リビングデッド 死んでいても動き出すような情熱/前

 運が悪かっただけの事件だった。刺された山田先輩はもちろん刺したフルフェイスの誰かにとっても。

 僕が生まれて初めての乱闘を経験している頃、町唯一のコンビニは強盗に襲われていた。強盗は包丁で店員を脅し、レジに入っていた八万円を奪って逃げた。その逃走中たまたま通りすがった山田先輩にぶつかって、むき出しの包丁が突き刺さってしまった。運が悪かっただけだ。

 救急車が到着する前に意識を失った山田先輩は病院に着くとすぐ手術室に運ばれた。一時間ほどして出てきた時も意識のないまま寝台の上で点滴を受けていた。

 僕も治療を受け山田先輩の移された病室に戻ると、山田先輩の担任教師と刑事が来ていた。山田先輩が刺された経緯については救急車の中で救急隊員に話していた。刑事はそのことで僕にいくつか確認をするとコンビニ強盗のことを話してくれた。僕と山田先輩の細かいけがまで犯人のせいだと思われていたのには驚いた。この場に教師がいる以上奴らに告げ口したと思われるのは癪なのでけがの理由についてはデタラメを並べておいた。

 山田先輩の担任は忙しく眼鏡の位置を直しながら、僕と刑事の両方から話を聞くと刑事と一緒に病室を出て行った。

 残された僕は眠ったままの山田先輩をしばらく見ていた。病室は大部屋で他にも患者は三人いる。気を遣ってくれているのかかなり絞ったTVの音がするだけでとても静かだ。

 もう僕個人の問題やヨシイさんのことで怒って喧嘩したことはあまり重要ではなくなっていた。今は目の前の友達が助かるよう祈るだけで精一杯だ。手術はうまくいったし若いから心配ないとナースは言った。それでも普段から無口な彼の、完全に沈黙した顔を見ていると不安になる。もう二度と目覚めることはないんじゃないだろうか。ついそんな風に考えてしまう。

 学校から連絡を受けた母が僕を迎えに来て、そこで初めて僕は山田先輩の親が来ていないことを不審に感じた。両親とは仲が悪そうだとなんとなく思ってはいたけれど、そうだとしてもこんな時に来てくれないのは変じゃないだろうか。

 母に促されてしぶしぶ病室をあとにした。僕がいても助けることはできない。面会時間の終わりも近づいている。なにより僕自身疲れていて早く休みたかった。

 家に帰ると他の全てを放棄してベッドに横になるとそのまま眠った。今まで経験したことのないような深い眠りだった。

 昼前に起きて、まず風呂に入ってそれから食事をした。ガーゼの下でふやけていた傷口はスポンジで軽くこすっただけで未完成のかさぶたが剥がれて出血した。血が出ている部分を隠していたら家にあった絆創膏がすっかり減ってしまった。

 今日が日曜でよかった。とても学校に行くような気分じゃない。昨日は色んなことがあった。ありすぎた。

 窓の外を見ると朝のうちに雨が降ったのか庭の芝生が露に濡れて太陽の光を反射している。快晴だ。どの家並みもどこか人の気配が伝わってくるということはないけれど、山田先輩の家だけは特別静まり返っているように見えた。

 外を見ていると窓ガラスにそわそわする両親の姿が映っていることに気がついた。僕のけがのを気にしているんだろう。強盗とは別の理由だと知っていながら、僕に聞けずに様子を窺っている。まるで他人だ。

 気まずい空気を破って電話が鳴り、受話器を取った母が僕を呼んだ。「女の子のお友達から」と言うのですぐにヨシイさんだとわかる。

 ヨシイさんとは昨日の昼学校で別れたっきりだ。少しでも気分はよくなっているだろうか。心配をかけたかもしれないし、ほったらかしにした恨み言を言われるかもしれない。

「も、もしもし」

『吉井です』

 声は暗く、まだ立ち直っていないようだ。僕も色々あったけれど、彼女は彼女で酷い目に遭った。一日で立ち直れるようなことなら彼女は初めからへこたれたりしない。

『あのさ、今病院にいるんだけど……そのー』

「病院? まさか、また妊娠?」

 思わず大きな声が出てしまい親に聞こえてしまった。ぎょっとした顔で見られたので背中を丸めて小さくなる。

『違う違う。あいつ、入院したって聞いたからお見舞いに来たんだけど』

 あいつと言うのはもちろん山田先輩のことだろう。もうそのことを知っているなんて、行動だけじゃなく情報まで早いらしい。

「よく知ってるね」

『いいから聞いて。それで来たのはいいんだけど、なんか道に迷って奥に行ったら霊安室の所に来ちゃってその……怖くて動けなくて困ってるの。助けて』

 僕は反射的に「はぁ?」と聞き返した。案内も受付もある病院内でなぜ迷ったりするんだろう。おまけに小さな子供じゃあるまいし怖くて動けないなんて。

『そんな風に言わないでよ』

 泣きそうな声が返ってきた。方向音痴も怖がりも女の人に多いらしいので仕方ないかもしれないと無理に納得する。

「わかった。迎えに行けばいいんだね」

『ごめん、ありがとう。その、できるだけ急いでね。気をつけてね』

 電話を切るとちらちらと僕を見ていた両親に一言「出かけてくる」と言って家を出た。

 ヨシイさんに呼ばれて走るのはこれで二度目だ。前と違って目的がはっきりしているのでなにも考えないでただ走れた。その分変な期待もないせいでスピードは若干落ちる。今度は昼なので陽射しが暑い。朝降ったらしい雨が蒸発してジメジメする。体にへばりつくTシャツが鬱陶しくなってきた頃ようやく表通りのバス停に到着した。病院までは商店街の倍ほど距離があるので走り通す気はない。

 丁度やってきたバスに乗り息を整えているうちに病院前に着いた。昨日は救急車で来た白い大きな建物。広い駐車場に敷き詰められた車がきちんと並んでいる。

 二枚の自動ドアを抜けてロビーに入ると空調の冷気を全身に浴びせられ鼻の奥まで冷えて気持ちが良かった。最近できたばかりの市内にもなかなかない大きな総合病院だけあってロビーは綺麗で、日曜の今日は患者の姿もほとんどなく空いていた。

 受付で霊安室の場所を尋ねると「お友達ですか?」と訊き返されたので気軽に頷いてから質問の意図に気がついて慌てて首を振った。

「違うんです、そうじゃなくて――場所だけ教えて下さい。自分で捜しますから」

 場所を聞いてそそくさと受付を離れた。勘違いさせた気まずさで小走りになる。

 言われた通りに進んでいると次第に点いている照明の数が減っていき心細くなってきた頃ヨシイさんを見つけた。確かにここはちょっと恐い。

「ごめんね、あいつどこにいるの?」

 駆け寄ってきたヨシイさんの目が赤い。泣いていたんだろうか。かわいかった。

 息がまだ乱れていたので深呼吸をして落ち着かせる。続いて笑顔を作ろうと思ったけれど絆創膏で顔が引きつるだけだった。

「ここにはいないよ」

「そんなのわかってるって。手術はばっちりで安静にしてれば二週間で退院できるって聞いたし。出血は多かったけど内臓は傷ついてなかったって」

 どうして現場にいた僕でも知らないことを知っているんだろう。彼女の情報力なら僕がいじめられていることなんて二秒で調べられたに違いない。

 ヨシイさんを連れて入院病棟に移動した。昨日来たばかりなので場所は憶えている。ところが記憶を頼りにたどり着いた病室に山田先輩はいなかった。山田先輩が寝ていたベッドは空になっていて布団もない。同室の患者たちの顔は見覚えがあるようなないような、定かじゃない。注意を払っていなかったので憶えていなかった。

