リビングデッド 生きていても死んでいるような虚無/後

 放課後あの場所にいると山田先輩はあとからやって来た。忽然と出現した彼に驚き、僕がここへ来る時もこんな風なんだと理解すると同時に彼の様子を見て更に驚いた。僕の顔も散々だけれど、山田先輩の顔はもっと悲惨だった。顔のほとんどがガーゼに覆われていてかろうじて目や鼻が出ている状態だ。

 先輩とかによくぼこぼこにされてる。今朝聞いた話を思い出した。まさか山田先輩もいじめられているんだろうか。僕とはタイプが違うけれど周囲には馴染めそうにないところは僕と同じだ。

「お前、保健の先生に階段から落ちたって言ったろ」

 ガーゼでほとんど顔が見えないので、喋ると顎の動きに合わせてガーゼがもぞもぞ動いて少し面白い。

「俺も同じこと言ったからどこにそんな血まみれの階段があるんだって怒鳴られたぞ」

 口の端をあげてちょっと笑った、と思う。ガーゼで表情が読めない。

「テープの感想を聞こうか」

 けがのことなんかどうでもいい、というような様子で壁際に座り込んで視線を前に投げ出す。彼は僕と違って殴られても落ち込んだりしないんだろう。

「テープの感想。早くしろ!」

 声が苛立ったように跳ね上がった。唸るような低音から一気に鼓膜を突く高音。それを聴いて、山田先輩ならあのテープに近い歌声を出せるのだろうと思った。

「実を言うと……あんまり、ぴんと来なかったです。……すいません」

 正直に言うのが一番だと思った。てきとうに共感して見せてあれこれ薦められるのも気鬱で、そもそも彼を騙したくはない。

「そうか」

 彼の反応は淡白なものだった。黙ったので機嫌を損ねたかと気になったが、単に考えごとをしているだけだったようだ。

「……お前、普段どんなの聴いてんだ」

「あー、えーと。ほとんど聴かないんですよ。車の中で親がテープかけるくらいで」

 ラジオは右から左だ。

「なら親はどんなの聴いてんだ」

「松山千春とか、かぐや姫とか、谷村信司です」

 今度は声にして軽く笑った。親の趣味を笑われ腹立たしいとかそういう感情は僕にはなく、彼もけして馬鹿にしているわけではなさそうだ。

「ニセモン聴いてるわけじゃねえみてえだな。それならいいさ。無理に押しつける気はねえけど、お前もいつかロックがわかるようになる。なにか聴きたくなったら言ってくれ。俺がまだ……消える前だったら貸してやれるから」

 言い終わるまでに和んだ声から寂しそうな声に変わった。

 それきり彼は黙って、僕もなにも言わなかった。ここが見える通りの穏やかな場所ではなくて幽霊だらけで人の存在を消してしまうような恐ろしい場所なら、おしゃべりは似合わないはずだ。

 聞いた話を信じれば山田先輩は魔法使いでもなんでもなくいつか消えてしまうロック狂で、満身創痍の自殺志願者だということが僕との共通項だ。

 窮地から彼を救おうとも思わなければ、僕自身が強く生きていこうという希望も出てこない。どうでもいいとは思わなくても、いつも通り無抵抗な姿勢でいるのは楽だった。


 次の日の朝、僕は学校に着くとすぐに例の場所に行った。靴を保管する場所にそこほど好条件の場所はないからだ。今ここに来られるのは山田先輩と僕しかいない。山田先輩は僕の靴に手を出したりはしないだろう。普通しない。

 山田先輩はいなかった。彼も四六時中ここにいるわけじゃあない。本人はいないけれど、彼の低位置の横に座り込んでしばらくぼうっとしていた。朝だというのにここの太陽は高い。雨が降っていてもここでは穏やかな日差しが約束されているんじゃないだろうか。初めに感じていた気色の悪い不自然は暖かい日差しにごまかされてしまった。

 移動の後遺症で気持ちが落ち込み塞ぎ込んでいたら地面に人影があるのを見つけて顔を上げた。挨拶をしかけ、喉が凍りつく。そこにいたのが山田先輩ではなく、知らない女子生徒だったからだ。

「あんたなにしてんの?」

 体を折って顔を覗き込まれ、僕は見上げた格好のまま硬直する。ここへは山田先輩と僕の他には誰も来られないはずだ。

 唖然としているとその女子は体勢を維持するのに疲れたのか腰を伸ばして背伸びをした。目の前で短いスカートが揺れる。

「んー。気がついたらここにいたんだけど、ここなに? 学校っぽいけど違うよね?」

 言葉が出なかった。ここがどういう所か説明はできる。しかしそうすると彼女がいかにここに相応しくないか確認することになる。別の誰かがやって来る可能性はあっても、よりにもよって彼女のような人物が来るとは思わなかった。

 大きく見えた眼は顔が近かったせいではなく、宝石のような輝きを持ってバランスよく小さな顔に収まっている。細い腕を上げ眩しそうに掌で太陽を透かすと本当に透けて見えそうに肌が白く反射する。若干色の抜けた茶髪は光の中で輝いて、顔立ちは少し日本人離れした美形だ。

 まるで女神だ。それだけの容姿なら自殺を考えるほど悩まずに済むに決まっている。彼女がここに相応しくないと思う理由はそれだ。ひとつでも優れている部分があれば、それだけで勝ち組のはずなのに。

「なに? じろじろ見て。どうでもいいんだけど、さっきからここから出られなくて困ってんだよね。あんた、なんか知ってる?」

 ここから出られない。僕も体験したことだ。なら彼女はなにかの間違いでじゃなく、条件にあてはまってここにいるんだろうか。つまり、彼女も死にたがっているんだろうか。

「い、今責任者呼んで来ますから」

 うまく説明する自信がなかった。更に言えばひとりで彼女の相手をするのがなんだか気恥ずかしい。せめて山田先輩がいてくれたら。

 もしかするとまだ登校していないかもしれない。それでも彼女と二人きりでいるのは辛いのでとにかく外へ出て校内を探し回った。ここを出たい理由は身に迫っているので出る時のイメージは簡単だった。

 あちこち探し回って二年生の下足室で山田先輩を見つけた。丁度登校してきたところらしい。しかしとても声をかけられる状態ではなかった。

 山田先輩は数人の男子生徒に囲まれていて。ぞろぞろとひとかたまりになって動き出すのについて行くと校舎裏に入って行った。

 囲んでいる男子には僕の知っている一年生もいたけれど、ほとんどは知らない顔で上級生のようだった。山田先輩が一番姿勢と目つきが悪いのでまるで親分のようにも見える。でも仲間、というような雰囲気はまったくない。全員が攻撃的な視線をちらちらと山田先輩に向けていて、囲んでいるのは逃がさないようにするためなのは誰が見てもわかる。校舎裏へ行くからには山田先輩の顔を覆う昨日のままのガーゼは役に立たなくなるだろう。

 輪の中には僕をいじめている奴らのリーダー格もいた。上級生と繋がりがあるんだろう。今見たことと山田先輩のけがが、昨日の朝のドロップキックと関連していると勘が働いた。山田先輩が奴の子分を蹴ったから、奴が上級生を巻き込んで復讐している。そう考えれば自然だ。

 離れた所から校舎裏に入る角を窺いながらじっと待った。あの時自分がテープを落としたせいで山田先輩が酷い目に遭っているというのに助けに行く勇気が出ない。

 空が曇って校舎の陰が曖昧になった。うつむいた眼の奥が熱くなる。悔しい。山田先輩と仲良くなろうとしたのは情報を得るためなんかじゃない。僕は彼と友達になりたかった。同じことを考えていて共感できる仲間だ。責任よりも友達として山田先輩を助けたい。けれど恐い。臆病な自分がひどく恨めしかった。僕には友達が救えない。

「あんたなに泣いてんの?」

 目の前にあの女子がいた。彼女はまだ出る方法を知らないはずだ。僕の心境を考えれば彼女が脱出できたのではなく、僕が移動したと考えるべきだ。見回すとやはり教室のない校舎がある。

「なんでもないです」

 強がる元気はなんとか残っていた。人前で涙は流したくない。そのくらいのプライドは持っている。それでも出るものはしょうがなかった。

「なんでもないって言ったって、思いっきり泣いてんじゃん、キモー」

 なにがおかしいのか女子は楽しそうにけらけら笑った。憎らしい。どんなに顔やスタイルが良くても彼女のことは好きになれそうにない。

 いじめられっこを見る目は大抵そうなので気持ち悪がられることには慣れていたけれど目の前で明るく言われたのは初めてだ。彼女がここにいるのはやはり間違いのように思う。同族ならば笑えないはずだ。

