラスがまとめて一閃された。

 ズガガガガガガガガガ。薙ぎ払うように放たれた轟音が、薄い膜に連続的な亀裂を刻み込んでいく。

 衝撃、振動。バンが揺れてバランスを失う。モニカはミハイルの頭をかばった。トレントとチヨも身をかがめた。頭上に細かなガラス片が降り注いで、しゃりしゃりという音を立てた。顔を上げる。わずかに開いた目、ガラスの割れ目の隙間。


「ひゃはははははははははは!! てめぇら、もう逃さねぇぞ、よくもコケにしやがったなぁッ!!」


 それはモリソンだった。こちらと並行してビル壁を飛び回りながら、両手に構えたサブマシンガンを放っているのだ。

 哄笑とともに、再び銃口がこちらへ。

 コンマ一秒後、放たれる。


「くッ……」


 トレントは強引にハンドルを切った。ミハイルを守っているモニカを信頼してのことだったが、さらなる揺れが車内にもたらされた。大きくバウンドする。

 銃撃が、暴れ狂う蛇のように真横から襲ってくる。決して高性能なわけでも、スピードが出せるわけでもないバンを必死に操って、その火線からのがれるようにして進んでいく。

 標的から外れた銃弾の嵐は、汚らしい路地裏に消えることのないくすぶりを刻み込む。ゴミ箱の中に溜まった不快な汁がはじける。スプレー落書きが変形し、まったく別のメッセージを帯びる。新聞紙をねどこにしていた浮浪者たちが、巻き添えを食らう。それらの光景をどうすることも出来ぬまま、自らの目的のために、トレントはハンドルを操って先に進む。そう、進むしかないのだ。


 ……どれほどその追跡劇を繰り広げていただろうか。まもなくバンは、ヘブンズソードに繋がるメインストリートに合流しようとしていた。そうなれば、更に進みづらくなる。車の群れに突っ込んでしまえば、バンの速度はあからさまに落ちてしまう。


「どうする――」


「遠回りになるが、このまま裏道を進むしかない……捕まってろ」


 それがトレントの判断だった。チヨにとっては、まだマシな選択肢だった。このまま果てのない追いかけっこを続けることが最善とは、とても言えないが。


「……なら、しっかり運転しておけ」


 チヨは座席から腰を浮かせてドアを開け、外に身を乗り出す。


「何をする気だっ」


「莫迦は一人だけとは限らん」


 直後。

 屋根から、大きな音がした。

 何かが落ちてきたような。

 ……違う。何かが、ここに降りてきたのだ。

 さらに直後。

 バンの屋根、そこに開いた僅かな隙間から、まるでコールタールのように黒いものが垂れてきて……。


「ッ――!!」


「見つけたよ、くそジャップが……今度こそ、絞め殺してやるよッ」


 それは声を発した。


 チヨは、その軟体が車内で暴れ狂う針の山になる前に屋根の上へ飛び上がった。それから、真下を覗き込んでいるグローヴに向けて切っ先を突き出した。

 彼女は足元のおぼつかない舞台の上で自分の体を車内の隙間から戻し、その一閃を回避する。ぐねぐねとうごめきながら、正常な人体に戻る。高速で移りゆく景色。そのなかで彼女は、抜刀したチヨを見てニヤリと笑い。