 昼食を乗せたワゴンを押して妙に疲れた顔のナースが病室の前に止まった。丁度いいと思い山田先輩の行方を尋ねる。

「あのベッドにいた人は? もう退院したんですか?」

 ナースは暗い顔で長く息を吐き出した。顔つきに陰気な感情がそのままに表れている。

「昨日来た子なら最上階よ。どうしようもない患者が集められてる部屋があるから」

 それ以上話したくない、というような様子で昼食の載ったトレイを配り始める。受け取る患者たちまで揃って辛そうな顔をしていた。

 どうしようもない患者? 昨日は回復を待つだけだと聞いたのになぜ?

 嫌な想像が膨らむ前に僕は部屋を飛び出して都合よく着いていたエレベーターに乗り最も大きな数字を押した。ボタンにはひっかいたような細かい傷が走っていて不安をかきたてる。扉が閉まり、上昇する狭い個室の中ヨシイさんも青い顔をしていた。彼女もこのことは知らなかったようだ。

 上昇が止まると扉が開く前から僕らの気分とは裏腹な賑やかな音が聴こえてきた。

「なんだろう? BGMにしては派手だし、うるさいよね」

「これがイージーリスニングなわけないじゃない。ジャンルわかんないけど」

 エレベーターを出ると一層大きく聴こえた。色々な楽器が混ざっている。僕にわかったのはエレキギターとトランペットが入っていることだけだ。

 最上階は入院病棟やロビーとはまるで様子が違っていていた。床は絨毯が敷かれ壁には絵画が飾られている。ナースステーションはない。

「こっちみたい」

 壁や天井で反響する音の発生元を探って聴覚に神経を集中しながら廊下を進んだ。途中“院長室”と彫り込んである重厚なドアの前を通る。突き当たりにさっき飛び出した病室と同じようなスライドドアが口を開けていて、音楽はそこから聴こえていた。

 ナースが言った、どうしようもないとはどういうことか、この音楽は。焦ってその部屋へ飛び込んだ。

「なにコレ……」

 ヨシイさんと一緒に呆然とする。思考を停止させるには充分な光景だった。

 部屋は下で見た病室と同じ作りだけれど、患者のテンションが全然違う。部屋の中央で腹の出たスーツ姿の中年がトランペットを吹き鳴らしていて、四つのベッドでは揃いのパジャマ姿の患者がそれぞれ演奏に熱中している。コンガ(だったと思う)を狂ったように叩く老人。ハーモニカをくわえて体をくねらせている三十代くらいの男。病人・けが人が扱うには大きすぎる弦楽器(チェロじゃないみたいだ)を指で弾いている口ひげの中年。そして生き生きとした表情でギターを振り回している山田先輩。

 頭の中で確認する。ここは病院で山田先輩は昨日手術を終えたばかり。他の患者も元気過ぎてパジャマや点滴がなければ患者には見えない。どう理解していいか困っている僕らをよそに山田先輩は誰かの見舞い品らしいバナナをマイクに見立てて大声を出した。

「傷に響く~♪」

「ならするな!」

 ヨシイさんがツッコんだおかげで山田先輩たちはようやく僕らに気がついて演奏を止めた。ナースの言った通り、確かに「どうしようもない」患者たちだ。

 要するに山田先輩は元の病室を追い出されたんだろう。ナースや患者たちの顔を思い出せばひどく迷惑をかけたのは推測できる。

 それにしてもどうして最上階の、院長室の隣にこんな部屋があるんだろうか。

「客が入ったところでメンバー紹介!」

「客じゃないから」

 山田先輩はヨシイさんを無視して進行するつもりらしく、ギターを振り回しコンガを叩いていた白髪の老人を指した。

「パーカッション担当! コンガを叩く度尻に激痛! 痔の手術待ち、島村さん!」

 紹介を受けて白髪の老人がもの凄い勢いでコンガを叩いた。歯を食いしばっているのは演奏に力を込めているからじゃなくて痛みを我慢しているからのようだ。

「次はハーモニカ担当! この部屋でセッションしたいばっかりに検査入院を繰り返す! 嫌味な健康自慢の暇人、川中さん!」

 島村さんよりは少し若いくらいの初老の男がハーモニカを吹き鳴らした。僕はもう山田先輩の気が済むまで放っておくことにした。演奏自体はバラバラ聞こえたけど山田先輩の歌が聴けるならそれでいい。

 いつの間にかヨシイさんがいない。呆れてどこかに行ってしまったんだろうか。

 メンバー紹介は弦楽器の人の番だ。髪をオールバックにしていて、スーツを着ていればエリートに見えそうな整った顔立ちをしている。

「ウッドベース担当! 泣かせた女の数以上の転移! 末期癌で余命わずか、林さん!」

 僕の思考はまた停止した。林さんはなにくわぬ顔で弦を弾いていて、他のメンバーも特に反応しなかった。冗談でもなさそうだ。そんなことを冗談にできるわけがない。

 次に山田先輩のギターはスーツ姿で太鼓腹の中年を指した。

「トランペット担当! 彼がいるから今がある! 部下からの信頼は薄い、宮崎院長!」

「組織ぐるみか!」

 ヨシイさんが部屋に戻ってくるなりツッコんだ。飲み物の入った紙コップを両手に持っていて、「来てくれたお礼」と片方を僕にくれた。彼女が僕に選んでくれたのはまたしてもオレンジジュースだ。

 院長が参加しているのなら院長室の隣でこんな大騒ぎをしていられるのも納得できる。となると病室が彼らを追い出したのではなくて、院長が彼らをここに集めたのかもしれない。それでいいのかどうかは、重病人もいる以上よくないように思えた。

「好きなことをやっていてほしいんだよ」

 山田先輩が演奏を続けようとしたものの島村さんが痔の痛みに耐えられなくなったのでやむなく中止になったあと、宮崎院長が僕とヨシイさんにそう言った。

「全部の患者さんは無理だけど楽器なら色々あるし、ここでいくらでも演奏できる。たまに音楽性の違いでぶつかることもあるけどね」

 なにより院長自身が好きなんだろう。丁寧にトランペットを磨いている手を見ながらそう思った。僕には彼が正しいかどうかはわからない。ただウッドベースを抱える林さんの穏やかな顔を見るといいのかもしれないという気になった。

