第3話

 ぢう、と音がした。

 下腹部に細かな突起のある塊が複数滑るのに怖気を感じ、男は覚醒した。悲鳴を上げようとしたが、口どころか舌も動かない。口が開かないのは、そこばかりか全身を、骨と筋と皮膚の間にそれぞれ得体の知れぬ細紐を、縫い止めるが如く通されているからだ。

 廃工場と思われるそのただ中に、仰向けに吊るされているらしい、と悟った。ろくに自由も利かぬ有り様ながら、どうにか見やれば、自分達が用意した障りを起こす札が数枚そこに吸着し、皮膚からヒルの如く吸血しているのが見て取れた。先程の塊の感触はその札の裏面から覗いている、海産物めいた黒い手足も目もないそれの口からはみ出した長く先の割れた舌で、それが下腹部をそれぞれ嘗め回しているのだった。

 どれほど時間が経過したのかも不明だが、先程自分達が解き放った化け物のミニチュアサイズを、誰がどう用意したのか、男には分からない。

 得体の知れないものに男の弱点を蹂躙されかかっていると気付いた彼の息遣いが荒くなった。本能的な恐怖によるものらしい、と、それを下から見上げている影と弟子は察した。


「ふーっ! うぐうううっ!!

 ふーっ!!」

 ぶるぶると震えながら、男は必死に唸った。

「おう、目を醒ましたか、色男」

 男の首の回らぬ方から声がした。おぼろげだった記憶が蘇って来る。自分達が襲った結界を守っていた、あの小僧だ。

「今、口の紐を緩めてやる」

 別の声がした。化け物を呼び出す札はあくまで借り物で、常人である男には気配も感じ取れなかった。

「こいつに聞かれた事だけに答えるがいい。その間は、お前が用意したその札の吸血も程々にしておいてやろう」

 男は唸り声で返事をした。思い出したかの様に声が囁く。

「そうそう、舌を噛んで死ねるとは思うな。お前の身体を通しているそれの端に俺の指がかかっている。妙な真似をすれば歯茎の神経の位置からその太さまでをじっくりを確かめてやる」


 それから男は、股間の不快感と戦い、吸血による意識の遠のきの度に加えられる苦痛で覚醒しながら、弟子と声に返事をした。

 憂鬱さだけを帯びた深いため息が聞こえる。声の漏らしたものだと察する。小僧の舌打ちも聞こえた。

 今度は何をされるのかと思っていると、不意に天井にぶつかるかと思うほどの上昇による急接近から垂直落下させられ、これまた口の自由も利かぬと思っていると、枯れ木がへし折れる様な音が身体の中からしたのを、男は聞き取った。両の肋骨と脊髄の腰の辺りを、影の通した海女髪による捕縛と自重で全て折られたのだ。

「ううううううううううううううううううううううううう……!」

 それからまた唐突に全身の束縛を解かれ、軸回転させられた彼の身体は嫌というほど強烈に地べたへ叩き付けられた。衝撃で思わず呼吸しようとするが、丁寧な事に口の束縛はそのままで、ただそこにあるだけで悶絶しそうな痛みが走る。

 ショック死しない様、吊り下げていた声の人物が手心を加えたとは夢にも思わなかっただろう。

「あばらはやった事があるから分かるが、腰はどれほどの痛みか分からぬ。本当に効いたのか?」

「俺の主によれば我慢し続ければ気絶するほどだそうだ」

「気絶したのか?」

「したとさ。

『そこから四日は基本的に起きる事を許されず、十日入院する羽目になり、更にひと月は走っては駄目だと言われた』

と聞いておる」

「難儀な怪我だ。

 しかし、それなら女の食らった苦痛と天秤にかければそこそこか」

 小僧と影の囁きが、激痛に吐き気を堪える男の耳に聞こえた。そして更に、小僧の声が届いた。

「今は骨で済んで良かったと思え。そもそも師匠がせっかく張った結界から出たのにただで済むはずがない。

 そして、これからの事は俺の師匠が決める」




「どうしたものかな」

 再び廃工場の外に出た弟子は、ロマンスの彼氏と、共謀した男達が再び白いバンに押し込まれるのを横目にしつつ、天狗と初老の男に説明を終えた所であった。札は彼氏からはがされ、それでもそこからはみ出したものどもが蠢いているのを、天狗が

