#6 虚空のスキャット(6)
シャーリーが目を覚ますと、そこには、日々があった。
ベッドから出ると、桃色の光が窓から差し込んでくる。
「……」
しばらくそれを見た後、彼女はほっと息をつく。思わず、笑顔になる。
階下に降りると、ニュースを見ている父親の背中。ハイヤーグラウンドは今日も平和そのものらしい。それから、母。自分を見てにっこりと笑う。朝食があるわよ。コーヒーと紅茶、どちらがいいかしら。
私は牛乳が良いな。そう答える。あらそう、じゃあ、コーヒーにミルクを入れるわね。
三人で座る。
「祈ろう」
両手を組んで静かに瞑想。
そして、朝食が始まる。
静かな食器の音。だが遠慮がちに、じょじょに会話が始まる。
父親が、気の利いた一言を言った。
それを受けて、シャーリーは思わず、笑ってしまった。
再生していく。日々が再生していく。
私、これからどうしよう。
復学の手続きはもう少しかかりそうだ。それが終わるまでは、しばらくゆっくりしていくがいいさ。父がそう言ってくれた。シャーリーは、その通りにしようかな、と思った。
そうだ、時間は、たっぷりあるんだから。
――家を出る。
すると、玄関を曲がったところで、『彼』が居た。
「……やぁ、調子は」
「最高。朝食も美味しかった」
「そりゃよかった。それで、今日はどうする、お姫さま」
「今日も街を案内してくれないかな」
「……任せてくれよ」
彼は言った。シャーリーは頷いた。
そうして、歩く。
桃色の、影一つない街のなかを。調和された世界のなかを。
道をいくと、人々に出会った。いくつもの、顔を知らない人たち。
彼らは皆、こちらを見ると微笑んだ。
社交辞令的な作り笑いではない。心からの笑顔。
人々が手を振った。
こちらも振り返した。
彼らは皆、こちらに反応した。
皆が、みんなが。
◇
「遅い」
彼は渋面のはざまから、一言漏らした。
シワの多い、苦労が刻まれた50過ぎの男の顔。
彼に与えられた空間はとてつもなく広いように思えた。それは会議室といえばそうだが、ミュージックホールといえばそうなってしまうほどの面積がある場所だった。何故って、それだけの場所に、イスとテーブルがそれぞれ二人分だけしかなかったからだ。
その状態で、照明はわずか。明るさはもっぱら、壁面に大きく取られた窓から取られている。
「いつ見ても胸糞の悪くなる景色だよ」
彼は吐き捨てるように言った。
「そう思わんか、お前」
傍らには、部下であるらしい大柄な男。むっつりと黙っているが、小さく眉をひそめて、首肯した。
……これを見れば、誰もがそう思うだろう。
窓の外から見えるのは、書き割りのような桃色の空。そこに延々と、まるでループするように、絵の具のような雲が流れている。時間すらろくに分からぬ、永遠の煉獄。明らかな異常。これこそが、ハイヤーグラウンドというひとつの『国』なのだ。
彼は、これからの会合を終わらせ、足早に帰ることだけを考えた。そのためにも、ここで怖気づいていてはならないのだ――……。
しかし――次の瞬間。
明るさが、立ち消えた。
というのも、張り巡らされていた窓のすべての灯りが遮られ、それらすべてがカーテンで閉じられてしまい、空間のすべてが暗黒に染まったからである。
「……!!」
まもなく、照明が天井から降り注いで、彼と、彼の向かいの空間だけを照らした。
その時点で彼は動揺したが。それだけでは終わらなかった。
彼が動けないでいると、向かい側から、男がやってきた。
かつ、かつ。規則正しい歩行とともに。
「やぁ、やぁ。このたびは長距離をご足労いただき、感謝のいたりです」
やけになめらかな男の声。
……照明の下に現れたことで、その姿が白日のもとにさらされる。
髪を後ろになでつけてメガネを掛けた、流麗なスーツ姿の男。一見して欠片のスキも見当たらぬその姿には、なにか異様なものがあった。後ろには、汗をかきながら震えている太った男。
「……っ」
立ち上がり、その男と対面する。
「随分と待たせてしまい、申し訳ない。後で、ディナーを驕りますよ。とびきりのね。ロブスターがうまい店を知ってる」
彼は肩をすくめてそう言って、腕を差し出してきた。
「私の名はバーバリー。この『くに』で、外交を担当しております。後ろの彼はグッドマン。まぁ、私の友人です」
「……アジスだ」
だが、そう挨拶を交わしたところで、握手する気になど、ならなかった。
後ろの男は、どうでもいい。だが、前の男は違う。
何かが、何かが宿っている。
この、バーバリーという男には。そう信じさせるだけの何かが――……。
「……手を握ってください」
傍らで、部下が耳打ちした。
思わず振り返りそうになるが、彼は続けた。
「撮影されています」
「……!」
先手は、向こうに打たれたらしかった。
手を握る。
なめらかな手だった。腹が立つほどに。
そう――相手のことを、それで信じてしまいそうになるほどに。
