リビングデッド 魂と呼ばれる温度
あくびを噛み殺して校門を抜ける。今日は朝からずっと頭の芯が眠りから覚めずにぼうっとしていた。思考の焦点が合わない、そんな感覚だ。
ホームルーム前にトイレに行くと不良グループのひとりと鉢合わせた。気まずい顔をしたのはお互いで、そそくさと立ち去ったのは相手の方だった。こんなものかと拍子抜けしつつ小便を済ます。
教室に戻ると僕の机のそばに緒方が来ていた。片手を挙げるだけの挨拶を交わして気軽なお喋り。素直に笑えて、陰鬱な気持ちになることもない穏やかな時間。人生はバラ色、とまではいかなくても不安材料はないはずだった。それなのに心は沈んでいる。はっきり理由のわからない不満が胸の中にあった。
「親父の腰が良くなってやっと今日から配達復帰するんだ」
緒方はここしばらく家の酒屋の仕事を手伝っていた。無免許で軽トラックを操り、配達をしているところを僕も見たことがある。
「じゃあもう手伝わなくていいの?」
「治ったわけじゃないからまだ少し手伝うけどな」
「いいじゃない、続けたら? 継ぐんでしょ?」
「今から憶えなくたっていいだろ。それよりさ、今日の夜どっか遊びに行こうぜ」
うんざりした顔はすぐに明るくなった。夜も遊ぶ時間になっているとは、さすが元不良グループだ。緒方からこうして誘われるのは初めてで、友達から遊びに誘われるということ自体僕には思い出せないくらいひさしぶりのことだ。なのでできれば応えたいけれど夜ということに抵抗がある。
「昼じゃ駄目なの?」
今日は土曜日なので学校は昼で終わりだ。遊ぶなら夜でなくてもいい。
「悪い、夕方までは俺が色々あるんだよ。店番とか」
中学生の自分が働くことに一切の不満を感じていない曇りのない笑顔で言われ、たじろいでしまった。僕自身がなにもしていないので引け目があって返事をしづらい。
「ガーデンとかどうだ?」
「ガーデン?」
「商店街のライブハウスだよ」
突然の提案に面食らった。
「なんでいきなりライブハウスなんだよ」
僕には音楽の趣味はない。緒方は眉をひそめて納得のいかない顔をした。
「なんでってお前。この間みかちゃんと行ってただろ」
ホームルームの始まりを知らせるチャイムが鳴って、緒方は急いで教室を出て行った。
商店街のライブハウス。そこへは吉井さんに連れられて行った。学校外で吉井さんと落ち合う時に何度かそこを使っている。そこで聞ける音楽は僕の好みでも吉井さんの好みでもない。なら、どうして、そこだったんだろう。
教師が教室に入ってきて起立の号令がかかった。ばらばらと席を離れていた生徒が席に戻る。強い風が吹いてカーテンが暴れて窓の外に枯れたひまわりが見えた。どれも折れるか倒れるかしていて夏の終わりを感じさせた。それでもまだ暑く湿気もあって空気はかなり蒸した。そのせいかそわそわして落ち着かない。イライラ、かもしれない。なにかが足りない。それがなんなのかわからなくてまた落ち着かない。
窓の外を見上げると輪郭のぼやけた雲が大きく広がっていた。尖ったV字に見える。
「……ロッケンロール」
小さく呟いて、その言葉が出た原因を探してまた悩む羽目になった。なぜなら僕の人生にそんな単語が関わってきたことは今まで一度もなかったから。
ついこの間まで僕は完全ないじめられっこだった。それである日耐えられなくなり、学校の屋上から飛び降り自殺を決行した。けれど失敗に終わり、僕は弱者の庭という校内だけれど校内じゃない不思議な場所に迷い込んだ。その場所で僕は自分よりも遥かに辛い目に遭っている吉井さんと出会い、その後僕をいじめているグループのリーダーで吉井さんの恋人でもある松尾と乱闘をして、一方的にボコボコにされたものの僕はそれまでのいじめられっこという態度と立場を捨てることができた。吉井さんも松尾と別れると決意して、松尾は流血騒ぎを起こして学校を休んでいる。よくは知らないけれどなにか馬鹿なことをやったんだろう。今はもう僕も吉井さんも弱者の庭に行くことはできなくなっている。それはつまり僕らがまっとうな中学生に戻ったことを示していた。
そのまっとうな中学生である僕がヤンキーな友達に夜遊びに誘われた。どうすべきか。吉井さんが一緒なら迷わず行く。ライブハウスでもどこでも行くだろう。でも彼女は今日学校を休んでいる。緒方によれば病欠らしい。精神的な負担はずっとひどかったのでそれも原因のひとつかもしれない。
吉井さんのことはもう心配はいらない。僕がいて、それに松尾のグループから離反した緒方も今では心強い味方だ。
朝から頭の中に充満している薄靄はまだ居座っている。意識がぼうっとして、眠気も少しある。吉井さんもいないので今日はさっさと帰ろうと下足室に向かっていると後ろから緒方の声が追いかけてきた。
「おい! なにまっすぐ帰ろうとしてんだ! 遊ぶ打ち合わせしてねえだろ!」
「あ、ごめん。忘れてた」
「お前な、俺には久しぶりの遊びなんだよ。楽しみにしてんだよ。とりあえず時間だけ言っとく。俺が仕事終わって空くのが七時くらいになるから、それからだな」
「あ、ごめん七時は――」
七時は、七時はなんだ? 言いかけた言葉の続きが自分の中になかった。
「いや、なんでもない」
緒方はきょとんとした顔のまま後頭部をかく。
「なに言ってんだお前、とにかく七時くらいにお前の家迎えに行くからな」
七時なら夕食は終わっている時間だから丁度いいだろう。夜出かけると親がどう反応するか気になりはしても反対されたからと言って従うつもりはない。
下校途中、最もきつい坂を登っている最中不意に声をかけられた。防火用水と書かれた赤い標識に腕を絡ませたひどく人相の悪い長身の高校生がこちらを睨んでいる。
「なんですか?」