「逃さないって言ったろ」


「しつこい女じゃ……」


「そういうのが好みだろ……」


 そして二人は――衝突した。


 モリソンの銃撃。真横から。

 更には真上で、チヨとグローヴが激しい接近戦を繰り広げている事がわかる。その中でトレントは必死にバンを動かしていた。

 後方をちらりと見ると……ミハイルが苦しそうに喘いでいた。胸が詰まる。こちらを一瞬見上げたモニカと目があった。何かを懇願するような、あるいは祈るような目。

 ……そんな目で見ないでくれ。苦痛がよぎる。

 その時、トレントもまたごぼっと血を吐いた。なまぬるいかたまりが喉の奥を通って、すすけた座席にシミを作る。

 なるほど時間がない。それにこれでは、どこに行くのか分からない……奴の言ったとおりだ。トレントは笑おうとしたが、うまくいかなかった。かわりに、前を見ることにした。

 すると、割れたフロントガラスから。


「ふはははははははははっ!!!!」


 ハンセンが見えた。

 その異常に隆起した肉体を誇るように、何度も自分の体を腕で打ち付けている。

 どっしりと前方に構えて腰を落とした。

 ……このバンを受け止めて、そのまま横転させようという魂胆なのだろう。

 あの体では、それも可能になるだろうが……。


「……モニカ」


「――分かってます」


 ハンセンはだんだん近づいてくる。そのなかで、こちらに向けてなにやら威勢のいい長話を延々と行っていた。それを無視しているスキに、モニカは鋼線をガラスの隙間から射出、ハンセンの後方へと流していく。

 ……彼の後ろに、崩れかけたビルの一角がある。あれを少し動かしてやれば、そのまま奴の頭上に――。


 しかし。

 奴は突如として話すのをやめた。真顔になった。

 首をぐりんと後ろに向けた。彼の目は、見た……わずかにキラリと光る線を。

 再びこちらを見た時、彼は猛獣の双眸をいびつに輝かせながら、


「馬鹿め、同じことが……二度も、通じるかあ~~~~~っ!!!!」


 咆哮し、両腕を大地に叩きつけた。

 直後、縄のような筋肉が浮かび上がり、こちら側の進行方向にむけて、一気にアスファルトをはがしにかかる。べきべきという音とともに、まるで被膜であるかのように灰色が剥離されていき、こちらに向けて地割れ。激震を誘発する。大地が沸騰し、真下からの唐突な浮遊感。車体が浮き始めている。そして、あの亀裂がこちらに到達した瞬間には、この車は横転するだろう。それはモニカの鋼線が奴の頭上に衝撃をもたらすよりも早いだろう。このかん、僅か数秒。

 そのわずかの間に、トレントは思考し、決断した。


「ぬ…………あああああああああああああ~~~~~~~~ッッ!!!!」


 彼はハンドルを手放して、ドアを開けた。それから、身体を投げ出すかたちで、地面に腕を振れた。能力の、発動である。


「はははははははははは…………んッ!!??」


 ハンセンは笑うのをやめた。異変に気付いた。

 そして、その時にはもう、トレントの作戦は完了していた。


 バンを横転させるはずだった。地面の亀裂は、今や無数の瓦礫と成り果てていた。それだけではない。それはバンの左右からまるで翼のように生えて、いや正確に言えば、トレントが剥がれた地面に干渉し、細かな破片を両翼のように形成させて、バンの左右を支えていた。それはぶらりと大きく後ろに引き絞られてから……前方に、バンを投げ出した。