「……歓迎する」
アジスは、渋面のまま、相手に言った。
バーバリーは、柔和で曖昧な笑みを浮かべた。
「今回の話し合いは抗議のためではない、貴国と、我が国の、和解のための話し合いだ」
バーバリーは、頷いた。
アジスの顔が、人知れずひきつった。
◇
どこに行こうか、とアーサーは問うた。
図書館へ行きたいな。
私、この街のことをもっと思い出したい。
彼は頷いた。
二人は手をつないで、そこに向かった。
荘重で古風な、大きな図書館。
「それで。何について知りたいんだ、シャーリー」
談話室。
アーサーが聞いた。
シャーリーはしばらく考えた。これまでの時間を頭の中でザッピングして、知りたいことを考える。
……そうだ。あの白い服の青年。彼の戦いぶりは美しく、華麗だった。魅了された。私だけじゃない、街の皆が。あれは、すごかったな。
「評議会……彼らについて、知りたい」
「……なるほど」
アーサーは一瞬目を丸くして、それから、コホン、と咳払いをして、それから語りだす。
「まず。評議会ってのは、簡単に言えば、この街を支えてる数人の重役だ。アメリカで言うところの各省庁が、それぞれ数人に集約されてると言ってもいい」
「たった一人で、その部署のすべての働きをしてるってこと?」
「もちろん部下はいるみたいだけど。概ねそんな感じかな。この国、アメリカに比べると、小さいからね」
アーサーは、白い紙に図を描いた。
「まず、このハイヤーグラウンドの……トップに、ディプス様が居る。『それ』が、全てを統一する。その下に、評議会が居る」
「一体、どれくらい居るんだろう。私が見たのは、あの人ひとりだけだったけど」
「俺の知ってる限りでは……『7人』。その下、それぞれのナンバーに部下が居るらしいけど、さすがにそこまでは知らないな」
「私達が見たのは……」
「ああ――彼は、『アッシュ』。教会に招待されたのなら、知ってるんじゃないのか?」
「ええ……きれいな白い服を着ていた……」
そう、まるで道化師のような、タキシードのような。
リズムに乗って、街を襲った怪物を撃退した。その活躍を、皆が褒め称えた……。
「簡単に言えば、彼は街の浄化と治安維持を担当してる。あんな怪物が出た時に、ああして戦ってくれるのさ」
「すごいな……」
「凄いだろ。評議会は、みんな凄いんだ」
アーサーは、キラキラした表情で言った。
近くに居た守衛がくすりと笑った。
……彼は、赤面してうつむいてしまった。
だが、それだけで、『評議会』というものが、この街でどのように歓待されているのかを知ることが出来た。
「他には……」
再びシャーリーは、脳内をザッピングする……。
……ちらりと、頭の中を、あついものがかすめた。
それが何かは分からなかったが、ふいに、口をついて出た。
「炎……」
アーサーは聞き逃さなかった。
「炎って…………もしかして、『ヴォルカン』のことか?」
「え?」
「いま……シャーリー、そう言ったぞ」
それから、彼女はハッとして顔を上げる。
まただ。また、何か知らない記憶が頭をよぎった。
これはなんなのだろう。早く消し去ってしまいたい……。
「まぁいいか。どこで知ったんだろうな……炎の『ヴォルカン』……彼もまた、評議会だって言われてる。俺も会ったことない。顔も知らない」
「顔も知らない……?」
「そう。彼の仕事は、おもにアンダーグラウンドで行われてるんだ。あの地獄みたいな世界を統御するのに、彼の武力が使われてるって言われてる。下の連中がこちらに攻め込んでこないのも、それが理由だってことらしい」
――思い出す。
あの世界は本当に地獄だった。軌道エレベーターから眺める景色は、まるでぐらぐらと煮立つマグマのようで。それを制御するとは、一体どれほどの力なのか。
……シャーリーの体は震えた。
「ええっとな、他にも」
彼は、その他評議会メンバーについて詳しく教えてくれた。
ナンバー2、ヴォルカン。
さきほど知ったように、炎を操る、圧倒的な『力』を持つ者。
武力で、アンダーグラウンドを制御している。
ナンバー3、バルザック。
ヴォルカンと同じく、アンダーグラウンドの制御を担当。
ただし彼の場合は、昇華機構により、街の構造や区画を整備する。天上から。
ナンバー4、バーバリー。
彼のことは、アーサーもよく知らないらしい。
だが、貿易と折衝を担当しているとのこと。ハイヤーグラウンドが他国に対し独立できているのは、彼の力によるものとのことだ。
ナンバー5。
彼のことも、アーサーはよく知らない。
だが、何らかの『開発部門』に携わっている、らしい。
だとしたら、この街の景観にも関係しているのかも、とも言った。
この桃色の空は、彼によって出来たかもしれないのだ。だとしたら、それはそれで凄まじい力を持っていることになる――。
ナンバー6、アッシュ。