「なんだそいつ」

 彼女の後ろに山田先輩が忽然と現れた。文字通りの膨れっ面で手酷くやられている。はがれかけたガーゼについた血はまだ濡れていて痛々しい。そんな状態でも健在の鋭い眼光が女子に刺さっている。

 同じように暴力を振るわれていても僕と山田先輩は根本的な部分で違う。校舎裏に移動する彼の姿勢を見ただけでもそれはわかる。僕はただやられるだけで、山田先輩は反抗できるのだろう。彼が媚びたりする姿はどうしたって想像できない。余計酷くやられることを恐がっている僕と違い、わかっていてもやれる度胸があるんだと思う。

「うわっキモッ! なにその顔。化け物みたいじゃん」

 山田先輩を見てまた笑う。よほど肝が据わっているか、でなければ歪んでいるか。

 この場所に一番相応しいのは僕のような気がしてきた。山田先輩はロッケンロールでこの女子は明るく美人で明らかにそぐわない。三人を繋ぐキーワードはないように思える。

「えと、私吉井みか、一年。趣味は――」

「うっせえな!」

 急に礼儀正しく自己紹介を始めたヨシイさんに向かって山田先輩が突然キレた。たった今ボコボコにされたばかりでは気分は良くないとは思うけれど、それにしてもあんまりだ。ヨシイさんは更に大きくした目をぱちぱちさせていた。

「あんたたちの名前聞きたいから先に名乗っただけよ? なにが悪いの」

「うるせえよメス豚」

「ちょっと……メス豚ってなに!」

 理解不能な悪意をぶつけられたヨシイさんは真っ赤な顔で怒り出した。無理もない。

「やめてください――わわわ」

 仲裁に入ろうと間に割って入り、ヨシイさんにあっさり弾き飛ばされる。早口で食ってかかるヨシイさんに、山田先輩はひどく冷めた目と日常会話からかけ離れた品性の欠片もない単語を次々に浴びせる。まるで生きるスラング事典だ。

「ちょっとすいません……」

 見るに見かねて後ろから近づき羽交い絞めにして山田先輩をヨシイさんから離す。それで口論は一応止まった。元々言い争いが始まる原因はなかったはずだ。

「なんで酷いこと言うんです?」

 できるだけ穏便を心がけて山田先輩に訊いてみた。初対面の時は僕も優しくされてはいない。それにしても彼女に対する山田先輩の反応は異常だ。

「あのなあ、俺はそのうち消えるんだぞ。最期の時をあんなR&Bとかトランスとか聴いてそうな女と一緒に過ごしてたまるか」

「確かに聴くけど、それがどうしたっての」

 後ろからの返答に山田先輩は振り向いて唾を吐いた。

「くぁーっ! ほらな。なにがソウルだ、なにがダンスミュージックだ」

 ヨシイさんは呆れ顔で反論をやめた。ここで彼女まで音楽に譲れないこだわりを発揮しなくてよかったと思う。そうなれば本当に泥沼だ。

「腐れトランス、馬鹿R&B」

「駄目、こいつ話にならない」

 頭の良くなさそうな侮辱を続ける山田先輩に背中を向けてヨシイさんは僕を見た。

「あんたもここ詳しいんでしょ? 早く教室戻りたいんだけど、どうしたらいいの?」

 じっと眼を見て話しかけられる。吸い寄せられるように錯覚するのは眼が大きいせいなのかそれとも彼女が持つ雰囲気か。とにかくどぎまぎした。

 僕が知っていることを教えるのは簡単だけれど、彼女がどうしてここに来たかを確認することが先決だ。もし彼女のような希望に満ちた人がまた現れるとしたら僕と山田先輩だけの、死にたがりの楽園は崩壊してしまう。

「そんなにトリップしてえのかこの変態」

 山田先輩の口撃はまだ続いている。怒り心頭したヨシイさんは見もせずに後ろ手に彼を指差して大きな声を出した。

「こんなのと一秒でも一緒にいたくないから早く出たいの! なんとかしてくれない?」

「帰り方なんかいくらでも教えてやるから死ぬならよそで死ね」

 山田先輩の言葉にヨシイさんの表情が凍りついた。振り返って山田先輩に向きを変えてからはどんな顔をしていたかはわからない。けれど、それまでの明るさが一瞬にして消えたのは見えた。胸騒ぎがする。

「なんで?」

「俺の方が先に消えるだろうからそれまで邪魔するなって言ってんだろうが」

「それは聞いてない。なんで私が死なないといけないの? ていうか、消えるって?」

「なんで俺がお前みたいな奴にいちいち説明しねえといけねえんだドルゥアシャー!」

 山田先輩は頭を上下に振り始めた。あれは知っている。ヘッドバンキングというやつだ。なぜここで出たのかはわからないけれど頭を抱えて悩む、ということを彼がやったらそうなってしまうのかもしれない。勝手にそう解釈した。

「うわっ、キモ」

 ヨシイさんがさっきより真剣に引いている。山田先輩はヨシイさんの顔、というよりも鼻を指すような距離で人差し指を鋭く伸ばした。頭の上下運動は止まらない。

「ここから出たけりゃ真剣にここから出ることを考えたらいいだけだ。本気で行きたくて教室に行く自分をイメージすれば教室に出られる。なにかする為にどこか行くっていう風に。わかったら早くどっか行け」

「なにかする為?」

 僕は自分の目を疑った。ころころ表情を変えていたヨシイさんの顔がまた凍りついて、両目からぽろぽろ涙がこぼれ落ちた。恵まれているはずの彼女が泣かなければならないようなことがあるとは思わなかった。

「どこに行って、なにしたらいいの? なにしたら幸せになれるの? あんた、私が死のうとしたのわかってるのに、なんでそんなこと言えるの?」

 彼女の涙はしばらく止まらなかった。

 考えてみれば彼女の言う通りだ。僕は山田先輩が驚くくらいこの場所の出入りにすぐ慣れて自惚れていたけれど、別に特別な才覚があるわけでもなんでもなくて単に真剣に考えていないだけかもしれなかった。行きたいと思う場所すら考えられない彼女のほうが悩みは深刻に違いない。僕は惨めな上に馬鹿だ。

 さすがに勢いを失った山田先輩は決まり悪そうな顔でいつもの位置に座るとヨシイさんが落ち着くのを待ってから僕に話してくれたのと同じ説明を始めた。この場所がどういう所であるか。どういった人間がやって来るか。それからもう一度ここを出る方法。この場所について山田先輩に教えた“誰か”がいたことも。

 説明が終わるとヨシイさんは僕が貸したハンカチで盛大な音をたてて鼻をかんだ。

「これ、洗って返すからしばらく貸してて」

「いいよ別にそのままで」

「あんたに鼻水集める趣味がないんだったら貸してて」

 赤い眼でじろりと睨まれて返す言葉をなくした。

 ヨシイさんは大げさにため息をつく。

「それじゃあんたたち、死にたいのに死にきれなくてここでウジウジしてんの? ますますキモいんだけど。……私も、その仲間かあ」

 消沈ぶりにどう声をかけていいかわからずに困って山田先輩を見るとはげかけたガーゼの下仏頂面で空を睨んでいた。ここでは青空だけれど、始業前なので外はまだ朝のはずだ。

「ここ、なんて言うの?」

 僕のハンカチをスカートのポケットにしまいながらヨシイさんは立ち上がった。ひらひら揺れる短いスカートは太ももが見えて眼の毒だ。おかげで質問が耳に入らなかった。

「ここの名前は? あんたたちなんて呼んでんの?」

 繰り返された質問。言われて見ればそれは聞いていない。考えもしなかった。そもそも名前なんてあるのだろうか?