卑屈な態度を見せるとつけ込まれる。経験から僕は恐がっていることがばれないように努めた。じゃらじゃらとチェーンを下げたズボンやボタンがひとつも止まっていない制服の下に見えるサイケデリックな柄のシャツ。役作りでもしているんじゃないのかと疑ってしまうくらい上から下までチンピラ風だ。
「麻薬、殺人、ドクロ、どれに興味がある?」
座った目でまっすぐ僕を見る。質問の意図がまったくわからない。
「どれも興味ないです」
「じゃあ万引き、バイク、シンナー」
「ないです」
「嘘つけよ。ん? どれかあるだろ? それとも女にしか興味がないか? あ?」
胸倉を捕まれて引き寄せられる。顔と顔がぶつかる前に、誰かが間に割って入った。
「やめとけって。そんな簡単に見つかるわけねえだろ」
髪の毛がボサボサで汚れたツナギを着ている。チンピラ風と同じで高校生だろう。陰気な感じを受けるが、こちらは危険はなさそうだ。
「大体な、質問が間違ってるだろ。まずギター弾けるかとかそういうこと聞けよ」
「うっせえな、魂で弾くもんだろうが。技術なんて関係あるか。やらせてみりゃあらま奇跡の音色かもしんねーだろ」
「アホか。ギター見つけて今日の夜にライブなんて無理だろ」
「ジミヘンならいける」
「そりゃジミヘンならな」
チンピラ風の手が解けたので僕はその二人から離れた。
「スカウトがガーデンに来るのは今夜だろ。ここでギター加えてばしっとしたのをぶつけてやろうぜ」
「間に合わねえって」
勝手にもめ始めたのでそっと二人から離れる。商店街のライブハウスの名前が出たということは彼らはそこで演奏しているバンドマンなんだろう。ひょっとしたら見たことがあるかもしれない。
「今まで探してて見つからなかったのに、今日の夜までに急に見つかるわけないだろ」
「んなことわかってるって! だーっ! もう解散だ!」
「ていうか誰かいなかったか? ギター」
言い争いに背中を向けて歩き出す。僕には関係のないことで僕がどうにかできる問題でもなさそうだ。
家に着くと土曜でパートが休みの母に迎えられた。
「今日の晩御飯なにがいい?」
「からあげ」
緒方との約束は夕食のあとなのでそれまでたっぷり時間はある。FMをつけてベッドに寝転がると窓からの日差しでシーツが暖められていてすぐに眠気に誘われた。
いつの間にか寝こけていたらしい。誰かに呼ばれたように感じて目を覚ますと階下から母が呼んでいた。電話だと言う。
約束があるので緒方かと思っていたら吉井さんだった。学校は休んでいたけれど受話器から聞こえる声は元気そうだ。子機に切り替えて二階に戻る。
「あー、あのさ……えーと、わかんないかな……」
吉井さんは言い渋っていた。秘密を打ち明けるのを戸惑うというよりは自分でも言いたいことがまとまらない、といった風だ。
『あの人のこと、憶えてないかな?』
「あの人って?」
『ほら、弱者の庭にいた。憶えてない?』
思考が停止する。そうだ、僕より先に弱者の庭に先に来ていた誰かがいたはずだ。その人に教わったからこそ僕は弱者の庭の仕組みについて知っている。忘れていた。というよりその人のことについてなにも憶えていない。
少し混乱したもののそれは不思議なことでもなかった。つまりその人は弱者の庭で亡霊になったということだ。だから記憶から消え去っているんだろう。いたはず、という事実だけがぽつんとある。
「憶えてない」
吉井さんも同じだろう。
『そうだよね。あそこそういう所だったんだもんね。あんたとその人の名前忘れないように手帳に書いてたんだけどさ。消えてるんだよね、その人の名前だけ。すごいオカルト』
「僕ら助かってよかったね」
『……ねえ、これでいいのかな』
神妙な声。その人のことを忘れたままで、ということだろう。よくないとしたら一体どうしたらいいんだろう。亡霊を助ける方法は知らない。なくした記憶を戻す方法も。あったとしても弱者の庭に行くことができない今の僕にできるだろうか。
「助けられるなら助けた方がいいんだろうけど」
例えばもの凄い努力の結果助けることができるとして、そこまでして助けなければいけない相手なのか。失われた記憶の中でその人と僕が固い絆で結ばれていたとしても僕はそれを思い出すことはできない。しかし本当にそんな間柄ならその人だけ助からなかったのは不自然に思える。僕たちとその人はそれほど仲が良くなかったんじゃないだろうか。
『助けるとかは別として、なんか私すっきりしないの。なにも憶えてないから聞きようがないし、誰も憶えてるわけないし』
それは僕も同じだった。さっきまで忘れていることも忘れていたのに、今は胸騒ぎのようにそわそわしている。
不意に玄関のチャイムが鳴った。一階にいる母が出るだろうと放っておく。
「中川っ!」
怒声。聞き覚えのある声に受話器の向こうでも息を飲む音が聞こえた。松尾の声だ。今まで家にまで押しかけてくることはなかったのに、どうして今なのか。流血事件で学校を休んでいるはずなのに。
「大丈夫」
それだけ告げて通話を切った。受話器はそのままベッドに放り出して一階へ降りる。大丈夫だ。しっかりしていれば相手がなにをしてこようと平気だ。今の僕には味方がいる。味方――僕の味方。誰かが、足りない。
玄関では母がおろおろしていた。松尾は閉まったドアを背もたれに青い顔で、震えているように見える。
「なにか用?」
僕はこれ以上ないくらい平静を装って言った。松尾は僕の目を見る。前に見たような凄みはなかった。怯えている風だ。
「あいつはどこだ。あいつだよ。お前知ってるだろ」
こいつはなにを言っているんだろう。支離滅裂だ。
「誰のこと?」
「お前も他の奴らと同じか! わけわかんねえことばっか言いやがって、流血事件ってなんだよ。俺はけがなんかしてねえし誰にもさせてねえよ!」
松尾は、校舎裏で、事件を起こした。カッターナイフ、流血。流血? 松尾は本人が言う通りけがをしていない。じゃあ誰が流血? そもそも僕はこの話を誰に聞いた?
