#7 虚空のスキャット(7)

 バーバリーとアジスは向かい合い、白いスポットライトの下で話をかわした。

 髪を後ろに撫で付けた優男の後方にはグッドマンがおり、冷や汗をかいている。

 彼は第八機関――評議会の狗――の『代表』として、同席することを求められていた。


「……」


 評議会が、第八の動きを知らぬ訳がない。ならば、自分がここにいるのはあてつけか、それとも警告か。いずれにせよ、彼には恐ろしかった。これから起きようとしていることが。

 ……何故って、彼は昇華機構を持っているわけでも、アウトレイスでもなかったから。


「今回の君たちの行動は……すべて記録している」


 アジスは身を乗り出し、脅すように言った。

 バーバリーが肩をすくめるのにも屈さず、彼は続けた。


「一人の少女がアンダーグラウンドからここに上がり……『洗脳』され、自我を書き換えられていく一部始終をな。それではっきりした。この場所は地獄だ。君たちがここに作り出しているのは、理想郷でもなんでもない。独裁政権に過ぎない」


「ほう……?」


「国連の老人たちは心臓が止まりそうになっていたぞ。たいそうショッキングであったろうな。このような世界がこの21世紀に存在して良いものかと」


「だが、現にここに在るではないですか」


「そうだ。だが……もう、表立って存在はできなくなる」


「どうして?」


「――っ」


 彼は拳を握り、汗をかきながら、怒号を抑えつつ、低声で言った。


「目に余る……あまりにも。この国際社会においては許されん……我々を舐めるなよ」


 その声は、威厳と怒りに満ちていた。並の人間であれば、とっくに気圧されていただろう。

 だが、向かい側の男は、あまりにも飄々としていた。ただほんの少し、風が吹いただけ、とでも言うように。

 ――アジスの顔が。ふたたび、ひきつった。


「おや。おやおやおや」


 バーバリーは口笛さえ吹きそうな軽い調子で、言った。


「歓迎するのではないですか? 我々を。あなたは最初、そう言ったはずでは?」


「……――っ!!」


 アジスは目を開いた。


「か…………っ」


 彼の喉の奥から声が出て、止まった。

 彼は震えて、何かを訴えようとしたが、出来なかった。

 その内側の何かが、手前で封じられたようだった。

 おかしい。明らかに様子がおかしい。グッドマンは、かたわらのバーバリーを見た。だが、男は何も答えない……自分など、はなから相手にしていないのだ。


「……っ、それは。そうだ、あの時、君は手を握って……」


 アジスは口ごもり、もごもごと呟きながら、両手を所在なさげに動かした。何かの発作のように。黒目が泳ぎ、白目が濁る。心臓が高鳴りながら、彼の中にある冷静さと理性が、何かによって融かされていく――。


