第5話結末
妻を殺す決意――殺意と言えば良いのでしょうか。まあ変わりはないと思いますが、それを実行するのに一年かかりました。
それはなぜか? 私の理想を叶えるためですよ。
ネコのように殺して解体するのはたやすいです。しかしそれでは骨を傷つけてしまったり、時間が経てば新鮮さが失ってしまったり、何より美しい骨の状態を保てないんです。
私は骨の研究を表向き続けて、裏ではこっそりと新しい薬品の研究をし始めました。
そう。今回の事件に関係している薬品ですよ。
骨だけを残して皮膚や筋肉や内臓、毛髪や爪などの部位を溶かす液体の薬品です。
えっ? 遺体を燃やせばそんな薬品を創る必要がないですって? 刑事さん、火葬すると骨がカラカラに乾いて美しくなくなるんです。両親の葬儀の話をしたでしょう。お忘れですか?
それに溶かすだけではありません。私の開発した薬品は骨の鮮度を保つために骨に付着してコーティングするように製作したんですよ。
つまり半永久的に美しいままで居られるんです。
この構想を私はこの一年、必死になって実現させようと努力しました。寝る時間を削って家に帰ることも激減しました。
妻には文句を言われましたね。少しぐらい家に帰ってきてよとか。もしかして浮気をしているんじゃないかとか。
私は妻以外の人間を愛したことはありません。両親を除いてね。
科学者は意外と一途なんですよ。でないと研究に身を捧げられることなんてできないですよ。
話を戻せ? 分かりました。私の創った薬品の話に戻りますね。
専門家ではない素人である刑事さんに作り方を教えても理解できないと思います。いや馬鹿にしている訳ではないですよ? 鶏に飛び方を教えるようなものです。例えるなら、ですけど。
要するにタンパク質を溶かせば良いと思っているでしょう? しかし骨の成分にはコラーゲンというタンパク質が含まれています。
この矛盾を解決するために半年はかかりましたね。まあどうやったかは言いません。あの薬品の創り方は墓場まで持っていくつもりですから。
どうしてですって? 悪用されたら困るじゃないですか。軍事転用されでもしたら多くの犠牲者が生まれるでしょう。
ダイナマイトを発明したノーベルの悲劇を我々科学者は学ばないといけません。
薬品を完成させる前は、筋肉や皮膚を骨から剥がすようなものを創ればいいと考えていました。別に溶かす必要はないんじゃないかと思うようになりました。
しかしそうやって創った試作品は失敗作でした。上手く剥がれなかったんです。
もちろんモルモットを使った実験ですよ?
人体実験なんてとてもじゃないけどできませんよ。そういった経緯から溶かす薬品を創り始めたんです。
半年で形になって次の三ヶ月で九割出来上がり、残りの三ヶ月で完成しました。
薬品の名前は考えてません。もう廃棄してしまいましたし。
そうです。あの薬品は別の薬品を混ぜることで無害になるんです。
それが残りの三ヶ月の主な研究でした。
それでようやく、薬品が完成して実行に移そうと決めました。
まず研究室とは違う建物に設備を作りました。きちんと大学に申請して、自費で作ったんです。
うん? 科学者が研究所を自費で作ることがどんな疑いをかけられるんですか?
一応言っておくと申請理由は私が表向きに行なっていた研究の実験場というものです。
郊外に建てた一軒家は薬品の完成が見込まれた半年前から工事を行ないました。
完成した建物に私は大きなカプセルを中に入れました。日焼けマシーンのように横向きで横たわれるような大きさです。
注入装置と排出装置をそれぞれつけました。
もちろんそれらには薬品で溶けないような素材を用いました。
それで準備は万端でした。
後は妻を殺すだけでした。
しかしいざ妻を殺すという段階で私は悩んでしまいました。本当にそれを私自身望んでいるのか。妻を殺して後悔しないのか。
数日、熟考して出た結論はやっぱり殺すことでした。
先ほどから話しているとおり、私は妻を愛しています。心から愛しています。殺すことに躊躇するくらい愛しています。
死んでしまった今でも愛しています。
なのにどうして殺したのか?
人は自らの性癖をどうしても抑えきれないんです。しかもそれが満たされると分かったとき、それをせざるを得ないんです。
分かりませんか? では想像してください。
刑事さんの妻を殺した犯人が居たとします。二人っきりで周りに誰もいません。刑事さんの手には拳銃。相手は何も持っていません。
さて、刑事さんは犯人を撃ちますか?
