第21話「白井」峯村信行(八月)

 網戸越しに、遠くから花火の音が聞こえた。

 八月初旬の夜、独鈷山とっこさんの鋸みたいな山影が闇の中に浮かんでいる。さっきまで気にもしていなかったアマガエルの鳴き声が、部屋中に入り込んできた。合唱と言うには程遠い、てんでばらばらのペース。

 小学生の間、年に一回は親父に連れて行かれたオーケストラのコンサートを思い出す。

 演奏が始まる前、奏者は思い思いに音を出しているようにみえる。長い音、短い音、短い旋律。統制されていない、でも混乱もしていない。何かを待っているような音の集まり。凹凸だらけだった音はいつしか同じ音階に揃い始めて、河の流れのようになる。そのとき俺は、時の流れ、というものを実感する。

 ふと、音が余韻も残さず消える。スポットの下に指揮者がいる。指揮棒を振り上げた瞬間、音の集まりは音楽に変わっている。

 すべての楽器が一斉に音楽を奏でることもある。親父には言わなかったけれど、そんな時、俺は必ず鳥肌が立って、涙が出ることさえあった。



 今夜は千曲川ちくまがわの河川敷で花火大会が行われている。丸山ショータ達に誘われたけれど、俺は行かなかった。祇園祭やわっしょいのような参加する祭りとは違う。観て楽しむ祭りは、そろそろ二人きりで行きたいと思っていた。

 俺は白井にメールを打った。

『七夕まつりを観に行かないか? 班活後で悪いけど明日はどう?』

 俺から白井に声をかけるのは、ナオと約束してから四回目になる。松高祭の後、祇園祭の前、夏休みに入った日。一回目はなぜだか堀田ユージと喧嘩した青柳の腹いせに、白井、原と一緒にカラオケに行くことになってしまった。後の二回は、断られている。

 今回が勝負だ。二年前、ナオと白井は七夕まつりの日に出会ったと聞いている。もしも白井が来るのなら、そこには辛い思い出を乗り越える決意があるだろう。

 返事は思いもかけないほど早く、二分くらいで返ってきた。

『行く。四時頃?』

 色好い返事に安心する。

『ありがとう。四時半がいい。駅まで迎えに行こうか』

『四時半に大手門おおてもんの公園でどうかな。他に誰か来る?』

 俺はすぐに返信した。

『二人きりじゃ、だめかな』

 二分くらいの間があった。

『わかった』

 二分間、白井は何を考えたのだろう。

 B組の中で断トツに目立つ女子。リーダーシップがあって、ハッキリしていて、アズサとは違ってスポーツも飛び抜けている。そんな白井でも辛い思い出を抱えていて、友達と仲違いすることもある。たった四文字のメールの返事に、二分間をかけることもある。

 二ヶ月、二年、二十年。一生かかっても送信ボタンを押せない人だっているだろう。優れた指揮者なら、そんな不器用だけど愛すべき奏者達と一緒に、涙が出るくらいの音楽を奏でることができるのだろうか。



「ノブ、フードコートでも行って、アイス食っていかねー?」

 班活が終わってショータが俺に声をかけてきた。みんながこっちを振り向く。ちょうどいい。富士アイスだったら、鉢合わせするところだった。

 ユージは早々に手を振って断りを入れ、ショータが蹴飛ばす真似をする。青柳とのデートを、もう隠してはいないようだ。

「ケンも行くよな?」

 ショータの声に、ケンは弾んだボールのように頷く。

「オレ、あそこで女子達にアイスを豪快におごったことあんだよねー」

 ケンの周りに失笑が広がる。でもそれでいい。俺は高梨タクヤにそっと言う。

「先に行っててくれ。もしも行けなかったら、わりぃ」

 タクヤは、お前もしかしてアレがアレだろ? とでも言いたげに、意地悪な笑顔を浮かべている。俺は頷いた。タクヤ、ショータ、あとケンが居れば、何人来たって場は十分に持つはずだ。