 山田先輩はああ、と呟いてからどうでもよさそうに答えた。

「弱者の庭」

 その呼び名はそれ以外考えられないほどぴったりに思えて僕の気分を酷く落ち込ませた。

弱者の庭。性質は別としてしばらく僕らの憩いの場になるのは間違いなかった。


 ヨシイさんはなかなかイメージが掴めず、ようやく脱出できた頃にはホームルームのチャイムが鳴っていた。なんとか弱者の庭を出たのはいいものの、予定していた一年生の下足室にいなかったので山田先輩と二人で彼女を捜し回る羽目になった。

 遂に見つけた時には二人ともすっかり息を切らしていて汗だくだった。場所は、体育館裏。校舎裏常連の僕も初めて来たくらいなにも無い所だ。

 高い壁と体育館に挟まれて朝だというのに薄暗くじめじめした空間にいる彼女は儚げに見える。足元には吸殻が散らばっていて、素行の悪い生徒の溜まり場だとわかった。

「もう、授業始まったね」

 彼女は悲しげにそう呟いた。

 疑問はそれだ。途中チャイムが鳴ったので焦ってしまい、予定していた下足室ではなく教室に移動してしまったのだろうと予想した。ところが彼女は教室ではなくなんの用もなさそうなここへ来ている。一体彼女はここでなにをする自分をイメージしたのだろうか。

 僕らの息が整わないうちにヨシイさんはまた姿を消した。マイナスイメージが彼女を弱者の庭に連れ戻してしまった。単に出られないだけだと思っていたら、事態はずっと深刻だ。彼女は気持ちをまるでコントロールできていない。

 憂鬱が彼女を弱者の庭に飛ばし、自力で戻ることは難しい。この学校に通う限りこの問題につきまとわれる。解決するには当人が前向きに生きなければならない。

 正直なところ僕にはそこまでヨシイさんに関わろうという意欲がなかった。自分のことで手いっぱいだ。山田先輩も同じだと思う。

「なんかうざくなってきたな。ほっとこうぜ」

 山田先輩がため息をついてそう言った。彼にそそのかされるつもりはないけれど、確かに面倒だと思いながら何気なく下を向いた。そして、ある物を見つけた。

 刃が全部飛び出した、柄は薄いピンク色のカッターナイフ。無機質で一見殺傷力なんてなさそうに見える地味な刃にほんの少し赤い色がこびり付いている。乾いた血だ。まともな使い方をしたのであればこれほど刃が出た状態で放置してあるはずもない。

 想像してみる。ヨシイさんが手首辺りを傷つけ、最後まで続けられずにこれを落とす。死ぬこともできない惨めさを味わって、それで、弱者の庭に来る。

 あれだけ苦労した彼女がようやく出られた所がここだったのは、なにかをするイメージというのがもう一度やり直すことだったからかもしれない。彼女に自殺は似合わないと思った自分の愚かさに呆れる。

 彼女は弱者の庭を出るイメージを、自殺することでしか作れなかった。カッターナイフを手首に当てる彼女を想像すると胸が詰まる。

 どうしていいかわからずに山田先輩を見た。かなり情けない顔をしていたと思う。同じ物に気づいた山田先輩は黙ったままカッターナイフを拾い上げ、刃をしまってからズボンのポケットに入れた。

「じゃあ俺教室行くからな」

 くるっと振り返って歩き出した山田先輩の背中を僕は信じられない想いで見つめた。

「ちょっと待ってください! 行くんですか?」

「お前も遅れねえようにしろよ」

「ほっとくんですか? なにがあったかわからないけどただごとじゃない! それなのにあの人ほっとくんですか?」

「うっせえな! ほっとけねえのはお前だろうが! 死にたがってんのは一緒だ! お前も! あのトリップ女も! 俺も! 自分が死にたがってんのに、どうやって助けたらいいんだよ? お前あいつにどんな風に声かけてやるんだ?」

 体をねじって僕を睨む山田先輩の眼は本気のものだ。本気で彼女を見殺しにしようとしている。確かに僕は命を大切にとは主張できない。

 自殺を考えているのはヨシイさんだけじゃあない。山田先輩だって同じだ。ただ知らないだけで山田先輩がヨシイさんより悩んでないとなぜ言えるだろう。僕は彼の苦しみに手を差し伸べたりはしなかった。見殺しにし続けていた。

「山田先輩は……どうして死にたいと思ってるんですか?」

「お前に、関係、ねえだろうが」

 一層強い憎悪を向けられて身震いする。すくんでしまった僕を見て山田先輩は鼻で笑うとまた背中を向けた。僕はその背中に向けて叫んだ。

「ここで見捨てるのはロッケンロールですか?」

 山田先輩の足が止まる。僕は必死で言葉を続けた。

「訊いてみてくださいよ、自分の中のロッケンロールに。見殺しにして、またロッケンロールなんて言えますか? あなたの中のジミーページは許しますか?」

「なんだ、わかったようなこと言いやがって。言っとくけどな、離婚麻薬自殺はロッケンローラーにとって日常だ。それだけじゃねえけど。それだけに意味があるんじゃねえけど。くそったれ! ああっもうくそったれ! 好き勝手言いやがって! 畜生!」

 返答はぶつぶつと独り言のような呟きから咆哮へ膨らんだ。それで気が済んだのか、諦めたようにうな垂れてため息が聞こえた。

「行くぞ」

 疲れた顔で彼がそう言ったのがどうしようもなく嬉しかった。やはり彼はそうしてくれた。そうしてほしかった。

 喜んでいたせいでなかなか気分を最悪にできず遅れて弱者の庭に着くと、山田先輩はなぜかヨシイさんの肩を揺さぶりながら絶叫していた。

「おーお、ロッケンロォォル! あーお、ロッケンロォォル!」

「キモいの通り越して恐い! なにこいつ助けてぇ!」

 頬を平手で打たれて揺らいだ山田先輩を捕まえてヨシイさんから引き離す。

「くそっ! やっぱり死ね! 俺の魂の応援歌を返せ! クソしてすぐ死ね!」

「なにやってんですか、助けに来たんでしょ。それじゃああべこべじゃないですか」

「助けに? できるわけないじゃん。そんなの期待してないし。あんたらだって死にたがってんのに、私に構ってられないでしょ。ていうかなんであんたら死にたがってんの?」

 ヨシイさんの問いに僕は苦笑した。絶対に言いたくない。

「お前に関係ねえだろうが」

 僕へのものと同じ返事により強い憎悪がこもる。ヨシイさんから勢いがなくなったが、怯んだわけではなかった。

「そうね、普通自殺したい理由なんて人に言えないよね」

 寂しげに呟きが終わると同時に一時間目の開始を告げるチャイムが聞こえた

「授業! 出ないと!」

 ヨシイさんも山田先輩も気にしていなさそうだったけれど僕はそういうわけにはいかない。これ以上奴らに理由を与えたくはなかった。

 まだここを出るイメージがうまく固められないヨシイさんのため、僕は休み時間の度にここへ来てヨシイさんがいたら連れて帰ることを約束した。二回目にここへ来た時、山田先輩から肩に手を置かれて屋上へ連れ出されている。触れた状態でどちらか片方が出ることをイメージすれば出られるはずだ。山田先輩にも協力してくれるよう頼んだ。頷いてはいたけれど、正直期待はしていない。

 慌てて戻った教室で何食わぬ顔で授業を受けて、休み時間になったら弱者の庭に行く。授業中もヨシイさんのことで頭がいっぱいだった。

 彼女が思い詰めている原因はなんだろう。あれだけ容姿に恵まれていて、問題なんて起きるんだろうか。彼女のことを考えていたおかげで授業中悪いイメージに捕らわれることはなかった。誰かのことを考えていれば、自分のことは忘れていられる。

 様子を見る程度のつもりだったけれど、ヨシイさんは毎回弱者の庭にいた。ほとんど出なかった授業もあったそうだ。初めトイレの個室を移動に使っていた僕は三回目で屋上を使うことを思いついた。あそこなら人目を避けることができるし、なによりイメージが掴みやすい。ヨシイさんが体育館裏に移動したように、僕も屋上なら死のイメージも飛び降りるためのイメージもしやすい。

 屋上へ上がればふらふらと吸い寄せられるように縁に立ってしまう。しばらくすれば飛び降りる気になって、自然に弱者の庭に移動する。目立つ三年生の校舎側ではなく、花壇と砂利地がある面をいつも選んだ。本当に飛び降りたら僕の教室の外、弱者の庭に似た場所に落ちることになる。

 真剣に飛び降りを考えて屋上から弱者の庭に行き、ヨシイさんの手を取って真剣に飛び降りを望んで屋上に戻る。そんな自分を騙すようなことを繰り返していたら、五時間目のあとの休み時間、僕はとうとう壊れかけた。

 真剣に決心だけして死なない。そもそも嘘だ。単に弱者の庭に行きたいから死にたい自分を装っている。僕は一体なにがしたいんだ。疑問に潰されそうになり頭をかきむしる僕を見てヨシイさんは遠慮がちな声を出した。

「あのさ、なんでそこまでしてくれんの? なんか辛そうじゃん。そこまでしてくれなくていいって、あんたも大変でしょ? なんか弱そうだし」

「弱かったら、助けたいと思っちゃいけないんですか?」

 弱者の庭へ来たばかりで心が荒んでいて反射的に怒鳴ってしまった。

「……ごめん」

 ヨシイさんは本当に申し訳なさそうな顔をして目を伏せた。助けるつもりで、傷つけてしまった。

 山田先輩の悩みは聞かずに彼女を助けようとした理由がわかった気がした。異性だとかは関係ない。彼女からは苦しみが伝わってくる。山田先輩のように物に当たったり刺々しい攻撃的な鎧を纏うのではなく、感情が素直に僕へ届く。

「泣いてほしくない」

 ここまで本音を言うつもりはなかった。深く踏み込むつもりはなかった。僕なんかが助けるなんておこがましいのは自分でもわかっているから。どうにもできないならそっとしておいた方がいい。下手に手を出してかき回したら、彼女もそうだけれど僕にとっても良い結果にはならないに決まってる。わかっていても黙っていられなかった。