『やかましいわ』

と一喝してはたくやいなや雲散霧消し、彼が取り出した紐で束ねられ、懐中へ収まった。そこで一息ついて、天狗が空を仰いで呟いたのだ。

「既に結界を飛び出している訳ですから、あの男の両親などはさておき、ロマンス殿が捨て置くとは思えません」

 弟子の囁きに初老の男と天狗は物憂げに頷く。天狗が言った。

「であろうな。いやはや、大したたわけ、これが父になる立場の者がする事かよ」

 初老の男が続ける。

「彼女に子供が出来て彼氏である当人ばかりかその両親までもが持て余し、怪異で始末を計ろうとは。この様な男はもっと早く目をつけ、こちらの世界に引きずり込んでおくべきでした」

「うむ。ロマンスに引き合わせ、事の次第をはっきりさせた後、場合によってはお主に頼むやもしれぬ」

「師よ、心得ました。

 外道の管理には慣れております。人智を超える天狗の世界を垣間見させた後、終生我々の実験の被検体として飼い殺しにしてやりましょう」

「その時は任せた。まあ、これから会わせる娘の心次第で奴の行き着く先も知れるがな」




 初老の男の配下と思しき男達に後を任せて白のバンを止めたまま、天狗達を載せた車はロマンスが身を寄せていた彼氏の家へと到着した。時間は朝の七時を回っていた。

 道の脇に留め、ドライバーにひとまずエンジンを切らせる。彼に車を預け、降りた天狗、弟子、初老の男を迎えたのは田舎にはよくある一軒家だ。日差しも強くなるのが感じられ、これから暑さが擦り寄って来る時間である。裏手に回れば所有している田園も広がっていよう。

 そこに天狗らは血の匂いを嗅ぎ取った。

「結界は見た所、破られてはおらぬ。あの男は潜り抜けて外へ出た様子であるな。

 目くらましの陣を張ろう」

 天狗は周辺住民の目を避けるべく、懐から新たな札を一枚取り出すと、まじないの言葉を呟きながら、家の壁を周りながらその数ヶ所に一定の規則性を以て、ぺたりと貼り付けた。少し耳鳴りがし、空間が歪んだ。この札を誰かが剥がそうとしない限りは、この家の景観は保たれ、天狗らの姿は余人には見えない。

 何しろ田舎であるし、既に午前七時で畑仕事は始まっている時間だ。仕事に出て来ないのを不審に思った近隣の人々が訊ねて来るかも知れないし、他にも誰の目があるか分かったものではない。


「ゆこう」

「はっ」

 天狗に先んじて弟子が猪の子供の如く駆け出し、玄関口へ回った。現代風のステンレスフレームの引き戸がある。その曇りガラスの向こう、戸の半ばを横に仕切るフレームに叩き付けられた様な血の跡が大きく広がっており、それが幾重にも下へ流れ落ちていた。引き戸の下から外へと、広く血の海が広がっている。

「これではよく分からぬ。上がろう」

 天狗が呟いて戸の前に立つと、ひとりでにそれは伏した人物の頭と擦れる音を立てながらも開いた。頭蓋を砕かれ、ぐしょぐしょに髪を濡らして血と脳漿を散らした人物は起きる気配もない。しげしげと眺めた天狗はふむ、と息を吐いた。

「男の父親よな。またいで行くか。

 弟子達よ、様子が知れるまで羽ばたいていてくれやい」

「はっ」

 弟子と初老の男の背に黒い鴉の翼がにょろりと現れる。そのまま、天狗は地面すれすれを歩み、弟子と初老の男は宙を羽ばたいて、部屋の奥へと進んで行く。


 玄関口を入ってすぐ右手に居間、左手に二階への階段がある。怪談の壁側にも赤い手形が不規則に付いており、下へ筋を描いていた。

 天狗はまず、玄関口に倒れていた男の血の跡がどこから続いているのかを確認する事にした。居間へと通じるそれを辿る様に歩いて行くと、まず、倒れて透明な中身がこぼれた跡と、ガラスのコップが散見された。天井から下がった蛍光灯が割れており、その破片も散らばっている。

 その部屋の隅で膝を抱えて座るロマンスは、よくよく見ればあちこちに血を浴びている様子だった。天狗は穏やかな口調で問いかけた。

「怪我はないかな?」

「……はい。はい」

 ロマンスの両目から大粒の涙がこぼれて頬を伝う。

「ロマンス殿、これを」

 宙を舞う弟子の姿を彼女が見るのは初めてではなかったので、当たり前の様に弟子は彼女へ近寄ると、手拭いを差し出した。それを見るなり、ロマンスの表情がくしゃっと歪み、大声を上げて泣き出した。