「タクヤ、よろしく」

『班活終了。予定通りで』

 白井に、急いでメールを打った。



 正門から歩いて二分。大手門の小さな公園が見えた。白井が立っている。俺に気付いて手を上げて、いつものように指をヒラヒラさせた。

「わりぃな」

「ううん、ありがとう。誘ってくれて」

 白井はアズサよりずいぶん背が高い。袖無しのブラウスに七分袖の黄色いカーディガンを羽織って、五分丈のパンツからは長い脚が伸びている。髪を上げているのは初めて見た。かんざしでまとめたロングヘアがとても艶かしくて、俺はつい、まじまじと眺めてしまう。

「ああこれ、髪型だけ浴衣気分にしてみたんだけど」

「すげえ似合ってんな」

 白井が目を見開く。

「そう? うれしい。家族が厳しくって色々聞かれるから、今はこれが限界」

「そうか。いつか見せてくれ」

「……うん」

 白井は綺麗な姿勢で歩き出した。俺は白井の右側に並ぶ。

 女子と二人きりで歩くのは初めてだったけれど、俺は落ち着いていた。今にして思う。俺は単に、女子と歩きたかったわけじゃない。今日みたいに、じっくり話をしたい一人の人間と、同じ早さで歩きたかったんだろう。

 大手門おおてもんの鉤の手を曲がるとすぐに、海野町の商店街が見える。今日は歩行者天国になっていて、通りには大きな笹飾りがずらりと並んでいる。

 晴れた空に、入道雲が幾つか湧いていた。日影が、俺達の後ろから伸び始めている。正面から風が吹いてきて、汗ばんだ身体を少しだけ冷ましてくれた。

「お祭り、好きなんだけど、しばらく行けてなくって」

 理由を聞く必要なんてない。だって今日、白井は祭りを観に来ている。

「そうか。じゃあ、久しぶりに楽しもうぜ」

 白井の顔が綻んだ。笹飾りがどんどん近付いてくる。中央交差点の青信号を渡る。

 手を繋いでみようか、ふと思って左手を差し出す。細い指が二本、俺の掌に触れて、すぐに離れた。八月なのに、少しひんやりしている気がした。

「カキ氷でも食う?」

「いいね」

「俺、買ってくるわ。何味がいい?」

「レモン」

 白井は即答する。

「承知した」

 屋台でカキ氷を買って白井に差し出した。羽織ったカーディガンの前を揺らしながら、白井は少し照れたように言う。

「私、黄色、好きみたいで」

 白井はすぐには手を付けず、ノブは食べないの? そんな表情で俺の方にカップを向ける。

 俺はカップを奪い取って氷の半球のどてっぱらに大きな穴を開け、口に放り込んだ。歯グキ、上アゴ、口の中全体に氷の冷たさがキンと凍みて、思わず目を瞑る。

 目を開けると、白井は笑っていた。

 三日月になった氷をザクザク崩して黄色いシロップに浸す。氷ぜんぶを黄色に染めてから、白井に手渡した。



 俺は七夕まつりを観るのは初めてだった。笹飾りは、想像していたほど豪勢なものではなかった。いかにも手作りで、垢抜けていなくて、準備してくれた人達の苦労や楽しみ、そして願いが、隠しもしないでぶら下がっているようにみえる。俺は微笑ましい気持ちになった。

 頭上にはためく短冊を眺めながらゆっくり歩いていると、また風が吹いた。笹の葉が揺れて、サァァ、サァァ、と鳴り始める。一本ずつ聞き分けられていた葉音が、いつしか通り全体を包み込む瀬音のようになった。