 会議室の外では、武装した兵士たちが待機していた。


「……あまりにも遅すぎる。何かが起きているに違いない」


 隊長格である男が、しびれを切らしてそう言った。何かがあってからでは遅いのだ。

 彼は部下たちに合図をした。そして、扉を蹴破ろうとする――。


『待て』


 だが、通信。アジスの側近からだ。


『何も問題はない』


 極めて冷静な声だった。


「しかし、あまりにも時間がかかりすぎているのでは――」


『アジス様の判断を疑うのか? いいから待機のままだ。復唱しろ』


 ……兵士たちは、その通りにした。

 何か、不気味なものがあった。扉の間からみえる暗黒は、果がないように思えた……。


 ぐらり、ぐらり。

 アジスの視界が揺れて、極彩色の迷路に迷い込む。


「ハーッ、ハーッ…………」


 水を飲む、飲む。

 部下は何故助けない。助けてくれ、明らかにおかしい――。


 ……助けはきた。


「落ち着いて。わたしはあなたの味方です」


 そして、手を握る男が目の前に居た。

 ああ――安心した。

 アジスは、すっかり落ち着いた。


 そうして、元通りになった。

 彼はメガネを押し上げて、姿勢を整え……再び、目の前の男と向かい合った。

 もう負ける気はしなかった。


「それで。あなたはどうしようというのです」


 挑発的に。


「ここを――再び国連の管轄に戻す。それが条件だ。さもなくば」


「さもなくば、なんです」


「第八機関を解体し、この街――いや、国に制裁を加える」


 そして、暗闇から展開された。

 ……バーバリーのこめかみに、銃が押し当てられた。

 既に、アジスの側近は暗闇の中で動いていたのだ。

 相手がひとりきりだったのが運の尽きだ。こちらを舐めていたからだ。

 バーバリーは肩をすくめ、口笛をふいた。それから、言った。


「ほう、そんなことが――」


「出来るのだよ。なぜなら既に――ここに、攻撃が飛んでくるからだ」


 覆いかぶせるように、確信をもって、アジスは宣告した。

 ――まもなく、バーバリーは、耳元のイヤホンらしきものから、『情報』を受け取った。


「……――!!」


 彼は、顔を青ざめさせて、掴みかかってきた。


 アジスは、自らの勝利を確信する――。



 シャーリーは、何度もえずき、吐き戻しそうになりながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、『彼女』のもとへ奔った。

 そうして、全てをぶちまけた。


「わた、私の目の前で、男の人が、いきなり、どろどろの格好をして、私は彼といて、彼っていうのはアーサーのことで、図書館、図書館にいて、それで、出た後で……話をして……ドカーン、ぐしゃーん、何も、何も分からなくなって、わた、私…………っ」


 彼女のやわらかな髪と胸の感覚がして、甘い芳香が耳にふれた。

 ふわりと、腕が回されて、シャーリーは抱きしめられた。

 薄暗い、縦長の空間に灯りがともる。キャンドルのあかり。その中で、彼女は支離滅裂な、要領の得ないシャーリーの独白のことごとくを、否定も肯定もせず、ただ受け入れた。

 それから、マリアは……言った。


「辛かったわね、本当に…………」


「私、あんなふうに、人が死ぬなんて……あんなに、ぐちゃぐちゃになって、血が噴き出して、肉がとんで、それで…………」


 しかし、言葉は途切れた。

 再び、甘やかな抱擁が、彼女を落ち着かせた。

 乱れた心が、元の場所へ戻っていくかのようだった。


「マリアさん、私…………貴女の服、汚しちゃって…………」


「構わないわ……また一緒に洗濯をしましょう。それより、ひとつ、大事なことを教えてあげます……」


「大事なこと……?」


「彼は――死んでいないわ。後ろを、見て頂戴」


 要領の得ないことを言われた。

 後ろを見た。

 真実があった。


 光が、入り口からいっぱいに広がって、こちらに飛び込んできた。

 子どもたちが、足並みをそろえて、聖歌を歌いながら、やってきた。

 その中央から、誰かがやってくる。


 それは死んだはずの男だった。

 笑顔で立っていて、こちらに歩いてくる。

 子どもたちとともに、万感の笑みとともにやってくる。

 そうして彼は、魂の不滅をうたった。

 自らの罪を洗い流し、自分はここにいるのだと言った。


 見てくれお嬢さん、私は満たされていた、あんな古い外套など、もはや不要だ。これからはここで、きれいな服を着ていて、はじめから幸せで――……。


「ああ……ああ」


「ね? ――……幸せでしょう?」


 涙が、別の涙が溢れてきた。

 なんとあたたかいのだろう。シャーリーの中で思いが溢れた。


 魂は不滅で、私が見たものは幻だったのだ。

 なぜなら、ここには最初から、幸せな人しか居ないのだから。



 あまりにも遅かった。

 会合は少しで終わる、とアジスは言っていた。だのにこれは、明らかな異常だ。


「……おかしい。もう待っていられん」


 隊長は、部下にカウントを要請。ドアを破壊し、内部に侵入する準備をすすめる。


「しかし、良いのですか。まだ許可が――」


「何かあってからでは遅いだろう。いいか、ここは『魔境』だ……」


「……っ」


 そして、カウントが始まる。

 3,2,1……。

 その時。

 ドアが、開いた。

 会議室の、内側から。


「ばんっっっっっっっっっっっっっっざああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい、ばんっっっっっっっっっっっっっっざああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい、ばんっっっっっっっっっっっっっっざああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーいっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!」