「目を閉じたらあいつが出てくんだよ。血が止まらねえ! あいつがいない奴ならこれはなんだっつうんだよ!」
松尾は鬼気迫る様子で続ける。冗談や嘘でからかっているようにはとても見えない。
記憶が捻じ曲げられている。弱者の庭によって。その人が存在したとわかるのは弱者の庭について知っているからだ。その人に教わったはずだからだ。なら松尾はどうしてその人を知っているんだろう。松尾は僕をいじめていたグループのリーダーで吉井さんの元恋人だ。その人はどこまで僕たちの人間関係に食い込んでいたんだろう。
「大きな声出さないで、帰って。お願いだから帰って」
呆然としていると母が松尾を追い出しにかかった。僕がいじめられていたことは気づいていたはずなのでそこから誤解しているんだろう。そう誤解でもない。
松尾は母に外へ連れ出された。大声が二つになって余計うるさい。僕は混乱していた。
もしかしてその人は僕にとって重要な人だったんじゃないか? 吉井さんと話したい。子機をベッドの上に置いたままだ。階段を上がる。
ふと、空き部屋に視線がいった。この家に引っ越してきた時とりあえずの荷物置き場にして、運び出し片付いたまま余ってしまった部屋だ。その部屋に、紙切れが落ちている。
近づいてみると学校のプリントだった。裏に住所が書いてあり、ラジオ番組のリクエストコーナー宛と続いている。そうだ、この間曲をリクエストするつもりでラジオ番組の宛先をメモしたんだった。
僕はなにをリクエストするつもりだったんだろう。音楽に興味がないのに。
電話が鳴った。部屋に戻ってベッドの上の子機を取る。出てみると吉井さんだった。
『大丈夫だった?』
いつの間にか外が静かになっている。玄関が開いて閉まる音が聞こえた。松尾は諦めて帰ったんだろう。
「大丈夫……いや、それより」
手の中のメモのことを一瞬忘れていた。記憶が消える。弱者の庭の恐ろしさに戦慄すると同時に僕は確信した。このメモはその人に関係することだ。その人の好きな曲をリクエストしようとしたんだろう。なぜそうしようとしたのかはわからない。
「松尾が憶えてたんだけどその人は流血事件と関係してるみたい」
『ええ? なんで? 間違いじゃない?』
「そんな感じじゃなかった。思い出せなくて苦しんでるみたいだった」
『そう……なんでだろ』
「あと僕ラジオ局にリクエストしようとしたみたいなんだけど、それもその人と関係あるんじゃないかな。僕普段そんなことしないし、しようとも思わないし」
『音楽好きなのかな。ガーデンもそうだよね?』
そうだ。僕と吉井さんがライブハウスに行ったのもその人が絡んでいるんだろう。
商店街のライブハウス、ガーデン。ラジオ局のリクエスト。流血事件。近づいている。なにかが掴めそうだ。けれど足りない。ガーデンといえば今日スカウトが来ると帰り道に見た高校生が言っていた。スカウト、ギタリスト募集。
「……ロッケンロール」
無意識に僕は呟いた。記憶を取り戻すためにその言葉が助けになると直感があった。
『え?』
「ロッケンロール。吉井さん、好きなロックバンドは?」
そこになにかヒントがあるような気がする。
『ロックバンドって、私ロックってそんなに好きじゃないもん。トランスとか、ダンスミュージックが好き』
「……そんなにトリップしたいのか」
『はあ?』
また無意識に出た言葉に不快感を丸出しにした声が返ってきた。そうじゃない、吉井さんに言ったわけじゃない。そう伝えることも忘れて僕はすっきりと冴え渡っていく意識に集中していた。今朝から頭の中にたちこめていた霧が晴れた。敵意のこもった眼差し、憎まれ口。全て思い出した。
「山田先輩」
吉井さんは黙った。彼女も僕と同じではっとしてなかなか言葉が出てこないんだろう。しばらくして長い悲鳴が聞こえた。
『―――ああ、なんで忘れてたんだろ!』
「それが弱者の庭でしょ。それよりも早く、山田先輩を助けないと!」
足が走り出そうとうずうずする。落ち着け、まだなにも決まっていない。
『うん、でもどうやって? 私たちも忘れるくらいだからかなり症状進んでるよね。もしかしたらもう――』
亡霊化しているかもしれない。でもそれならもう思い出せなかったんじゃないだろうか。山田先輩自身もずっと既に亡霊化している誰かについて考えていたのに思い出せなかった。まだ亡霊化していないから思い出せるんだと思いたい。
「今どこにいるんだろう。今日は見てない……と思うけどなにしろ憶えてなかったから」
『それはやっぱり弱者の庭にいるんじゃない? 思い出せたけど、手帳に書いた名前は消えたままだよ。誰も自分のこと知らないんだからどこにもいられないでしょ。弱者の庭にいるから悪化したんじゃないかなとも思うし』
記憶から山田先輩が消えていたのは今朝からだ。それなら昨日の放課後学校を出てから朝までの間に弱者の庭に行ったことになる。なぜそんな時間にと考えてひとつ思い当たって頭を抱えた。僕が行くな行くなとうるさく言ったからかもしれない。それで僕のいない夜に行ったとしたら。
「弱者の庭にいて、忘れられて出られなくなってるのかな」
思い出せた以上助ける方法はきっとあるはずだ。時計を見ると今は夕方四時。記憶から消えて最低でも十時間ほど。手遅れになっていないことを祈るしかない。亡霊にさえなっていなければ助けることはきっとできるはずだ。でなければ思い出した意味がない。