分からない? まあそんな状況になったことありませんよね。
私はそういう状況になったんですよ。
私は骨を愛さずにいられない性癖を持っています。そして同じくらい妻を愛していました。だから行なったんです。
さて、それでは具体的に犯行の様子を話すとしましょう。
犯行の当日。私は研究を引き上げて妻が待っている自宅に帰りました。午後三時くらいだったと思います。
妻は珍しく早く帰った私に驚きました。
どうしたの? こんな早く帰るなんて。
私は笑顔で言いました。だって今日は結婚記念日じゃないかってね。
私の言葉に妻は涙を流しました。ここ数年、私は結婚記念日を祝ったことはありませんでした。いつも仕事を優先していました。
私は妻を抱きしめて言いました。ごめん、これからは研究ではなく君を優先するようにするから。
もちろん嘘でした。そう言えば妻が喜ぶと思ったからです。
これから死ぬ人間でもせめて幸せの中で殺してあげたいと思ったからです。
妻が泣き止むまでずっと抱きしめていました。私は声をかけ続けました。ごめんよ。私は君に寂しい思いをさせてしまったねと。
妻は私の研究が上手く軌道に乗った時点で勤めていた会社を退社して専業主婦になっていました。
ああ、もうすでに知っていると思いますけど、子供は居ません。どうも上手くいかなかったみたいですね。
だから一日中家事だけをやっていた妻は寂しくてたまらなかったと思います。
まああくまでも想像ですけど。
妻が泣き止んでから私と妻は近くのスーパーで買い物をしました。妻が腕によりをかけて夕食を作ってくれると言ってくれたんです。
好都合でした。もしも妻がどこかに食べに行こうと言ったら困るところでした。そんなのよりも君の手料理が食べたいとでも言えば解決したかもしれませんが。
二人で久々に買い物をして、少しドライブを楽しんでから家に戻りました。
夕食は七時半になりました。結構時間がかかってしまいましたけど、私は焦りませんでした。
料理を運んでリビングで食事をしようとしたときに私は言いました。美味しい赤ワインを買ってあるから飲もうと。
私と妻はお酒を人並みに呑みます。弱くもなければ強くもありません。
私は妻を待たせてキッチンに向かって冷蔵庫を開けてワインを取り出しました。ボトルを開けてワイングラスにワインを注いで片方だけ薬を入れました。そして妻の居るリビングに戻りました。
どうしてここで開けないの? と妻が不思議そうに言いました。私はどきりとしながらも、どんなワインか知らないほうが楽しめるからとかなんとか言いました。上手く誤魔化せなかったのですけど、一応妻は納得してくれました。
私は妻にこう言いました。二十年でも五十年でも一緒に居ようって。
妻は嬉しそうに微笑んで、グラスを傾けました。
最期の言葉は、愛しているわ真人、でした。
乾杯。私と妻は同時にワインを呑みました。
妻はワインを一口だけ呑んでグラスをテーブルに置こうとして、そのまま力なく椅子にもたれこみました。そして糸の切れた人形のようにぴくりとも動きませんでした。
即効性の毒でした。一口でも飲めばすぐに死んでしまう毒薬を私は選びました。
多分苦しさはなかったと思います。吐血もしませんでした。
私は妻が動かないことを確認して、そして用意してあったキャリーバックに妻を詰めて車に入れて研究所に向かいました。
研究所、と言っても小さな施設でしたけど、とりあえずはそこに入りました。中に入って妻の遺体をカプセルに寝かせました。
私は妻の穏やかな表情を心に焼き付けました。今でも最期の顔を思い出せます。
私はカプセルの蓋を閉めて、薬品を注入しました。躊躇いはありませんでした。
私は心臓の鼓動を高鳴らせながら妻の遺体を観察していました。
薬品の色は黄緑色でしたので全てが見えたわけではありません。しかし皮膚や筋肉や内臓、毛髪や爪を溶かしていく様はまるで研修医時代に出産に立ち会った瞬間を想起させました。
薬品がカプセルに充満して三十分が経ってようやく私は薬品を排水しました。排水先は薬品を無害化する薬品が繋がっています。
その後、普通の水で薬品を洗い流してからカプセルの蓋を開けました。
そこにあったのは、私の理想の人骨でした。
美しい光沢、すべすべした白さ。触らなくても分かる肌触り。どれもが私の追い求めていた究極の美でした。
