畳む人

躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ)

畳む人

 血だるまのヨウスケの目の前で、ニラヤマは奴に畳まれてしまった。

 今回もだ。救いを求めて連絡した友人であるニラヤマの住むアパート。その部屋の中で仰天する彼に状況を説明すべく話しかけたその瞬間、唐突に視界に入って来た、『畳む人』とヨウスケが呼ぶその何者かは、ニラヤマの胸と膝にそれぞれの手を添えた。ヨウスケの狼狽ぶりに怪訝な顔をしていたニラヤマは、抵抗する気配もないまま眠る様にまぶたを閉じると、『畳む人』の枯れ枝の様な両腕によって、まず海老反りの体勢にされた。

 横殴りの一発をこめかみへ浴びた様な衝撃にヨウスケが膝から崩れていくのには目もくれず、ニラヤマは『畳む人』によって生木のへし折れる様な嫌な音と何かが体内から漏れる音、そして耳、目と鼻と口からも血反吐と、穏やかなその表情に見合わぬ

「うごえっ! ごえぼえええええええええぇ……!!」

というくぐもった悲鳴を撒き散らしながら、腹の皮膚を折れた背骨で突き破られ、自分の踵に後頭部を付ける羽目になった。

 人が背面に二つ折りにされる様子などヨウスケは見た事がない。部屋に立ち込める臭気にヨウスケの正気が引きずり戻されて吐き気を覚えるが、『畳む人』は更に、痙攣しているニラヤマの両肩を背中の側にへし折る。胡桃を割った様な乾いた音に、水面を叩いたのを思わせる破裂音が重なる。それから腹とその下にある太ももを畳んでいく。ニラヤマの両腕がその間に挟まれているが、それも耐久限度を越えた力によってへし折られ、肘の内側の皮膚を突き破って赤黒くも白く光る骨が現れた。人が記号のΣ(シグマ)の形にゆっくりと、しかし確実に畳まれていく。

 ヨウスケの脳裏に、かつてのバイト先だった服屋で初めに教わった、シャツ類の畳み方が浮かんで来た。『畳む人』の手順がまさにそれだった。

 ヨウスケは嘔吐しかけるのを堪え、ニラヤマの部屋からよろけつつも這い出して行く。

 玄関のドアを向く寸前に視界に入って来たニラヤマの瞳が、うっすらとだが開かれ、ただ、ヨウスケを見ていた。




 最初にやられたのは家族だった。

 夕暮れ時に一緒に食卓を囲んでいた両親と、中学生の弟、大学生の妹を、先ほどニラヤマがされた様に『畳む人』は畳んだ。ヨウスケの視界の隅に白く、縦に長い、小さい頃絵本で見たのっぺらぼうの様な奴が滑り込んで来たのだ。穏やかな、眠っている赤子の様な顔が特徴的だった。

 無論仰天し、ヨウスケと弟妹は家の中を逃げようとした。が、まずやられている父を見て、悲鳴を上げながら掴みかかった母を『畳む人』は片手で鯖折りしてしまった。風刺画の線の少ない描画の様な手がにゅっと彼女の顔に伸び、そのまま押し潰すよりは、そう、まさしく『畳む』という感じにしか見えない抵抗のなさで、母親は垂直に潰され、破裂した彼女の身体を破って突き出た骨によって、噴水の様に溢れた血しぶきにヨウスケと弟妹はまみれた。

 その瞬間、弟が叫んだ。

「うあああああああああああああああああああ!」

 逆上の声を上げて台所を飛び出し、自室から取って返した弟の振るったバットは、『畳む人』の背後から脳天にめり込むか叩き割るはずだった。ところが、それを握っている弟の両腕の間へ滑り込む様にして、頭そのものを延長させたそいつの大きく広げた口、その中に切り株の様に生え並ぶ奥歯ばかりの上あごと下あごが彼の顔と足元に当たった所で、弟は脱力したかの様にぐにゃりと身体をしならせ、そのまま三番目の犠牲者として畳まれ始めた。

 枯れ枝がたわむ音と水風船が破裂する音、泥をかき混ぜる様な音が交錯する。

「びゅぶうううううううううううべらあああああああああああぁばぶうううううううううううううぼぼぼ」

 空気が噴出場所を求めているかの様な弟の悲鳴。

「あああああああああああああああああああああああ! あああああああああああああああああああああああああ!!」

 絶叫と共に完全に腰を抜かした妹の腕を取って立たせようとしたが、駄目だった。両脇の下に腕を差し込んで引きずり起こそうとした所に『畳む人』の顔があった。

「うわっ!」

「へっ……ひっ……」

 放心したのか、笑い声を上げかけた妹を、『畳む人』は首を傾げて眺めていた気がする。

 その辺りが曖昧だ。




 気付けば保護を求めて見覚えのある交番へ飛び込んでいた。家から半径100メートル以内にある交番である事には後で気付いた。警官がいた。警戒心からか身構えた彼らの視線は、血だるまのヨウスケを捉えていなかった。身体中の毛が逆立つのを覚えて横へ飛び退こうとしたヨウスケの動きよりも早く、先ほど弟がやられた時の様に『畳む人』の頭が伸び、一人目の警官を掴んだ所で全身が『畳む人』の側へ体重を預けるかの如く弛緩する。