「とにかく学校に行ってくる」
『じゃあ私も行く』
「うん――いや待って! 吉井さんにはしてほしいことがあるんだ。忘れられて亡霊になるんなら、忘れなければならないのかも」
『私たちがしっかり憶えてれば大丈夫なわけ?』
「そうかも。でもそれならもっとたくさんの人に思い出してもらえばいい。今からあちこちに電話して、山田先輩の話をしてほしい」
それは広いネットワークを持っている吉井さんにしかできないことだ。
『わかった。じゃあまずガーデンに電話してみる。終わったら私も学校に行くから――気をつけてね』
慌てた様子で電話は切れた。気をつけてね。最後の言葉でつま先から首まで寒気が走った。そうだ、山田先輩を取り戻すということは弱者の庭と対決するということだ。僕を包み込んだあの場所の仕組みに反抗する。
一階へ降りると母が心配そうな顔をしていた。さっきの松尾のせいだろう。驚いたけれど、僕は松尾に感謝しなければいけない。おかげで山田先輩を思い出せた。
「母さん、山田先輩のことだけど」
「なに? 学校のお友達? 聞いた事あったかしら」
「ほら、そっちの家だよ」
窓のそばに立って山田先輩の家を指す。今日も人のいる様子がない。
「あそこの? なんだかおっかない人が住んでるって聞いたことはあるけど、子供がいるなんて聞いた事ないわよ?」
ついこの間家庭の事情までぺらぺら喋ったのに、忘れている。山田先輩の存在が世間から消えている。ますます弱者の庭が恐ろしく思えてきた。
勇気を奮い立たせて靴のかかとを踏みつけたまま家を飛び出す。すると諦めて帰ったと思っていた松尾が家の前の道路に立っていた。僕を見るなり寄ってくる。構っている時間はない。突き飛ばして尻餅をつかせ叫んだ。
「山田先輩だ! お前に心の傷をつけたのは山田先輩だ。忘れるなって言われただろ!」
ぽかんとして固まった松尾の横を走り抜けた。ここからは時間との勝負だ。一秒でも早く弱者の庭に急ぐ。山田先輩が亡霊化する前に、捻じ曲げられた記憶を不自然に思う人がいなくなる前に。
学校を目指して全力で走りながら心の中でごめんなさいと繰り返した。完全に忘れていた。吉井さんもリビングデッドメンバーの高校生も、松尾ですらうっすら憶えていたのに僕は山田先輩のいない状態になんの疑問も持たなかった。だから僕が助けなければいけない。そんな気持ちで走り続けた。
夕暮れの学校に着いて息も切れ切れに校門を抜ける。まだ部活動もあっているはずなのに奇妙なことに人の気配がしない。静かな学校はどこか不気味だ。カラスの泣き声が山で反響している。無理に走り続けたせいで腿は固く重く体がねじれるくらいわき腹が痛んだ。それでも止まるわけにはいかない。
「山田先輩、山田先輩、山田先輩…」
学校へ着くまでに何度も忘れそうになった。連呼しているのに少しでも注意が他へ行くと急に名前が出てこなくなる。今はどうにか憶えているものの段々思い出すのに時間がかかようになってきた。次が最後かもしれない。不安で粉々になりそうだ。
校庭を横切って下足室ではなく一年校舎の方へ向かった。屋上へ続く階段は外に面しているので校舎に入らなくともそのまま上ることができる。
今の僕が弱者の庭に行ける可能性のある場所。なんならまた飛び降りたっていい。弱者の庭に行く方法がそれしかないなら。
足がもつれて転んでしまった。地面にこすりつけた膝が震えている。もうふらふらだ。弾みで、また、忘れてしまった。僕はなにをしに学校へ来たのか。そうだ、早く屋上へ行かないと。
思い出すついでに地面に強く指をこすりつけ字を書く。
「山田……」
大丈夫。階段はすぐそこだ。あとは屋上へ上って、弱者の庭に行って、山田先輩を連れて帰ればいい。そうして元の日常に戻る。焦っていても心のどこかでそんな風に余裕をもっていた。僕の考えは甘かった。
腕で膝を押して体を起こそうと踏ん張ると自然と足元に目が行く。すると当然さっき地面に書いた名前が見える、はずだった。
無かった。消したような跡もない。なにもなかったように無傷の地面がある。
確かに書いた。指にも土が付いている。吉井さんもメモに書いた名前が消えたと言っていた。こういうことか。なかったことにされる。いなかったことになる。身震いがした。
もうここまで来ている。いくら名前を消されても―――名前、名前。誰の?
「あああああっ!!」
叫んだ。思い出せない。僕はその人を助けるために学校へ来た。屋上に上るつもりだ。そこまで憶えているのに名前が思い出せない。顔も、性格も、その人に関わること全てを忘れてしまった。学校に来た理由すら忘れてしまっていたさっきまでとは違う。もしかして、もう亡霊化してしまったんだろうか。
早く屋上へ。駆け出そうとしたら疲労で腿が上がらずまた転んでしまった。構わない。這いつくばったまま階段へ急ぐ。名前が思い出せなくても弱者の庭にさえ行ければどうにかなる。すがる思いでたどり着くと、屋上への階段は板張りで封鎖されていた。
目の前が暗くなった気がした。膝をついたまま行く手を阻む板に触れて確かめる。しっかりした作りでとても壊せそうにない。
校内ならどこからでも弱者の庭に行ける。死にたいくらい最悪の気分になればどこからでも。諦めてたまるか。