 いつもガサツな俺が、こんなことを感じていると知ったらどう思うだろう。

「竹林の中を歩いてるみてえだ。行ったことないけど」

 なんとか言えたのは、そんな言葉だった。

「うん。なんか癒される」

 白井は顔を上げたまま目を細めた。葉音に流されながら歩いて、高市神社たかいちじんじゃの小さな公園で立ち止まる。白井はゆっくりと、カキ氷を食べ続けていた。

 俺は通りの反対側を眺めた。ヤジマ時計が見える。その向こうのカフェには、ナオがいる。アズサもいるはずだ。

 ふと気付くと、白井も同じ方向に顔を向けていた。無表情で眺めながら、サク、サク、と黄色いカキ氷を食べては休む。黙ったまま、それを繰り返している。

 俺は昨夜のことを思い出していた。『わかった』、この言葉を俺に送るまでの二分間、白井とナオが付き合っていた二ヶ月間、出会ってからの二年間。途中、どんなに辛い思いをしてきたのだとしても、今、白井は未来を、前を向こうとしている。

 二分くらい経ったろうか。不意に白井は口を開いた。

「アズサのこと、好きだったでしょ?」

 俺は驚きも焦りもしなかった。

「ああ。ただ、松高祭の前にはスッキリ終わってる」

「そうなんだ。でも、ちょうどその頃かな? ノブ、ちょっと変わったよね」

「変わった?」

「うん。ショータやユージを名前で呼ぶようになったし、前より楽しそうになったし、あと、ちょっと意地悪も言うようになった」

 俺はそんなに変わったのか。名前のことくらいしか、意識していなかった。

「前と今と、どっちがいいんだ?」

「今だね。しつこく誘ってくれるようになったし」

 俺は苦笑した。

 白井は通りの向こうを向いたまま、また口を開く。

「私、ノブと二人でちゃんと話をしてみたかったんだけど、今のクラスがどうとかじゃなくて、他に原因があって前向きになれなくって」

 白井の声が、少し小さくなる。

「今までに一回だけ、中二の時に他の中学の子と付き合ったんだけど、学校で変な噂になっちゃって」

 俺は耳を傾けている。笹の葉音に、白井の思い出が流れて行く。

「知らない人に噂されてるのも嫌だったけど、もっと辛かったことがあって」

 声が、また小さくなる。

「仲良いと思ってたグループの子とか、バド部の同級生とかが一番、私の噂を楽しそうに広めてたみたいで」

 風が黄色いカーディガンを揺らした。

「……部活辞めちゃった。バド好きだったんだけど」

 伸ばしっぱなし。そう言っていた長い髪に、挿さったかんざしがちらりと見えた。

「三年になったら治まったけど、学校に行くのは今でも辛い。目立ったりはしゃいだりすると、陰でコソコソ言われてる気がして」

 白井は、バドミントンが大好きだったんだろう。仲間も大切に思ってたんだろう。キャプテンになること自体は、望んでたわけじゃないのかも知れない。責任感も強かったんだろう。そんな人間ほど、ちょっとしたつまづきで足を引っ張られる。心を砕いてきた相手から、心を砕かれる。

 俺は白井の全身を眺めていた。いかにもお似合いな真っ青な空の下で、長い髪を纏め上げた横顔やうなじが、しなやかな筋肉にほっそりと包まれた長い腕や脚が、よく鍛えられて締まったふくらはぎや足首が、一人の美しいアスリートの形を成して、黄色いヒマワリみたいに屹立している。

 俺は確信した。白井はナオを心底嫌ってるわけじゃない。二年間でこじれた想いは複雑かも知れないけれど、ナオなら何か、やらかしてくれるはずだ。

「なあ白井」

 白井は俺の方を向いた。

「ナオとアズサに会おうぜ」

「えっ」

 俺は傲慢でワガママなガキみたいに、ニッカリ笑ってみせた。

「今日のお祭り、俺と二人きりで来たのはそのためだろ?」

 白井の手からカキ氷のカップを奪って、ちょっとだけ残った黄色い氷を一気に飲み込んだ。カップをごみ箱に向かって投げる。水滴が落ちない角度を保ったまま、カコッ、とシュートが決まる。