 泣きじゃくりながらロマンスが言うには、天狗達が場を後にしてすぐの事だったという。

「おじさんが一升瓶を持ち出して来て、彼と飲み始めたんです。最初は

『しばらく外に出られないのであれば、飲んで寝てしまおう』

という話でした。ところが、途中から私にもお酒を勧めて来たんです。おなかに赤ちゃんがいるのに飲めません。それはもうその場にいるみんなが分かっている事でした。

 なのに、おじさんはそこから不機嫌になったんです。彼にも

「ノリの悪い女だな」

と囁いて、何杯か飲んでいた彼の顔つきもそこで変わったんです。彼までもが私を罵り始めました。

「全くだよ。ホントに変な女を拾ってしまったよ。

 おかげでこんな所に閉じ込められて、いつ出られるんだか分かったもんじゃない。家に来る様になって長いけど、

『お前みたいな人間を入れてやってるんだ』

っていう事、その辺、きちんと理解してるのかな」

と言ったんです。彼もおじさんも酒に飲まれている様に見せているつもりでしたが、そこは付き合いの長さから、意識がはっきりしている事が、私にははっきり分かりました。


 私には、全く訳が分かりませんでした。青天の霹靂です。何しろ最初に熱烈に告白して来たのは彼の方でしたし、私がOKしてからぐいぐい迫って来たのも彼です。

『子供を作ろう』

と言ったのも、

『結婚しよう』

と言ったのも最初は彼でした。それを受け入れましたけれど、私だって考えました。地元の仕事先が少なくなっている事。彼の家の農業を手伝う形で住まいを一緒にするのだとしても、子供を産むまで、そして産んでそれから育児の間、生活はどうするのか。

 そういう大切な事を二人で話し合ったんです。やがておじさんとおばさんの知る事となり、彼らも祝福してくれたんです。

『ゆっくり休むといい。元気な子に育ててくれ』

と。


 そういう全てが、昨夜、社交辞令だったのだと思い知らされました。

 私の出自、学歴、両親、いじめられた理由。その全ての原因が私にあると、おばさんまで加わって口々に延々罵り続けたのです」


 ろくな子を産まないに違いない。


 こういう女は何人も見て来た。


 そもそもお前の名前がおかしい。


 妊娠していようが何だろうが、相手の親の杯は受けるべきだ。


 本当に地元の人間なのか。お前の両親とは学生時代にも会った事がない。


 お前みたいな奴が抱えている腹の子は早めに潰してしまった方がいいんじゃないのか。


 疫病神。


 財産目当てで押しかけて来たのだろう。


 小さい頃からうちに目をつけていたのだろう。いじめられる側に回ったのも、うちの息子をたぶらかす為だったに違いない。いじめていた側の弱みを握ってそうさせていたのだろう。


 いやらしい女。自分の美貌を理解した上で謀略を張り巡らせる、どうしようもない売女。


 妊娠しやすい身体である事を前以て調べていたに違いない。両親共々とんでもないろくでなしだ。


 土地も含めた先祖代々の財産は決してお前などには渡さない。家の名前が腐る。


 大した出自でもないくせに妊娠するとは何事か。




 どうせだから今、その腹の子を潰してやる。




「私は呆然としました。涙が勝手に出ていましたが、その一言でとんでもない事態になっている事に気付いたのです。

 そう言うなり、おばさんに羽交い絞めされ、彼は私の両足を抱きかかえる様にして抑えたのです。私は泣き喚くばかりでした。

 おじさんは、

『大事にしている家宝だ』

という日本刀を取りに自分の部屋に向かい、しばらくして戻って来ました。抜き身のそれを手に提げた彼はもう、ただの泥酔した不審者でした。

「うちの息子をたぶらかすなど全く以て許せん。抉り出した子供は責任を取ってお前が残さず食らえ」

と千鳥足でぼやくと、上段に刀を構えました。

『彼がいないな』

と頭のどこかで考えながら、私は喚きました。


 刀が振り下ろされそうになる直前、雷みたいな破裂音がして、二人が脱力した事が分かりました」

「……ふむ。

 万が一を、と思って念を入れておいて良かった」

 ロマンスの頭をそっと撫でつつ、話を聞いていた天狗が呟いた。

「するとやはり、あれは先生が?」

 虚ろな眼差しを向けながら問うロマンスに、天狗が頷く。

「長年の経験からかな。お前の身に良くないものが付きまとっているのが見えたのだ。

 そしてここはどうしようもなく閉鎖的な土地であるし、少し前の、あれよ、お主の両親も含めた連中が行方不明になった一件で、たわけた奴らが妄想を膨らませ、お前に危害が及ぶ流れを作っていてもおかしくはないと考えた。

