リビングデッド 死んでいても動き出すような情熱/後

「あー、うんそういうこと。間違いじゃないよ」

 弱者の庭で校舎を背に座り吉井さんの話を黙って聞いた。山田先輩はいつもこうして庭全体を眺めている。その眼に見えるはずのたくさんの亡霊を前に、なにを思うのか。

 朝一番に弱者の庭に来てみたら吉井さんが先に来ていた。山田先輩の家庭の事情について聞くと当たり前のように知っていて、母から聞いた話を肯定した。

「なんかお母さんかなり若いらしいよ。ヤンママってやつね。ヤンキーとヤングのダブルミーニングで」

「離婚の原因はなんなんだろ」

「音楽性の違いじゃない? ……ってそんな顔しないでよ悪かったわよ変な冗談言って」

 発言を視線で咎めると吉井さんは口を尖らせた。小声で「冗談なのに」と続く。

「でもまあ。家庭の事情なんて私ら子供が気にするもんじゃないんじゃない?」

「それこそなんか大人の言うことみたいだよ」

 山田先輩絶望はそれで決まりだろうか。なんだか腑に落ちない。

 朝のホームルームの開始を告げるチャイムが聴こえてきた。このチャイムだけがここ弱者の庭と現実を繋いでいる。本物の校舎からここまで音が届いているというより同じタイミングで弱者の庭でもチャイムが鳴っていると考えた方がいいのかもしれない。

 急いで移動した教室でホームルーム後に担任から呼ばれ廊下に出る。松尾たちが教師に話したとは思えないけれど乱闘の件が伝わっているかもしれない。心で身構える。

「最近どうだ?」

 なぜこの男はそんな馬鹿な質問をするんだろう。毎日顔を合わせているのに、いっそ普段全然見ていないと告白していると受け取っていいんだろうか。疑問は押し隠した。

「変わりありません」

「警察署に呼ばれたりもしたんだろ?」

 警察には二度証人として協力を求められた。一度目は当日日曜日の夜、逃走した犯人の特徴を聞きに刑事が家まで来た。ただその場にいただけの証人が顔をぼこぼこに腫らしているので驚かれ一瞬たじろいでからけがの原因と事件当時の様子を尋ねられた。最後にコンビニの監視カメラの映像をプリントアウトしたものを見せ同一人物か聞かれた。画像はフルフェイスヘルメットを被った男がレジの店員に包丁を突きつけているものと、逃走しようとしている背中の二枚。二枚目が僕の記憶と一致した。僕は背中しか見ていない。コンビニ強盗と山田先輩を刺した犯人が完全に重なったのはこの時だろう。

 二度目は翌月曜の夜母につきそわれ警察署に出頭した。あっさり自首してきた犯人の確認をするためだ。犯行当時と同じ格好でヘルメットまで被った背中を見て僕は頷いた。

 実際本人が認めているとはいえ、それを肯定すると僕が裁かれる人をひとり作ってしまったようで気が重い。

 現場検証を求められた時ショックを受けるといけないからと母が勝手に断ったことを思い出し、教師がなにを目的として僕を廊下に連れ出したのかわかった気がした。

「トラウマが心配ですか?」

「なに?」

 教師は目をむいて驚いた。落ち着くまで待つ気はない。

「そういう心配はいりませんから」

 半年ほったらかしで今更気遣いはいらない。助けを必要としているのは僕じゃない。

「そうか……それならいいんだが」

 案外あっさり引き下がった。回りくどい。本題は別にあるに違いなかった。

「お前、緒方智也と仲良いよな? あいつよくけがしてるんだが、なにかあったのか?」

 表情を変えずに心で教師を睨む。最近僕が緒方とよくいるようになったことに気づくなら、緒方が誰と一緒にいる時間が減ったかもわかるだろう。誰が原因かくらいわかるだろう。はっきり言葉で聞くまでそうやってわからない振りをするのか。黙っていては助けてくれないのか。

「知りません」

 そうだ。知ったことか。

「ならいいんだ……戻っていいぞ」

「……あっ、先生!」

 残念そうな顔をして振り返り歩き出した教師を呼び止めた。

「山田先輩のことなんですけど」

「なんだ、やっぱりお前ら付き合いあるのか。やめとけ、悪い影響受けるぞ」

 じれったかった。山田先輩が死にたがっている理由を知っていますか? そう聞けたらどれだけ楽か。

「あいつになにかされてるのか?」

「そういうんじゃないです」

 乱闘で負ったけがについては山田先輩と殴りあったことになっている。二人で取っ組み合いをして山田先輩は川に落ちた。ちょっとしたいさかいから殴り合うことにはなったけれどそれで僕らは友情で結ばれたのだと、無理はあるけれどそういうことになっている。

「無理やりつき合わされてるんでないなら、他の友達と遊んだ方がいいぞ」

 僕が馬鹿だった。この教師は山田先輩のことも僕のこともまるで理解していない。

「もう教室入ってろ。すぐ授業始まるぞ」

 唾を吐きたくなる衝動を堪えて教室に戻る。席について花壇側の窓の外を見るとひまわりが枯れて茶色くなっていた。季節は過ぎる。あと戻りはできない。山田先輩が消えてしまう前になんとかしなくては。吉井さんと相談すれば良い考えは浮かぶだろうか。


 放課後、吉井さんに相談するつもりで弱者の庭に移動した。山田先輩が定位置にいなかったのでほっとする。いない方が都合が良い。吉井さんはいた。僕に気がつくと走り寄ってきて、掴みかかるような勢いで顔がかなり接近したので心臓が跳ね上がる。けれど吉井さんの目からぽろぽろと零れ落ちる涙を見た瞬間、高鳴っている鼓動は意味が変わった。締めつけられるように痛む。

「お願い、助けて、助けて!」

「落ち着いて! なにがあったの?」

「けがだらけなのに、私庇って連れてかれちゃった。お願い助けて」

 けがだらけで吉井さんをかばいそうな人間はひとりしか思い当たらない。

「緒方? 緒方のこと?」

 吉井さんは頷く。誰が連れて行ったかは聞くまでもない。緒方は僕が構われなくなった分も背負っている。でもそれだけなら吉井さんも知っているはずなのでここまで取り乱したりはしない。山田先輩のことを相談している場合じゃなくなった。

「わかった。任せて。吉井さんはここにいて」

「でも私も」

「いいから、ここにいて」

 松尾が吉井さんに紳士的に振る舞うとは思えない。それに僕自身の無様な姿も見られたくない。今の吉井さんの精神状態ならここから自力では出られないので放って置いても心配はないはずだ。ひとりにしておくのは気が引けるが仕方がない。

 幸福のイメージをして弱者の庭を出た。吉井さんが笑顔に戻ること。それが今の僕の幸せだ。誰にも見られないようになんて配慮は捨てて、校舎裏を移動先に選んだ。いきなり幅の狭い校舎裏に出現した僕を見て松尾の子分たちは驚いている。僕の予想は正しかった。やはり奴らで、ここだった。

「見張りはなにしてんだよぉ!」

 松尾が僕に気づいて怒鳴った。ここにいない見張りではなく、明らかに僕に向かって怒鳴っている。そんな威嚇に負けはしない。と思っても手足が硬直した。心臓がいつもより深い位置にある気がして、軽くめまいもする。

 松尾は倒れてぐったりしている緒方の髪をつかんで首を持ち上げていた。意識がないのか動かず、顔中血で汚れていた。多分鼻血だ。あれは僕だな。そんな風に思う。

 緒方は加害者の輪に加わったこともあればさりげなく暴行が終わる方向へもっていったりもしていた。僕はそいつを助けようとしている。馬鹿かもしれない。でも彼を憎みきれないのも事実だ。

「は、離してあげなよ」

「あぁ? なんだよお前が代わってやるのか?」

 続く言葉が出てこない。腕の内側が痺れる。緒方と同じ目に遭うと考えるとぞっとした。この間の乱闘の時と同じだ。子分たちだって本気で松尾を助けようとしないことはわかっている。僕の時とは違って今は対象が身内なだけに手を出しにくいだろう。今の松尾の行動に全員が賛同しているとも思えない。

「離してあげなよ」

 さっきよりも若干声の震えを抑えられた。緒方を見る。気がついたらしく痛みに顔をしかめている。そんなに余裕のない状態なのに、その目は僕を心配している。

「もうやめなよ。問題になるよ」

「うるせえ、邪魔だからどっか行ってろ! 誰にも言うなよ」

 なにも変わっていない。僕が逆らったからといってこの男はなにも変わらない。反省もしなければ懲りてもいない。恐いことも事実だけれど、むかむかしてくる。どうしてこんな奴のために吉井さんは傷つかなければいけないんだろう。腹の底から熱いものがこみ上げてくる。

 こいつは本当の本当に悪党だ。吉井さんがあんなに苦しんでいるのも、僕が反抗したこともこいつには意味のないことだった。今もこうして緒方を痛めつけることで吉井さんを苦しめている。言葉じゃわからないのか? 死なないといけないのはお前じゃないのか? 死んだ方がいいんじゃないか?