 左手を伸ばして白井の手を握ろうとした。白井は奇麗なサイドステップでそれを避けて、戸惑った顔で俺を見上げる。俺は楽しくなってきた。遠慮なく一歩踏み込んで、今度は白井の手を握る。白井は今日で一番、辛そうな顔をしたけれど、今度こそ俺に右手を預けた。

 俺達は歩き出した。笹飾りの間を抜けて通りを渡る。カフェが近付くにつれて白井の歩みが鈍ったけれど、俺は遠慮なく手を引いて歩く。カフェの斜向かいの駐車場に白井を待たせて、カフェのドアを開けてナオとアズサを呼んだ。

「リナ!」

 気が逸ったのか、アズサはよろめきながら駆け出してきた。笑顔で白井との距離を詰めていく。白井は辛そうな顔で黙り込んだまま、カフェのドアの方を見つめている。

 アズサは笑顔を崩さずに、白井の隣に並んで同じ方を見る。俺は白井から半歩下がって、みんなが見える場所に立った。さあ来いカミサマ!



 ドアがいた。

 ナオは無邪気な微笑みを浮かべて、白井の方を真っ直ぐ見ながら歩いて来た。ひょこひょこと音でも聞こえそうな、子供みたいな歩き方だった。

 白井から二、三歩のところまで歩み寄って言う。

「リナ、会えてうれしい!」

 あまりに屈託のない声のせいか、白井の顔に怒りが浮かんだ。アズサはナオを見つめている。ナオは、ニコニコしたまま黙ってしまった。

 風がまた、そよぎ始めた。少しずつ強くなって、海野町うんのまちの通りから笹の葉音が届き始める。ビルで切り取られた青空の端に、入道雲が顔をのぞかせる。

 俺はくつろいだ気分で待った。多分、二分くらい。白井が口を開く。

「……かえしてよ」

 小さな呟きだった。

 アズサは顔を強張らせた。ナオはまだ微笑んでいる。そのとぼけた笑顔に煽られて、白井は声を荒げる。

「返してよ!」

「うん」

 ナオは話を聞きもしないで応えた。白井はますます煽られていく。

「ナオのせいで、バド部辞めることになっちゃって」

「うん」

「ナオのせいで、人を信じられなくなっちゃって」

「うん」

「ナオのせいで、アズサとも話ができなくなっちゃって」

「うん」

 アズサは白井の顔を見た。

「私を見捨てたんでしょ? ケロッと忘れてたんでしょ? ナオは、助けに来てくれなかったじゃない!」

 白井は叫んだ。ナオはまだ、とぼけた顔で突っ立っている。

 白井、それは違うぜ? ナオはしつこいくらいに白井の家を訪ねてる。俺はそれを原から、たまたま聞いている。俺が証人になったっていい。白井の親にだって聞いてやる。

「二年間、返してよ!」

「うん」

 何を言ってもナオは同じ答えを返す。黄色いカーディガンが揺れた。白井は少し、諦めたような顔に変わる。

「アズサを返してよ。今すぐここで別れてよ。それで、アズサと私を元に戻して。それだけでいいからっ!」

「それはできないよ」

 ナオが即答して、白井はついにうつむいた。大輪のヒマワリがうなだれてるように見えた。

 白井の想いは、俺にはわからなかった。白井自身には分かっていたんだろうか。ナオを恨んでいるようだけど、ナオを想っているようにもみえる。アズサを想っているようだけど、アズサに妬いているようにもみえる。