「で、お前らなにしに来たんだ」

 昨日の意識不明から一転してとても元気そうな山田先輩はベッドにあぐらをかき苺のショートケーキを手づかみで食べていた。目つきはもう不機嫌に戻っている。

「なにしにって、お見舞いですよ」

 ショートケーキを見て手土産を用意する発想がなかったことに思い当たる。

「俺は元気だ馬鹿野郎。てめえが助けやがったせいでな」

「実際死んでたかもしれないんだから、それ冗談にならないよ」

 悪態に対し院長が口をはさんだ。山田先輩が黙るのを見届けてから僕の方を見る。

「君が山田くんと一緒にいた子だね? 出血が多い上に救急車の到着が遅れたから本当に危なかったんだ。彼が今こうしていられるのは間違いなく君のおかげだよ」

 そう言われても助けた実感はない。僕は出血を止めたくてハンカチで傷口を押さえていただけだ。力の加減も忘れて必死に体重をかけた。駆けつけた救急隊員を振り払ったほどなので完全にパニック状態だった。

 山田先輩は仏頂面で黙り込んでいる。元々死にたがっているうえに、素直に感謝したりはしそうにない。そうして沈黙ができるとヨシイさんがいかにも思い出したという風にわざとらしく手を打った。

「そうだ。昨日のライブだけど、あんた来ないから店揉めてたのよ。で、病院送りになったから来れないって伝えといたから。代役も間に合ったから丸く収まったんじゃない?」

 ヨシイさんが山田先輩の入院を知ったのは僕が思っていたよりもずっと早かったようだ。知っただけでなくそんな方向にまで手を回していたなんて。僕は考えもしなかった。

「……電話したらマスターが変なこと言うと思ったらてめえか。俺は這ってでも出るつもりだったんだよ。余計なことしやがって」

「あんたが目覚ましたの真夜中でしょ? 超手遅れ。そんなことより私たちに言わないといけないことがあるんじゃないの? ありがとうございますとか、ご迷惑おかけしましたとか、あなた方のおかげですとか」

 ヨシイさんはニタニタ笑いながら患者を追い詰めている。

 院長によれば僕は命の恩人で、ヨシイさんはミュージシャンとしての恩人になるんだろう。店は商売でやっているわけだから出演をすっぽかすことは大きなマイナスの評価になるに違いない。ヨシイさんが連絡したことでどの程度軽減されたかはわからないとしても、助けにはなっているはずだ。

「あー! ォイエ~♪」

「ごまかすな!」

 山田先輩は歌い始め、手助けするようにハーモニカとウッドベースが声に絡んだ。

「世界中にぃ!」

「蹴りいれてやる」

 突然聞き慣れない声が病室に響き渡る。振り返ると男三人が入口に壁を作っていた。一人は若っぽい格好をした髭面の中年で、残り二人は高校生のように見える。

 高校生の、背が高く腰から無数のチェーンをぶら下げている方が叫んだ。

「音楽でボーダレスな世界にぃ!」

「騒ぐな」

 叫んだ途端中年に頭を叩かれてチェーンがつんのめる。

「シィィィイイット!」

「だから騒ぐな」

 また叩かれ、もうひとりのツナギを着た陰気な感じのする高校生が微かに笑う。

「なんだ元気そうだな」

 中年が寄ってきて山田先輩に声をかけた。意外にも山田先輩が頭を下げたりしたものだから、ヨシイさんが歯軋りをする。

「……ちわっす。休んですんません」

「気にするな。災難だったな。――遊んでねえでお前らもこっちに来い!」

 中年がコンガとウッドベースで遊んでいる高校生二人に怒鳴った。僕はそれでようやくその二人が山田先輩のバンドメンバーだと気がついた。ライブで見たドラムとベースがこの二人に間違いない。となると中年は店のオーナーかもしれない。

「楽しそうなもんがあるからつい……ゴキゲンなとこで良かったなあ、ヨシ」

 ヨシ、そう呼ばれた山田先輩は彼のバンド仲間に向かって人差し指を立てた。

「一日で退院する。明日の夜にはやるぞ」

「無理だね。認められない」

 院長があっさり否定した。山田先輩が指を一本増やしても首は横に振られた。

「抜糸は退院後でいいとしても感染症の心配がなくなるまではいてもらう。早くても一週間だ。安静にするわけないから治りも遅いだろうし」

 山田先輩は急に僕らの方を向いた。

「おいお前ら。何か買ってきてくれ」

 唐突に千円札を渡されて困惑したけれど、これは要するに席を外せということだろう。

「テキトーに飲み物。でかいやつ。あと雑誌。あー……お前に言ってもわかんねえかな」

「それなら私が選ぶ。あんたが読みそうなのくらい想像つくから」

「うるせえ、なら早く行け」

 追い立てられて不機嫌なヨシイさんと病院を出た。来た時よりも日差しが強くなっていて冷房で冷えていた体はあっと言う間に温められ肌に汗が浮く。

 飲み物は重いので帰りに病院のそばにある大型スーパーで買うとして、ヨシイさんによると山田先輩好みの本はちゃんとした書店でないと見つからないということだった。

 なにしろ町内に二軒しかない書店で近い方となると、松尾たちと乱闘した場所に行かなければならないのは仕方なかった。それに気づいてかヨシイさんも無口になり熱せられたアスファルトの歩道を黙って歩く。

 この地域の夏は長くいいかげん秋を感じてもいい時期の今日もやたら気温が高い。緊張も手伝って大汗をかいてしまっている僕に比べてヨシイさんは涼しい顔だ。

「あのさあ、ありがとうとか言ったらまた同じことする?」

「え?」

 聞き返すと、ヨシイさんは黙ってしまった。その質問に葛藤や素直な気持ちが見えた気がして少しおかしく、嬉しかった。

 彼女は多分まだ松尾のことを好きでいる。奴が痛めつけられたら彼女の心が軽くなるとかそういう単純な問題でもない。それでも聞かせてくれた言葉で、僕の身勝手で衝動的な行ためが赦されたように思えて心が軽くなった。

 明日からは今までのようにはいかなくなる。悪い方への流れが強く働くだろう。具体的に言うと松尾たちが反抗した僕を“更正”しようとするに違いない。ヨシイさんの問題も解決していないければ山田先輩もいない。その状態で僕はいじめられっこというステータスを捨て、できればヨシイさんも守る。不安はあってもやらなければいけないことだ。

 僕と違ってヨシイさんは強い。あんなになるほど傷ついて、その日のうちに山田先輩がけがをした情報を掴んでライブハウスに手回しをした。今日だってまだ塞ぎ込んでいていいはずなのに平気を装って見舞いに来ている。彼女よりも強くとなると目標はもの凄く高い。今の僕がより現実的に感じられるのは松尾たちを屈服させて高笑いする自分よりも、弱者の庭にヨシイさんと二人きりでまごまごしている自分だ。山田先輩に早く退院してほしいような、しばらくはそのままがいいような。

 書店に着くと、どうしても意識は隣の駐車場に向いてしまう。なにを考えるわけでもなくぼうっとした僕の手を「行こう」とヨシイさんが引っ張って、どきりとするその温もりに全ての雑念は吹き飛ばされた。あるいは雑念一色になった。