「やめなさい!」

 その場にいた中でも恐らく一番年配ではと思われる警官が特殊警棒を引き抜いた。恐ろしくないのだろうか、とヨウスケは思った。間合いを計りながら近付いて行く。彼の前で年配警官と他の警官らのやり取りが交わされた。『応援要請』はまだ分かった。『セツグウ中』だの『観音様』だのという単語に内心疑問を浮かべていると、ヨウスケの前に警官の一人がかばう様に立った。

 振り返ってヨウスケに何か言おうとした所、その警官もまた、垂直に畳まれた。




 どれくらい走っただろう。『畳む人』は、ヨウスケと一定の距離を置いて追跡というよりは、ぺたり、ぺたりと数歩歩いては、勢いを与えればその後は自重で移動するばねのおもちゃの様に身体を伸縮させて距離を詰めるのを繰り返し、付いて来ている。

 ヨウスケと対面した相手だけを畳み続ける『畳む人』の向こうからパトカーのサイレンが聞こえて来た。コンビニの外壁に背を預けたヨウスケは、もう何の期待もしてはいなかった。洋画みたいにパトカーで『畳む人』を轢こうとしてくれるのを一瞬期待した。あり得ない。日本の警察は銃を抜く事だって基本的にタブーなのだ。少し前に映画で見た、要人警護のSPポジションの警察官ならばともかく、ヨウスケはVIPですらない。

 絶望的だった。

「あのう」

 へたり込んでいた所に、迷惑そうに声をかけて来たコンビニの若い女性店員。ヨウスケは彼女が以前、自分が泥酔してレジでしつこくナンパしようとした女性店員だったのを思い出した。

「びゃっ」

 畳まれた。女性店員は瞬時に三つ折りにされてしまった。


 もう走れない。ヨウスケの前に影が立った。見上げる気力すらない。誰なのか確認しなくてもほぼ判明している。『畳む人』以外に誰がいるというのか。

 そのヨウスケの耳朶を声が舐めた。

「ヨウスケくん、邪魔な人は全部片付けて来たよ」

「はぁ!?」

 顔を上げたヨウスケの前にいたのは、同じバイト先のミゾレだった。何度か飲みに行った事もあり、寝た事もあるミゾレだった。

 いつものミゾレと違うのは、真っ赤な両手に顔の皮膚を重ねて持っている事だろうか。

「ミゾレ……」

「ヨウスケくんがいつも飲み会で愚痴ってる相手って、この人達でしょ」

 ひゅん、と風切り音まで立てて突き出して来る両手の先にぶら下がっていたのは、見知った家族、ニラヤマ、交番の警官達、そしてつい今しがた畳まれたコンビニの女性店員の顔の皮膚だった。

 何気なく畳まれている女性店員の顔を見てしまった。人体標本を思い出させる表情筋だけになった女性店員の瞳がこちらを見ていた。

 ただ見ていた。


―親とか家族とかあいつらみんなうぜえんだよ。

『ハロワ行け』

の繰り返しで何も分かっちゃいねぇ。ハロワなんかもう何十年もろくな仕事ねぇっつってんのに聞く耳持たないっていうかさ―


―ニラヤマもちょっと自分が安定したからって連絡取れなくなるしさ。大体いつも残業とか休日出勤でいねぇんだよ。友達より仕事が大事なのかって話でしょ、これ―


―ちょっとレジで声をかけただけなのに警察呼ばれかけたんだぜ。俺マジ被害者っしょ?

 本社にクレームの電話入れてやったわ。でも

『すいません』

しか言わねぇの。信じられる?―


―で、職質食らうし、マジ警察とかあてにならねぇわ―


「ひゃああああああああああああああああああああああ!」

 過去の自分の発言が脳裏に蘇った。絶叫するヨウスケ。

 ミゾレは両腕を下ろすと怪訝な表情を浮かべ、首を傾げた。

「何してんだよ、お前。!? 何だよこれぇ!?」

「やっと正気に戻ってくれたんだ。あたしが何に見えてたの?」

「何ってお前……」

「また薬やってたんでしょ?」


 薬?

 薬……家族やニラヤマが自分を敬遠する原因となった薬。そこらの知人から買える薬。

『合法だから大丈夫だって』

と言われて試した錠剤。吐いてからその後、記憶が飛ぶ混じり物。

 いつ飲んだのかも覚えていない。そもそもここ最近に飲んだ記憶が無い。


「追っかけるの大変だったよ。あたしの事呼んだの、ヨウスケくんじゃん。

『いいもの見せてやるから』

ってさ。いきなりおうちの人とかニラヤマさん? その人とか叩き殺しちゃうんだもん。

 取り押さえられてるのにバカ力で暴れてたの覚えてないの? あたし、ずっとあんたの人質状態だったんだけど」

「へっ……?」

 それを聞いたミゾレは、何もかもが馬鹿馬鹿しくなった様子で、はっ、と鼻で笑った。

「これだよ。ヨウスケくんはまたこれですよ。

『ばっちり撮れよ!』

とかずっと叫んでるし、こんなの持たされて声も出なかったっつーの。

 交番にも飛び込むし、警官襲うし、あたしが代わりに警察呼びましたよ。

 で、殴られて蹴られて付いて来させられて、ホントもう信じらんない。どうすんのこれ」


 もう一度、ミゾレは両手のそれをヨウスケに突き付けた。

 ヨウスケの耳にはサイレンの音しか聞こえていなかった。

「とぼけてんじゃねーよ、てめぇが全部やったんだろ!? このヤク中通り魔がぁ!」

 ミゾレの放った前蹴りを鳩尾に食らって転がり、更に蹴られながら、ヨウスケは上の空で唸り続けた。

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