 手足の震えは止まった。もう悲しみにも怒りにも震える必要はない。こんな奴に我慢はいらない。

 そこから先はよく憶えていない。気がつけば石ころがクローズアップされている視界に白い点が飛んでいた。倒れていて頬に擦り傷ができている。

「あれだけやられてまだ懲りねえのかてめえは!」

 それはお前だろと心で呟く。背中を踏まれて口からはうめき声しか出ない。首だけ動かして見上げると松尾は鼻血を出していた。息が上がっていてかなり興奮している。僕は善戦したようだ。

「懲りねえのはてめえだよ」

 誰かが僕の気持ちを代弁してくれた。声のした方を見ると山田先輩がいた。いつもの不機嫌な目つきに敵意を乗せて、後ろ手に吉井さんを連れている。

 どうして連れて来たりしたんだ。放っておけば自力で出ることはできなかったのに。こんな現場を見せても苦しむだけなのに。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 吉井さんは泣きながら誰に向けてでもなく同じ言葉を繰り返す。混乱しているらしくいきなり悲鳴をあげ、振り払ったのか山田先輩が手を離したのかよろけて僕の方へ倒れこんできた。不安と恐怖で落ち着きをなくした目からぽろぽろと涙がこぼれて顔にかかる。頬の傷口よりも熱く、痛かった。

「どいつもこいつも、てめえのケツはてめえで拭けってんだ」

 吉井さんを見下ろして山田先輩が冷たく言う。今更その言葉通り冷たい人間だとは思わないけれどなにを考えているのかわからない。

「センパイは関係ねーからすっこんでてもらえません? 兄貴呼んできましょうか?」

 松尾がふざけた調子で言う。山田先輩が時々殴られていると言ったのは緒方だ。山田先輩が自分の兄と乱闘したことも当然知っているはずだ。

 山田先輩は怯まなかった。というかそのことには反応らしいものを見せなかった。

「てめえのせいでこっちは迷惑してるんだよ。二人も押しかけてきやがって、どっちも原因はてめえじゃねえか」

「あ? なに言ってっかわかんねーんですけど」

 山田先輩は松尾の胸ぐらを掴んで校舎の壁に押しつけた。色めきたつ手下を一喝して退け、額がぶつかるほど松尾に顔を近づける。その場の誰もが得体の知れない迫力に圧されていた。こんなに真剣に怒る人を見るのは初めてだ。

「人は自分が傷つかねえと痛みがわからねえらしいぞ」

「だからなに言って――」

「だから、お前も傷つけ」

 山田先輩は片手をポケットに突っ込んでピンク色のカッターナイフを取り出した。体育館裏で拾った、吉井さんが使ったカッターナイフだ。カチカチと音がして無感情な刃が覗く。吉井さんが息を吸い込む音が聞こえた。

 声を上げる間もなく鮮血が飛んだ。吉井さんの悲しみに満ちた高音が響く。僕は目を疑った。血しぶきを上げているのは松尾の喉じゃなく、松雄の胸倉を掴む山田先輩の手首だった。山田先輩の目つきは確かで、手元が狂ったわけではなさそうだ。血を浴びる松尾は目を見開いて硬直している。

「お前にトラウマをくれてやる。思い出せ。目を覚ました時、飯食う時、寝る時、楽しい時、寂しい時、思い出せよ忘れんじゃねえぞ」

 真っ赤な血が噴水のように吹き上がる。赤く染まっていく景色の中ではリストカットは死ににくいなんて知識はまるで説得力を持たなかった。実感できるのは吉井さんの叫び声と飛び散る赤広がる赤。これだけ出血して死なないはずがない。

 ひとり動いたのをきっかけにして子分たちは情けない声をあげて逃げ出した。血しぶきを上げながら凄む山田先輩と歯を打ち鳴らして震える松尾を囲んで僕と緒方は肉体的に、吉井さんは精神的なショックでへたり込んでいる。

「おい、やばいぞ」

 緒方の声で我に返る。このままだと山田先輩が危ない。色々と救ってくれたこの人を死なせるわけにはいかない。助ける。

 立ち上がると足首に激痛が走った。捻挫しているようだ。これでは速く動けない。緒方は立ち上がれないらしく地面でもがいている。

「吉井さん救急車呼んで!」

「えっ?」

「携帯電話あるでしょ、それから先生呼んできて。早く!」

「そうね……うん、そう。わかった!」

 ようやく正気に戻った吉井さんは携帯電話を片手に校舎裏を飛び出していった。教師に頼らなければいけないのが悔しい。かといってどう行動していいのかわからない。思いつくのは救急車を呼ぶことと、あとは応急処置、止血だ。

 捻挫した足をかばって片足で跳ねて山田先輩に近づく。吹き出す血の勢いはさっきよりも弱まっているような気がした。血の全体量が減ったからではなくて白血球が頑張っているからだと思いたい。

「手を上に挙げて!」

 傷口を心臓より高い位置に動かせば出血は減ると聞いたことがある。山田先輩は松尾のえり首を離して素直に両手を挙げ、僕は知識が正しかったことを自分の目で確かめた。血はほとばしるのをやめて腕を伝い垂れ始めている。ハンカチで肩口近くを強く縛った。痛んだらしく山田先輩の顔が歪んだけれどそんなことには構っていられない。

 他にはなにか、と考えを巡らせていると尻もちをついている血まみれの松尾が目に入った。なにかを呟いているのかと思ったら唇が大きく震えているだけで、目は焦点が定まっていない。山田先輩が見せた光景はそう簡単には松尾の心から消えないだろう。いい気味だ、とすら思う。もっと苦しんでもっと考えろ。

 山田先輩は目がうつろで顔色が悪くまるで死相が出ているかのようだ。死なせてたまるか。一秒でも早く救急車に乗ってもらうために校門か駐車場まで移動しようと提案すると山田先輩はこれも素直に従ってくれた。一言の反論もないので少し気持ち悪い。

「俺死ぬかもしんねー」

 弱音まで出た。こんなのはらしくない。

「なに言ってるんですか。自分でやったんじゃないですか、馬鹿なことして」

「自殺とか麻薬とか離婚とかに憧れはねえんだけどな。確かに多くのロッケンローラーはそんな風な人生だけどそもそもそういうのがロッケンロールってわけじゃねえんだよ。たまたまそういう形になっているっていうだけで、なんつーか変化しやすい魂の形っていうかよ、なんつーかよう」

「そういう話はあとで聞きますから」

「あとがねえかもしんねえだろ。チクショー俺死ぬのかなあ」

「絶対死なせません」

 これまで見てきた山田先輩とはかなり違う言動に少し動揺しながら出血に注意して進む。素直過ぎて両手を挙げていたので無事な右手は下ろしてもらった。ロッケンロールについての講釈は続いている。余裕があるのかないのかよくわからない。

 もしかしたら本当は死にたくてあんなことをしたんじゃないかという疑問は消える。入院中助けたことを責められ、死ぬことを望んでいるからこそ弱者の庭に行ける。自分で手首をかき切って、今は止血を受け入れて救急車に乗るために歩いている。本当は生きたいんだ。死にたくないんだ。どんなに追い詰められても死ぬことに納得なんてできなかった。山田先輩も同じだ。なのにどうしてこんなことになるんだろう。