 手を繋いで店内に入り、奥のゲームコーナーの存在を意識して最悪に油断していた心が引き締まった。もし奴らがそこにいたなら絶対に絡まれる。そうなると必然的にヨシイさんに無様な姿を晒すことになってしまう。

 きょろきょろ首を動かして様子を伺うと幸い店内には奴らどころか一人の客もいなかった。ゲームコーナーも無人だ。

 ヨシイさんの手が軽く握り返していた僕の手をすり抜けて棚から派手なデザインの雑誌を抜き取った。どうやらそれが目当ての雑誌らしい。パラパラとめくり、ふとページを送る手を止めて感心したように鼻を鳴らすとそれからレジに向かう。彼女の興味を惹く記事があったらしい。

 清算を済ませて外に出るとヨシイさんはすぐに封筒から雑誌を取り出して僕に見せてくれた。僕もロック好きだと誤解されているんだろうか。「これこれ」と隅の記事を指差されてもどう反応していいかわからない。

 注目されているアマチュアバンドの紹介コーナーのようだった。白黒で小さなスペースしかないその記事にはライブ中らしい写真が載っているものの画質が荒いせいで人が立っているとわかる程度でしかない。

「リビングデッド。あいつのバンドだよ」

 あいつというのはもちろん山田先輩のことだろう。今更ながら山田先輩が組んでいるバンドの名前を知った。リビングデッド、生ける屍のことだ。

 ロックの芽と題してあるその記事の細かい部分を読もうとすると本は閉じられてしまった。さっと先を歩き出した背中に不機嫌が見える。犬猿の相手が評価された嫉妬にも思えたので「読ませて」とは言えなかった。

 自分から話しかけるのを遠慮している間に病院に着いてしまった。通り過ぎて少し先の大型スーパーで2リットルのスポーツ飲料を買い、病院のロビーで汗だくの肌を冷風に撫でられた鳥肌が戻らないうちに最上階の病室に入る。室内は大騒ぎだった。

「退院させると誓え!」

 リビングデッドメンバーは窓際に集まり、林さんたち同質の患者はその周りで右往左往している。開いた窓の外に落ち着きなく動く手が見えて、その窓に向かっている山田先輩は両脇にスラックスをはいた足を挟みこんでいた。誰かを窓から宙吊りにして脅しているらしい。脅されているのは要求からしてきっと宮崎院長だ。

「なにやってんのあんたたち!」

 ヨシイさんが怒鳴った。山田先輩が素直に聞くとは思わないけれど本当になにごともなかったように無視される。

「なにしてんだ馬鹿ども!」

 いつの間にか後ろに立っていたオーナーらしき中年が怒鳴って、今度ばかりは山田先輩たちも大人しく従った。怒りは静まらない。

「悪ふざけもいい加減にしろ! てめえら揃って出入り禁止にするぞ、ほんのちょっと注目されたからって調子に乗ってんじゃねえぞ馬鹿野郎!」

 出入り禁止。やはりオーナーらしい。

「注目ぅ?」

 院長を床に降ろしながら山田先輩は眉を歪めた。

「これのことじゃない?」

 ヨシイさんがさっき買った雑誌を開いてベッドの上に広げた。山田先輩とチェーンが覗き込んで目を丸くする。さっき見せてくれたリビングデッドの紹介記事があるページだ。

「うを、なんだこれ。ちょっと褒められてるぞ。照れるなあオイ」

「取材なんて受けてねえのにいつの間に」

「そうだ、そういやいつの間に」

 ひとりだけメンバーと興奮を共にしていないツナギがひょいと手を挙げる。

「この間、色々聞かれたから答えといた」

「……まあいいけどよ。そうなりゃ早く復帰しねえとな」

「となりゃあやることはひとつだな」

「うっ! うわあやめたまえ!」

 再び窓際に引きずられていく宮崎院長のベルトを捕まえてライブハウスのオーナーが山田先輩とチェーンを殴った。

「てめえらには学習能力がねえのか!」

 オーナーは三人を正座させひとしきり怒鳴り散らしたあと病室を出て行き、宮崎院長もそそくさと逃げ出した。

「くそう、こうなったら脱走しかねえか」

 山田先輩はちっとも懲りていない。チェーンが頷きツナギは笑いを噛み殺している。

「まともに治そうっていう気は少しもないの?」

 ヨシイさんは呆れ、林さんがウッドベースの弦を撫でながらぼそりと呟いた。

「治せるんなら、早く治した方がいいと思うな」

 その一言に部屋は静まり返った。余命半年の彼は山田先輩のように振る舞うことはできない。治るけがを引き伸ばすような真似はできない。

 山田先輩は膨れっ面でベッドに戻り、病室にはそぐわないおどろおどろしいデザインのギターを抱え音階を上り下りする短いフレーズをひたすら繰り返し弾き続けた。

 林さんは続ける。

「個人的な僕のお願いだけど、君のためにも早く治して退院してほしい。君だってこんな病室じゃなくちゃんとしたハコでやりたいだろ?」

 山田先輩は聞いているのかいないのかわからない様子だったけれど唐突に僕らを睨むと怒鳴り声をあげた。

「安静にするからてめえら帰りやがれ! 回復の邪魔だ!」

 ヨシイさんはやれやれ、という風にため息をついて廊下に出る。僕も彼女にならって退室すると背中にチェーンの張り切った声を聞いた。

「そうだ! 早く治して復帰しろ!」

「てめえらも帰れ!」

「シィィィット!」

 ロビーでエレベーターを待っていると病室の騒ぎがだんだん大きくなると思っていたら騒ぎの元は真後ろまで来ていて、振り返るとチェーンがツナギに大声を浴びせていた。

「せっかく見舞いに来たのになんだあの態度は!」

「……病院では静かにしろよ」

「規制のルールなんてぶち壊しちまえ!」

「ルールっていうよりマナーな」

 チェーンの怒声をツナギがぼそりと打ち返すやり取りが続いた。エレベーターが到着したので全員で乗り込むと一階のボタンを押す。チェーンが延々とわめき散らすので僕とヨシイさんは居心地が悪く黙って移動する階数表示のランプを目で追った。

「お前らヨシのクラスメイトか?」

 いきなりの質問に僕がまごついている間にヨシイさんが答えた。

「違います。下級生です」

「なんだ、後輩か。ってことはあいつ二年? 三年?」

「知らないんですか? メンバーなのに」

 驚いて聞き返すと睨まれた。チェーンに高い位置から見下ろされ怖気づいて思わず後ずさってしまう。

「あぁ? 聞いてんのは俺だよ」

「脅かすなよ」

 ツナギがチェーンの肩を叩いて諌めた。彼は良い人のような気がする。

「脅かしてねえよ!」

「お前基本恐いんだよ」

「んなもんしょうがねえだろうが!」

 一階に着くと二人に押しのけられるようにしてエレベーターを降り、病院に不似合いな喧騒を前にロビーを進んだ僕らも続く。二重の自動ドアを抜け外に出るとチェーンの口から出続ける不平不満は「暑い」という一点に集中する。

 見舞いは終わった。僕にはこれからの予定がない。ヨシイさんはどうだろう。これからどこかで遊べないだろうか。外での遊びなんてゲームセンターしか知らないくせにそんなことを考えて立ち止まった僕にヨシイさんは簡単に言い放った。