目を閉じてイメージした。その人は僕にとってすごく大事な人だった。この暑いのに必死に走って学校へ来た。吉井さんも今頃片っ端から電話をして相手にとってはわけのわからない話をしているはずだ。どんなに手間をかけても惜しくないくらい大切な人だ。そんな人がいなくなるんだ。最悪だ、最悪なはずだ。
駄目だった。イメージしようにも助けたい人のことがなにもわからない。その人を失うことはとても辛いことのはずでも、今の僕にはその人のいない生活が当たり前の生活だ。その人を入れ込む余地がない。
涙があふれた。絶望的な気分になれない代わりに怒りが沸いてきた。起き上がって枯れたひまわりのある花壇のある庭へ、弱者の庭によく似た場所へと歩く。足に力が入らずどうしてもふらふらしてしまう。
「ちくしょう、変じゃないか。こんな目に遭わせるならどうして会わせたんだ。どうして助けたんだ。弱者の庭? ふざけるな! なんなんだよ、なにがしたいんだよ!」
僕が救われたことにもその人が関わっているかもしれない。だから大事なんだ。その人と出会った弱者の庭がその人を僕から奪ってしまった。わけがわからない。弱者の庭が意思を持ってやったことのように思える。憎くてたまらない。それと同時に自分の力のなさが悲しかった。結局助けられなかったじゃないか。
砂利地に仰向けに寝転がる。これからどうやって過ごしていけばいいんだろう。いつも通りに暮らしていけばいいに決まっている。僕の頭の中にある日常をそのままに過ごせばいい。今日の夜は緒方と遊ぶ約束をしている。元気そうだった吉井さんも誘ったらきっと楽しいだろう。その人がいなくてもなにも問題はない。なにしろその人がいたことを僕はもう憶えていないのだから。
虚しかった。どんなに楽しくても大事なものが欠けていることは明らかだ。救えなかった。涙がこめかみを通って髪に入り込んでいく。夕焼けに染まった空を雲が流れていく。
僕は一体いつまでこんな気持ちでいればいいんだろう。どうせならまた今朝のように忘れていることすら忘れさせてくれたらどんなに楽かわからない。いっそ校舎に頭をぶつけて、頭の中身をぶちまけてその人の記憶を探せたらいい。失敗して死ぬならもうそれでいいじゃないか。
どこからか微かに声が聞こえた。体を起こして見回すと誰もいない。聞いたことのあるような女の声。風に乗って遠くから聞こえてきているんだろうか。誰かの名前を呼んでいる。僕の名前じゃない。それにしても聞き覚えのある声だ。僕はその声が呼ぶ名前を声に出してみた。
「山田………よしお」
吐き気と一緒に記憶が返ってきた。口の中まで上ってきた胃酸の味で意識が冴えていく。諦めてたまるか、山田先輩を助けるんだ。そう思うと体を動かす元気も少し戻った。
風景は変わっていた。枯れたひまわりも校舎の窓もない、弱者の庭だ。しかし様子が違う。暖かな日差しどころか空はどんよりとした雲に覆われ強風が吹き荒れている。とてもピクニックできるような状態じゃない。これが弱者の庭の正体だろうか。
さっきの声はなんだったのかという疑問は置いて強い風に目を細め周囲を見渡した。
校舎の壁、いつもの場所に山田先輩の姿はない。それどころかどこを見ても誰もいない。もう亡霊になってしまったんだろうか。
「ふざけるな! まだ僕が憶えてるぞ! 忘れてたまるか! 絶対に忘れないぞ!」
目をこらして辺りを見る。山田先輩には亡霊が見えていた。弱者の庭に長くいれば見えるようになるらしい。
「山田先輩をお前たちの仲間になんかさせない。させてまるか!」
おかしなものを見た気になって目をこすった。ビニール袋だ。涙のせいかと思えば違って、実際に透明ななにかが宙に浮かんでいた。ただしビニール袋じゃない。強風の中で同じ所に浮かんでいる。見ているうちにそれは数を増やしていった。それぞれ少しずつ大きくなり、白みを帯びていく。
「ひっ――」
悲鳴をあげ転げるようにしてその場から逃げる。透明ななにかは人影の輪郭を作った。全体がはっきりして白い半透明な人影が出来上がると、それはそこら中に出現した。TVでしか見たことのない満員電車くらいの密度でそいつらは立っている。
転げ回って逃げげてもどこにでもそいつらはいる。ゆっくりとした動作で僕に手を伸ばすので必死に逃げ回った。
頭をぶつけて僕はもんどり打った。白い点が飛ぶ視界の中に、人影はない。後頭部を押さえながら立ち上がるとぶつかったのは校舎の壁だった。白い人影は二歩ほど離れた所で一部重なったりしながらずらりと整列していて、近づいて来ようとしない。
亡霊は元々自殺志願者だ。学校が嫌いでも不思議はない。納得しながら、山田先輩がいつも校舎を背もたれにしていた理由にも気がついた。亡霊に絡みつかれるのが嫌だったからだろう。実際生きた心地がしなかった。
冷静になって亡霊を観察してみる。身長や体型は様々な半透明の人影で、見えるのはシルエット程度で顔も輪郭がわずかにわかる程度だ。これだけひしめき合っている中動き回ってもぶつかることはなかった。触ることはできないらしい。向こうからも同じだろう。これだけの数を相手に逃げ切れたとは思えない。
この中に山田先輩がいるんだろうか。どれがそうなのかわからない。山田先輩はいつも自分が忘れてしまった人を捜していたのかもしれない。
亡霊たちの動きに変化があった。校舎と一定の距離で整列していた亡霊たちが退き始める。僕のことを諦めたんだろうか。ほっと息を吐く。