 半分はわしが絡んでいるが、行方不明にする流れにはしておらぬ。で、今回の化け物騒ぎ。偶然にしては出来過ぎていると思ったのよ。ロマンスの彼氏とその両親には怪しげな心得はありそうに見えなかったが、どこからかツテを得たのであろう。今はネットもあるしな」

 ロマンスがぶるぶると震え出した。

「私、我慢が出来ませんでした」

「うむ」

「誰が私と彼の間に溝を作ったのか。

 どうしておじさん達までそれを信じたのか。どうして酒に飲まれての犯行と見せかけようとして、私のおなかを裂いて赤ちゃんを引きずり出して食わせようとしたりなんて、恐ろしい事を考え、実行しようと思えたのか。

……彼らの間でどれほどの話し合いがあったのかは知りません。

 でも、ただの一度も私に確認を取ろうとせず、彼らだけで話をまとめたという事は、つまり、私なんて家族に迎え入れるつもりはもうなかったし、そうなれば最早他人だったから、自分達の間でどういじめ殺そうと自由だと思った、という事に他ならないとは、思いませんか、先生」

「であろうな。でなければわしの仕掛けもここまでは働かぬ」

 羽ばたく翼の音と共に、初老の男が天狗の背に声をかけた。

「師よ、女を見て参りました」

「話しても?」

 天狗と初老の男、弟子がロマンスを見やる。彼女は頷いた。口元に度を過ぎた怒りからか、笑みすら浮かんでいる。

「どうであったかな?」

「何かから逃げようとした形跡がありました。階段の半ばで下半身から千切れた様子。臓物がてんでばらばらに血の海に転がっており、そこから這ったのでしょうな。二階の部屋の入り口で、どう下半身が付いて行ったものか、血まみれのその己の股間に顔を埋めておりました。

 ショック死というよりは窒息死かと」

 ふふふ、とロマンスのうつむいたその姿から笑い声が漏れた。

「玄関の男ですが、外見は一見、脳天が爆ぜただけに見えますが、あれは爪先から脳天まで、中身ががん細胞に満たされ、脳に至った様子ですな。外面こそまだ普通の人の姿をしておりますが、解剖すれば惨状が良く分かるのではと思われます」

 天狗は満足げに鼻を鳴らした。

「よろしい。どちらも上手く行ったか。

 自分の意識が怖気と共に奪われるたわけ者の様子はさぞいい見ものであったろうな。後学の為にそこはちょいと見ておきたかった。

 さて、ロマンスよ。お前は手を下しておらぬ。が、村の連中や、恐らくはよそへ出ても、これまでのお前の事を根掘り葉掘り知りたがる輩は少なからず出て来よう。

 お前はこれまでその身に余る頑張りを発揮してやって来た。今回のこれはひとつの到達点となるはずだった。お前の中では苦難に負けぬ美しさと強さが最早同居している。

 故に、それがお前を蝕むだろう。身体の自衛反応として、お前を逆に苦しめ続けるだろう。

 次に同じ事がまた起こらぬとはわしには思えぬ。ないと言い切る方が無責任というものよ。

……これから、どうしたい?」

 ふ、とロマンスが吐息を漏らし、ややあって、告げた。

「先生」

「む?」

「私は……ほとほと人生が嫌になりました。人と関わらずに生きて行く事がかなわないくらい、私にも分かります。

 だからこそ、人として生きる事、そして、人と関わって生きて行く事がもう嫌なのです」

 弟子は黙って彼女を見つめていたが、彼なりの経験から思う所があったのか、否定や提案の言葉を漏らす事はなかった。

 ロマンスの諦観と決意が入り混じった質問が、天狗の耳を撫でた。

「先生、私は化け物にはなれませんか?」




 天狗の住まいである古寺に、ロマンスを含めた四人の姿があった。

「いつだったか、ロマンスよ。お前に天狗とは何かを話した事があったな」

「はい。元々はお坊様や修験者で、それが何らかのきっかけで道を外れ、魔道を究める者になった、その果ての者だと」

「左様。

 そういった我らの様な一種の外道ではなく、埒外の化生に成り果てるという事は、もうわしらの事も認識出来ぬという事になる。もう一度だけ聞くが、それで良いのだな? 腹の子共々」