「どっかでお茶してく?」

「え――あ、うんうん!」

 あわをくって頷いた僕を見てヨシイさんは苦笑して、それからやいやい言い合いながら駐車場から歩道に出ていくツナギとチェーンの二人組を見る。

「あの人たちは……まあいっか。行こ」

 歩き出したヨシイさんに追いついて並んで歩く。

 僕はお茶をするような店、例えば喫茶店がどこにあるか知らない。ヨシイさんの足取りには不安や迷いを感じないので知っているんだろう。

 ヨシイさん任せで歩きながらどんな話題を出したらいいのか思いつかず既に会話がない。こんな調子で喫茶店に着いたらどうすればいいのか。緊張がどんどん強くなっていく。

 喫茶店は駅前にちゃんとあった。小さい頃僕がよく通っていたおもちゃ屋の二軒隣の角地だ。地味な佇まいで古ぼけているので最近できたわけでもない。何度も前を通っていながら、一度も気にしたことがなかった。興味を惹かれないから意識的な死角になっていたんだろう。ライブハウスを知ったのもごく最近だ。

 店内に入ると、中はTVで見るようなお洒落な喫茶店といった印象はなく、内装は外観同様に古めかしい落ち着きを備えていたのが僕にとっては救いだった。都会的だとか流行のセンスには馴染めない。

 木目の浮いたカウンターにスツールが七席と、窓側に向かい合わせのソファとテーブルが三組。小さい店だと思う。この店の雰囲気は客に望まれてのものらしくゆったりとした音楽の流れる中数人の老人がコーヒーカップを前に新聞を読むなど思い思いに時間を過ごしている。

 一番奥のテーブル席にヨシイさんと向き合って座った。擦り切れて柄の消えたソファーは電車の座席みたいな座り心地がする。窓の外ではスーパーの帰りらしく自転車に乗ったおばちゃんが膨らんだビニール袋をかごに載せよろけながら目の前を通り過ぎて行った。

 注文のあとはしばらく無言でいると清潔そうな白いシャツを着たマスターがコーヒーを運んできた。客同様に老けた品の良い男性だ。僕はおろおろしながら、ヨシイさんは小さく頷いて受け取る。背伸びして頼んだコーヒーを前に緊張が増した。

「どうしたの? すごい汗」

 客層を考えてのことだろう、店内の空調は弱く今の僕にはまだ暑い。もっとも僕は暑いからというだけで汗をかいているわけでもない。

「あんた、明日からどうするの? その……あいつら殴っちゃったんでしょ?」

 急な質問ですぐにはなにを聞かれているのかわからなかった。僕の明日からの学校生活を心配しているらしい。松尾たちと乱闘をしたのは自分のせいだと思っているからだろう。不安げに寄る眉が僕のためだと思うと少し嬉しい。

「なんとかなるよ、大丈夫」

 そう言いながらも忘れていた問題を思い出させられて胃が重くなるのを感じた。喫茶店でヨシイさんと二人、なんて浮かれている場合じゃなかった。心を読まれたのかヨシイさんは納得できない顔をする。僕は重ねて言った。

「気にしなくていいよ。元々僕の問題で僕がやったことだから」

 確かにきっかけにはなったかもしれない。でも爆発する材料は充分あった。キレて暴れるなら、もっと早くてもよかったはずだ。

「あいつになにか言ったりしなくていいからね。ひとりでなんとかできるから」

 もう走り出してしている。これまでの生活には戻れないし戻りたくもない。時々考えていた最悪の選択よりはずっと前向きな道を僕は今選んでいる。弱者の庭に行ってから、山田先輩とヨシイさんに出会ってから、僕の中でなにかが変わった。明日からはなににも頼らずに向き合わなくてはいけない。ヨシイさんには感謝していいくらいだ。

 なんとかなる、大丈夫。そう自分に言い聞かせる。正直に言えば不安でたまらない。かといって避けて通れる問題でもない。僕の覚悟ができていなくても奴らとは必ず対決することになる。それを乗り越えない限りきっと根本的に変わることはできない。

 頭の中でか細い決意を寄り集めている内にヨシイさんの表情は険しくなっていった。声をかけようと思った時、ヨシイさんは急に窓の外に目を向けた。次いで、言う。

「ありがと」

 彼女も山田先輩と同じくらい素直じゃないかもしれない。おかしくて笑いをこらえる。

「だからヨシイさんのためにしたわけじゃないってば」

「言わせてよ。でなきゃ頭の中パンクしそうなの。あいつがあんたに殴られたって聞いて、ちょっとすっとしたし。あんたじゃなかったらムカついてたと思うし」

 よくわからない。ヨシイさんは僕がそうすることを望んでいたんだろうか。

「喜ばせるためにやったわけじゃないよ」

「わかってる。……あんたも強情だね」

 そんなことない、と反論すれば逆に認めることになりそうで僕は黙ってコーヒーを飲んだ。あまりにも苦かったので観念して砂糖を入れようと思ったら白い粒の入った小瓶はテーブルの端に二つある。砂糖と塩を見分けようと小瓶を見比べる僕をヨシイさんは笑ってこれ見よがしにそのままコーヒーを飲み干して見せる。僕の中で乗り越えなければいけないものがひとつ増えた。


 翌日、朝まで一睡もできなかった僕はゆっくりと登校する時間を迎えた。寝不足で頭蓋骨が広がったような感じがしてぼうっとする。生まれて初めての徹夜だった。眠れなかったのはコーヒーを飲んだせいじゃない。なにをしていたかと言えば、奴らがどう僕の前に現れてなにをするか、延々と傾向と対策を練っていた。多分意味はない。

 学校に着いて始業のベルが鳴っても奴らの誰とも顔を合わさなかった。昨日逆らったので早目にプレッシャーをかけてくる可能性が高いと思っていたのでほっとする。

 下足室でヨシイさんと会ったけれど軽く手を挙げて挨拶しただけでお互い近寄りもしなかった。僕は松尾たちと対決しなければいけない。彼女は松尾のそばにいたい。それならトラブルになるので学校では接触しないことに決めた。話すことがあるなら弱者の庭か山田先輩が退院したあとのライブハウスで。それと彼女はまだ弱者の庭からうまく出られないので休み時間の終わりには僕が行って、いれば連れて出ることも改めて決めた。

 同じクラスに奴らの仲間はいないので授業中は警戒する必要がない。夜寝ていないせいでやたら眠く授業はまったく頭に入らなかった。

 一度目の休み時間は机に突っ伏してうたた寝で過ごした。廊下とは逆方向、花壇のある庭に顔を向けて奴らが廊下を通っても目に止まらないよう努める。対決するはずが放課後まで弱者の庭で寝ていようかと弱気がむくむく育つ。