と、退いただけでなく他の亡霊たちも一箇所に集まろうとしていることに気がついた。排水溝に水が流れ込むみたいにすうっと流れていく。その中心には空を見上げている亡霊がいて、他の亡霊たちにまとわりつかれていた。
その亡霊がどうも他の亡霊とは様子が違う。亡霊たちは手が重なったり同じ位置に立ったりするくらいでお互いに触れることはないのにその中心の亡霊だけは触られて腕を引っ張られたりしている。あれが山田先輩じゃないだろうか。そう予感が働いた。生身の人間でも亡霊でもない、まだ亡霊になり切っていない、山田先輩なんじゃないだろうか。
完全に亡霊化していないのならまだ助けられるかもしれない。そう思うと今見ている光景が亡霊化の儀式に思えてきた。止めなくては。
足を踏み出して校舎から一歩離れると亡霊たちは機敏に察知して何人かが僕に向かってきた。怖い。怖いけれど逃げてはいられない。
亡霊の手が僕に伸び、触れることなく僕の腕を通過する。胸に差し込まれる。なんの感触もないものの気持ちが悪い。それでも山田先輩を助けたい一心で前に進んだ。
中心の亡霊は数え切れないほどたくさんの手に撫で回されている。ぞっとする光景だ。この弱者の庭には一体どれだけの数の亡霊がいるんだろう。人と交われない寂しい想いが新しい仲間を求めている。そんな風に見えた。
「山田先輩は渡さない」
一歩進む度に呟いた。僕を標的にする亡霊はどんどん増えていき山田先輩らしき中心の白い影が周りの影に紛れてしまう。強風と直視したくない思いで細めていた目を開いて見失わないように集中した。
中心の亡霊は確かに山田先輩のようだった。近づくと輪郭が他の亡霊よりもはっきりしていて身長やぼさぼさの頭など特徴が見える。今朝から会っていないだけなのに懐かしくて笑みがこぼれた。
手が届く距離になった。間に合った、大丈夫だ。そう思って安心した。ところが突然横から強い力を受けて地面を転がされた。なにが起きたかわからない。痛みは残っていないもののなにかに押されたのは間違いない。そのせいで山田先輩から離れてしまった。
立ち上がってまた山田先輩に近づくと、僕を突き飛ばしたものの正体がわかった。亡霊だ。山田先輩だけでなく僕にも触れるようになっている。まとわりつく感触がしっかりと伝わってくる。ぞっとするほど冷たくて逃げ出したくなった。それぞれの力は弱くてもなにしろ数が多い。山田先輩に近いほど数が増えるので近づくのは困難になった。
向こうから触れるならこちらからも同じだ。だけど僕には対抗する力がない。闇雲に突っ込んでも山田先輩に届く前に止められ押し返される。何度やっても同じだった。
このままだと山田先輩は亡霊になってしまう。僕もあとを追うかもしれない。亡霊が見えるようになって、亡霊に触られるようになった。僕自身にネガティブなイメージがなくても症状は進行しているようだ。あとは白い影になれば山田先輩と状況は同じになる。
もしかしたら僕自身もうここから出られなくなっているかもしれない。そうしたら山田先輩を助けることは不可能だ。確かめている時間はない。出られてもまたここに入れるとも限らない。信じるしかなかった。
「寂しいからって連れてかれちゃ困るんだよ。その人はロックスターになるんだから!」
叫びながら頭から突っ込んだ。また押し返されそうになるのを踏ん張って堪える。白い影をかきわけて進む。喉の奥からわけのわからない叫びが出た。涙も出ていた。
ここで頑張れなければ後悔する。本当は忘れてしまうだろうから後悔もできない。今こんなに心を動かしている僕はいなくなる。もし山田先輩を助けられずに日常に復帰できたとしてもそれは僕だろうか? 山田先輩のいない毎日は本当に日常と言えるだろうか?
「行かせるもんか!」
僕がいる。吉井さんもいる。リビングデッドのメンバーも、ガーデンのオーナーも。山田先輩を必要としている人がいる。夢があってチャンスがあって、それなら僕よりももっと価値があるじゃないか。
「なのにどうしていつまでも死のうとしてるかなあ!!」
もう少しで、もう少しで手が届く。その距離で一歩も前進できなくなった。踏ん張った足が地面を滑って進まない。たくさんの白い影に進路を塞がれ、両手や腰が後ろに引っ張られている。僕に集まる亡霊の数が増え、後ろに引かれる力が強さを増した。でもそれは、山田先輩が少し自由になったということだろう。
「あんたが! 独りで悩んでないで話してくれたら! こんなとこ来てないでバンドに集中してたら! あと手首切るのもやり過ぎだ! 意味がわからない!」
動いてくれ。動いてくれ。きっと声は聞こえるだろう。僕はあなたみたいに声で人の心を動かしたりはできない。でもは今だけは届いてほしい。一緒にここから出て、ガーデンでスカウトが腰を抜かすような演奏を聴かせてやろう。
それでも山田先輩は動かなかった。山田――――山田……。
「…………あれ?」
僕の体にしがみついていた亡霊の力が急に弛んで解放された。僕の胸から亡霊の腕が生えている。また触れなくなったらしい。
変化はそれともうひとつ。なにをしにここへ来たか忘れてしまっていた。いや、なにをしに来たかは憶えている。混乱する記憶を落ち着かせたくて髪をかきむしった。
「決まってるじゃないか、決まってるじゃないか!」
助けに来たんだ。誰を? 思い出せない。でも助けに来たんだ。大事な人だ。もう思い出せないから亡霊は僕から離れたのか? それとも亡霊たちが僕から記憶を奪ったのか?
