At her wit's end
ゆらゆらと、たゆたいながら、深海と戯れる。
時には激しく、時には緩やかに、心を撫でる。
--底はもう近いよ。気を付けて。
気を付けるって、何を? 一体どう気を付ければ良いのだろう。力も意志も入らない、全てに流されてゆくこの身体で。
--今のままだと、君は重力に負けてしまうんだ。だから、いいかい、ぼくの言うことを聞いて。
--願うんだ。
「ねがう、って、なにを?」
--なんだって構わない。きみの欲しいもの、きみが本当に信じたいもの、きみの成し遂げたいこと。
「ねがわなかったら?」
--きみは落ち続ける。このまま、ずーっと、底は見えていても、足が着くことはないんだ。
そんなのは嫌だ。ずっとこのままなんて、それじゃあ帰れなくなってしまう。幼い私は考える。ありったけの知識で。本当にしたいこと。
私の一生のお願い。
でも、そんなものはなかった。
裕福な家庭に生まれ、危なげもなく、才能も十分にあって、大きく間違えなければ、ゆくゆくは誰からも憧れられる存在になれる。
少ない努力だけで、将来は好きな事がある程度は出来るだろう、幼くても私はそれがわかっていた。
願いなんてなかった。
私は十分に与えられている。
……。
--本当に?
本当に?
いいや、そんなことはなかった。足りないものがあった。私に唯一足りなくて、でも誰もが持っているもの。
多分、私だけに足りないもの。
--それを願うのかい? でも、それは大きすぎる。
誰もが持っていて、大きすぎるもの。
誰もが持っているから、大きすぎるから、普段は見えないもの。わからないもの。
--それを願ってしまったら、きみは……
私は?
でも、願わざるを得ない。私は急にそれが欲しくなった。私だけ、持っていないんだもの。他の、何よりも欲しかった。
何よりも大切なものになるだろう。
--それだけでいいと、そう思えるなら、悪くないのかもね。
そう、私は願う。
私が欲しいのは--
--フフフ、ありがとう。バイバイ、さようなら。
◆ ◆ ◆
「わたしがほしいのは、」
「おや、起きられましたか。 まだ本邸に着くには時間があります。 まだ眠いのでしたら、またおやすみなさいませ」
白川さんがハンドルを握りながら私に言う。
タイヤと地面が擦れる音。エンジンの滑らかに動く音。風を切るような音。
等間隔に配置してある街灯。向かいの車線からやってくる鋭い光。
手入れされた革のシートの匂い。
戻ってこれた。ううん、この感じは寝ていただけ。きっとそうだ。だけど、夢にしてはあまりにも鮮明に覚えていた。
でも、私が欲しかったものはなんだったのだろう?
それだけが全く、思い出せなかった。
1/300の確率 淡谷桃水 @awaya_tosui
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