 眠ったまま二時間目に入り、教師の注意で目を覚ましてからは眠気を飛ばそうと頭を振ってばかりいる内に授業が終わった。

 二回目の休み時間、夜通し考えたパターンにはなかったことが起きた。

「おい、起きろよ」

 寝ていた僕の頭を誰かが小突くので遂に来たかと立ち上がり、反射的に校舎裏に行こうとする自分に腹が立った。もう奴らのルールに従うつもりはないのに。

「呼び出しに来たわけじゃねえって」

 僕の動きの意味がわかったらしく少し馬鹿にしたように笑っている。確かに奴らの内のひとりではあっても、乱闘の時松尾に逆らった奴だ。松尾が呼んでいた名前を思い出せない。それよりも、なんだか顔が腫れているように見える。きっと松尾だ。それ以外に考えられない。制裁はもう始まったらしい。

「あの人入院したんだって? 大丈夫なのか?」

 顔の腫れや、松尾に逆らった自分の立場を話題にするつもりはないらしい。当然山田先輩のことだろう。ヨシイさんといいどうしてこう皆耳が早いのか。僕は現場にいなかったならしばらく気づかない自信がある。

「大丈夫だよ。二週間ぐらいで退院できるらしいし」

 本人がそれを待つかどうかは疑問だ。

「ふ~ん、お前は大丈夫か?」

 僕が刺されたなんてデマが広がっているわけでもないだろうに妙なことを聞かれた。もし僕が直面している問題に対する心配なら不快だ。奴らと同類のくせに味方の振りをされるなんて気分が悪い。

「なにが?」

 できるだけ涼しい顔を作ろうと努力した。けれど多分眠そうにしか見えていない。

「なにがってお前、平気ならいいけどよ」

 ぶつぶつ言いながら教室を出て行く背中に二度と来るなと念を送った。にも関わらず、そのあとも休み時間の度に彼はやってきた。興味のないTVの話をされるのは鬱陶しかったので昼休みはなるべく急いで給食を食べ終えるとすぐ弱者の庭に避難した。

 いつも山田先輩が座っている辺りにヨシイさんがうずくまって塞ぎこんでいた。休み時間にはずっといなかったので安心していたのが間違いだ。平気なはずがない。僕に負担がかかると遠慮もしていたから、必死に耐えていたんだろう。

 どうしたの? と聞くのは間が抜けている。大丈夫? と気軽に気遣うには知りすぎている。僕が言葉を選んでいるうちにヨシイさんが僕に気づいた。

「なに見てんの」

「いやその……ごめん」

「あんたが謝ることないでしょ。ああもう! なんなの男って!」

 眉間にしわの寄った顔が組んだ腕の間に埋もれていよいよ見えなくなった。昨日二人でいた時よりもここの日差しは優しいのにヨシイさんは汗をかいているのか腕が光っていた。いや、涙を拭ったあとだ。僕の推測が正しいと認めるみたいなタイミングでヨシイさんははなをすすった。ハンカチを渡すと、顔にあてて「うー」と唸る。

「ありがと。ねえ、男のくせにいつもハンカチ持ってんの?」

「便利だから。けがした時とか」

「……そっか。そういやこないだのまだ返してないよね」

「いつでもいいよ」

 ヨシイさんは顔を上げて深く息を吐いた。痛々しいくらいに眼が赤い。見てはいけないような気がして目をそらした。

 そういえばヨシイさんはいつからここにいたんだろう。休み時間の終わりには様子を見に来てはいたけれど、四時間目の終わりから給食が終わるまでは見ていない。

「いつからここにいたの? 給食食べた?」

「食べたよ。始業前にも来ちゃったけど、今はさっき来たばっかり」

 ハンカチで顔は隠したままヨシイさんは小さくVサインをした。二回弱者の庭に来た。つまり一度は自力で出られたということだ。Vサインをするくらいだから、多分体育館裏以外の場所に。

 山田先輩が退院する頃にはヨシイさんはひとりでも弱者の庭へ自在に出入りできるようになっているかもしれない。それとも死にたいとは思わないようになっているだろうか。その時には僕も普通の健やかな中学生になっていたい。

 山田先輩はどうだろう。彼が死にたい理由、弱者の庭に来る理由を僕は知らない。僕の場合は逃げ場がなくなったから死のうと思った。彼は単なる暴力には負けない。「俺は元気だ馬鹿野郎。てめえが助けやがったせいでな」と見舞いに行った時言われた。でも今は回復に努めている。刺された時も諦めたように見えたけれど、満足はしていなかった。

 なぜ死にたいんだろうか。本当に死にたいんだろうか。僕自身完全に死ぬ気にならなかったからそんなことを思うのかもしれない。山田先輩のことを知らない以上いくら考え込んでもわかりそうになかった。

「あいつ、あんたになにかしてきた?」

 途方に暮れる僕をヨシイさんの質問が現実に戻した。自分のことで手一杯なくせに彼女は僕のことを心配する。こんなに優しい人がどうして苦しまなければいけないんだろう。

「今日はまだ会ってない。そっちは?」

「聞かないで。私、別れようと思ってる」

 僕とヨシイさんの悩みの種は共通している。松尾は僕にとって敵で、ヨシイさんにとっては恋人だ。二人のことに干渉するつもりはない。けれどヨシイさんが松尾と別れる決心をして、それでも松尾が彼女を苦しめようとするなら、その時は助ける。

 僕にできることを実際にするためにはまずは自分の境遇に立ち向かいそれだけの余裕を獲得しなくてはならない。

 改めて決意する。僕はいじめられっこをやめるんだ。


 僕の決意をほったらかしにして松尾たちは一度も絡んでこないまま週末を迎えた。たまに廊下ですれ違っても睨まれるだけでなにもない。もう脱いじめられっこできたんじゃないかという気さえしてしまう。

 一方ヨシイさんの状況は良くないようで、詳しく話は聞かないけれど弱者の庭以外で偶然見かける時にも眼を赤くしていることが多くなった。彼女に貸したハンカチも四枚に増えた。あと彼女の苗字は“吉井”と書くと知った。

 乱闘の時松尾に逆らった奴は緒方という名前で、吉井さんは「がっちん」と呼んでいる。今でも時々僕のところに来るそいつが僕のために色々してくれていると吉井さんから聞いた。具体的には吉井さんが言葉を濁したので聞けていない。松尾たちに絡まれずに済んでいるのは、彼のお陰なんだろうか。

 だからと言ってとても感謝する気にはなれない。僕と緒方では相容れない決定的な理由がある。緒方は松尾を「根は良いヤツ」だと思っている。僕にとってはクソだ。

 松尾は元は普通の生徒だったらしくそれが中学に入り急に悪ぶるようになって一気に不良化してしまったそうだ。緒方は松尾が元の「良いヤツ」に戻ることを望んでいて、これからは様子を見るのはやめて彼なりに対決するつもりらしい。緒方にとって僕は不幸な犠牲なんだろう。一緒になって僕を殴っていたくせに今更第三者面なんて冗談じゃない。