「ええ。

 今回の事でつくづく思い知りましたが……誰かしらに悪意を向けていなければまともでないと言われ、それを常に腹の内に抱えながら、誰かと接して生きなければならないと言うのなら、私はもう、人でいたくはありません。

 いずれは先生やお弟子さんに祓われる身となったとしても、私はもう、それでいいのです」

 重く息を吐き、天狗は懐から紐でまとめた札の束を取り出し、頷いた。

「ひとつだけ、利点、と呼べる事があるやもしれぬ」

「何でしょうか?」

「今、村を騒がせておるあの化け物じゃがな、この札に封じておる。これをお前と腹の子の下地として用い、使役する事が可能じゃ」

「はあ……ですが、先生、利点とは?」

「今回の流れを作った連中を探し出し、お前を孕ませた男とその両親と同じ目に遭わせてやれるという事よ」

「それは……」

 ロマンスは、自分の腹に眠る子を慈しむ様にそっと撫で……それから穏やかに微笑むと、言った。

「とても……とても素敵な事ですね……」




 儀式が執り行われる。結界の中、その中心で火が焚かれている。

 そのすぐ傍らに白装束で横たわり、天狗のまじないの言葉を頭のどこかで聞き捉えながら、ロマンスは思った。




 味方一人いない中で、自分を取り囲んで罵声を浴びせ、愚弄し、下卑た笑顔を浮かべる者達を煌々と照らして止まぬ日差しの下よりも、物音ひとつせず、伸ばした手の先すら見えないこの暗闇の方がどれほど落ち着く事か知れない。

 私を苛んだ全ての者達の、その子々孫々末代に至るまで、息絶えるその瞬間に至るまで、嬲っては正気に戻す、悪夢の様な呪いあれ。




 一ヶ月ほどが過ぎた。

 ロマンスの彼氏であった男の一家惨殺事件は、長男である彼氏、そして結婚相手だったロマンスが行方不明のまま、やる気のない捜査が継続中である。田舎において、警察機構がまともに働くには、都会よりもしっかりとした地元の協力が必要なのだ。

 それはつまり、地元の権力者の圧力が警察上層部にかかるか、それに連なる連中が

『自分達が身内で始末をつける』

と主張した場合、一切警察機構が当てにならなくなる、という事でもある。

 たまに警官の拳銃自殺があるが、地元以外ではニュースとして取り上げられる事も少ない。それくらいに完成されたシステムとして横行している。

 今回の一件では、ロマンスの幸せを奪ったのに関与しているのではないかと思われる者達の、断続的な不審死がその後に発生しており、警察側の人員が全く足りない事、そして関わった捜査関係者側にも不審死や行方不明者が相次いでいる事から、解決までどれほどの年月がかかるか、全く見通しが立たなかった。


 天狗とその弟子にとっては、その一件はロマンスがいなくなってしまった事で既にけりが付いてしまっている。

 彼氏であった男とその仲間は、天狗のかつての弟子であった初老の男に全てを託したので、その後の事は全く知らぬ存ぜぬである。あの後、別の用件で彼は天狗に土産を持って挨拶に訪れたのだが、その時の彼の話によれば、初老の男の懐がしばらく潤い続ける役には立っているとの事。


 なので、既に事態は彼らの関与する所ではない。村の連中から自然に伝わる噂話に気のない返事をするばかり。

 どうにもならない流れにした連中がどうなろうと、一切合財、全く以て知った事ではなかった。




『あたらしい違いの分かる天狗の道徳 ○○年度版』

と記された教科書を紅葉の様な手で開き、天狗の教鞭に意識を集中していた弟子は、ふと彼に訊ねてみた。

「師よ、ロマンス殿は親子揃って快進撃の真っ最中の様子ですね。

『え、あの御仁も?』

と思われる様な者までが不審死を遂げております。正直驚きを隠せません」

「わしもよ。驚きと嘆きが交互に胸を去来する。センチメンタルな天狗にはいささか厳しいものを感じるが、なあに、前も言ったが、娘一人幸せに出来ぬ様な関係のはびこる村は一度浄化されるべきじゃ。

 でなければ、新しい人間も住み着くまい。やがては自治体である事も不可能となる。

 気付いている者は相互の関係を見直しているであろうよ」

 そう呟いてから、戒める様に天狗は言ってのけた。


「まあ、その連中の回りにいるのが、人間であったならば、じゃがな」

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師と弟子 躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ) @routa6969

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