刑事さん、人は美しいものを見ると涙を流すんですよ。
まあもしかしたら妻を殺した悲しみで涙を流したのかもしれませんね。
感動のあまり私は触ることに躊躇いを感じました。ようやく触れるようになったのは十分後でした。
私は恐る恐る妻の骨を触りました。今まで触れてきた人骨の中で最も素晴らしい触り心地でした。
私は頭蓋骨を拾い上げて胸の中に抱きしめました。
そして妻のことを想いました。初めて会った高校時代から今まで支えてくれたことに対する感謝の気持ちが私の心を巡りました。
さらに嬉しいことに、こうなった妻を私はまだ愛していました。前と変わらずに愛しい気持ちに溢れていたんです。
私の気持ちは真実だったんだと確信したんです。
骨になった妻を私は大切にキャリーバックの中に仕舞いました。もちろん一つずつ骨をビニール袋に入れて傷つけないように。
車の中に運んで自宅へと戻り、キャリーバックを持って家に入りました。
そして妻の残した夕食を食べ終えてから、私は妻の骨を寝室に並べました。
頭蓋骨、脊椎骨、胸骨、肋骨、肩甲骨、鎖骨、上腕骨、手根骨、中手骨、指骨、骨盤、大腿骨、足根骨、中足骨――順番に並べていきました。
そしてその美しさに惚れ惚れとしました。この世にこれ以上の美しいものはあるのだろうかと感動しました。
私は妻の骨を一本一本触ったり舐めたり齧ったりして一日中過ごしました。
研究なんてどうでも良くなりました。それよりも一日中妻と一緒に居たかった。
頭蓋骨だけリビングに運んで一緒に食事をしたり、ずっと寝付くまで手を握っていたりして過ごしました。
しかしそんな生活も終わりになりました。
私が寝ている間に警察が自宅に来たんです。
大学からの要請を聞いていますけど、間違っていますか? ああ、研究員からですか。
そりゃあ一週間も引きこもっていたら、誰か探しに行きますよね。スマホにも出ないのですから、見つかるのも時間の問題でした。
私は妻と寝室で寝ていたところに警察官が来ました。私が起きたのは、妻の姿を見た警察官の悲鳴にせいでしたね。
私はその場で保護されました。逮捕ではなく保護でしたね。何らかの事件に関わっていると判断されたのでしょう。
しかし私が自分で妻を殺したことを自供したら態度は一変しましたね。
新聞を読んでいませんけど、大変な騒ぎになっているんじゃないですか? よく分かりませんけど。
とにかく、私はなぜ犯行を行なったのか理解できたと思います。
えっ? 理解できない? ああ、心情的にですよね。
私の性癖が異常だということは理解できましたか? それなら結構。
犯行に至る動機が分からないんですね。いえ、いいんです。不理解は科学者にとって慣れたものですから。
それで、私はどんな罪になるんですか?
殺人? 死体損壊? 両方ですか?
まあ今となってはどうでもいいですけど。
これからの人生は終わったも同然ですからねえ。でもまあ満足しましたから。
刑事さん、これで調書は取れましたか?
ああ、良かった。これでようやく一休みできますね。
ああ、そうそう。妻の骨はどうなるんですか? それだけが気がかりなんです。
……墓場に入れる? ちょっと待ってください、そんなことしたら妻の美しさが世間に伝わらないじゃないですか。
そんな……遺体はそうですけど……私言いましたよね? 半永久的に美しさが残るって……
……そうですか。まあ仕方がないと諦めるしかないですね。
大学で保管してくだされば良かったのに。
残念ですね。
最後に訊きたいこと? なんですか?
どうして逃げようと思わなかったのか?
その発想はありませんでした。妻の骨を見れたことで何もかもどうでもいいと思ったから? まあそんなところでしょう。
刑事さん、どうしても妻の遺体をお墓に入れるつもりですか?
そうですか……はあ、諦めますよ。
せっかく美しくなったのに。
誰も分かってくれないんだなあ。
なんだか酷く死にたくなってきました。
うん? 死んだ方がいい?
あはは。私は自殺なんかしませんよ。
妻との思い出を糧に生きていくんです。
あはは。あははははははははははは!
――楽しかったなあ、妻と過ごした一週間は。
とある科学者の偏愛もしくは狂気 橋本洋一 @hashimotoyoichi
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