 全裸の男が白目をむきながら、口から泡を吐き出して、暗闇から飛び出してきた。

 彼らは、しばらくかかった。

 それが――アジスであるということに。


「な…………あ…………?????」


 狼狽する。

 アジスらしい男はそのうちの一人からカメラを奪い取り、自分にレンズを向け、録画モードを起動させる。


「へ、へへへへへへへへ…………ひゃははははは、」


 舌をむき出しにして、陰部を振り回し、尻から放屁しながら、その場でうつろに痙攣する。そして、わけのわからないことを口走りだす。


「ヘテロクロミア、ヘテロクロミアなんだよ、境界線と結婚するパトスはもはや南極とファックする無窮のチリコンカーンなんだ、それを分かっていなかった、こんなにも簡単だった、リンパにグレイビーソースを流し、十二指腸はいにしえの芳香剤だ!!!! はははは、ははははははははっ!!!!」


「アジス……アジスっ!? おい――お前たち、彼を抑えろ――」


 部下は狼狽したが、行動に移ろうとした。

 次に、後ろからやってきたのは……。


「仕組まれていた、仕組まれていたんだっ……――」


 青ざめた顔の、アジスの側近だった。


「へへへへへへ、ひゃーーーーーーーーーはははははははは胎児、胎児胎児胎児!!!!私は死んで生まれ変わりどん詰まり!!!!」


「一体何が……」


 側近は壁にもたれかかり、頭をガンガンと殴りながら涙を流した。


「ああ、私は、私はなんということを……」


「何が起きたんです!! アジスは、一体どうしてしまったのですかッ!!」


「仕組まれていた、はじめから……ここでは何もかもがおかしいんだ、狂ってる、だがそれを叫ぶことすらできない……全ては覆い隠されてしまうんだっ!!」


 アジスは狂いながら笑い、その目から、涙を流している…………。



 桃色の空の下、シャーリーは子どもたちに引っ張られて、あの花園の丘にやってきていた。

 おずおずと、だが徐々に、笑顔に馴染んでいく。

 彼らは丘の上でぶどうを踏んで、ワインを作っていた。

 はじめは誘われるままに、だがやがては自分から、靴を脱ぎ、その環の中に入った。


 彼女は、彼女たちは、足でぶどうを踏む。

 芳醇な果肉が潰れて、赤い、あかいあかい汁が飛ぶ。

 彼女たちは笑顔で幸せで、真っ赤に染まっていく。


 途中彼女は何度も、頭の中に、轢かれた男が浮かんだ。彼もまた真っ赤だった。だが、そのイメージが消えることなく残ったとしても、もう平気だった。


 丘の上では、頂点が欠けた十字架が掲げられている。



 雲の切れ間からは、極めて特異な光景が見える。

 そこはかつてロサンゼルスと呼ばれた大都市のはずだった。

 だが今は、それらの区画がまるごと、黒い壁によって区切られ遮断されている。更にその中央には巨大な塔のようなものが突き刺さり、その先端に、まるでドーナツのように浮き島がへばりついている。異常な光景だった。


 二機の戦闘機が、そこに向かってジェットを噴かせていた。それらは少し前『外側』から離陸し、ハイヤーグラウンドに向かっていた。

 ひとえにそれは、彼らを脅迫する……ないしは、実力行使に出るためだった。

 アジスは過激派で、国内の賛否はまっぷたつだった。だが、このような状況での判断は早かった。彼らF16はそのまま、空に浮かぶ桃色の霞に包まれた異郷を撃ち抜くはずだった。しかし。


「なんだって……!?」


 コクピットの中で、パイロットが呻いた。

 汗が止まらず、頭が真っ白になり、自分が何を言われたのか分からなかった。


「こちらソドム1……命令の復唱を求む」


 すると、しばらく沈黙があり……答えが返ってきた。


『サッカレーよりソドム1へ。命令を復唱する――……。ソドム2を撃墜せよ。繰り返す、ソドム2を撃墜せよ』

 