「なに泣いてんだ。気持ちわりぃぞ」

 言われて気づいた涙を拭って血が止まらない傷口を見つめた。矛盾しながらこんなにも生きようとしている山田先輩を追い詰めているものが心底憎かった。


 山田先輩は迎えに来た救急車に乗り、前にも見た気の小さそうな担任の眼鏡教師が同乗して病院へ出発した。校門付近はまだ残っていた生徒で大騒ぎになっている。騒いでいる生徒もそれを散らせようとしている教師も、山田先輩が弱者の庭に消えたら忘れてしまうんだろうか。いずれは僕のことも吉井さんのことも。寂しい気持ちで騒ぎを眺めた。

 人だかりがばらけて随分静かになった時職員室へ行くよう教師に言われた。事情を把握するために話を聞きたいんだろう。けれど僕は話すつもりがない。

「一体なにがあったんだ?」

 事実を包み隠さず話したら卒倒するかもしれない。お前らが野放しにしている馬鹿が女生徒を性の玩具にしていたことが原因ですよ。

 応接室のソファーに座らせられ、五人の教師に囲まれる。正面にはヤクザみたいな風体の体育教師。皆切羽詰った顔をしている。

「教えてくれ中川。お前巻き込まれたんだろ? なにがあったんだ?」

 トラブルを引き起こすような生徒じゃない。印象のままにそう思ったんだろう。でも僕は最初から中にいて、いくつかの問題が交差してこうなった。弱者の庭を知らない、それも大人になにを言っても無意味な気がした。矛盾する生への渇望なんて誰も理解してくれないだろう。死にたいけれど生きたい。本当のことだ。

「ったく、妙なことしやがって」

 目の前の体育教師が小指で耳をほじりながらそう吐き捨てた。この騒動がただ面倒なだけといった素振りだ。僕は思わず立ち上がって睨みつけた。そういう無関心が泣く人を増やすんだ。さっき松尾に感じたよりも強い怒りが胸に満ちている。

「なんだその目は。まるでアイツだな」

 山田先輩のことだ。反射的にそう思った。彼を追い詰めているものの中にきっとこの男も含まれている。なら敵だ。僕にとっても。

 突然ドアが開いて緒方が入ってきた。血が付いたからだろう、ジャージに着替えている。どういう心境なのか手当てだらけの顔で笑っていた。

「いやーびっくりしたよなあ中川。ありえねえよなあ、あんな失敗」

 教師一同が目を丸くする。山田先輩と松尾がもみ合って切りつけたと思っているのは間違いないだろう。緒方は嘘で誤魔化すつもりらしい。うまくいくとは思えない。けれど僕に考えがあるわけじゃないので成り行きに任せた。

「どういうことだ?」

 緒方はにやにやしながら続ける。

「どういうって先生、手首切ったんすよ。鉛筆削っててうっかり。いやーありえねー」

 へらへら笑ったまま近づいてきて僕の腕を掴んだ。反射的に体が硬直する。けれど緒方が急に真剣な目つきで訴えかけてきた。信じてくれ、そう言われているように思えて引っぱられるまま応接室を出た。教師たちは唖然としている。

「鉛筆って……馬鹿お前そんなわけあるか。戻れ!」

 体育教師が応接室から顔を出して怒鳴る。振り返った緒方はまた軽い笑顔に戻っていた。廊下へ急ぐ足は止まらない。捻挫した足が痛む。

「いやもう先生勘弁してくださいよ。俺はいいけどこいつショック受けてるからさあ」

 職員室中の視線を集めたまま廊下に出た。追ってくる様子はない。緒方についてしばらく廊下を歩いた。一年生の校舎に向かっている。掴んでいる腕をなかなか離さないので立ち止まって強引に振り払った。

「ああ、スマン。悪かった」

 緒方は深く頭を下げた。腕を掴んだことに対する謝罪じゃないのは明らかだ。同級生にする礼とは思えないほど深い。

「なに?」

 意表を突かれてそれしか言えなかった。

「松尾に聞いた。あいつは最低だ。みかちゃんがどんなに辛い思いしたか……お前みかちゃんのために闘ってくれたんだな、ありがとう」

「なんであんたが謝るのさ」

「松尾がそこまでとは思ってなかった。のんびり更正するの待ってた。だから謝る」

「あんた一体……あいつのために何回謝るつもりだよ」

 山田先輩を校舎裏から連れ出す時、緒方は血まみれの松尾にすがりついて泣いていた。頼むからまともになってくれ。そう繰り返していた。

 更正すると信じていた友達が極悪人だったと知り、その友達にぼこぼこにされてもこうして代わりに頭を下げている。どうかしているとしか思えない。それに僕がいじめられていた時はのんびり待っていたというのも納得できない。

 潔さは逆に悪いのは全部あいつ、と言っているように思えて怒りがわく。努めてその感情を消すよう意識した。今はそのことに構う余裕がない。

「謝るなら僕じゃなく吉井さんにして。……それにしても鉛筆削ってた、って最悪な言い訳だよね。信じるわけないよ」

「カッターの怒られない使い方ってそれしか思いつかなくてよ」

 顔を上げた緒方は不満そうな顔をしていた。確かに僕ではできても教師に食ってかかるくらいのものだっただろう。緒方が来なければ余計なことを言っていたかもしれない。

「本当のこと言ったって傷つくだけで誰も納得しないと思うんだ」

 その意見には賛成だ。特に吉井さんが可哀想だ。

「あの人、山田先輩だっけ?」

 問われたので頷く。

「よくあんなことできたよな。……攻撃としちゃ凶悪だよな。相手血まみれにしといて、加害者にならないんだから。ひでえけど、すげえよ」

 僕はなにも言わなかった。松尾のように殴ってもわからないタイプには有効だったかもしれない。でも山田先輩の命が危なくなっている今、感想を言う気にはなれなかった。

 緒方が急に一点を見つめた。憐れむような眼差しはすぐそばの保健室に注がれていた。多分中に松尾がいるんだろう。

「これからどうなるかはわかんねえけど、今までと同じにはならないしさせねえよ」

 今日の騒動の中でひとつ良かったことは緒方が吉井さんの味方についてくれたことだ。弱者の庭以外での場所ならきっと守ってくれる。そう思える頼もしさが感じられた。吉井さんには助けが必要で、緒方は吉井さんを助けてくれる。緒方を許す気にはなれない僕は複雑な心境だ。

「あの人よくためらわずにあんなことできたよなあ」

 それは多分生きたいけれど死にたいからだ。そう思いはしても想像できなかった。吉井さんの場合はできたのに、実際に見たはずが山田先輩がカッターナイフで自殺しようとしている状態がイメージができない。

 保健室前で緒方と別れて廊下の角に身を隠すとすぐ弱者の庭に移動した。校舎裏を飛び出してから吉井さんを見ていない。間違いなく弱者の庭にいる。山田先輩の死を想像しての移動だったので自己嫌悪に陥った。

 吉井さんはしゃがみ込み声をあげて泣いていた。山田先輩が与えた心の傷は松尾だけに与えられたわけじゃなかった。友達が手首を切り、恋人がその血を浴びた吉井さんが最もダメージは深刻かもしれない。

 僕は、僕はどうしてこんなに平気でいられるんだろうか。喉が裂けそうなほど声を振り絞って泣いている吉井さんはきっと正常だ。それなら血を流している友達を目の前にして二度も応急処置なんてしている僕は異常なんだろうか。吉井さんが苦しんで泣いているのに、そんな疑問にぶつかって途方に暮れてしまった。

「あいつ……大丈夫なの?」

 しゃくりあげる呼吸に言葉が混じる。そう言った方がいいくらい吉井さんの喋り方は不安定だった。顔を隠す交差した腕を伝い肘からぽたぽたと雫が落ちている。

「病院に行ったよ。吉井さんが呼んでくれた救急車で。だからもう大丈夫。ありがとう」

 自己嫌悪はあとでいい。今は吉井さんの応急処置をしないといけない。近づいてハンカチを渡そうと思ったけれど、山田先輩の止血に使ったのでもうなかった。ポケットティッシュを渡すか迷っているうちに吉井さんがポケットから次々にハンカチを取り出して僕に渡した。どれも見覚えがある。貸していたハンカチだ。