 彼女はきょとんとした顔で固まった。驚き以外の感情は顔に映っていない。その表情のまま、彼女は言った。

「私のこと好きなの?」

「いや、そういう話じゃなくて!」

 僕が否定すると彼女は露骨に残念そうな顔をした。そして楽しんでいる顔だ。

「なんだ面白くない」

「そういう問題じゃないでしょ」

 僕が呆れると、彼女は照れくさそうに微笑んでから小さな声で言った。

「ありが」

 言い終わる前に彼女は消えた。気持ちが明るくなったんだろう。最初ここを出る方法は前向きになることじゃないと推測したけれど、的外れでもないと今なら思う。前向きになりさえすれば、ここから出られるはずだ。明るく、前向きな思考ができれば、弱者の庭に用はない。ただそれが僕らには難しい。彼女は今それができた。

 ヨシイさんは笑いながら消えた。体育館裏には行っていないはずだ。これは一歩前進と考えていい。

「よっしゃ!」

 両手を突き上げてガッツポーズを取る。気がつけば教室に移動していて、クラスメイトに不気味なものを見る目で見られていた。顔が引きつっているのを意識しながらゆっくり手を下ろす。もしかすると出る方法はもっと単純なことなのかもしれない。

「なにやってんだお前。ていうか、お前いったっけ?」

「お前影薄いもんなー」

 笑われてなんとか笑顔を作った。ヨシイさんが自力で弱者の庭を抜け出せたことで僕までポジティブになってしまったようだ。彼女も移動した先でこんな目に遭っていないか心配になった。


 放課後、弱者の庭に行くとまだ誰も来ていなかった。いいことだけれど少し寂しい。下校時間にここにいる意味がなくても、僕はひとりじっとしている。

 少しして山田先輩が来た。僕なんていないように悠然と、いつもの壁際に座り込んでからようやく僕を見る。

「またいたのか。俺より先に消えるなよ」

 その言葉は優しさからきているとは思えない。眼は無関心で、声は冷たい。抜かれるのがムカツクとかそんな程度のことだろう。たいして気にならない。

 僕は気のない返事をして、それからは完全にヨシイさんを待った。けれど結局彼女は来なかった。


 なんだかいつもとは違う落ち込みようで下校した。

 僕はヨシイさんが好きなんだろうか。違うと思う。僕の生活は味気がないので不意な異性の登場で戸惑っているのは認めても、恋愛感情は断じて無いと言える。第一僕はもっとおとなし目の子が好みで、彼女とは共通の話題もありそうにない。そんな彼女を好きになるはずがない。

 そんな風に否定しながら、夕食を食べ終わるまでの間僕はヨシイさんのことばかり考えていた。悩みが顔に出ていたらしく母が心配そうにするのが鬱陶しい。

 夕食後、突然ヨシイさんから電話がかかってきた。

 友達のいない僕に普段電話がかかってくることはなく、学校の連絡なら母が連絡網の次に伝えたあとで僕に言う形になっているので僕が電話を使う機会は滅多にない。そのうえ「女の子から」ということで警戒する僕の耳に聞き覚えのある明るい声が飛び込んだ。

『ハロー。私、吉井。ご飯食べた?』

「食べましたけど……でもなんで電話番号知ってるんですか?」

『あんたと同じクラスの友達に聞いた』

 なるほど、と思ったところで母が興味深々といった様子でこっちを見ているのに気づき睨んで追い払った。

『お風呂入った? あと寝るだけ?』

「なんなんですかいきなり」

『今からちょっと付き合えないかなと思って。かかっても二時間くらいで済むと思うんだけど。どう?』

 時計を見た。七時前なので二時間ということは九時近くまでヨシイさんと一緒に? そんな遅くに二人っきりで?

『今から商店街来れない? できるだけ急いで』

 暴れる心臓に思考まで振り回される。帰るのが九時ならその頃には父親も帰っているので面倒なことになるなんて心配はどうでもよかった。

「行きます」

『駅前で待っとくね。あ、お金五百円は持ってきて。それじゃ急いでね』

 通話が切れ、慌てて身支度をして鏡の前で髪の毛をいじってみたりしたけれど、どうやったってかっこよくなるわけがないと改めて思い知ってから家を飛び出した。

 家から商店街までは三十分以上かかる。息切れしたら早足で肺を休めてまた走るを繰り返し商店街を目指す。こんなに急いだのは生まれて初めてだ。

 駅が見えてくると通りの街灯の下にヨシイさんが立っているのが見えた。

「おー、来た来た。早いね」

 手を振りながら飛び跳ねている。その度に制服より更に短いスカートが危うく揺れてピンクの薄いシャツからはへそが出た。心細い照明に照らされた髪は赤っぽく見える。

 駅の時計で確認すると家を出てから十五分しか経っていなかった。ただこれ以上どうしようもないくらいに息が乱れ汗まみれで、できればしばらく一歩も動きたくない。

「こっち、早く」

 ヨシイさんに手を引かれて無理やり歩かされる。休みたい僕を引きずっていく行ためそのものは非情だけれど、柔らかい掌の感触と細い指がそう思わせてくれない。違う理由で心臓が激しく脈打つ。これは僕にとって弱者の庭を出るために手を繋いだこととはまったく意味の違うことだ。

「ここ、五百円は?」

 シャッターが降りている弁当屋の前で言われるままに五百円玉を渡した。こんな小額のカツアゲもないだろうし、彼女がそんなことをするはずもない。

「ついて来て」

 ヨシイさんは弁当屋の横にある階段を降り始めた。階段は幅が狭い上にかなり急になっていて辺りが薄暗いせいで目立たず、突然姿が消えたように見えて驚いた。この商店街は何度も通ったことがあるのに、この階段はまったく知らなかった。

 つま先がはみ出る階段を下へ下へ降りていると怪しげな所に案内されているような予感がして不安になる。

 壁はグロテスクなデザインの張り紙で乱雑に埋め尽くされていて、なにかの宣伝のはずがひとつひとつの文字が反則級に歪んでいてまるで読めない。イラストはドクロやらカラスやらイバラやらが多いので黒魔術を想像してしまう。

 けれど階段を降り切る前に僕の不安はすっかりなくなった。本格的に逃げ腰になる前に、振動音が鼓膜を叩き始めたからだ。聴いたことのない曲でもこれは間違いなくロッケンロールだとわかる。

 ヨシイさんが突き当たりの重そうな鉄のドアを開けると部屋の中からもの凄い歓声と複数の原色の光、そして爆音が溢れ出してきた。間違いなく山田先輩がこの中にいる。確信して熱狂の中に飛び込む。そうだ、ここはライブハウスだ。

 目に痛い様々な色の光線が高速で壁や床を這い回り、壁に埋まったスピーカーはなぜこんなにと疑問に思うような大音量で震える。夢中で飛び跳ねている人にぶつかられて壁に激突した。ここは痛いことだらけだ。

 ヨシイさんは愉快そうに僕を見ながら手招きしていた。カウンターのスツールに腰かけていて、その辺りは安全らしく彼女の周りには飛び跳ねる人はいない。

 僕はちょび髭にびっちりと固めた五分分けのバーテンダーの正面を避けてスツールを選び、改めて飛び跳ねる観客を眺めた。

 皆一心不乱にステージに向かって情熱を迸らせている。その中に山田先輩は見つけられなかった。山田先輩は背が高くないので埋もれているかもしれない。捜してもよかったけれど、人の波に埋もれている山田先輩は見たくない気がした。異様にロック好きということは知っている。でもこの中で他に紛れて飛び跳ねている彼を想像できない。群れに溶け込むなんて彼らしくない。

 一体なにが目的で僕をここに連れてきたのだろうと疑問に思いヨシイさんを見た。彼女はなにか注文したところらしく、ちょび髭のバーテンダーは並んでいるボトルから一つ選んでグラスに注ぐとヨシイさんに差し出した。液体は透明だけれど絶対に水じゃあない。僕にはオレンジジュースの瓶が出された。おつりはなかった。高い。高すぎる。

「なんでここに連れてきたんですか?」

 いるものと思った山田先輩は見当たらず、単にデートに誘い出されたと勘違いできるほど僕はおめでたくない。ふたりっきりを期待してはいたけれど。

 声は演奏にかき消されてヨシイさんに届かなかったようだ。眉間にしわの寄った顔が近づいてくる。僕はその耳元で叫んだ。

「なんでここに連れてきたんですか!」

 僕の声は運悪く演奏の切れ目に入ってしまい密閉された空間によく響いた。しまったと思ってももう遅く、複数の観客の視線が僕に突き刺さった。さっきまでの熱気はどこに行ったのかと思うほど冷ややかだ。