 今はここまででいいだろう。正面を向いて、言いたいことは言った。後は、アズサとじっくり話ができればいい。ナオのストーカー話は、いつか笑いながら話せるだろう。



 突然、ナオが喋りだした。ハッキリとした声。

「リナ、七夕まつり二日目の三時四十九分。時計がこんなになってる時間にカフェに来て欲しい」

 ナオは言いながら、手旗信号みたいに右手を上げて、左手を下げて、一直線を作ってみせる。アズサがナオに向き直る。

「カフェに入って右側の一番奥、四人がけのテーブルの手前の席に座って、レモンスカッシュを二口だけ飲んで欲しい」

 白井は辛そうな表情のままだったけれど、ゆっくり顔を上げた。

藍色あいいろ撫子なでしこの浴衣を来て、黄色い帯をちょうちょみたいな形に結んで、あとは甚平の女の子を二人連れて来て欲しい」

 ナオの高く澄んだ明るい声が、笹の葉音の流れの上に響いていく。

「黒髪のまま、長さはこのくらいのウルフボブにして、日焼けはあんまりしないで来て欲しい」

 ナオは自分の肩の上を指差す。白井の表情が驚きに変わり、目が見開かれていく。

「首だけぼくに向けて、ねえここの店の子? って聞いて欲しい」

 白井との出会いの様子なんだろうか。ナオの独白が続く。

「違うけどいつもいる、って答えるから、こんな話をして欲しい。歳いくつ? え、中二? 同じじゃない! 名前、なんていうの?」

「ナオ」

 白井が呟いた。

「立石ナオ。へえーかわいい名前。私は」

「やめて」

「白井リナ。えっいきなり呼び捨て? なんなのナオ君? じゃあ、私もナオって呼ぶよ?」

「ねえ」

「この辺りって一中? 二中? ナオは部活、何やってんの? あーそんな感じする、私は何部かわかる?」

 白井の目が、潤み始めたようにみえた。

「裾あげて足見せて、って、何言ってんのナオ」

 白井はナオを見つめている。隣でアズサが身体をピクリとさせた。

「二の腕も見せろって? え、両方? ナオ、それってさわりたいだけでしょ?」

「もうやめて」

 白井の声が、また大きくなる。

「あーやらしー。え、わかったの? 何部だと思う?」

 白井は叫んだ。

「やめてっ!」

 ナオは少し息を吸ってから、首を傾げて言う。

「今ここで返すから、続きを始めようよ。終わりまで」

 白井の潤んだ目から、涙が筋になって流れるのが見えた。

「無理だよ」

「無理じゃないよ?」

「だってナオ、アズサがいるじゃない」

「いいじゃない。ぼくらはまだ、ちゃんと終わってなかったんだから」

 白井の目から、残りの涙が零れ落ちた。その向こうでアズサが、小さく震えながら立ち尽くしていた。サァァ、サァァ。笹の葉音だけが響く。さっきビルから顔を出した入道雲が、今は肩まで覗かせている。

 ナオが、また何かやらかした。俺はひとり、みんなより一足早く晴れがましい気分になって、白井達を眺めていた。

「彼女さーん、こいつ二股かけてますよー! どーしますー?」

 白井の、おどけた鼻声が聞こえた。アズサの震えが止まって、小さな拳を握り締めるのが見えた。

「ナオ最低っ!」

 アズサは長いキュロットを翻して三歩、ナオとの距離を詰めて、拙い動きでパンチを放った。ナオの左目の下に拳が当たって、ゴッ、と音がする。思いのほか大きな音だった。

 ナオはいったっ! と声を上げて、顔を押さえてしゃがみ込んだ。

「お茶でも飲もうよ」

 アズサはナオを気にもかけず、駆け寄ってきた時と同じ笑顔に戻って白井に声をかける。白井は鼻声のまま、いいね、と言って、俺を振り返って笑顔を見せた。

 俺はカフェに向かいながら、まだしゃがみ込んで顔を覆っているナオの肩をポンと叩いた。



 飲みかけのアイスコーヒーの横に、レモンスカッシュとホットコーヒーが並んだ。相変わらずカフェらしくもない音楽が流れている。今日はポップスだ。——君と同じ未来をずっと一緒に見ていたい、そんな歌詞の辺りで、白井は鼻歌を歌った。