 使用中の一枚は吉井さんの自前らしい。掌に詰まれたハンカチを収まりそうもないポケットに無理やり突っ込むとズボンのポケットはたちまち膨らんでしまった。これを全部差し出したとしても足りないくらいの涙が流れ、今も止まらない。

 かけるべき言葉が見つからなかった。吉井さんは僕と違って松尾にざまあみろとは思っていないだろう。松尾が心に傷を負ったことと、山田先輩があんなことになった両方に責任を感じて苦しんでいる。

 黙って吉井さんの隣に座り込んだ。僕は無力だ。

 長い時間をかけて自力で泣きやんだ吉井さんが顔を上げる。錆びついた表情でなにを見るでもなく虚空を見る。その視線が恐かった。僕にはただ前を見ている風にしか見えないけれど、その目にこの庭にいるという亡霊の姿が映っているように思える。

 絶望が深くなっている今一日早く来ただけの僕よりも進行して忘れられ消え去る時が近づいているんじゃないだろうか。そう思うと恐くなった。いや、恐さを思い出した。慣れて鈍感になっていたけれど、ここ弱者の庭は元々人の存在を消してしまう恐ろしい所だ。

 吉井さんの腕を掴む。一秒でもここにいてはいけない。驚く顔はひとまず放っておいて脱出するために幸せなイメージを持とうとした。うまくいかない。気ばかり焦ってなにも思いつかない。浮かぶのは山田先輩も吉井さんも消えて悲しむこともできず弱者の庭で首を傾げる自分。脂汗が出た。こうしている間にも見えない毒が体に染み込んでいるような気がして目まいがする。

「どうしたの? 顔色悪いよ」

 心配そうな声。涙があふれた。人のことを気づかっていられるような心境じゃないのに。こんなに優しいのにたくさん傷ついて、亡霊の仲間入りなんて絶対にさせない。

「生きたい! 僕らは生きたいんだ!」

 力の限り叫んだ。ここにいるはずの生きることを続けられなかった亡霊に、弱者の庭を支配するなにかに対して。

 誰が先でもあとでもその後どうなるか考えると辛い。忘れるのも忘れられるのも考えるだけで苦しい。今まで生きていたことを否定されるようだ。

「わかってるよ。私も生きたい」

 吉井さんが僕の叫びに答えてくれた。無意識に閉じていた目を開くと、僕らは教室にいた。僕の教室だ。出られてほっとする。窓の外、弱者の庭とよく似た場所を見ると日が沈み外は暗くなっていた。既に六時を回っている。まだ夏だと思っていたけれど日没は随分早くなっている。

 僕らは遅い下校をした。下足室の扉は閉まっていたので教室の窓から出て校門に向かう。校門といっても学校の出入り口なのでそう呼ばれているだけで門もなにもないのでこんな時間でも難なく通り抜けられた。

 学校周辺は車もほとんど通らず民家もまばらなのですごく静かだ。街灯が少ないせいで道はかなり暗く、吉井さんをひとりで帰すのは心配になった。もう少しそばにいた方がいい、いたいという気持ちもある。

 送っていくと言うと吉井さんは素直に頷いて「ありがとう」と返事をした。今は落ち着いて見えても、さっきまであんなに大きな声で泣いていたくらいだからこんなに暗い帰り道をでひとりでいたいわけがない。

 吉井さんの家は僕の家とは逆方向、商店街の向こうにある、はずだ。ライブと見舞いの帰りにそっちの方向へ帰っていた。

 ほとんど通ったことのない道を歩きながら、吉井さんはこの道を通って登下校しているんだなあと物思いにふける。民家を囲う椿が咲いたら足を止めて臭いをかいだり、半ば水草に埋まった浅い川を見下ろして魚を目で追ったりしたんだろうか。闇が落ちかけている今はどの風景も少し不気味だ。

 ふと思い出したように吉井さんが携帯電話を取り出してどこかへ連絡をとった。

「もしもし、吉井です。リビングデッドの山田がですね。ちょっとけがをしてしまって、今病院にいるんですよ。多分そのまま入院することになると思います。……はい、そこまではまだ……いえ、そういうわけではありません。はい、申し訳ありません」

 大人みたいな口振りで話している相手は多分ライブハウスのオーナーだ。山田先輩がこの間入院した時もこんな風に手を回したんだろう。

 電源を切ると顔から緊張が抜けて息を吐いた。

「立派にマネージャーだね」

「あいつは余計なことするなって言うだろうけどね」

 きっとそうだ。でもそれも山田先輩が無事ならの話。苦笑を返す。

「僕さ……もう弱者の庭に行かないようにしようと思う」

「行きたくて行ったわけじゃないでしょ?」

「元々はね。でも最近じゃ秘密基地気分で気軽に行ってた。けどあそこは邪魔者が来ないから楽とかそんな理由でいる場所じゃないんだ。いていい場所じゃないんだ。僕は忘れられて消えたくない。吉井さんにも山田先輩にも消えてほしくない。だからもう吉井さんも行かないでほしい」

 今思えば弱者の庭で初めて会った時山田先輩から邪険に扱われたのは優しさだったのかもしれない。言葉も乱暴で見た目が恐くても彼はずっと優しかった。

「行かないようにするってことは、自殺しようなんて思わずに、悲しいこと嫌なこと深く思い詰めずに生活するってこと? 少なくとも学校にいる間は」

 問いかけに頷く。要するに楽しい学校生活を送ること。それができれば弱者の庭に用はないし、できなかったから僕らは弱者の庭に堕ち込んだ。

「幸せになろう」

 吉井さんが足を止めた。目を丸くして、ぽかんと口を開けている。

「どうしたの?」

「あー……そうか。うん、幸せに、明るく楽しくね」

 吉井さんはなぜかため息をつく。目標にしようとしていることと正反対の仕草なので本当にわかっているのか不安になったけれど、表情に暗さはなく少し笑っている。

「ま、ずっとそうして来たんだし、頑張ってみる」

 前向きな意志を見せてくれてほっとした。山田先輩の説得はこう簡単にはいかないだろう。彼のまだはっきりしていない問題をどうやって解決したらいいかわからない。

 大きな不安は、考えたくないけれど山田先輩がこのまま死んでしまった場合、僕らはまた弱者の庭にお世話になることになるだろう。そうなると今度は立ち直れないかもしれない。僕らが進歩するには山田先輩の無事が不可欠だ。

 帰り道は商店街に差しかかった。申し訳程度に小さな街灯がついているだけだけれど、まだ多くの店舗が開いていたので充分に明るかった。チェーンの弁当屋と、その脇にライブハウスの看板も光っている。

 もうすぐ今日のライブが始まる時間だ。けれどそこに山田先輩はいない。それだけでライブハウスの存在が無意味なことに思えた。

 吉井さんと二人で行った老人だらけの喫茶店はすでに閉店している。飲食店にしては早い方じゃないだろうか。

「年寄りによる年寄りのための喫茶店だから。その代わり朝はすごく早いよ」

 喫茶店を見ていることに気がついて吉井さんが説明してくれた。

「ちなみにマスターは私のおじいちゃん」

 特にそう感じるような素振りがなかったので驚いた。吉井さんの家族に変な素振りを見せなかったのだろうかと不安になって、なにを考えているのは自分を恥ずかしく感じる。

「家族仲はいい?」

 間を誤魔化そうとてきとうにした質問に吉井さんは笑った。嫌味のない笑い方にきっと良い返事だと期待がもてる。

「気持ち悪いくらいアットホームね。日本人のノリじゃないもん。あんたのとこは?」

「普通だと思う」

 引け目を感じて嘘をついた。両親が一般的な夫婦だとは思っていない。

 吉井さんの家はレンガ造りの塀に囲まれた洋風の家だった。庭木もしっかり手入れされていて住んでいる人間の品の良さが伝わってくる。

 ドアに隠れるまで見届けてから帰ろうとして、帰り道がわからないことに気がつく。吉井さんについて来ただけなのでどこをどう曲がって来たのか道に憶えがない。

 呼び鈴を押すのは気が引け、仕方なく運に任せて歩くことにした。わからないといっても狭い町なのでどこかで知った場所に出るだろう。

 この辺り一体は埋立地で、山ばかりのこの町には珍しい平地に民家が整然と並んでいるため歩いていても景色がほとんど変わらない。

 しばらくまっすぐ進むと横道の先が明るかったのでそちらに曲がった。来る時にあんなに明るい道は通らなかったけれど、遠目に見える片側二車線はこの町では大きな通りだ。知っている場所に繋がっているに違いない。