もう駄目だ。諦めに憑かれて膝をつく。亡霊たちの中から誰かを見つけ出すこともできそうにない。
その時だった。チャイムの音が弱者の庭に鳴り響いた。下校や授業などの時間を区切るためのチャイムじゃない、校内放送の最初と最後でなる鉄琴の音だ。
『あー、あー……聞こえるー? そっちはどう? 絶対帰ってきてよ!』
吉井さんの声だ。放送室にいるんだろう。僕は実際の学校の時間割と同じタイミングで弱者の庭でもチャイムが鳴っているんじゃないかと想像していたけれど違ったらしい。
『あいつと一緒に絶対帰ってきてよ! ―――山田と!』
一点に戻ろうとしていた亡霊たちが一斉に僕を振り返るのがわかった。立ち上がりながら突撃する。全ての亡霊の中心、空を見上げる亡霊に向かって。
後ろから腕を捕まれた。次々に僕の体に亡霊たちがしがみついてくる。空を見上げる彼はそのままだ。もう少し、あと拳ひとつ進めたら手が届く。手首をつかめる。
僕の記憶は戻ったわけじゃなかった。吉井さんの放送で助けようとしている人の名前はわかった。でもそれ以上のことは思い出せない。まっすぐ突撃したのは記憶がなくなる直前まで諦めなかったと思うからだ。きっと目標を正面に捉えていた。その進路上にはひとりだけ空を見上げている亡霊がいて、周りから浮いているそれが助けたい人物だと踏んだ。だから突撃した。
目標まで、あと拳ひとつ。その距離が縮まない。前のめりで手を伸ばしてようやくあと拳ひとつ。それ以上縮まない。
「動けえっ! 離せ!」
左腕は亡霊にがっちり固められている。伸ばした右腕だけは捕まるまいと動かし続けた。向こうから動いてくれたら、と思った時おかしな動きをする亡霊に目が止まった。
それは僕の目の前にいて、一見他と同じく空を見上げている亡霊にまとわりついたり撫で回したりしているように見えた。けれど違う。他の亡霊たちを振り払おうとしている。背格好は僕と同じくらいで、長い髪を三つ編みにした女子だ。
助けようとしている。守っている。そう思えた。僕が助けに来た人物をこの亡霊も助けようとしている。
体が千切れても構わない。そんな覚悟で僕は必死に手を伸ばした。伸ばした手を、そのお下げの亡霊が引っ張ってくれた。本当に体が千切れるんじゃないかという痛みの中で僕は変わった亡霊の手首を掴んだ。温かった。他の亡霊たちとは違う、助かる。
引き離そうとする亡霊たちの力が一層強くなった。空を見上げる亡霊は僕が手首を掴んでいてもなんの反応もしない。その人のことは思い出せないままだ。三つ編みの亡霊が僕にまとわりつく亡霊たちも離そうと頑張ってくれている。
女の子の囁き声が聞こえた。三つ編みの亡霊からだろうか。懸命に訴えているけれど声が小さいのと強風でなにを言っているかわからない。同じ声を何度か聞いた気がする。
目標に手は届いた。相手は半ば亡霊のままでも僕がここを脱出できれば連れ出せるかもしれない。それしか手はない。でもこの状態で前向きなイメージはかなり難しい。体が色んな方向へものすごい力で押されて苦しい。「この人を助けるとハッピー」というイメージも作れなかった。僕はまだ思い出せないでいる。
なにも思い出せない。吉井さんの放送も止まった。体中が痛む。理由はわからないけれど、僕は手首を離せずにいる。三つ編みの亡霊は頑張っている。なにも思い出せない。でも、ここで言うべき言葉はひとつだった。
僕は手首を強く握り直した。
「ロッケンロォォォウル!!!」
カラスの鳴き声が聞こえる。目を開けると空は見事な夕焼け色だ。強風も分厚い雲もない。背中に砂利が刺さって痛かったので体を起こした。手首はまだ握ったままだ。手首の向こうで憮然とした顔が僕を睨んでいる。
「気持ちわりぃから、早く離せよ。痛ぇし」
僕は目の前の人物の名前を呼べることに安心しながら微笑んだ。
「すみません、山田先輩」
「謝るなよ」
花壇では倒れたひまわりが真っ黒に変色している。校舎にはもちろん窓があって亡霊はいない。帰ってきた。
「ありがとな」
てっきり余計なことしやがってと言われると思っていたので少し驚いた。山田先輩は満足げな穏やかな顔をしている。敵意は微塵も感じられない。
弱者の庭で山田先輩を守ろうとしている亡霊がいたことを思い出した。他の亡霊を追い払おうとしたり僕の手を引いたりしてくれた三つ編みの女子。彼女が山田先輩の先に弱者の庭にいた人だと思う。僕にとっての山田先輩というわけだ。ひとつの仮説が立つ。
「また逢えてよかったですね」
「なに言ってんだ……なにニヤけてんだお前」
からかうつもりはないものの山田先輩の言う通り僕の頬はゆるんでいた。僕の考えが正しければからかえるようなことじゃない。
山田先輩はあの三つ編みの女子のことが好きだったんだと思う。意識しなければ楽なのに、ずっと校舎を背にして亡霊たちの中から捜そうとしていた。思い出せない苦痛は僕も味わった。山田先輩の場合はそれがずっとだ。また逢いたいという気持ちと自己嫌悪が山田先輩を弱者の庭へ運んでいたんだろう。
「思い出せたんですよね?」
核心に近すぎたのか山田先輩は驚いた顔をして、それから少し考え込んだ。
「いや……また忘れた。けどもういい。逢えたし、亡霊になりたくねえし」
言い終わる頃には少し笑っていた。気持ちの整理はついたようだ。
どこからか足音が聞こえたかと思うと校舎の角から吉井さんが飛び出してくる。すっかり忘れていた。放送のお礼を言わなければ。あれがなければ助けられなかった。
「あんたたちなにのんびりしてんの!」
僕は驚き山田先輩は舌打ちした。やっと落ち着いたところでどうして怒られるのか。
「今日スカウトでしょ! 急げ!」
山田先輩はばっと立ち上がる。忘れていた。
「おい今何時だ?」
「六時半! 電話して出番あとに回してもらうから早く行け!」
学校から商店街までなら三十分もあれば充分間に合うけれど単に着けばいいわけではなくて準備がある。その辺のことは僕にはわからなくても時間に余裕がないのは山田先輩の様子を見ていればわかった。
「お前来なくていいだろ! 今日はありがとな!」
「いえ、僕も行きます!」
吉井さんを置いて駆け出し、揃って校門を走り抜ける。なにかの部活の顧問なのか、校舎の窓から体育教師が怒鳴っていた。私服で用もないのに学校にいることを咎める叫びはちゃんと山田先輩にも向けられていて、今だけはそれにも安心できる。地面に書いた「山田」も復活していた。
僕のペースはとても遅かった。学校へ来る時も走って来ていたので体力はそろそろ限界だ。山田先輩は少し元気だけれど、商店街に着いた時に演奏をする体力は残るだろうか。
道の脇に停められている原付に目がいった。