「なんか変なのがいるな」

 沈黙を裂いた声は観客からでなく、スピーカーから聞こえた。聞き覚えのある硬質の声に驚いてステージを見ると、そこに山田先輩がいた。顔は青アザだらけで、タンクトップの隙間で薄っぺらい胸が上下している。貧弱な細い肩にかかったエレキギターは彼がステージ上にいることの正当性を示していた。

 光り輝くステージなんて鼻から無視していた。まさかそこにいるとは思わなかったから。驚くと同時に、観客を熱狂させていた彼に嫉妬も出る。

 山田先輩はステージ上から僕ではなくヨシイさんを睨んでいる。「変なの」と言ったのは彼女のことらしい。確かにロッケンロールの巣窟でまるで趣味の違う彼女は異端かもしれない。でもそれは僕も似たようなものだ。

「まあ気にすんな」

 ヴォーカルは気軽な口調でそう言った。僕らのことなんて知らないみたいに、なんの感情も見せず振り返りバンドメンバーと言葉を掛け合ってまたスタンドマイクに向かう。

「ラストだ」

 またスピーカーから音の洪水が始まり、山田先輩はギターをかき鳴らしながら身長と同じくらいの高さにあるスタンドマイクに向かってかじりつくような勢いで歌い始めた。


 演奏が終わると歓声を振り切って山田先輩とそのバンドは舞台袖に姿を消した。ヨシイさんは興味の薄そうな顔をしていて、僕は見知った顔がステージの上でライトを浴びながら汗にまみれている非日常に興奮していた。

 ステージにはまた新たなバンドが立ち、演奏が始まる。ピンク色のモヒカン頭は激しく上下に揺れてもまるで乱れないのが不思議だ。今度はそれ以上の興味はわかない。観客たちはさっきと変わらず熱狂している。

 ヨシイさんがなにか言ったけれど聴こえない。聴覚がスピーカーに独占されているせいもあるけれど、僕の意識はなにより山田先輩が消えた舞台袖に行っていた。

 正直に言ってさっきの山田先輩はかっこ良かった。普段は目つきと性格が悪いくらいしか特徴のない彼が、ライトを無数に浴びて怒鳴り散らすように歌う様には引きつけられるものがあった。

「私もう出るよ!」

 ヨシイさんが耳元で叫んだ。それでかすかに聞こえる程度にしかならない。

 こんな場違いな所に取り残されるのは心細いので僕も一緒に出ることにした。ステージでは演奏が続いていても山田先輩たちに比べるとなんだかつまらなく思える。知り合いじゃないから、という理由だけではないように思う。

 急いでオレンジジュースを飲み干し、ヨシイさんに続いてドアを抜けて急な階段を登る。圧迫感や不安はもう感じない。

「なんかここに同じ中学の奴が出てるって聞いてたから、百パーあいつだろうと思ってさ。確認したかったけど一人で来るのもなんだし、あんたなら丁度良いかなって」

 鼓膜が耳鳴りに支配されていてすぐ前を歩くヨシイさんの声を遠くに感じる。

「ありがとうございました」

 地上に戻ったところで頭を下げる。とても貴重なものを見られた。こんな時間に外出して、どの店も閉まっている商店街へやって来るなんて僕の考えではありえなかった。彼女が誘ってくれなければ僕は永遠に山田先輩のステージを見ることはなかっただろう。もうデートじゃなかったと悔しがる気持ちは少しもない。

「間違いないと思ったけど一応確認してたからちょっと遅くなった。七時からやってたみたいよ。いつも出てるわけじゃないだろうけど」

 彼女は昼間の恩返しでここまでしてくれたんだろうか。山田先輩の音楽は彼女の趣味とは違うらしいので、わざわざ電話番号を調べてまで僕に教えてくれる理由はそれ以外にないと思う。直接聞けば角が立ちそうで疑問は別の質問にすり替えた。

「いつもこんな時間に出歩いているんですか?」

 子供は夜すぐ寝るべきだとか思っているわけでもないが、友達のいない僕は昼間ですら学校に行く以外に用事がないので彼女がこんな時間になにをしているのかは気になる。

「あー、ちょっと待って」

 軽快な電子音を聞いて、ヨシイさんは上着のポケットから携帯電話を取り出した。液晶表示を見て顔をしかめたところを見ると嫌な相手なんだろう。

 ヨシイさんは着信音を止めそのまま携帯電話をしまう。拒否したらしい。一気に沈んだ顔を見て携帯電話が便利なだけの物でもないと初めて知った。彼女はさっきまでこんな風に辛く悲しそうにはしていなかった。

「携帯電話、持ってるんですね」

 どう声をかけていいかわからない僕は当たり障りのなさそうな言葉を選んだ。

「そんなに珍しいもんでもないじゃん」

 確かに持っている人はクラスにもいるけれど、つまらないことを言うなとでも言いたげな冷たい口調が胸を突いた。嫌な相手からの電話で苛立っているだけ、そう思いたい。

「なにやってんだお前ら。早く帰れ」

 山田先輩が地下から出てきた。一昨日見た奇妙な鞄は今ならギターケースだとわかる。

「もう帰るんですか?」

「俺たちの出番は終わったからな。残りのクソバンド聴いても意味ねえ」

「私には似たように聴こえたけどね」

 ヨシイさんが嫌味な言い方をしたので僕は咎める視線を彼女に送った。

「全然違いますよ。あとから出てきた方には僕はなにも感じませんでした」

 山田先輩が感心したみたいに喉を鳴らす。目の前で彼を認めることはなんだか気に入られようとしているみたいで恥ずかしいけれど、本心からそう思った。

「お前、ロッケンロールがわかんのか。生意気に」

 返答に困った。僕は相変わらず音楽に対して興味がないからだ。この間借りたテープに感銘を受けたわけでもなければ、音楽番組も観ないしCDも買わない。でも山田先輩のステージはだけは違って、また観たいと思った。

「次はいつやるんですか?」

「明日。なんだ、また来んのか」

「できれば……明日もまた混んでますよね」

「なに言ってんだお前は。今日はたいして入ってねえぞ。それにあんなわけもわかってねえような奴らがいくら集まったって意味ねえ」

 吐き捨てるように言う。あれだけの声援を浴びてなにが不満なんだろう。

「でもすごい人気じゃないですか」

「今下にいる客は単にライブが好きではしゃいでるだけだ。その証拠にクソバンドがやってても全然出てこねえじゃねえか。ロックが死にかけてんのも無理ねえな」

 静かな階段を見ながら毒を吐いた山田先輩にヨシイさんが冷たい視線を送った。

「そんなこと言ってもあんたのバンドにラストは任されてないのが現実でしょ?」

「ばーか、年のせいであんま遅い時間には出してもらえねえだけだ」

「へえ、そう言われて納得してるんだ」

「なにが言いてえんだ」

 ヨシイさんは呆れたみたいにため息をつくとくるりと振り返って歩き出した。踏み切りを渡って、海に面した住宅地の方に向かっている。

「私もう帰るね。おやすみ」

「なんだってんだ! くそっ! わかったような顔しやがって」

 山田先輩はヨシイさんの背中にびっくりするくらい汚い言葉をぶつけ続けるが、しばらくすると飽きたのか冷めた目で逆方向に体を向けた。

「馬鹿らしい。帰る」

 山田先輩が歩き出し、僕もそのあとに続く。ついて行っているわけじゃあない。同じ方向なだけだ。山田先輩はちらりと僕を見たけれどなにも言わなかった。

 会話もなく進む帰り道、途中山田先輩と別れることはなかった。前を行く山田先輩は僕の曲がりたい分岐を先に曲がり、先導される形でとうとう僕の家の前まで来てしまった。

「なんだよ、お前の家ここか」

 不審な目を向ける僕にそう言って山田先輩は向かい側二軒先の家を指差した。

「あそこが俺んちだ」

 言葉が出なかった。とんでもなく近所だ。校区も同じだから小学校も同じだったはずなのに、僕は山田先輩のことをまるで知らなかった。

「やたら近いですね」

 僕は苦笑いした。家が近いからといってこれから遊びに行けるような時間帯でもなければそんな間柄でもない。それを考えると逆に気まずい。

「おう、それじゃ」

 山田先輩はなにも感じなかったらしくさっと家に向かった。明日学校で会うのに「また」もなければ手を振ったりもない。そんなキャラじゃないだけだとしても僕らはそんな関係だ。深い部分で接しているとしても、その面はわずかだ。


 翌朝、登校する他の生徒たちの顔は普段より明るい。理由は今日が土曜で授業が昼で終わるだからだ。早く学校から離れられると思うと僕も気が楽になる。もうじき土曜日は毎週休校になるらしい。僕の耳には喜ぶ生徒の声ばかりで大人の都合は聞こえてこない。なんにしても休みが増えるほど奴らと顔を合わせずに済むのは嬉しい。