 ソドム2は。

 彼の隣で飛んでいる、僚機だった。


「バカな…………なんのために――……」


『命令の理由は許可されていない』


「理由を求める、繰り返す、理由を――」


 僚機は何も知らない様子だった。

 そして、桃色の空は、どんどん近づいてくる――……。


「…………お前」


 そこで彼は気付いた。


「お前――……サッカレーじゃないな…………」


 また、沈黙があり。

 やがて、声は答えた。


『私だ。アジスだ。命令に従え、ソドム1』


「な…………っ」


『理由を問うことは許可されていない』


「何故ですッ――何故そのようなことを――敵は、敵は目の前のはずだ!!」


『違う。敵は――奴らじゃない。奴らは味方だった。そして敵は、お前の隣にいる』


「…………っっっ!!!!」


 パイロットは躊躇った。

 歯を食いしばり、血が吹き出して。己の使命感と罪悪感と怒りと疑問が一緒くたになったヘドの中で、呻いた…………。

 だが、彼は。


「――――くそっ!!」


 この後、自らのこめかみを貫く事を考えて――命令を、受諾した。



 ――空の上で、炎の華が咲いた。

 それは、彼らの居る場所にも伝わった。


「アハハハハハハハハハハハハハ、ハーーーーーーーーーーーッハッハッハッ!!!!」


 通信機を持っているのはアジスだった。誰も逆らえなかった。


「なんてことを…………」


 裸のまま小便を撒き散らす男のそばで、呆然となる兵士たち。

 そして側近は頭を抱え、ただ絶望するのだった。



「貴方は……」


 わなわなと震える声で、グッドマンは言った。

 照明は落とされていた。バーバリーはその状態でも、愉快そうにイスを前後に揺さぶっていた。ひと仕事終えた後の心地よい疲れ、とでもいうのか。彼は暗闇と遊んでいた。


「あぁ、落ち着けよ、Mr.グッドマン。ほら、そこに座ると良い」


 グッドマンはその言葉を無視する。

 先程まで目の前で起きていたことを経て、そんなことができるはずもない。


「貴方は――貴方は一体、彼に何をしたのだ!! 何もしていないようにしか見えなかった……私には、彼がひとりでに狂っているようにしか――……」


 そこでバーバリーは腕をひらりと上げて、その言葉を制止した。


「あーあー。だから言ったんだ、落ち着けと。それはな、ミスター。あんたが、俺の仕事の現場を、見ちゃいなかったからだ」


「仕事……? それはここでは――」


「いや、違う。そもそも……見てたら、あんた。


 ぞっとするような響きがあった。グッドマンは身を震わせる。

 扉の外では、とうにおかしくなってしまった一人の男が、立派な男が、今もなお狂態を演じているようだった。いや、違う。彼は本当に狂っているのだ。その騒ぎは、まだ続いている……BGMのように……。


「はじめはアイサインだ。その次に握手、最後にはハグがある。クレッシェンドってやつだな」


「何の話だ……」


「アジスとかいうおっさん。あいつのそばに居た男。俺は彼に、トイレで会ったんだ。今とは全然違う服装だったから、バレなかった。それで教えてやった。そこの個室詰まるから気をつけなさいよ、と。やつは礼を言った。俺はウインクをした。……それで、第一はクリアだ」


 ――なんのことかわからない。

 要領を得ず、不気味なまま話は進む。


「それで、その次は、アジス本人に握手をした。そして会話を楽しんで……最後には、やつに対し…………


「っ…………!!」


 その時グッドマンが衝動に駆られたのは、義憤――一人の男を壊しておいて、飄飄としているその態度に何かが掻き立てられたからか……とにかく彼は、そこで問い詰めるように叫んだ。