 通りに出ると民家の明かりだけだった光源に街灯が増えて心強くなった。方向感覚を信じて陸橋が見える方に向けて歩き出す。商店街近くに同じような陸橋があったはずなので、これがそうじゃないだろうか。商店街にさえ着けばそこからの道はわかる。

 橋を越して下っていると後ろからクラクションを鳴らされた。振り返ると白い軽トラックがやって来て真横で止まった。ドアに緒方酒店とある。

 窓を覗くと空いている助手席の向こうに知った顔があった。緒方だ。痛々しいガーゼの隙間で不思議そうな顔をしている。

「なにやってんだ、こんな時間に。深夜徘徊は立派な非行だろ」

「……あんたに言われたくない」

 緒方は運転席に座っている。助手席には誰もいない。中学生が免許を持っているはずはなかった。

「ああ、親父が腰痛めててよ。配達できないから代わりな」

 聞いたことのある話をしてたいしたことじゃない、という風に笑った。車を運転することも、大人の代わりに働くことも、どちらも僕にはたいしたことに思える。

「家どこだ? 送ってやるよ。配達もう済んだし。帰るんだろ?」

 荷台を見るとビニールカバーが張り出していて隙間からビールケースが見えた。

「まだこんなに積んであるのに?」

「バカ、これは引き取った分で、全部空だよ」

 知らないことで馬鹿にされむっときたけれど意地を張っても帰りが遅くなるだけなので黙って助手席に乗った。こいつは敵じゃない。そう自分に確認する。それでも、感謝しているという風には見えないよう意識して振る舞う。

 走り出したトラックはすぐに橋を下り、右側に見覚えのある景色が見えた。駅前の商店街の入口。山田先輩の見舞いの帰りに吉井さんと通った下り坂。

「あっ」

 思わず声がもれて逆側を見た。この先に山田先輩が入院していた宮崎病院がある。

「どうした? ていうかお前のうちどっちだ?」

 僕は黙って右を指差した。僕の家のある方、病院とは逆。今行っても面会時間は過ぎているし会える状態とも限らない。そもそも救急車が搬送された先が宮崎病院かもわからない。急いで知りたくないというのもある。悪い結果になっていたらと考えると怖ろしい。

 トラックは交差点を通過し、三十六号線に乗った。緒方はかなり運転に慣れているようで乗っていて不快も不安もない。

「松尾はよ。俺にとっては大事な友達なんだよ」

 敵ではないと自分に言い聞かせたばかりなのに、復讐の臭いがしてきて動揺してしまう。既に緒方の運転する車の中だ。シートベルトのロックに手を添えていつでも外せるよう身構えた。緒方はそんな僕の動きに一瞬不審の目を向け、また前方に視線を戻した。

「大事な友達だと思ってるんだけどよ。……今日あいつがあんなことになって、いい気味だと思ってる俺がいるんだよ。大事な友達なのに。なんか自信なくなっちまった」

 ああ、お人好しが目の前にいる。ガーゼの下、その友達のせいで腫れあがった顔を歪めて苦しんでいる。こんな男を憎むのは馬鹿馬鹿しいことかもしれない。勝手に苦しんでいるなら僕がわざわざ憎む必要はないじゃないか。

 僕自身も同じような思いがあった。山田先輩が手首を切った時取り乱したりしなかった自分を不自然に感じる。今も、もしかしたら悪い結果になるかもしれない、とどこか冷静に考えている。吉井さんのようにうろたえるのが人間らしい反応のはずなのに。

 緒方も同じように友情を疑っている。それは顔の傷より痛いだろう。

「あんたは……悪くないと思うよ」

 僕がそう言うと緒方はいくらか安心した顔をした。誰かにそう言われたからといって本当に自分を許せはしない。けれどそれでほんの少し楽になれるのは僕も知っている。

 車は団地入口の急勾配を登り、できるだけ単純な道順を案内すると配達で回るらしく細かい説明の必要もなく我が家に到着した。歩いていたら三十分はかかるところをたった五分で済んだ。

「ありがとう、また明日」

「おう、明日な」

 口から感謝の言葉が出たことに少し驚きつつ車を見送る。彼とまた明日なんて言い合う日が来るとは思いもしなかった。彼は吉井さんだけの味方じゃない。素直にそう思えた。

 家に入るとすぐに脱衣所に向かい、服を全部脱いで浴室に入った。脱いだ制服にはほんの少し血がついている。その血の主の心配よりも先に、クリーニングに出さなきゃと考える自分に嫌気が差す。こんな調子だから、本当に僕は山田先輩のことをたいして大事に思っていないのかもしれない。そんな考えはすぐに吹き飛ぶことになった。

 シャワーで体の泡を流しながらなんとなく左手首に指を当てて血液の流れを確かめた時、学校で見た光景が目の前に蘇った。決まったルートを巡る血液がコースアウトして傷口から噴き出して飛び散る。脳みそがシェイクされたみたいに気分が悪く呼吸が荒くなった。暴れる心臓に内側から叩かれながら浴室から出る。体を伝う水滴が全て血に思えてぞっとした。体の中も外も血まみれだ。

 念入りに体を拭いて下着とシャツを身に着けると二階の自分の部屋に駆け上がった。頭から布団を被って体を丸める。震えが止まらない。心臓も落ち着かないままだ。不自然も疑問も吹き飛んだ。これではっきりした。友情を疑う必要はない。

 自分の中のあらゆる負の要素がきっかけを得て爆発している。学校でこの状態になっていたらきっとすぐに亡霊の仲間入りをしただろう。それくらい良くない感情に支配されて抜け出せない。苦しくてたまらない。夕食に呼びに来た母に枕を投げつけた。なにもかもが最低だ。

 心の中で「嫌だ」を繰り返して眠れないまま日付が変わった頃、感情は松尾を標的にして炸裂していた。山田先輩よりあいつが死ぬべきだ。そんな風な思考に捕まった時、吉井さんのことが思い浮かんだ。彼女はきっと誰が死んでも悲しむ。松尾でも同じことだ。それも嫌だ。僕にとって吉井さんが悲しまないことが正しいことで、彼女が泣いていないことが平和だ。

 吉井さんのことを考えていたらいつの間にか悪いイメージは全て消え震えも止まっていた。安心して布団から顔を出して体を伸ばすと、それからすぐに眠気に襲われた。


 翌朝目覚めてからは取り乱すようなことはなくても、いつ襲いかかろうかと不安が背後で構えているのを感じた。学校に着いてもそれは同じで、負けずに弱者の庭に行かないよう平常心を心がけた。弱気を遠ざけて、深く考え込まないように。

 教室ではおかしな噂が流れていた。松尾が山田先輩を刺して逮捕されたというニュースがまことしやかに囁かれている。クラスメイトたちはどこか面白がっているように見えた。そのことが僕を苛立たせる。

 山田先輩は当然だけれど、松尾も休んでいるんだろうか。他に噂を否定できるのは吉井さんか僕、それに緒方、あとは松尾の子分たち。子分たちは多分言わないだろう。言えば自分たちの格を下げることになりかねない。

 噂に僕が含まれていないことに少しほっとしてホームルームを待っていると緒方がやって来た。教室の入口で飛び交う噂話に顔をしかめてから僕の所へ来る。

「まったく、こっちも同じだな。聞いた? なにを? こればっか」

 うんざりした様子だ。実際教室にはいくつかのグループが固まっていて、誰かが登校してくるとどこかのグループに吸い込まれ、緒方が言ったやり取りのあと間違った情報が伝えられるという流れが繰り返されていた。