 僕のためになにかするくらいなら吉井さんの力になってあげてほしい。そうは思っても緒方は吉井さんと松尾の仲はうまくいっていると勘違いしているので期待できない。

 困るのは周囲に僕と緒方が友達と誤解されていることだ。僕自身は絡まれることもなく平和なのに、立場は前より複雑になっている気がする。


 そして日曜。山田先輩は退院を果たし夜にはもうライブハウスのステージに立った。入院中にたまったフラストレーションを爆発させて飛び跳ねる山田先輩を見ていると傷の治り具合が心配になる。動く度Tシャツがめくれて巻かれた包帯が見えた。予定より早い退院は治療に専念した成果だとしてもこれだけ激しく動いてなんともないとは思えない。

「ふーん。ちょっとは客のこと考えるようになったんだ」

 山田先輩の自分の健康状態を考えない大暴れを吉井さんはパフォーマンスととったらしい。僕には鬱憤を晴らしているだけにしか見えない。

 気になっていることを口に出してみた。

「ねえ、山田先輩のお父さんかお母さんに会った?」

 吉井さんは首を振る。

 僕も吉井さんも何度か見舞いに行ったのに一度も家族と会わなかった。着替えなど身の回りの品が増えている様子もなかったから、考えにくいけれどひょっとしたら家族は一度も来なかったのかもしれない。

「なんか、結構問題のある家庭らしいよ」

 吉井さんでも詳しくは知らないのか、それともプライベートに深く関わることなので言いにくいのか、なんだか迷うような言い方だった。

 ステージでは山田先輩が髪を振り乱して歌っている。僕は彼をよく知らないし彼も僕を知らない。それでも僕らは一番人に知られたくない部分で繋がっている。人生に絶望したことがあること。今は前向きに生きようとしている部分も同じであってほしい。

「すいませーん遅れました」

 元気の良い声が入口の扉を開けて飛び込んできた。室内の熱気とは違う蒸した空気まで入り込んでくる。場にそぐわない爽やかな声は演奏にかき消されたらしく飛び跳ねている観客は誰一人反応しない。

 なにかと思って見ると緒方だった。黄色いビールケースを重そうに抱えていて、僕らに気づいて驚いた顔をする。

「なんだお前ら。変な組み合わせだな」

「なんて言うか、付き合いってやつ?」

 吉井さんは明るく返す。現れるのがわかっていたかのように平然としていた。

 最近緒方には学校でつきまとわれていると言ってもいいような状態なので突然の登場に学校外でも現れるようになったかと心底驚いた。驚いているのは緒方も同じだ。

 都合のいいタイミングで吉井さんが言葉を挟んだ。

「家の手伝い? 感心感心」

 よく見ると緒方は焼酎のロゴが入った丈夫そうな前垂れを腰に巻いている。見るからに酒屋だ。家の仕事を手伝っているんだろう。

「そう言えばお父さん腰痛めてるんだっけ?」

 吉井さんは衛星で町中を監視しているんじゃあないだろうか。

「ああ。そう酷くはないけど配達は無理だな。仕方ねえよ、トシだし」

 やれやれ、というような顔をしてカウンターにビールケースを乗せるとバーテンに伝票を渡す。ちょび髭のバーテンはなにも語ることなく表情ひとつ変えずにサインした。

「あっざいまーす……じゃあ俺次あるから」

 首に巻いたタオルで汗を拭く横顔が大人びて見える。次の配達へ向かう緒方を見送ったあともしばらく考えさせられた。家の手伝いとはいえ彼は労働をしている。けたたましい音楽の支配する地下でオレンジジュースを飲んでいる自分が幼稚で惨めに感じられた。

 同じ場所にいても僕がここにいる理由は誰とも共通していないような気がする。山田先輩のようにステージに立ちたいとは思わないし他の客のように飛び跳ねようとも思わない。山田先輩の歌が好きでここにいるにはああしてエキサイトしないといけないんだろうか。この前来た時は山田先輩自身がじっとしていたのでなんとも思わなかったのに、今日は動き回っているのでそんな風に考えてしまう。


 山田先輩たちの演奏が終わったので店を出て地上に戻った。夜の空気は冷え込み始めている。今年初めて秋の訪れを感じた。

 今から将来のことを考えておくように。学校で担任教師がそんなことを言ってプリントを配った。進路希望調査書。僕は進学に丸をつけただけでそれ以上質問に答えることができない。将来なんて言葉は遥か彼方にあるように思え、就きたい職業も思いつかない。もっと手近な未来の、希望する高校すら決まらなかった。

 山田先輩は一学年上なのでその問題に対し僕よりも深刻な位置にいるはずだ。進路はどうするんだろうと考えて、それから笑った。山田先輩が希望する進路はわかりきっている。堂々“ロックスター”と書き込むだろう。

 僕も同じように書くためだけにギターを初めてみようかと少しだけ考えた。


 翌日月曜日の昼休み、弱者の庭で僕は口を開けた間抜け顔でオウム返しに聞き返した。

「ビッグチャンス?」

「ああ。ビッグチャンス」

 珍しく山田先輩は機嫌がよくにやにやしている。

「今度の土曜スカウトマンが見に来るから気合入れとけってオーナーに言われた」

 スカウトされるかもしれない、ということだろう。卒業前にメジャーデビューなんて、もしかしたらもしかしたら。

 ビッグチャンス。僕の人生にそんなものが突然出現したら全身全霊で疑う。それが山田先輩の場合信じられるのは彼自身がそれなりのことをしているからだ。

「え、いきなり認めてもらえると思ってるわけ?」

「うるせえ。俺がスターになるのを黙って見てやがれ」

 吉井さんの厳しい意見も気にしていない。本当に嬉しそうだ。無事退院もできて、夢も形になるきっかけが出てきた。

 なのに彼は弱者の庭にいる。なぜだろう。希望を打ち消して余りある絶望を持っているんだろうか。表情の奥の心を探ろうとじっと顔を見ていたら睨まれた。

 放課後、僕はなんとなく気が向かず弱者の庭には行かなかった。吉井さんも今日は早く帰ると言っていたし、今夜は山田先輩のライブもない。

 久しぶりにまっすぐ家に帰ると、いつも通り誰もいなかった。最近は下校が遅くなることもあったので先に母がパートから帰っていることもある。どうでもいいことだ。

 自分の部屋に入りBGM代わりにラジオをつける。山田先輩の歌は好きになったものの僕の生活に変化はなくロックに浸ってはいない。

 この番組ではリクエストを――というラジオのメッセージを聞いて思い立ち机の引き出しを開ける。考えたことを実行するには僕の引き出しは力不足だった。

 仕方なく宛て先をメモにとった紙を持って一階のリビングに下りる。棚や引き出しを次々に空けてハガキを探す。そのうちに何度も開けたことのある食器棚の横の棚に手が伸びた。急な支払いに備えていつもある程度現金が入れてある。松尾に金を催促される度に最低な気分で何度も開けた。減っていることには気づかれていたはずだけれど、なにか言われたことは一度もない。

 引き出しを開けると一番上に皮の財布が見える。今はそれに用はない。ハガキはないかと財布をどけると片面二枚綴じの小さなアルバムが出てきた。なんとなく開いてみる。保育器に入っている産まれたての赤ん坊から、男の子の成長を追う写真が収められていた。