「何を言っているのだと、そう言ってるんだっ!!」


 掴みかからんとするほどの勢い。

 ぴしゃりと……言葉が降りてくる。


「――お前。怒ってるのか? グッドマン。何が起きたのかを、知りたいか?」


 そう言って、バーバリーは、グッドマンを、振り返って、『睨んだ』。


 グッドマンの体に、電撃が奔った。

 すぐに、思ったことを口にした。


「そんなことはない。私はお前に怒りなど抱いていないし、疑問さえ持っていない」


 それからすぐ――自分がおかしなことを言ったことに気付いた。

 おかしい、私は今――。


「今、おかしなことを言ったと思ったろう? だが、言ってる最中は気付かなかった。お前さん、俺と握手して今の会話だったら、もうちょっと気付くのが遅かったぜ」


 頭の中が真っ白になる。

 異物感。強烈な。なにか違うものが、頭の中に突き刺さったような。


「な――……何をした、お前、何をした――!!」


「ビッグ・ブラザー。俺の昇華機構――……俺とコンタクトをとったものは、思っても見ないことを、真逆を口にする……そして、場合によっては――『』。それが俺の力。どうだ?……いい名前だろ?ひーひー言わせてやったのさ、あのおっさんを」


 ――たった今。

 そのデモンストレーションを、受けたわけだ。


 グッドマンはその時、自分が、思考と真逆のことを口にしていながら、その口にした言葉を、疑いすらしなかった。むしろ、その言葉を、自分の本心そのもので吐き出したのだと、本当に、芯から思い込んだ。

 たった一瞬――たったそれだけのこと。

 だが、十分だった。


 バーバリーは髪をおろし、服の前を開けてパタパタとあおいだ。

 彼はくつろいでいた。つい先程、一人を、そしてこれまでに、おそらくは数え切れぬほど多くの人々を狂わせておきながら、まるで超然としていた。

 外では、狂った男が、己の狂いに気付くことすらなく、踊っている。


 グッドマンはおそろしかった。どうしてこの町が、これだけ孤立していながら、経済が枯れずに済んだのか。答えは、目の前の男にあった。

全てが、彼により仕立て上げられた外交のドラマだったのだ。


 グッドマンはその場を逃げ出したい衝動に駆られたが、もはや恐怖は度を超えて、彼をそこの暗黒に縛り付けた。彼はただ祈るしか出来なかった。


(駄目だ――フェイ。立ち向かうな……抵抗するな。評議会は……ヤバい!! お前たちでも、太刀打ちできないっ……!!)



 シャーリーが、自室に向かう。ボロいアパートでも、酒臭い共同スペースでもなく、彼女だけの部屋。

 ステップを踏んで、お姫さまのように踊りながら、彼女はそこにたどり着く。足を締め付けるジーンズも、革のジャケットも脱ぎ捨てる。ブラジャーもショーツも、今まではなんとなく自分には似合わないんじゃないかと思っていた。

 でも今は――今はこんなにも愛おしい。決して大きくない胸も、ちょっと骨っぽいお尻も、これはこれで素敵だと思えてしまう。だから彼女は頬が緩み、桃色の光が差し込む中で踊り……姿を変える。

 彼女は髪をほどいて、スカートを身につける。


 アーサーとの時間は素敵だった。

 彼は本当に魅力的で、自分に寄り添ってくれた。

 まるで、ずっと昔からそうしてくれているように感じられた。


「私、今までずっと孤独だった」


 彼の手を握りながら、その瞳を見つめながら、言った。


「……だけど、もう違うのね。私はひとりじゃない。あなたもいるし、みんないる」


 そして、満ち足りた時間。

 鼻歌をうたいながら、何かを、部屋にかかっている何かをビリビリと引き裂いて捨てた。それと同時に、彼女の中にある一切のためらいが消え失せた。



 同じ頃。

 ハイヤーグラウンドの奥深くでは、ごぼごぼと呻きながらのたうち回る一つの存在があった。それは自分の真上にある天国に、ある『力』を放射しながら、混沌としたまどろみの中に居た。

 もはや意識とさえ言えぬほどの思考の断片のなかで、その醜悪で不定形の存在は――ただ一言、まるで泡を吐き出すかのように、時折、こう呟くのだった。


 ――『フレイ』と。



 そして、さらに同じ頃。

 追い詰められたトレントは、逃亡を画策する中で、ただ独り、連絡を取り合っていた男……中東某国の高官より、絶望的な知らせを受けていた。

 ――マリオネット作戦は失敗した。

 もはや我々は撤退する。この件に関知しない――。


 彼は罵った。第一の策はもはや潰えた。

 そうして、第二の策を発動する決意を固めた。



 ――自分たちのうち一人が、確実な死に至る作戦を。

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