「で、先輩はどうなんだ?」

 なにしろ噂の渦の中なので名前は出さない方がいいと思ったんだろう。

「……知らない。まだなにも聞いてないから」

「そっか。ひとりで考え込むなよ」

 僕の肩をぽんと叩いて教室を出て行った。味方でいようとしてくれているのはわかるけれど、相談する気にはなれない。知らない彼に弱者の庭を理解させるのは難しそうだ。

 ホームルームを待つ間落ち着かなかった。教師はきっと山田先輩の現状を把握している。聞きに行けば早いのはわかっていても背中の不安が邪魔をした。もし悪い結果になっていたら、と思うと恐ろしくて耳を塞いでいたくなる。

 だんだん背後の不安は大きくなり、不快感が胸の中をぐるぐると回り始めた。奇声をあげて走り回る代わりに僕は決意を持って立ち上がった。怯えていてはなにも生まれない。

 廊下に出ると目の前に担任教師がいた。見過ごしてくれるはずはない。

「どこ行くんだ。ホームルーム始めるぞ」

「トイレです。我慢できません」

 教室の中から「うんこ」と聞こえた。あまりの低俗な野次にツバを吐きかけたくなる衝動をこらえる。

「両方今にも出そうです」

「すぐ戻ってこいよ」

 呆れた様子で担任が言う。僕は従うつもりはなかった。それよりも、聞かなければならないことがある。

「先生、山田先輩は宮崎病院にいるんですか?」

「ん? ああそうだ。安静にしてれば問題はないらしい」

 その言葉を聞いた途端に背後の不安がぐっと小さくなる。こんなことなら恐がらずに職員室で聞けばよかった。自然に笑みが出てくる。担任自身に救われたような気になって次に言う言葉が決まった。

「ありがとうございます」

 面食らっている担任を置いてトイレに向かう振りをする。まだ不安は完全に消えていない。自分の目で確認しなければ。山田先輩があの病院で安静にするはずがないのだから。

 担任が教室に入り扉を閉めるのを確認してから通り過ぎた隣の教室のドアの前に戻った。こちらはまだ担任が来ていないらしく騒がしい。窓から様子を窺うと吉井さんは最後列の席で友達に囲まれて喋っていた。笑い声に囲まれてはいても、表情は浮かない。

「吉井さん、ちょっと」

 廊下から声をかける。なんだか異常に勇気がいる行為だ。思えばこんな風に他の教室の誰かを呼ぶなんてことは一度もなかった。

「ちょっとごめんね」

 吉井さんは少し驚いた顔をして、友達から離れて僕の前に来た。

「急ぎの話? なんか……わかった?」

 普段の吉井さんなら驚異の情報網でとっくに把握しているはずだ。彼女も僕と同じで知ることを怖がっているらしい。でも僕は決心した。

「山田先輩は大丈夫らしいよ。僕は……放課後まで待つつもりないんだけど」

 心を落ち着かせるには、すぐに不安を解消するには山田先輩に直接会うしかなかった。授業が終わるまでのんびり待ちたくない。もし吉井さんも同じ気持ちなら、一緒に行こうと誘うつもりだ。

「うん、なら私も行く」

 吉井さんはあっさり頷いてそのまま何も持たずに廊下に出て来た。並んで下足室に向かう僕たちを吉井さんの友達が不思議そうに見ていた。

 学校をサボるのは僕には初めての経験でも吉井さんはどうだろうか。松尾の彼女だったんだから慣れっこかもしれない。

 気持ちがすっきりしないので山田先輩の無事を確かめに行く。例え吉井さんの情報網が健在で山田先輩の現状についてどんなに詳細に知ることができていたとしても納得できなかっただろう。ちゃんと自分の目で確かめたい。きっと吉井さんも同じ気持ちだ。

 病院までの道のりは会話が少なく静かだった。できるだけ早く学校に戻って来れるように吉井さんの提案でバスを使った。僕はそのあとのことをまったく考えていなかったうえに財布を持たなかったので吉井さんから運賃を借りた。

 僕らは最良の結果のための準備をした。2リットルサイズの清涼飲料と音楽雑誌を買い、受付にも外科の入院病棟にも寄らずに最上階を目指す。エレベーターの中で少し迷ってから最上階のボタンを押した時吉井さんは頷いてくれた。山田先輩が元気ならきっとそこにいる。

 最上階は相変わらず賑やかで、エレベーターの扉が開く前から演奏が聞こえてきた。ギターの音もしっかり鳴っている。気持ちがはやり、早足で院長室隣の特別室へ向かった。

「死神が! 死神が! 死神が!」

 山田先輩の声だ。今度ばかりは吉井さんもツッコまない。

「コントラストのぼやけた死神が! 見えた! 見られた!」

 病室に入ると山田先輩はベッドの上に立っていて、ギターを引く手を止めて興味を失った顔をしていた。

「気分でねえ。このメンツでメタルは無理だな」

 ベッドにいるメンバーが頷くのをつまらなそうに眺めてから僕らに気づいた。

「おう、なにやってんだ。学校はどうした」

 そちらこそ昨日のありさまはなんだったのかと聞きたくなるぐらい元気にしている。左手首には包帯がしっかり巻かれていて、痒いのか包帯の上から乱暴にぼりぼりかくのでハラハラする。散々不安な思いをしていたのに本人が希望以上に元気、というかぴんぴんしているので唖然としてしまって言葉が出ない。

「サボったのか。なんて悪い奴らだ……お前なに泣いてんだよ」

 言われて確かめてみると僕の目元は乾いていて山田先輩の視線は僕の後ろに向いていた。吉井さんだ。しゃがみ込んで声を漏らして泣いていた。

「よかった、よかったよぅ」

 心に詰まっていた不安が抜けて流れる涙。そばで見ていても辛くない涙だ。それを見ていたら僕の中で張り詰めていたものまで緩めんでいった。

「女泣かせ」

「女泣かせだ」

 同室の患者がひそひそと声を交わし、山田先輩の眼光の餌食になる。

 特別室に入れられている患者たちは相変わらずどうしようもない。コンガの島村さんは腹這いの姿勢から動かないところを見ると痔の手術は済んだんだろうか。ハーモニカの林さんは相変わらず血色もよく見るからに健康そのもの。宮崎院長は不在だ。そして――川中さんがいない。ウッドベースもなければ四つのうち川中さんが使っていたベッドは空だ。川中さんは末期癌だった。退院したとは考えにくい。

 吉井さんはハンカチで顔を拭いていた。気持ちが落ち着いたようだけれど僕と同じことに気がついたらきっとまた泣き出してしまう。その時は、見ていて辛い涙だ。

 吉井さんがまた泣き始めるより早く、僕の目から涙がこぼれた。


 あとからやって来た宮崎院長は病室に入るなり見舞客が二人泣いているのを見てぎょっとしたものの、すぐに事態を把握したらしく優しい顔で僕らを病室から連れ出した。隣の院長室で宮崎院長が話してくれたのはやはり川中さんについてだった。

 まず川中さんは生きていると聞かされて僕の気持ちは少なからず楽になった。今は別の病院に移って本格的な治療を受けているそうだ。それから一般的な話として癌と抗癌剤のぶつかり合いは患者の体も心も簡単に壊してしまうと教えてもらった。音楽を楽しむ余裕がなくなってしまったので、川中さんが望んで転院したそうだ。

 末期の癌を抱えた川中さんがあんなに落ち着いて見えたのは、好きな音楽に触れていられる特別病室にいたからだと思う。それがなんの助けにもならないところまで追い詰められてしまったんだろうか。

 止まっていた涙がまたこぼれたので拳で乱暴に拭った。吉井さんの方はだいぶ落ち着いたようで鼻と目はまだ赤いけれど呼吸は落ち着いている。

 仕事があるという宮崎院長を残して病室に戻ると山田先輩は頭を振りながらベルトをかけたギターを肩と腰でぐるぐる回していた。

「あんた――」

 すぐ横で怒りが爆発する音を聞いたような気がした。

「心配したり悲しんだりする気持ちはないのか!」

 吉井さんが大きな声を出して病室を出て行った。去り際の横顔は歯を食いしばり悔しげに歪んでいた。ぽかんとしてしまった僕も気持ちは同じだった。ついこの間一緒に演奏した仲間がいなくなったというのに平気で暴れている山田先輩の気が知れない。