 僕だ。小学校の修学旅行出発前夜、荷物を整理する僕を写したものを最後に空白が続いている。憶えてはいないけれど不意打ちで撮ったらしく僕がこっちを、カメラを睨んでいた。アルバムは半分ほどしか埋まっていない。

 僕が写真を、特に家族との記念撮影を毛嫌いするようになったのはいつからだろう。自分のことを理解していない家族と並んでシャッターが下りるのを待ったり、ましてや現像された馬鹿面を眺めるなんて冗談じゃないと思うようになったのはいつからだろう。

 このアルバムの持ち主は早くから子育てに参加する意欲を失ったか、始めから持っていなかった父じゃあない。母に決まっている。証拠に引き出しには母の持ち物らしきものが他にもあった。この引き出し自体母の管理なんだろう。

 ふと疑問がよぎった。母個人の持ち物? 考えてみれば母には自分の部屋もなく個人の物を置くスペースが無い。この引き出し以外には洗面所に化粧品が多少あるだけだ。

 引き出しの奥に母宛てのハガキが束になっていた。プライベートな物なので今更だけれど気遅れしつつ手にとって確かめみた。輪ゴムでまとめられ束にこそなっているものの、十数年の期間にまたがっていて一年ごとに見ると数は多くない。それも段々数が減り、去年からは一枚も無い。他の場所に置いてあるのかもしれない、とは思えなかった。去年や今年の分が極端に少ないわけでもない。

 パートと家事に追われる毎日で、出かける用事といえば食材や日用品の買い物。飯、風呂、寝るの夫と、反抗期まっしぐらの息子だけの生活でよく正気を保っていられると呆れた。本当は、僕に呆れたり同情したりする資格はない。

 アルバムと年賀状を元に戻し、泣きそうな気分で自分の部屋に戻る。母のことを悲しんだわけでもなければ自分の行いを反省しているわけでもない。ただなんというか泣くことを必要に感じた。

 僕は色々な理由で生まれ変わらなければいけない。今まで松尾に金を届けるために散々開けた引き出しの奥のものに気づかなかった。知らない振りをしてくれていた母になんの気持ちもなかった。アルバムの時間を止めてしまうだけの理由が僕にはあったんだろうか。あふれた涙を枕に押しつける。

 しばらくして気分も落ち着いたのでリビングに戻って麦茶を飲んだ。ついつい視線が引き出しにいく。

「ただいま」

 玄関が開け閉めされる音に続いて母の疲れた声。理由もなく体がびくりと反応してしまった。いや、理由はある。無断で母の領域に踏み込んだ引け目だ。

「おかえり」

 母の帰りを迎える息子はこんな風でいいんだろうか。できるだけ自然を装って玄関に声をかける。ビニール袋がばさばさとこすれる音が止まった。

 無言で玄関まで行き、驚いている母を無視して食材の詰まったビニール袋を奪って冷蔵庫の下まで運ぶ。どうすればいいかわからないのでここから先は手伝わない。呆気にとられた顔で母がついて来た。このくらい親孝行でもなんでもないけれど、不自然に思われているようなのでなにか聞かれたらもう逆ギレしかできそうにない。

「晩ご飯なにがいい?」

 母の質問は不自然を指摘するものでも怪しむものでもなかった。戸惑って返事に迷う。僕がすぐに思いつく料理なんてカレーともう一つくらいしかなかった。

「からあげ」

「じゃあ鶏肉を買いに――」

「わざわざまた行かなくていい!」

 今買って来たばかりの物も放置したまま嬉しそうに出かけようとした母を呼び止める。荒っぽい言い方になってしまった。

「作る予定だったやつでいいよ別に」

 それ以上は母と向き合っている状態が照れくさくて二階の自分の部屋に戻った。避難だ。山田先輩のバンドの曲をリクエストしようとしていたことはもう忘れてしまっていた。

 夜になりにこにこ顔の母に見守られながらの居心地の悪い夕食には、材料がなかったはずの鳥のからあげが出た。

 食後窓辺で熱を逃がしていると、表を山田先輩が坂を下っていくのが見えた。

「山田先輩!」

 思わず用もないのに呼び止めてしまった。山田先輩は立ち止まってこちらを睨む。

「なにしてるんですか?」

 とりあえず口を出た質問は最悪だった。

「おちょくってんのか。俺の家はそこだ。知ってんだろ」

 居間の置時計を見るとデフォルメ化された鳩がくるくる回る上で針は八時を差している。僕もライブで遅くなることがあっても基本的に健全な中学生は家に帰っている時間帯のはずだ。かといって山田先輩を健全とは思っていない。だからしょうもない質問だ。

「こんな時間までなにを?」

「練習だよ練習」

 そう言って背中のギターケースを揺する。

「遅くまで大変ですね。親に怒られたりしないんですか?」

 普通のバンド出演もそうだ。彼の両親は息子が本気でロックスターを目指していることをどう思っているんだろう。応援してくれる親はあんまり多くはないように思う。

「余計なこと聞くんじゃねえよ」

 いつもより数段怒った顔で凄まれた。心臓音が強く響く。初対面の時のように恐い。

「……すいません」

 最初に会った時は山田先輩一人の空間に侵入した。彼にとって僕はイレギュラーだ。今度は多分、心に踏み入ろうとしてしまったんだと思う。山田先輩が許す範囲を超えた。

 大きな舌打ちを残して山田先輩は歩き出し、音も明かりもない家に入っていく。彼の家はいつ見ても静かだ。

「今の子ひょっとして山田さんとこの?」

 遠慮がちに母が聞いてきた。洗い物の途中らしくキッチンから水音が聞こえる。

「そうだけど。なんだよ」

「お友達?」

「だったら?」

 母は僕が聞きもしないことをべらべらと喋った。

 山田先輩の両親は離婚していて、山田先輩を引き取った父親もけして立派な父親とは言えないこと。具体的には酒乱で暴力を振るうらしい。建築関係の仕事に就いていてほとんど家にはいないそうだ。

 ろくでもない家庭のろくでもない子供だから付き合ってほしくない。母はそう言いたいらしい。そう言えばこの人は教育ママだった。僕が反抗するようになってからはなにも言わなくなったけれど。

「だから?」

 僕の心は動かなかった。家庭環境がどうあろうと山田先輩は山田先輩だ。

 冷たい言い方だったと思う。母は悲しそうな顔でキッチンに引っ込んでしまった。優しく接しようと決めたばかりで、今もその気持ちは変わらないけれど山田先輩のことは別だ。ようやくできた友達のことに口を出してほしくない。

 部屋の窓から山田先輩の家を見た。貧弱な街灯を反射しているだけで光も音もなくロック好きの学生がいるようにはとても見えない。父親は留守だろうか。

 物音一つしない真っ暗な家に一人でいるなんてまるで幽霊みたいだ。洒落にならない感想を慌てて否定する。山田先輩は弱者の庭で忘れられた人たちの亡霊が見えていて、じきにその仲間入りをしようとしている。

 山田先輩を助けるには絶望している理由を知ることが必要だとはわかってもさっきの反応といい聞き出すことはものすごく難しい。彼が作る心の壁はとても強固だ。どうにか、それを溶かす方法を見つけなければ。


<続く>


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