「山田先輩、ちょっと待ってください! それ、その原付」
「なんだよ。よくあるカブじゃねえか」
なぜ野菜の名前が出るのかはよくわからない。息が乱れて言葉が出ないので差しっぱなしになっている鍵を指差した。
「お前、自分がなにしようとしてるかわかってんのか」
「ちょっと、借りるだけですって」
山田先輩の将来の方がずっと大事だ。それに比べたら良心やその後のトラブルなんて些細な問題に過ぎない。
「……行き先はわかってるけどな」
「なに言ってるんですか? それより早く―――」
後ろから突然のクラクション。同じ音を前にも困っている時に聞いたことがあった。
「極悪人にならなくてもいいみたいだな」
振り返ると軽トラックが道の凹凸で細かく弾みながら走ってきていた。助手席の窓から吉井さんが手を振っていて、車の正面には「緒方酒店」とある。
僕は気が抜けて尻餅をつき、友達っていいなあなんてことを真面目に考えた。
結局のところバンドリビングデッドはその日スカウトマンに演奏を聞かせることはできなかった。ライブハウスガーデンでは当日リビングデッドの出演自体なかったからだ。山田先輩の記憶が皆に戻った時にはもう他のバンドで予定が組まれていて、ベースとドラムの二人もかなり遅れて現れた。
山田先輩がベースとドラムのふたりにライブジャックというやつをしようと持ちかけたせいでオーナーに叩き出されてからは皆でカラオケボックスに移って大騒ぎした。リビングデッドメンバーに僕と吉井さんと緒方。
緒方とは遊ぶ約束をしていたけれどこれでよかったらしく山田先輩と英語の歌で盛り上がっていた。僕は照れながら憶えのあるフォークソングを歌い、吉井さんがなにか流行りの歌を歌うと山田先輩がしつこくブーイングを浴びせ続けた。
吉井さんの勧めで途中家に電話すると母が出て、友達と遊んでいて遅くなると言うと嬉しそうにされてむず痒かった。
その辺りから記憶が飛んでいる。頭痛に顔をしかめがら起き上がると背中から砂が落ちた。砂浜だ。目の前で波が打ち寄せている。時間はわからないけれど空はまだ明るくなったばかりのようだ。
振り返ると緒方酒店の車が浜辺まで入り込んでいて緒方は運転席で、リビングデッドメンバーは空の荷台で眠っていた。浜辺へ来たことはないけれどここは確か埋立地区にあたる所だ。内海なので波は穏やかだが、満ち潮に飲まれなくて本当によかった。
「あ、起きてる」
薄着の吉井さんがガードレールをまたいで道路から浜辺へ降りてきた。浜辺に転がる節のある草をパキパキ踏み鳴らして近づいてくる。手に人数分の炭酸飲料を持っていた。僕に渡されたのはもちろんオレンジ味だ。
「昨日凄かったね」
「いやそれが、ほとんど憶えてなくて」
誰かが頼んだらしいアルコールが運ばれてきたような気がする。
「あ……そっか、ごめんね」
どうして吉井さんが謝るのかという疑問は頭痛にごまかされた。
「あれ、昨日と服装違わない?」
僕は気分に合ったひどい顔をしていると思う。それなのに吉井さんはシャワーでも浴びたあとのような爽やかさで髪もサラサラだ。
「ここから家近いから帰ってた」
吉井さんが指差す。そういえば対岸の埋立地区に吉井さんの家はあった。
「そうだ。昨日校内放送使ってくれてありがとう。あれがなかったら無理だった」
「あそこチャイム聞こえてたから、放送使えば応援できるんじゃないかって思って。全然活動してないけど私放送部なのよね。鍵の場所知っててよかった」
そういえば僕もまるで活動していないけれど園芸部だ。花壇を花で一杯にすれば弱者の庭にもなにか影響があるだろうか。自分への慰めにしかならないとしてもやってみよう。亡霊たちのためになにかしたい。少し違っていれば僕も混ざっていた仲間たち。
「ねえ、休み時間とかに音楽流してもあそこに聴こえるんだよね」
吉井さんと海を眺めながら、どうやら僕たちは同じことを考えているらしかった。
しばらくして全員が起きると寝不足でだらだらとした会話があってすぐに解散した。山田先輩はメンバーの家に行ったので僕だけでふらふらしながら家に戻った。
家に帰ると玄関に母がいた。ひょっとすると寝ずに待っていたのかもしれない。なのに一言も叱られなかった。だから余計に悪いことをしたと反省する。
家族三人揃って食卓に並んだ。日曜の朝は寝ていて朝食を取らなくなって随分になるのでこんな風に家族とゆっくり朝食を食べるのはかなり久しぶりだ。今日は父も用事がないらしく新聞を読んでいる。
静かに食事をしながら僕はあることを考えていた。僕が空き部屋で拾ったラジオ番組のリクエスト宛先メモについてだ。吉井さんがメモ帳に書いていた山田先輩の名前はあの時点で消えていたのに、あのメモは消えなかった。本当なら山田先輩の歌をリクエストしようとしてメモしたのだから、消えた方が自然だ。なのにメモは消えずに空き部屋に落ちていた。そもそもどうして空き部屋にあったのか。ハガキを探しに一階へ降りた時に持っていたかは憶えていないけれど、少なくとも空き部屋に落ちている理由はわからない。
「どうしたの?」
「二階の空き部屋……なんでもない」
母に聞かれ、深く考え込んでいたせいで反射的に返事が出かかった。母の知らない事情に関わるあやふやな疑問を言ったところでわかってはもらえない。
「そうそう。あなた、あの空き部屋私が使ってもいいかしら?」
話題を振られ、父は眉を寄せた。
「部屋って、なにに使うんだ」
「アイロンがけや裁縫をする部屋があったら便利かなって」
「いいんじゃない? どうせ使ってないんだから」
母個人のスペースがないことを思い出して賛成した。余程意外だったらしくとても驚いた顔をされる。
「いいだろう。なにか運ぶものがあるなら手伝うから、今日中に済ませてしまおう。たかし、お前も手伝いなさい」
「別にいいけど」
母は顔を輝かせて父と僕に礼を言ってから、首を傾げた。
「でも、あの部屋どうして空いてるんだったっけ」
「なにを言ってるんだ。引越しの時取り合えずの倉庫にして、荷物を運び出したら空になったからそのままにしてあるんだろ」
父は僕と同じ意見を言った。父が答えなかったら同じことを僕が言っただろう。
母は四人掛けの空いた椅子を見ながら続けた。
「変ね、うちって――三人家族だったかしら?」
<リビングデッド アンコールへ続く>
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リビングデッド 弱者の庭 福本丸太 @sifu
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