 吉井さんを追いかけたい気持ちを抑えてベッドの上の山田先輩を見上げた。もしかしたら睨むような形になっていたかもしれない。言葉が欲しかった。これが「俺なりのエールだ」と言うならそれで納得してもいい。だから、なにか言ってほしかった。

 結局山田先輩は憮然とした表情で僕を見下ろして黙ったままだった。

「早く、退院してください。……お大事に」

 言わなければいけないことだけを言って僕は病室を出た。

 僕は山田先輩を信じている。本当に冷たい人間なら今までだってなにひとつ助けてくれはしなかったはずだ。素直じゃないのもよく知っている。

 エレベーターで一階まで降り見渡しても吉井さんの姿はなかった。混雑するロビーをぶつからないよう気を配りながら小走りで急ぐ。自動ドアを抜ける吉井さんが見えた。

「吉井さん! 待って!」

 外へ出るとすぐに後ろ姿は走り出した。全速力で追いかけても差が縮まらない。情けないことにすぐわき腹が痛み出し、バランスを崩し転んでしまった。どこまでかっこ悪ければ気が済むんだろう。転んだままため息をつくと、吉井さんが立ち止まって笑っていた。


「あんた期待通りに運動音痴ね」

「……期待ってなにさ」

 夏には小さな祭りが開かれそれなりに賑わう神社もなにもない今はしんと静まり返っている。社の前にでんと構えた大木に空を覆われていて境内の空気は冷たく、風で落ち葉が地面を這い回っている。表通りから一歩入っただけで季節が違っていた。

 大木に背中を預けて、僕と吉井さんは話をした。まず山田先輩の態度について話すと吉井さんは山田先輩のことを誤解してはいなかった。わかっていても我慢ができなかったので怒鳴って、収まりがつかずに逃げたそうだ。

 みっともないところばかり見られて恥ずかしいと言うけれど、それは僕も同じ気持ちだ。擦りむいた肘をさすって血がとまったことを確かめる。

「あいつどうしてあんなに素直じゃないのかしら」

 考えてみれば吉井さんが誤解なんてするはずもなかった。彼女は僕なんかよりもずっと人付き合いが多くて気も利く。でも僕が気づいたこともある。

「素直じゃないのは同じだよ。吉井さんも、僕も」

 いかにも不服という顔で見られる。口を尖らすとやつれて見えて痛々しい。

「山田先輩はもちろん素直じゃないけど、僕らだって聞かなかったじゃないか。本当の気持ちを教えてくださいって、悲しくないんですかって」

「私は聞いたつもりだけど」

「怒ってたから。それに返事を聞かずに飛び出したよ」

 納得のいかない顔をしている。それでも反論はしないその様子がなんだか微笑ましい。背伸びをして冷たい空気を吸い込むと、胸の中であれこれの問題と混ざり合って溶け出して行くようで気分がすっきりした。息を吐き出して、どうしてもすぐに直面しなければいけない問題を取り挙げた。

「それじゃあそろそろ学校に戻って怒られようか」

 少し揉めたものの山田先輩の無事は確認できた。このまま帰ったりどこかで時間を潰したりすればそれはもうただの不良だ。

「じゃあ素直な気持ちで言うけどさ。転んでまで追いかけてもらえるっていうのは結構良い気分だったよ」

 不意にそう言った吉井さんのはにかんだ顔に見とれ、木の根につまずいてまた転んだ。


 翌日、僕の周囲はとても静かだった。前日授業をサボり、松尾が登校しているにも関わらずなにも起きない。松尾は僕や吉井さん、緒方のことも避けて今度は子分たちに暴力を振るっているらしい。前よりもっと荒れていて人相が変わったように見えた。追い詰められた余裕のない顔をしていた。

 松尾の心境がどうあろうと僕の一日は静かなまま終わり、次の日には山田先輩も無事退院して登校してきた。血が抜けただけで入院は必要なかったと本人は主張している。

 そして山田先輩と松尾が顔を合わせた時、静かな学校生活は吹き飛んだ。

 松尾が飛びかかって山田先輩は抵抗できず組み伏せられた。助けようと掴みかかったけれど、ものすごい力で振りほどかれた。その時壁にぶつかった痛みよりも松尾の表情を見ての驚きの方が強かった。

 獣のようだ。歯ぐきをむき出しにして無抵抗の山田先輩に頭突きを繰り返している。目は見開かれているくせに不思議と生気が感じられない。不気味で寒気がする。この場に吉井さんがいないのがせめてもの救いだ。

「なんで生きてるんだなんで生きてるんだ」

 松尾は大声でそう繰り返している。山田先輩の思惑通りトラウマを植え付けることに成功したようだ。けれどこれが、本当に山田先輩の望んだ形なんだろうか。

 すぐに血相を変えた教師たちがやって来て暴れる松尾を無理やり引きずって連れて行った。叫び声は意味のわからないものに変わりしばらくして聞こえなくなった。

 松尾は壊れた。はっきりそう感じた。もう元には戻らないかもしれない。そう思うと胸が痛む。山田先輩は洒落にならないことをしたのかもしれないと初めて思った。

 騒然とする廊下に山田先輩の姿はもうなかった。松尾が連れ去られるのを見ていたのでその間に立ち去ったかもしれないけれど弱者の庭に行ったような気がする。

 人目のない所まで移動して目を閉じて想像の世界を広げる準備をした。山田先輩にも早く弱者の庭と決別する決心をしてほしい。心を落ち着かせ、ひとつの想像に集中する。最悪の状況を想像して弱者の庭へ――最悪、最悪。

 なにも思いつかなかった。信じられずに呆然とする。これまで繰り返してきたことと同じことをすればいいだけなのに。想像する材料はまだ持っているはずなのに。

 できなかった。

 今まで簡単にできていたことができなくなっている。ついこの間までどんなに悲惨な死に方でも肌で感じる程リアルに想像できた。今は鳥肌が立つ程度の想像もできない。もう行けなくなってしまった。僕個人としては喜んでもいいことだけれど、まだ山田先輩がいる。彼が救われないうちに自分だけ助かっても仕方ない。

 思いついて駆け出した。一年校舎の外階段を登って屋上へ上がる。僕にとってここが最も死に近い場所だ。初めて弱者の庭に行けたこの場所ならもう一度行けるかもしれない。

 端に近づく。地上を見下ろすと足がすくんだ。ここで飛び降りたら弱者の庭に行けるのか。死にたいと思っていないのに飛び降りたらどうなるのか。疑うと踏み出すことはできなかった。命をかけて試す気にはなれなかった。あの頃の気持ちになれない以上僕はもう弱者の庭に行けない。それがよくわかった。

「なにしてるの?」

 後ろからの声に振り返ると吉井さんが立っていた。スカートを手で押さえて、強い風に目を細めている。すっかり落ち着いたように見えてもまだ心の傷が癒えたわけじゃないのに、そんな彼女を頼ってしまう自分が惨めだ。

「庭に、行けなくなった。山田先輩が今ひとりでいる。ひとりにしておきたくない」

 山田先輩がどの程度弱者の庭に毒されているかわからない。いつ亡霊になるか、忘れられるか。もしかしたら既に出られなくなっているかもしれない。

「実は私もなのよね……」

 吉井さんは深く考え込んでからぱっと眉間のしわを解いて明るい口調で答えた。

「大丈夫じゃない? あと二日もてば、それでいいもの」

 なぜそう楽観的でいられるのか理解できない。疑問もある。

「二日って、なんで?」

「土曜日にスカウトが来るでしょ。いきなり鮮烈デビュー! なんてことにはならないだろうけど、マイナーでもレーベルに所属できたらプロなわけだから、ミュージシャンなら嬉しいんじゃない?」

「レーベルってなに?」

「えーっと、音楽事務所。CD――の中身を作ってるところ」

「音楽のメーカー?」

「まあ、そう思っていいかな」

 プロミュージシャン。山田先輩はそれを目標にしているんだろうか。公式にロッケンローラーと認められるということだろうか。

「それじゃ……弱者の庭に行かなくなる?」

 今の僕と同じように、行けなくなる。そこ以外に自分の居場所ができる。自分の居場所以外でも自信を持って生きていける。僕ら三人ともそうなればどんなにいいか。でもまだ気がかりはある。