「やっ、オハヨー」

 もうすぐ校門、というところで顔を合わせたヨシイさんに肩を叩かれた。もし弱者の庭で会っていなかったら僕はきっと彼女を年中無休で明るい人だと思い込んだだろう。そんな完全無欠の笑顔だった。

「調べてみたけど、あいつの出番今夜も七時から、しょっぱなみたいよ」

 どうやって調べたんだろう。昨日僕を呼び出したこともそうだけれど、彼女の行動力はちょっとすごい。

「ヨシイさんも行くんですか?」

 彼女が行かないなら楽しみが一つ減ることになる。それでも僕は行くつもりだ。昨日帰ってから母にどこへ行っていたか追求されたがそんなことは行かない理由にならない。

「私が? あいつのを観に?」

 眉を下げて嫌そうな顔をして、強く鼻息を吹く。そういえば彼女は山田先輩の歌を気に入らなかったようだ。

「あんな自己満バンド好きじゃないもん。せっかく客が盛り上げてんのに、カッコつけてるのか知らないけど。私は楽しそうなのが好きなんだ」

 僕は曖昧な返事をした。確かに山田先輩が歌っている姿は楽しそうには見えなかった。必死に声を張り上げて、襲いかかるような迫力は彼女の好みとは対極かもしれない。

「追い詰められた子犬」

 急に後ろから声が割って入ってくる。山田先輩だ。密会を見られたような気になって気が動転した。

「あそこの店長が俺の歌聴いてそう言った。必死過ぎるってよ」

「へぇ、それがプロの意見でしょ。貴重な意見と受け止めて改善に努めなさい」

 山田先輩はおどけて返したヨシイさんを無視して校門を抜ける。

「怒ったのかな。カッコ悪」

 僕には単に耳を貸さなかったように見えた。

 下足室でヨシイさんと別れる。去り際に彼女は手を振っていた。彼女の場合誰にでもそうなのだろう。

 二時間の授業を受けて全校集会のあとHRで学校は終わり。それから校舎裏に行って、殴られ蹴られで多分そのまま弱者の庭に行く。昨日山田先輩が来なかったのはライブの準備があったからだとして、今日は学校が昼までで時間的に余裕があるから来るかもしれない。ヨシイさんは来ない方が望ましい。どうせ集まってもなにかするわけじゃない。

 頭の中で予定を立てながら教室に入り、空っぽの頭で授業を受けた。時々山田先輩の歌が耳に蘇る。追い詰められた子犬。僕にはそんな風には見えなかった。羨ましい攻撃性ばかり目立って見えた。僕は子犬よりも弱いんだろうか。

 放課後校舎裏で奴らを待っている間今度はヨシイさんのことを考えた。

 二時間目のあとの休み時間、トイレの帰りに彼女を見かけた。隣のクラスで彼女は楽しそうに友達と大声で笑い合っていた。なぜ彼女を知らなかったんだろう。特別接点がなくても同じ学年ならなんとなく顔くらい知っている。どちらかというと目立つ彼女に今まで気づかなかった理由がわからない。

 あれこれ思案している間に三十分経っていた。奴らはもう来そうにない。ほっとしたあとで惨めな気持ちになって弱者の庭に移動した。誰もいない。余計に寂しくなる。

 山田先輩のこともそうだけれど僕はヨシイさんのことをほとんど知らない。自殺を考えたことがあって、多分今もそうで、トランスやダンスミュージックが好き。

 逆に僕のことは知られていると思う。いじめられっことしてだけなら僕は有名人だ。かっこつかないなんていう風には思わなかった。知っていても知らなくても、僕自身からにじみ出るものがあるだろう。

 仰向けに寝転がる。さっき教室から空を見た時には薄い雲が伸びていたのに、ここはいつも快晴の昼だ。その陽光を切り抜いて影が僕の目の前に現れた。驚いて飛び起きる。

 影はヨシイさんだった。とんでもなく暗い顔をしている。朝見た笑顔はどこにもない。

「どうしたんですか?」

 悲しみを表に出すことすらしない無表情は僕まで暗黒に引きずり込まれそうだ。見ているだけで痛々しい。昨日はこんな顔はしなかった。彼女の苦しみを消してあげたい。

「なにがあったんですか?」

 ヨシイさんは答える代わりに涙をぽろぽろと流し始めた。話そうとしない彼女を胸が締めつけられるような思いで見る。こういう場合どうすべきか僕の経験には答えがない。

 おろおろしているうちに山田先輩が現れ、助けを求める視線を送るとヨシイさんを見て興味なさげに喉を鳴らして定位置に座った。落胆すると冷めた声で、言う。

「どうせ男だろうが」

 涙は流しても声だけはもらさなかったヨシイさんのこらえが切れた。大声でわめき散らし、山田先輩に対して悪口雑言をぶちまける彼女は顔をくしゃくしゃに歪めていて、黙っていた時よりももっと辛そうだ。対して山田先輩は顔色ひとつ変わらない。

「ここならどんなにうるさくしても絶対外に聞こえねえから思いっきり泣きゃいい」

 ゆっくりとした口調はヨシイさんのわめき声に消されずよく通った。言いようはひどく冷めていたけれど彼もヨシイさんを傷つけたいわけじゃないとわかる。そんな言葉をかけられるのは彼も同じ道を通ったからじゃないだろうか。

 想像する。山田先輩がここで、ライブの時のように敵意むき出しで叫ぶ姿を。あるいは辛さ苦しさから号泣する姿を。泣き顔までは想像できなかった。

 弱気な声は出さなかったヨシイさんが大きな声を出して泣き始める。抑制のない子供のような泣き方だ。意味の汲み取れない音の洪水は次第に落ち着き、恋人とのことを語り始めた。これだけ魅力的なので恋人がいてもまったく不自然じゃないのに、なぜだか少しショックだった。

 山田先輩の読みは当たっていたらしい。彼女をこんなに追い詰めたのは彼女の恋人だ。もしかすると自殺を考えた原因も。

 僕はヨシイさんの独白に耳を傾けた。彼女の恋人について知ることはきっと彼女が泣いている理由に触れることになる。

 ヨシイさんは入学してすぐにそいつと出会った。同じクラスで、相手の方から積極的に話しかけてきたらしい。まんざらでもなかった彼女はなんとなく彼と一緒にいることが多くなり、周囲が二人を「つきあっている」と認識する頃には彼のことを好きになっていた。ちょっと悪っぽいけど優しい人、そう思っていた。

 二人が体の関係をもつまであまり時間はかからなかった。ヨシイさんはセックスをあまり好きにはなれなかったけれど望まれるままに彼を受け入れた。彼は避妊をしなかった。妊娠を心配した彼女が一度その話を持ち出すと、露骨に嫌そうにされたので言い出せなくなった。彼の態度が冷め始めているように感じて捨てられるのが恐かったからだ。

 しばらくしてヨシイさんは自分が妊娠していることに気がついた。恐々試した検査薬でも陽性が出た。彼を困らせる、捨てられる。それが恐ろしくて受け入れられず何度も試したが結果は同じだった。中絶を選びたくなかった彼女はもしかしたらという希望を捨てずに彼に打ち明けた。しかし彼の反応は最悪だった。

 俺たち別に付き合ってるわけじゃねえだろうが。お前が俺としかしてねえってなんで信じられるんだよ。

 ヨシイさんの心は切り刻まれた。ぼろぼろの精神状態で家から遠い産婦人科を受診した。誰かに見られないためではなく近くを通りかかって思い出したくないからだ。堕胎そのものよりも彼との関係がこれで修復されるか、これから恋人として認めてもらえることはあるだろうか、そういった不安の方が強かった。散々な扱いを受けても彼女の心は彼でいっぱいだった。

 手術後彼女は体調を崩し今度は内科へかかった。寒気がするので風邪だと思っていたら自律神経失調症と診断された。体温調節がうまくできなくなっていたらしい。それが治るまで二ヶ月学校を休んだ。僕が彼女を知らなかったのはそのせいかもしれない。

 中絶のことは誰にも言わなかったが親の保険証を使ったので通院履歴が届いてしまい、そのせいで産婦人科を受診したことが親にばれた。厳しく追及されて遂に告白したヨシイさんを、父親は壁にぶつかるほど強く殴った。

 その翌日ヨシイさんは厚着をして薬局に脱色剤を買いに行き髪の色を抜いた。以前彼に勧められたからだけでなく、親への反抗というわけでもなく、目立ってきた白髪をごまかすために。

 体調が戻って久しぶりに登校すると彼が以前と変わらず接してくれたことに救われた気持ちになった。ところが学校を休んでいて心配だったとかそういうことはなく、妊娠のことが気になっていたらしく「おろした」と言うとほっとした顔をされた。気遣いの言葉もなく、すぐに彼は彼女を犯した。校内の体育館裏で。彼女が死のうとした場所だ。

 慌しくことが終わったあと「久しぶりだからスッキリした」と言ってさっさと離れていく彼を呆然と見送ったヨシイさんは、性処理の道具としてしか見られていない、そう思う自分を必死で否定した。その時も避妊をしなかった彼を、見舞いどころか電話もかけてこなかった彼を信じようとした。しかしできなかった。

 愛されていない。そのことをつきつけられる前に一刻も早く自分で命を断とうと決意した。そうして、彼女は弱者の庭にやって来た。

 話し終えたヨシイさんに僕は同情していた。酷い男に目をつけられ、運が悪いとしか言いようがない。セックス、という単語に反応してしまった自分の下腹部が場違いな状態になっていて忌々しい。

「今でも会ったらしてる。ゴムはしてくれない」

 彼女の涙はまだ止まらない。まるで別世界の出来事のようだ。信じられない極悪人が同じ学校にいる。僕の事情なんかは本当に小さな問題だ。そんな酷いことがあった直後なのに、僕の目の前に現れた時の彼女はまるで普通だった。その強さが今は悲しい。

「なんで、そんなことされても好きなんですか」

「わかんない。好き、好きなんだもん」

 そいつのことを許せないと思うのと同じくらいに、ヨシイさんの気持ちがわからない。

 山田先輩は特に反応を見せない。話は聞こえていたはずなのになぜ平気な顔でいられるんだろう。彼にまで腹が立ってきた。

「怒ってんのか」

 山田先輩が僕の手を指差した。いつの間にか指を握りこんで拳を作っている。悔しくて握る拳とは違ってすごく熱い。僕は自分の中の蛮性に驚いた。今まで奴らにさえ「死ねばいい」と思ったことはあっても自分で殴りたいと思ったことはなかったのに。

「それで、今泣いてる理由は?」

 山田先輩が顔を伏せたヨシイさんに尋ねた。彼女はそこまで酷い目に遭っていながら僕たちの前では今日まで笑顔を作れていた。それが今日決壊した理由は別にあるのかもしれない。だからといってこうも単刀直入に聞ける山田先輩の神経を疑う。

「売れって……言われた」

 ぽつりと呟く。なにを言っているか要領を得ない。

「欲しい物の話してたら、援助交際やって金持って来いって言われた」

 自分の中でなにかが昂る。目の前で泣いているヨシイさんやその彼女を苦しめる誰かに対してでもなく、行き先の定まらない感情が爆発しそうになった。

 さっきの握り拳といい、初めての心境にどうしていいかわからず叫んだ。出るだけの声をしぼって叫んだ。そうしなければ僕自身壊れてしまいそうだった。息が続かずに咳き込むと、不思議と気持ちは落ち着いてこの気持ちをどう発散するか、心が決まった。

「良い声してんじゃねえか」

 山田先輩が立ち上がる。どうでもいいことを言うのんきさにますます腹が立つ。

「その人、今どこにいるんですか」

 明日は日曜で行動が予測しづらい。明後日の月曜まで待つこともできない。その時を悶々として待つのも、気持ちが冷めてしまうのが嫌だ。今こんなに怒っているのに、たった二日後には萎えてしまう可能性を僕は嫌悪する。

「なにするつもりなの?」

 顔を上げたヨシイさんの眼は真っ赤で頬は濡れていた。僕は力強く答える。

「殴る」

「そんなことしてもらっても私嬉しくない」

 これだけ残酷な仕打ちを受けてもヨシイさんはその彼を嫌いになれていない。殴って改心するはずもなければそれで彼女が喜ばないのもわかっている。これは僕のエゴだ。

「どこにいるか教えて。何組の人?」

 ヨシイさんは眼を逸らして黙った。好きな人なら進んで殴らせようとしないのは当然だ。口を固く閉じ、もう泣き顔ではなくなっている。意地が見えた。

「そいつが誰かならお前も知ってんだろ」

 山田先輩が素っ気なく言った。意味がわからない。

「言わないで!」

 ヨシイさんが大きな声を出す。山田先輩はまったく意に介さない。

「こいつがさっきから言ってる奴は、お前をいじめてる連中のリーダーだ。ついでに言えば、俺はその兄貴によく絡まれる」

 ヨシイさんの申し訳なさそうな顔を眺めながら考えた。僕をいじめている奴らの代表格と、山田先輩を取り囲んでいた集団のひとりが似ていたような気もする。上級生との繋がりはそういうわけだったのか。わかりやすい。

「ごめん、私知ってたけどなにもしなかった。なにも言わなかった」

 彼女は僕に引け目を感じていたんだろうか。それは僕の問題で、彼女が責任を感じるようなことじゃあないのに。恨む気持ちは僕にはないけれど、いじめられていることを彼女が思ったよりも近いところで知っていたことが恥ずかしかった。

「それはあとで考えるけど、胸の中でひっそり恨んだりしてるってことにしとく」

 校内に二人、いや三人だと思った極悪人が一人減ったということなのでこれは良い話だ。そう考えよう。

「なにその暗い考え。あんた、ひょっとして嫌なヤツ? キモい」

 そう言って彼女が少し笑ったので僕も笑った。


 下弱K立中P立強K。

 土曜の放課後、奴らがよく行く場所は知っていた。商店街の書店の奥、小部屋にあるゲームコーナー。何度か親の金を盗まされて連れて行かれた。

 立弱P×3立強K小J強K。

 ヨシイさんのことは山田先輩に頼んである。校内にいる間だけでいいと言うとしぶしぶ承諾してくれた。あんまり頼りにならないけれどないよりはマシだ。

 起き上がり下強K下弱Pキー入れ立中K。

 ゲームコーナーに着くと奴らは格闘ゲームに熱中していた。リーダーがプレイ中だったので気づかれないよう逆に回って対戦を申し込んだ。このゲームなら負ける気がしない。

 めくり中K下弱K立中P×2キー入れ立強P。

 案の定僕が思うような展開になった。手も足も出させず一方的に攻撃して勝利。対戦が終わったあと、リーダーが僕の方を覗き込んで表情を怒りから驚きに変えた。いつも彼らの相手をする時はさりげなく負けていたから実力は知られていない。

「なんだてめえ、こっそり練習してたのかよ」

 笑いが起こる。彼らの話につき合う余裕はない。殴りたいああ殴りたい早く殴りたい。

「話があるんだけど」

 心臓の高鳴りを意識しながら精一杯力を込めて言った。声が震えたりしたら最悪だ。

「お前の話なんか知らねーよ。財布出せよ」

 予想通りの反応。まともに取り合ってもらえるとは思っていない。それでいい。そもそも本当は話をするつもりなんかない。

 ゲームは放っておいて入口に近い壁に寄り照明のスイッチに手をかけた。ただでさえ薄暗いこの部屋はこのスイッチを切ればまっくらになるはずだ。次に目を閉じる。罵声は意識の外に追い出した。

 十秒、二十秒。充分な時間が経つのを待って置いたままにしていた手でスイッチを切る。どよめきが聞こえた。部屋はまっくらなはずだ。そして目を開ける。閉じていたお陰で暗闇に慣れていた。奴らはまだ無理だろう。僕は我慢をやめて目の前にいるリーダーの鼻めがけて固めた拳を叩きつけた。

 短い悲鳴は僕の方だった。壁や机ぐらいで人を殴ったことなんか一度もない。変な角度になってしまったのか手首が痛む。

 誰かが電気をつけ、即座に何人かが飛びかかってきて床に押さえつけられる。ほこり臭い床から鼻を押さえるリーダーを見上げる。その向こうに困惑している顔があった。山田先輩に蹴られた、レッドツェッペリンに反応を示した奴だ。なんてばかなことをしたんだ、そう書いてあるような顔をしている。

 うるさい。これは僕個人の問題だ。目の前にいる不良崩れがヨシイさんを苦しめていると思うとはらわたが煮え繰り返る。僕がこんな暴挙に出たきっかけがそれなのは間違いない。けれどこんなことをしてもヨシイさんが楽にならないことはわかっている。ムシャクシャしてやったというやつだ。事実これ以上ないほどムシャクシャしている。

「ここじゃ狭い。表出ようぜ」

 書店の横にある駐車場に連れて行かれた。そこは両隣の建物で影になってはいるけれど外れとは言え商店街なので人目につかないわけじゃない。そんなことも気にしないほどリーダーは怒っていた。飼い犬に手を噛まれたような気分だろうか。ふざけやがって。

 二階のアパートを支えている太い鉄柱にぶつけられてがらんとした駐車場を無様に転げ回った。格闘ゲームのようにはうまくいかない。痛みも恐さも現実だ。そして怒りも。それがあるから僕は逃げ出したり媚びたりしない。

 ヨシイさんを傷つけたのも、山田先輩があんなにけがをしたのも、僕がいじめられているのもこいつが原因だ。くたばれ、諸悪の根源。

「謝れ」

 僕の言葉は奴らに届かない。前にも思ったことがある。こいつらと僕はまったく別の生き物で、そのせいで僕の理屈や道理は通じないんじゃないだろうか。そんな馬鹿馬鹿しい空想をしたくなるほどこいつらは理解できない。

「謝れよ!」

 ヨシイさんの名前を出すつもりはない。迷惑になる。だからこれは単なる僕の暴力だ。

「なんで俺がてめえに!」

 リーダーが声を荒げた。彼はきっとロックスターにはなれない。

 まとわりついてくる他の連中を振り切って突進する。途中で誰かに捕まった。例の困惑顔。「やめとけって」と言いたげな顔つきが他の連中とは違う。

「そんな同情いらないんだよ!」

 僕は怒鳴った。こいつらと一緒にいるくせに理解者みたいな素振りはやめてくれ。半年近く続いた悪役はそのままでないと意思の弱い僕はきっと勘違いしてしまう。暴力の輪に加わっておいて、今更味方みたいなマネをするなんて一番タチが悪いじゃないか。

「どうしたんだよ、トモヤ。お前もやれよ」

 リーダーが呼んだ。彼の名前らしい。どうでもいい。敵、それ以上の情報はいらない。

「もう……やめようぜこういうの。面白くねえよ」

 そういえば、これまで何度か暴力が止まる時こんな風に彼の声が聞こえたことはなかっただろうか。彼に助けられたことはなかっただろうか。

「お前最近よくそんなこと言うよな。あんま浮くと今度はお前がやられるぞ」

 その言葉に他の連中が動いて、僕とトモヤを囲んだ。

「面白くねえって、こんなことしても。他にもっと面白いことあるだろ」

「お前、どうなるかわかってんだろうな」

 裏切りには制裁。それを予感させる捨て台詞でトモヤを残して奴らは去った。なんだか忍者みたいだ。同情する気にはならない。ざまあみろとも思わなかった。それよりも追いかけていってもっと殴りたいのにどんなに暴れても羽交い絞めはびくともしない。

「離せ! あいつらの仲間じゃなくなったって僕の味方になったわけじゃない! こんなことして助けた気になるな!」

「んなことどうでもいいから病院行こうぜ。お前結構頭打っただろ」

「いつもは打ってないと思ってるのか」

 皮肉だ。力が抜けて羽交い絞めから脱出できた。殴ろうと思って振り返ると、苦しそうに歯を食いしばる顔を見て手が止まる。

「すまん。悪かった」

「今更なんなんだよ、わけわかんないよ」

 混乱していた。怒りが冷めたわけではないけれど、今から追いかけてまた乱闘しようという気持ちはなくなっている。一体僕はなにをやっているんだろうという気持ちが強い。

 本当に僕はなにをしに来たんだろうか。奴らがゲームで遊んでいるのを見てますます腹を立て、予定通り殴ってボコボコにされた。始めからなにか期待してたわけじゃない。それにしたっていやに虚しい。ああ、これが憤りだ。

 憂鬱な気持ちで駐車場を出ると書店の前にボロ雑巾が転がっていた。山田先輩だ。横の川に落ちたのかずぶ濡れで、制服は白い部分が残っていないくらい汚され下半身は裸だ。けがは顔だけでも僕の十倍は酷い。

「よお、無事か」

 自分のことは棚に上げた発言に言葉も出ない。一体いつ、誰にやられたんだろう。これじゃあ僕は泣き言が言えない。

「あちゃあ、松尾の兄貴にやられたんだろ。あの人無茶苦茶するからな」

 トモヤがリーダーの名前を言って気の毒そうに顔を歪めた。それなら山田先輩が言ったことと一致する。山田先輩は僕をいじめている集団のリーダーの兄によく殴られていると言っていた。しかしどうして今ここにいて、ここまでひどくやられたんだろう。

 川に浮かんでいたパンツとズボンをすくって履いている間に僕は考え、二回目にバランスを崩して転んだところで思い当たった。

 山田先輩は知っていたのかもしれない。この書店のゲームコーナーが松尾弟のたまり場だけでなく、兄のたまり場でもあることを。そこで兄弟二人に僕が狙われないように駆けつけた。たまたま書店に用事があったなんて僕は信じない。

 僕よりもあとからやって来て兄を見つけ多分強行手段で引きつけた。弟の喧嘩に混ざらないように、僕より酷い目に遭うとわかっていて犠牲になった。そうじゃないだろうか。

「ヨシイさんは? 見てて下さいって言ったじゃないですか」

「知るか、学校出るまで見てた。帰ったんじゃねえのか。それより俺の心配をしろって」

 珍しくたくさん喋る。したい質問は照れくさくてできなかった。僕のために頑張ってくれたんですかなんて聞けない。涙が出る。僕がお人好しならこの人はもっとだ。

「痛いからって泣くなよ、情けねえなあ」

 ずぶ濡れのズボンを履き、ベルトを締めた山田先輩は僕よりもしゃんとしている。対抗して背筋を伸ばしたら背中に痛みが走ってまた前屈みになった。

「お前ら……なんか、いいなあ」

「うるさい」

 敵の裏切り者が気の抜けたことを言うので毒づいてやった。

「まあいいさ。明後日学校でな。ってそのけがじゃ来れねえか?」

 手を振る敵の裏切り者を無視して僕たちは歩きだした。

「あーくそ、庭に鞄置いてきた。取りにいかねえと。面倒くせえなあ」

「置いといていいんじゃないですか? あそこ雨降らないし、誰も来ないし」

 鞄を置いてきたのは僕も同じだけれど、それほど重要なこととは思わない。

 本当はヨシイさんをほったらかしにして来たんじゃないだろうか。なんとなくそう思う。ヨシイさんはもしかしたらまだ弱者の庭から出られずに困っているのかもしれない。だから、彼は戻るようなことを言い出したように思う。

「ピック入ってるから取り行かねえとマズイんだよ」

「ピック?」

「ギター弾くやつだ。馴染んだのじゃねえと今夜のライブできねー」

「え? そんな状態でもやるんですか?」

「戦争が起きてもやる。戦争が起きたら余計やる」

 山田先輩のよくわからない主張もあって僕らは学校に戻ることにした。血まみれとずぶ濡れのせいで通行人から変な目で見られても気にならない。怒っていた時とはまた違う気分で心が高まっている。

「お前、けっこうやるじゃねえか」

「ボロボロですよ」

「謝って逃げなかったしごまかそうともしなかったろ。情けねえ奴と思ってたけど」

「元々の点数が低いだけですか」

「まあそういうことだな」

 二人で笑い合う。長い間こんな空気を忘れていた。友達。僕にはそう思えた。

「今日の僕って、けっこうロッケンロールでしょ」

「お前はナニワ節だろ。よくわかんねーけど」

 久しぶりに味わう大切な時間。ヨシイさんのことは忘れていて、ずっとこうして山田先輩と話していられたらいいとまで思った。


 僕が手に入れたばかりの幸せは唐突に奪われる。

 曲がり角で誰かが飛び出してきて山田先輩にぶつかった。山田先輩は迷惑そうに舌打ちをして、僕は大急ぎで遠ざかっていくフルフェイスのヘルメットを肩越しに見た。

 異常には僕が先に気づいた。刺身用の長い包丁が半分くらい山田先輩の腹に突き刺さっていた。遅れて山田先輩も気がついて、呆然と僕の顔を見てから卒倒した。うつ伏せにならなかったのがせめてもの幸いだった。

 大声で呼びかけても反応は薄かった。僕は大急ぎで近くの家のチャイムを鳴らして眠そうな声に救急車を頼んだ。

「うわー、なんだこれ。せめてファンに殺されてえな。あのキノコ頭みたいに」

 山田先輩はうつろな目でわけのわからないことを言い始めた。傷口からは冗談みたいに血があふれている。汚れたシャツはあっという間に真っ赤に染まった。

 なぜこうなったのかわからない。とにかく彼を死なせるわけにはいかない。様子を見に出て来た住人に救急車を急ぐよう叫んだ。ようやくできた友達に死なれたくない。

「しっかりしてください!」

 強く手を握っても反応しようとしない。不安がどんどん膨らんでいく。なんでこんなことになってしまったんだろう。

「この場合は、ライブどうすっかなー」

 彼には生きていてもらわなければ僕が困る。せっかく仲良くなれたのに、こんなことになるなんてあんまりだ。やや上がった頬に諦めを認めたくなかった。

「あー、ロッケンロー……」


<続く>


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