「アズサには悪いけど、ナオ、気持ち悪いのを通り越して怖かったよ。二年も前の時刻とか、浴衣の柄まで覚えてるとか」

「確かに怖かったねー」

「アズサ、別れるなら今のうちだよ?」

「いやー、その怖いところから目が離せないんだよね」

 こんな奴が怖い? 俺は店を手伝っているナオの後姿を見て微笑む。

「そうそう私、別にナオに未練があったわけじゃないよ? ちゃんとわかってる?」

「それ私に言ってる? ノブに聞こえるように言ってる?」

 分かってて話してるのが面白くねえ。俺には、二人の声が丸聞こえだ。

「アズサ、ちょっとノブに馴れ馴れしくない? フったくせに」

「リナだって馴れ馴れしくしてたじゃん」

 白井に心を許してるんだな。ヤキモチ妬きで強がりのアズサが、思わず口を滑らせている。

「ナオに? ほーう、ふーん、妬けた?」

「私は妬かないよ? 軽く小突いてみせることはあるけど」

「ちょーさっきの、全力でしたけどー?」

 白井とアズサは本気でじゃれ合っているようにみえる。わりぃ白井。やっぱり俺は、白井との会話は覚えていられねえ。既にほとんど忘れてる。

 コーヒーをすすりながら思う。ナオはさっき、二人から嫌われる覚悟でやっていたんだろうか。それとも、二人の気持ちなんてとっくに見透かしていたんだろうか。

 ナオなんか大っ嫌いだ。井の中の蛙みたいに教室の定位置に座り込んでいた俺には影すら見せなかったくせに、やんちゃなガキに戻って街に迷い出た俺には勝負にもならないイジメを仕掛けてくる。ナオは野良猫みたいに思うがままに生きていて、街中の至るところに現れる。しかも、野良猫と違ってずいぶん他人にお節介を焼きたがる。

 上田市の中心、松尾町まつおちょう原町はらまち、それから海野町うんのまち袋町ふくろまちは、田舎育ちの幼い俺には憧れの街だった。ビルが建ち並んでいて、どこの路地を覗いても様々な店が並んでいる。親父と上田城にある市民会館までコンサートに行った日は必ず、少し着慣れない服を着てこの街を歩いた。音楽の余韻に浸りながら袋町ふくろまち香青軒こうせいけんで夕食を食べるのが、年に一回の楽しみだった。

 今、街は少し寂れてしまっているようにみえるけれど、ほんの少し大人に近付いた俺には、今まさにこの街で生きている人達の願いや、苦労や、楽しみが、ようやくちょっとだけ感じられるようになってきた。

 大丈夫だ。この街ではケンがギターを弾いて唄っていて、タカが歩き回って写真を撮っていて、ショータ達が富士アイスやラーメン屋こうやで道草を食っていて、リックが自転車で走り回ってる。なにより俺が大っ嫌いなナオがいて、気まぐれに誰かの正面に立ちはだかっては、お節介を焼き続けてくれている。



「いいじゃない? みんなが私を呼び捨てにしてたって」

「距離感近すぎって言ってんの。ナオじゃなきゃ妬いてるかもよ?」

「リナなんてノブから白井って呼ばれてるからねー。距離感遠すぎ?」

 また聞こえよがしな会話が耳に入ってきた。今度はアズサのお節介だ。ナオの口癖だけじゃなくて、意地悪なお節介癖までうつりはじめてる。

 俺は苦笑いをしながら口を挟む。

「リナ!」

「えっ」

 リナは慌てたように俺の方を向く。かんざしを照らす光の筋が見えた。

「で、いいか?」

「あ、うん。……ねえ、ノブ」

「なんだ?」

「再来週だけど、佐久さくの花火に行きたい。浴衣着たいし、夏休み明けたら髪切っちゃうし。バド、また始めるから」

 ワガママだな。俺はまだ、お前の彼氏じゃねえんだぜ? 俺は少し、リナに意地悪を言いたくなった。

「いいね。あと誰呼ぼうか?」

 リナは、何の迷いもない声で即答した。

「二人きりだけど、いいよね!」

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