白い服の、あの青年だ。部下たちと共に、街の治安維持に努めている。彼の戦いぶりは、シャーリーの目に強く焼き付いている。何度も消えて、まるで一瞬で移動したように見えた瞬間が、幾度となくあった。あれはなんだと答えると、アーサーは、それも昇華機構だろう、と教えてくれた。
ナンバー7。
この番号については、誰も知らない。一体何を担当しているのか。
だが、『存在する』ということ自体が、住民にとって意味があるのでは、とアーサーは考えているようだった。
「『ナンバー1』が、居ないみたいだけど」
「……!!」
何気ないシャーリーの疑問に対して、アーサーはドキリとした顔をした。
それは見たこともない顔だった。
「……ナンバー1はな、シャーリー……ヤバいんだ」
「どういうこと……??」
彼の顔は青ざめ、その周辺だけ冷気が集まっているようにすら思えた。
「わからない。俺もよく知らないんだ。だけど、ナンバー1については、知った奴らは皆、口をつぐんで……何も言わなくなる。それがどういうことかはわからない。だけど、ヤバいってことは分かる……――街を根本から支えてる存在だってことだけは」
……シャーリーは、それ以上、何も言えなかった。
だが、彼の反応そのものが、この街に『ナンバー1』がいる理由になっているような、そんな気がした。
――根拠は、なかった。
◇
アーサーによる、『評議会』についての講座はそこまでだった。
それ以外にも、様々なことを、アーサーは教えてくれた。シャーリーは満足した。
彼女が本を覗き込んだその瞬間に、二人の顔は近づいた。
二人が顔を上げると、互いがそばにいた。
その唇どうしも、近かった。
……二人は、赤面した。
◇
時間はすっかり遅くなっていた。
図書館を出た後、シャーリーは振り返って、アーサーに言った。
「ねぇ。うちに来ない。夕食、食べていかない?」
とびきりの笑顔で、そういった。
だが、彼は肩をすくめて、申し訳無さそうな顔になり……言葉を返す。
「悪いけど……俺は無理だよ。言ったろ。俺はこの街に歓迎されていない」
「……」
シャーリーは、でも、と言おうとした。
だが、そこで諦めた。彼の表情を見るに、それ以上は言えなかった。
「……でも」
近づいて、彼の顔に向けてささやく。
彼は赤面するが、構わなかった。
「でも、こうしてまた会えるよね。だって、一緒に居るだけが友達じゃないもの――」
「シャーリー…………」
二人の顔が近づく。
唇が、近づく……。
◇
その時、二人の間に割り込むようにして、一人の男が、どたどたと走ってきた。
ばっと互いの身を離して、その男を見た。
ボロボロの衣服を着た、汚らしい男だった。
おまけに、血まみれだった。
周囲が彼を見て、嫌悪に満ちた表情を浮かべて去っていく。だがそれも関係なく、男はばたばたと必死に前に進んで……ついには、シャーリー達のすぐ近くにひざまづいた。
「な……」
アーサーは咄嗟にシャーリーの前へ立つ。
男は、彼らにすがるようにして、息を切らしながら、つばを吐きながら、言った。
「お、おれは……おれは、真実を知ったんだ…………この街の……――」
彼の言葉には異様なものがやどり、その目は爛々と危険な光に満ちていた。
「真実……??」
「知ったんだよ、俺、知っちまったんだ…………イカレてるんだ、この街はっ…………ああ、恐ろしい、恐ろしい!! 地下にあるもの……ねばねばして、不定形の……ああ、だまされてる、みんな、みんなっ……だが、あんたは違う、あんたは……」
男は、シャーリーを見ているらしかった。
「私……?」
「おい、お前、」
「そう、そうだ、あんた……目の光が違う、あんたには分かるはずだ、どこかおかしい、この街が、おかしいってことに……なぁ、そうだろう、おい――」
彼の言葉。
……シャーリーの中で響く。
何かが、よぎろうとする。
……おかしい? 何が? この街のどこがおかしいというのか?
何もかも正常ではないのか?
いや違う。確かに、何かが。
何かがおかしいのではないか。
シャーリーの中で、よぎる、よぎる。何かが。
この街は――。
「みんな騙されてるんだ――ここは天国でも、楽園でもない!! そんなものは、どこにもないんだ!! あいつらは、お前らに餌を与えて黙らせてるっ!! だからこれは、これは――……」
その時。
◇
――――グシャリ。
◇
男は、車にはねとばされた。
それでおしまいだった。
彼は道の端に転がって、そのまま動かなくなって、事切れた。
一瞬、世界から音が消えた。
アーサーはシャーリーをかばい、抱きしめる。
やがて、音が戻ってきた時には、周囲に人だかり、悲鳴。
サイレンの音が遠くから聞こえてくる。
シャーリーは目を覆って、何も見えなくした。
男を轢いた車はもうそこに居なかったが、誰も気付いていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます