#5 虚空のスキャット(5)

 彼女は、自分が夢を見ていることに、すぐ気付いた。

 なぜなら、心地いい気持ちが自分を満たしているからだった。

 夢は、現実と違って、優しさでできていた。


「私ね、お姉ちゃん」


 かたわらで、彼女の妹がささやいた。

 風にそよぐ髪を、そっとなでてやると、くすぐったそうに笑った。

 そのさまが、なんとも愛らしかった。


「お姉ちゃんの居る世界が好き」


 シンプルな、たったそれだけの言葉。

 しかし、それでも、それは、どんな美麗秀句よりも遥かな力を発揮した。


「私も。私も、あなたを愛してる。だからこそ、この世界を愛してる」


「こそばゆいや、お姉ちゃん」


 笑顔。こちらも返す。

 どれだけいい暮らしをしていようが、どれだけ未来が輝いていようが、彼女にはどうでもよかった。かたわらの存在さえいれば、それでよかった。


「私は、お姉ちゃんの居る世界があるのなら、何がどうなっても構わない」


「私も……――あなたが居るなら、この世界がどうなっても構わない」


 だから。

 ――姉妹で、かけがえのない存在に対する考えが決定的に違っていることにも気付かなかった。

 

 そして、気付いた時には、あまりにも遅すぎて。

 その頃にはすっかり、二人は別物に成り果てていたのだった。



 目を覚ました時そばあるぬくもりは、妹のそれではなかった。


「……」


 フレイはまぶたを開ける。片手は、少女の額を撫でていたままだった。今は、涙のあとをうっすら頬に残して、寝息を立てていた。その身は、黒いフレイのジャケットで覆われていた。

 目をやると、暗がりの中に、ガラガラと騒がしい音がした。


「……まだ懲りないのか」


 フェイ・リーは。いまだに、瓦礫をかき分け続けていた。

 それはまったくもって無駄な作業としか言えなかった。


「ええい、煩いな。眠るしかやることがないのなら、おとなしくそうしてもらえないか」


 苛立ちからフェイは振り返って、言った。タバコが切れたことが、彼女に深刻なストレスを与えているらしかった。

 ……だが、それ以上に印象が強いのは、彼女の両手だった。

 腕まくりしたその先はさかむけて、擦り切れて、血だらけになっていた。

 とうに力も入らないだろう。だがそれでも、やめなかった。瓦礫をどかし、見つかるわけもない出口を探し続けていた。


「っ……痛いな、畜生め」


 ――フレイには、本当に理解が出来なかった。


「……何故だ」


 ゆえに、自然に、問いが出ていた。


「何が、かな?」


「何故、そうまでして、あらがう」


「何に? よる年波のことかな?」


「……とぼけるな。運命だ。奴の気が晴れるまでお前はここから出られないし、お前たちは評議会には勝てない」


「大きく出たな」


 フェイは肩をすくめた。

 その大仰な、実際的ではない仕草に、更に苛立ちが募る。


「それで何が悪い。お前たちが相手にしているのは、本当に抽象的なものだ。お前たちはくだらない絵物語を描いて、それを実行しようとしているようにしか思えない」


 フェイはそれを聞いて思案するような顔をして、ポケットをさぐり……タバコがないことに気付いて、小さく悪態をつく。

 それから、言った。


「…………フェイわたしも、そう思うよ。アールヴヘイム」

 

 ……予想もしない返しだった。


「……は?」


「だってそうだろう。フェイわたし達はさながらドン・キホーテだ。個々の思惑でさえまるで違うのに、スキを見つければ、ひとつの共同体のようにして振る舞う」


「……分かっているのであれば、どうしてお前たちは――……いや、お前は、諦めない。フェイ・リー。私は、知っているぞ」


 意地の悪い笑みを浮かべて、問いかける。


「お前は、かつて、多くの仲間を失った。お前は今、二度と過去の悲劇を繰り返したくないという思いを抱えているはずだ。お前の本質は。こちら側だ。何がセイギノミカタだ……お前も本当は、気付いているんだろう。本当にお前自身が共感しているのは、第八機関ではなく――


 それは……この短時間で、フレイがつかんだ、フェイについての芯の部分だった。

 ある意味、お互いが似通っているからこそ気付いたことだった。

 しかし、だからこそ苛立つ。


 ……同じであるはずなのに。何故こうも、違うように映るのか。

 なぜ、自分の本質から離れた行動を取ろうとするのか。

 何もかもが、フレイの癪に障った。

 

 ……お前も。

 失いたくないのなら。夢を見続ければいいものを。

 お前も、上に上がればいいものを。


 フェイは、虚を突かれたような顔をしていた。


「図星だったか?」


 しかし、彼女は。


「いや」


 そう言って。


「――。お嬢ちゃん」


 瓦礫の壁の一部に、拳を突き込んだ。


 次の瞬間――なにかのスイッチに触れたかのように、床と壁面が、一度に大きく揺れた。



「ハーッ……ハーッ…………」


 ミランダは、肩で息をしていた。


 既に、自分を取り囲む壁には数多くの弾痕が刻まれていた。

 だが、そんなものはなんの意味もない。

 あのバネ足野郎も向こう側に行ってしまった。瓦礫で作り上げられた巨大なバリケードを崩すには、総合的な『火力』があまりにも足りていなかった。ミランダの力は、人を殺す力だった。


 しかし――それでもなお、彼女はライフルを壁に向けて構えた。

 ミランダには、『秘策』があった。

 自分の疲労の全ては、そのためにあった。


 ……皮肉な笑みを口元に浮かべて、トリガーを引いた。



「お前……何をした」


 フェイは立ち上がり、血まみれの拳をぬぐった。

 周囲は揺れている。先程まで、どれだけ彼女が状況を変えようとしても、びくともしなかった鉄の檻に、今、変化がもたらされている。


「……フェイわたしは」


 彼女は、振り返らないまま、静かに語る。


「ある『仮説』をもとに動いていた」


「仮説……?」


「そうとも。『こうだ』と言い張るには、あまりにも根拠が足りない。希望的観測に基づいた仮説だよ」


 振り返った彼女は、皮肉めいた笑みを浮かべた。

 振動はやまない。

 なんだこれは。

 まるで……まるで、この場所が、形を変えていくかのような。


「貴女の言う『評議会』のちからがいかほどのものかと、考えていた。複数の場所で、大規模な空間を、同時に変容させてしまう力。おそろしい。まったくもっておそろしい。だが、本当にそれだけなのか、と」


「……勿体ぶるな。この振動はなんだ。答えろ」


フェイわたしはこう考えた。果たして、天の上から働きかける力とやらは、『規模』と『精巧さ』どちらについても同等に重要視出来るのか、とね」


「……――」


「答えは『ノン』だろう、フレイ女史……ようやく分かった。フェイわたしの観測が、こうして実を結ぶ……」


「やめろ……」


 彼女は、拳を握り。

 ……ぐらりと揺れた、その中心部を、更に……殴りつけた。

 

 痛烈な破壊音が響いて、瓦礫が吐き出され、砕け散り、拡散し。

 ――その向こう側に、光が見えた。

 囲いの外につながる光が。


「な……っ」


「――ビンゴ」


 ――バカな。

 それ以上は言わなかった。

 だがフレイには信じられなかった。今この瞬間、評議会の力のうちひとつが、『攻略』された。


「――何を、やった……」


「『精巧さ』だ。『規模』を得るなら、精巧さを犠牲にせねばならない。そうなれば、必ず『薄い』ところ、『半端な』場所が出てくる」


「どうやってそれを――」


「『カン』と言えば納得するか?」


「……」


「そうだよな。ならば言おう――フェイわたしの力は特殊でね。ある程度、『濃さ』『強さ』を嗅ぎ分ける事ができるのさ……『アウトレイスのちから』を――」


「まさか、貴様……」


 彼女はにやりと笑った。

 会心、とも言える笑みだった。


「そう。そしてようやく見つけた。力の働きかけが弱い場所を。力がまわりきっていない脆弱な場所を。そこを見つけて破壊すれば……外に出られる」


「……――っ」


 ……評議会は、見落としているのかもしれない。

 フレイは内心、焦りをおぼえる。


「そして……またしてもビンゴだ。その顔……見たかったぞ」


「来るな……」


「――これで分かったぞ。ははは。分かったぞ。評議会の力は、無敵の力などではない。人間を超えた化け物などでもない。評議会の力は――加工されていても、立派に、十二分に、……――!!」


 この女は、型落ちなどではない。

 ――まだまだ、危険だ。

 現状の力だけで、十二分に……我々の脅威になりうる。


「我々は『勝てる』……――そうだろう、ミランダ!!」



 ――あいつならこうする。

 ミランダの中に芽生えた仮説を、実行に移すまでは、さほど時間がかからなかった。

 これまでなら、壁に囲まれた時点で、絶望し、呪詛を囁いていただろう。

 彼女は一人が好きだった。

 だが、孤独は好きではなかった。

 面倒な性分だと思う。

 だが、それが自分であると……受け入れられれば、楽だった。


 彼女は、どこかから声が聞こえたのを感じた気がした。

 それを受けると、皮肉な笑みを浮かべて、トリガーを引いたのだった。


 弾丸は――『壁』によって弾かれた。

 弾かれて、四方を飛び回り、間抜けな音を撥ねながら何度も鳴らし、やがて地に落ちた。

 変わらない。先程までとは何も変わらない。

 ――本当にそうか?

 少なくとも、ミランダには違った。


「……――!!」


 アウトレイスの力によって強化された聴力は、その『違い』を正確に脳裏に刻印していた。

 今のだ。今の一撃。

 弾かれて、反響させて。それを、何度も繰り返し続けて。

 指はトリガーを引くたびに痺れるし、力だって入らない。ずっと続けていた。実を結んだ。

 ――たった今。

 

 その場所をとらえると、彼女は、最後の一撃を……壁に、叩き込む。


 あいつならこうする。

 あいつらなら、こうする。

 可能性を――これが、『完璧でない』可能性を信じて、行動に出る。

 どこかにある『はず』。囲いが薄い場所が。

 自分はそれを見つけるべきだと思った。

 時間が引き伸ばされて、今の状況に不釣り合いな感慨のようなものが過ぎった。


 ――そうだ。

 これは、あの雨の日と同じ力だ。自分の邪魔をした、不可思議で理不尽な地形変化の力。

 不思議と、もう、負ける気はしなかった。

 勝てはしなくとも、負ける気はなかった。


 彼女はもう、前を向いていた。

 引き金をひくと、弾丸は壁に吸い込まれて、その周囲にヒビを入れて……轟音を立てて、崩れ落ち始めた。


「これでいいんでしょう……ねぇ、あなた……!!」



「……っ」


「負けはしない。勝てなくとも、膝はつかない。それこそが――第八機関だ」


 切り開かれた壁の向こうに、光があった。

 フェイはそこに、足を一歩踏み出した。



 フレイはしばらく、影の中から動けなかった。

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