「そのスカウトは確実なの? 駄目な可能性はゼロ?」

「可能性って話をすればそれはゼロじゃないけど、駄目でも次に繋がるから大丈夫よ。この間の雑誌もそうだけど、あいつらがちょっと注目されてるのは事実だから」

 二日後ライブが始まればいいのなら、明日とライブ当日の明後日、学校にいる間だけ山田先輩を弱者の庭から守ればいい。亡霊にさせないためには弱者の庭に行かせないのが一番だ。と言っても、実際移動を止めることはできない。それに移動されてしまったら今は連れ戻すこともできない。

 僕は無力だ。それでもできることはあるような気がした。あと二日、たった二日守り抜く。そうすればあとは山田先輩の自身の力でやっていける。二日守り通して、新しいロックスターが誕生する瞬間を見るんだ。


 翌日、僕は朝から頭を下げていた。場所は学校ではあっても校舎裏ではなく相手も松尾やその子分たちでもない。

 弱者の庭に逃げられないように登校してきた山田先輩を校門の外で捕まえて、登校する生徒の流れと距離を距離を置いて説得を試みた。

「お願いします、弱者の庭に行かないで下さい」

 遊び半分や逃避なんて軽い気持ちでいていい場所じゃないのは山田先輩もよくわかっているはずだ。そもそも望んで行く場所じゃあない。誰かが消えるのを体験している山田先輩は僕以上にそのリスクがわかっているはずだ。現実に居場所がなくて辛いなら僕がその居場所になる。そのつもりだ。

 しかし、山田先輩には居場所がある。家にも学校にもなくても、光と音に溢れたステージがある。バンドメンバーという仲間もいる。

「ふざけんな。てめーに縛られる理由はねえ」

 僕の願いは眉ひとつ動かさずに拒絶された。想いを察してくれたような間はなかった。

「ロックスターになるんじゃないんですか?」

 将来の夢があって仲間もいてチャンスが目の前にぶら下がっている。弱者の庭に行って、もし亡霊になってしまったらなにもかもおしまいだ。

「まともに生きてからじゃ遅いんだよ」

 呟きを残して山田先輩は校門を抜けるとすぐに姿を消した。誰も見ていなかったらしく生徒たちから不審の視線は向けられなかった。

 弱者の庭に行かれたら今の僕には手が出せない。ため息をついて、まばらな生徒の流れに混じって校舎に入り教室でホームルームを待った。

 その後の授業の間もずっと山田先輩が亡霊になってしまったらと同じことばかり考えていた。それでも弱者の庭に飛ばされるようなことはなかった。不安や絶望から遠くなっていることは前から感じている。どんなに考えても想像も不安も深刻さを持たない。今はひとりじゃない、なんとかなるとどこかで思っている。

 それなのにひとりでいた頃よりも心が苦しい。僕は幸せになった。ただしそれは山田先輩を置いてひとりで。そのことが僕を苦しめる。誰かと関係をもつということはこういうことだと今更のように知った。

 休み時間、僕は初めて上級生の校舎に足を踏み入れた。山田先輩がどのクラスか聞いていないので全て回ってみてもどこにも見つからなかった。朝校門で消えてからずっと弱者の庭に行っているのかもしれない。

 僕が山田先輩のためにできることはある。それは山田先輩のことを考えること。弱者の庭の亡霊たちは忘れ去られた人たちだ。それなら僕が山田先輩のことを忘れてしまわなければ、彼は亡霊にはならない。理屈ではそうなるはずだ。

 その後も休み時間の度に二年の教室を覗いても山田先輩は見つからなかった。本当にずっと弱者の庭にいるのかもしれない。授業に出もしないのにどうして学校に来るのか不思議だ。いっそ登校してくれなければこんなにはらはらしなくて済むのに。心配は段々と怒りに変わってきた。こっちが必死なのに本人に前向きに生きようという意思が少しも感じられない。

 ようやく見つけた時はもう放課後で、帰り際らしく下足室で靴を履き替えている最中だった。すぐに下校してくれればその分弱者の庭に行ける時間が減るので歓迎だ。今日はそれでよくてもまだ明日と明後日がある。今日のように朝から放課後まで弱者の庭で過ごされたらどうなるかわからない。

「なんだよ鬱陶しいな」

 僕に気づいて山田先輩は動きを止めた。低い声と横目で凄まれ、僕が感じている友情は一方的なんだろうかと不安になる。

「もうあそこへ行くのはやめてください」

 他の生徒もいるのではっきりとは言わなかった。かといってそれで通じないほどわかりにくくもない。なのに山田先輩は僕を無視して出て行ってしまった。ここで逃げられては明日と明後日が危ないので上履きのまま追いかける。

「待ってください。先輩は、ロックスターになるんでしょう?」

「当たり前だ」

 そうやって堂々と主張できる夢があるのに、どうして。

「だったらお願いします。せめて明日だけでも行かないでください」

 明日は金曜で授業が長い。比べて明後日の土曜は昼までなので心配は少ない。登校日でなければもっとよかった。

 舌打ち、それからため息。顔を歪めて、どう見ても僕に凄んでいるようにしか見えないけれど、ひょっとしたら考えているのかもしれない。ただ、僕の意見を受け入れるかどうかというよりはどんな罵声を浴びせようかと思案する眉間のしわに見えた。先になにか言わなければきっと怒鳴られる。

「山田先輩がこれからどうなっていくのか見たいんです」

 とっさに出た言葉は本心だった。

「途中で終わらないでほしいんです」

 やりたいことがなにもない僕とは違う。輝くことができるのにあんな場所で座り込んでいるなんて間違っている。ましてそのまま消えてしまうなんて許せない。

「僕がどれだけ救われたか知らないでしょう? 僕だけじゃない。歌を聴いて憧れて、応援しようと思った人は他にもいますよ。明後日のスカウトだってきっとうまくいくって吉井さんも言ってました。なのになんで? 僕の記憶から山田先輩が消えてしまうことがどんなに残酷なことか知ってたらそんな軽率なことはできないはずです」

 一気にまくしたてたせいで山田先輩は困惑した顔で固まっていた。僕は思わず肩をすぼめて「すいません」と謝った。多少の注目を浴びている。

 いや、いいんだ。なにも間違ったことは言ってないと自分を勇気づけてみたものの山田先輩の反応は恐い。素直に受け入れてもらえるよう祈った。意見を押しつけて嫌われたくはないけれど、これだけは守ってもらわないと困る。

「わかったよ」

 祈りは通じた。救われた気持ちで顔を上げるともう背中だった。

「明日はいかねえ。それでいいんだろ?」

 本当はもう二度と行ってほしくない。でも明後日スカウトさえうまくいけばきっともう心配はいらない。明後日の分もまた説得したら聞いてくれるかもしれない。

 危険性が減ったことよりも自分の意見を聞き入れてもらえたことが嬉しかった。心配しているんだ、大事に思っているんだという想いが伝わった。そうに違いない。

 別れの言葉もなく山田先輩は歩いていく。差し掛かった校門に例の体育教師が立っていた。校舎裏の事件のあと事情聴取をされた時の体育教師だ。山田先輩を目の敵にしている印象を受けた。彼が今日授業に出ていないことを知っていたら面倒なことになる。

 怒られる。怒られて嫌な気分になったら、弱者の庭に行ってしまうかもしれない。大げさな考えかもしれなくても反射的に声が出た。

「先生さようなら!」

「ん? おお、さようなら。まっすぐ家に帰れよ」

 大声で挨拶をして注意をひくと体育教師は少し驚いた顔で返事をした。その前を山田先輩が通り過ぎる。

「挨拶をしないか!」

 気を惹くために僕が挨拶をしたことが裏目に出たのかもしれない。体育教師が背中に怒声を浴びせた。山田先輩は反応しない。幸いそれだけで済んだ。これで明後日山田先輩が無事に学校を出れば問題ない。

 きっと全てがうまくいく。本当にそう思っていた。僕はもっと考えるべきだった。気づくべきだった。気づいていれば、この時ならどうにでもできるはずだった。大事なものが手からこぼれかけていることもわかっていなかった。遠ざかって行く背中を見て、体育教師が首を傾げていることについて考えなかった。

 僕は馬鹿だ。


<続き>


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