「な、何いいいいいいいいッ!!!!」


 ハンセンは唖然とした。

 ……彼の頭上をバンが飛翔し、そのはるか前方に大きく揺れながら着地した瞬間に瓦礫は崩れて地面に落ちて、その時にはもうグローヴとモリソンは追いつけなくなっていて。

 トレント達を載せたバンは、彼らのはるか先を、既に進み始めていた。


 三人は向こう側に消えていく車両を見据えると、大勢を立て直し、すぐさま追跡を再開した。



「……いてて……」


 モーテルの入り口付近で、リカルドは身を起こす。

 全身に食い込んだワイヤーと礫の感触が忘れられない。


「おーい。みんな無事ですか」


 問いかけると、うめきながら部下たちも起き上がる。

 野次馬たちが、通りがかりで自分たちを冷やかしてくるが、警察だと分かると途端にビビりながら去っていく。


「何があったんだ。あいつら一体、何をやらかして……いや、そいつを答える義務はあんたらにはないんだが……」


 大柄なモーテルのオーナーが、青ざめながらこちらにやってきて聞いた。

 リカルドは首を振り、傷口を腕でおさえながら言った。


「なに。ちょっとしたボヤ騒ぎですよ、ご主人……」


 ――とはいったものの。予想外の反撃による敗北は、自分たちの経歴に泥を塗るものであることは明白だった。

 ……数分前。チヨ達は、このオーナーを人質にとりながら自分たちの包囲から脱出した。全く予想外だった。


「ダサいなぁ、こいつはダサい……」


 リカルドたちは立ち上がり、部下たちにも再起を促す。


「このままじゃ、終われない……ロットンとキーラに申し訳が立たない」


 先を見据えて、進もうとする。


「さて……行きますか」


「――そうはさせない」


 声。

 部下たちが一斉に銃を上空へ。オーナーは慌ててモーテルの中に引っ込む。


 次の瞬間。

 頭上から、銃撃の雨が連続して何度か降り掛かった。

 それは部下たちがその声の主に向けて引き金を引くよりも一瞬早くに展開されて、ほぼ同時多発的に、彼らの銃器だけを、正確に打ちすえていた。

 ……転がっていくライフル。部下たちは。リカルドは、見上げる。


「なるほど……貴女ですか」


 リカルドはなんとかして笑った。

 ――上空で翼を広げ、こちらに向けて一対の銃を構えている異形。

 ミランダ・ベイカーの姿がここにあった。


「あなたたち、チヨも捕らえるつもりでしょう。させないわ」


「全く……――舐められたもんだ……!!」


 リカルドは髪をかきあげて、両腕を彼女に差し向けた。

 部下がそれに続いて、取り落した銃器を拾い上げて、構える。

 両者は、睨み合った。



 雨が近づいている――時間がない。

 トレント達は、いよいよガタが来ているバンを操りながら、路地を急いでいた。こうなった以上、メインストリートに合流して最短で目的地に向かうことは諦めざるを得ない。このまま狭い路地裏を進んでいくしかないのだ。

 後方から、穏健派のアウトレイス三人が追跡してくる。既に何度か追い払っているが、彼らは執念で食い下がってくる。根比べに持ち込まれれば……負けるのは、どう考えてもこちらだ。


「どうする――追いつかれる!」


「このまま行くしかない……!!」


 そう、このまま。放たれた矢は、戻らない。ゆえに、このまま……。

 だが。


「……トレントっ!!」


 バスっ、という大きな音がした。どこから。

 ……タイヤから。トレントはドアから身を乗り出して見た。穴が空いている。空転。

 続いて後方。

 ……モリソンが銃口を向けていた。先端から煙が出ている。


「……くそっ」


 まもなくバンは寿命が尽きた。

 その場でタイヤの痕を刻み込みながら、金属の悲鳴を上げて半回転して停止した。


「ぐっ……」


 咳き込む車内。既に屋根は凹み、左右の扉もボコボコにへしゃげている。

 そのくらむ視界のなか、トレントは皆を見渡した。

 ……チヨは既に体勢を立て直し、こちらに向けてゆっくりやってくる三人を見ている。

 後ろを見る。モニカはすすだらけになりながらも、ミハイルを抱きしめて、彼にダメージがいかないようにしていた。

 彼女と目があった……何かを考えた。

 そのまま起き上がり、自分もまた、チヨと同じように立ち上がろうとした……。


「そこまでだ、てめぇら」


 大きな、威圧するような声が響いて。

 こちらに向かってくる三人は動きを止めた。


「……ちっ」


「余計な奴らが……」


 反対側から、崩れたバンに向けて歩いてくる者たち。隊列を組んで、こちらに向かってくる。


「よーし、とまれ」


 声とともに、ざっと整列。先頭に立つものを、チヨは当然知っている。

 銃口が一斉に、こちらを向いた。

 前からだけではない。

 チヨは鋭敏にその気配を探り当てた。

 左右の廃屋。ビル。至るところから、銃口の鈍色の輝きが見えていた。

 こちらが少しでも抵抗すれば、たちまちあの火線は殺到するだろう。

 結果、自分だけではない、後ろにいるミハイルも。そうなれば……とんでもないことになる。こいつらは分かっているのだろうか。

 ――いや、そんなことはどうでもいい。

 とにかくこれは、要するに、四面楚歌ということだ。


「……」


 チヨは両手を上げた。

 トレントたちも、ややあってからそれに続いた。


「まさか……」


 大きく息を吐いて、呆れたようにそいつは言った。


「まさかてめぇらと直接やり合う羽目になるとはな……分からねぇもんだ」


 自分たちの包囲を完了したロットンが、噛みしめるように言った。

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