リビングデッド 弱者の庭
福本丸太
リビングデッド 生きていても死んでいるような虚無/前
鼻に鋭い痛み。鉄臭い滑らかな流れが唇を伝う。背中に数人が乗り肩を押さえつけられているせいで起き上がれない。熱を持ったコンクリートに押し返される胸が苦しい。
「こいつ鼻血出してる!」
「もう片っぽも出してろ」
また鼻を蹴られ視界を光が走る。今度は横からだったので意識が飛ばずに済んだ。
「うっわ、超ださ」
「なんかもうつまんねーな、帰ろうぜ」
言葉を合図に背中の重みも肩の圧迫も消えた。今回はあちこち痛めつけられたわけではないのですぐに立てる。でも立たない。まだ彼らがいるのに立ち上がればまた蹴られるに決まっている。鼻血もまだ止まらない。
いなくなってからも用心してしばらく待ってから起き、服の砂を払う。見える範囲で破れているところは見当たらないけれど、白い夏服は払ったくらいでは取れないほど汚れている。マジックペンを取り出したような様子はなかったので落書きはされていないと思う。掌にびっしょりかいた冷たい汗をズボンでぬぐった。鼻血は止まった。
ため息をつく。放課後はいつもこうだ。校舎裏に来ては彼らに殴られる、蹴られる。春には蛙を口に入れられたこともあった。蛇をぶつけられて噛まれた時は毒が心配で不安でたまらなかった。毒蛇が出るなんて聞いたこともないのに。夏が過ぎて秋になったらきっと虫でなにかをやらされる。
彼らにとって僕に対するこうしたいじめはただの暇つぶしで、やめるきっかけがないから続けているだけなのだろう。実際最近では前ほど熱意がこもっていないように感じられた。彼らは嫌々僕をいじめている。他に楽しいことがあるのに暴力を振るっている。
悔しくて腹が立って涙が溢れた。こんなに怒っているのに、どうしてこんなに恐いのか。声だけは抑えて泣きながら校舎のざらざらした壁を叩く。すりむけた指から血が出る。その熱を感じて叩くのをやめた。
馬鹿馬鹿しい。なにもかも馬鹿馬鹿しい。彼らがあんなことをするのも、あんなことをされてこんな思いをするのも馬鹿馬鹿しい。
「帰ろう……」
伝える相手もいないのに一人呟いて、人目につかないだけがとりえの校舎裏を出る。校庭の水道で鼻血を洗い流した。運動部の連中に見られても彼らにとっては珍しくも興味のある光景でもないはずだ。僕がいじめられっこだということは周知の事実なのだから。
玄関に移動して下足入れの前を通過する。僕の学校の靴棚はドラマでラブレターを入れるような蓋付きではないので僕用のスペースに通学靴が入っていないのはひと目でわかる。ツバが吐かれているのはよく見ないとわからない。
そのまま下足室を通り抜けて上履きのまま玄関脇に生えている桜の樹まで行く。周りに誰かいないか確認してから枝を捕まえてさっと登った。桜はあまり登りやすい樹ではないけれど僕は木登りが得意だ。上の方の枝に引っかかっている袋を掴んだ時、近くに止まっていた時期遅れの蝉が羽を広げて飛び去った。
僕の通学靴が下足棚に入っていないのは盗まれたとか捨てられたとかではなくて僕が隠しているからだ。普通に置いていたり持ち歩いていたのでは絶対にイタズラの対象にされるのでこうして木の上に隠すことにしている。
下校時誰にも見つからないように注意して回収し、朝生徒が誰も来ないような早い時間に登校して同じ場所に隠す。この方法でずっとうまくいっていた。ただ葉が消える秋が来るのが心配だった。
いっそ裸足で生活しようか。そんなことを考えて自嘲する。それこそ余計な注目を集めるだけだ。良い方に転ぶわけがない。いや、事態を好転させる方法なんてきっとない。
僕が靴を隠していることは奴らにとっくにばれている。捜したのだろうが、遂に見つけられなかったようだ。僕もけして言わなかった。それだけは彼らに勝っているような気がして誇らしい。
無事家に帰れば次登校するまで安全でいられる。それをあと二年半続けて、彼らでは絶対に入れないような高校に合格することが最善の反抗だ。それまで辛抱すれば僕の勝ち。鼻は痛いけれど気になるもんか。
市から大きく外れた山間の、そんなに大きくもなく目立って田舎でもない町に僕は住んでいる。高速道路の終点にも名前が利用されているこの町は、何年か前に発売されたゼリーのメーカーとして名前だけ全国区になった。みかんの故郷とか言い張っているけれど、きっとそうした土地は他にもいっぱいあるだろう。やけに中古車屋が多く全体的に褪せた色をしているのもこの辺りの特徴だ。
僕の家は山を一つ開拓した住宅団地にある。団地そのものが新しく古い家がないのに家並みの汚れ具合などが目立って違うことが不思議だ。塗料の質の問題だろうか。
学校から家まで、最短距離は歩かない。途中の駄菓子屋あたりで奴らが道草をくっていたりしたらろくなことにならないからだ。誰も歩きたがらないような裏の、まともに舗装されていない道を行く。気だるい朝よりも退屈な帰りの方が特に危険だ。
坂を登るのは苦しい。しかしどの道を通っても結局坂は通らなければならない。この地域は坂が多いというけれど、山が多いのだと思う。
この辺りでは次々山が崩されては住宅地が造られている。大型のトラックがどしどし山に押しかけて何年もかけ丸裸にして、コンクリートやアスファルトで固めてようやく家を建てたい人を待ち受ける。こんなJR最果ての地にそんなに住宅の需要があるのかと疑問に思う一方で、ほぼ全ての敷地に家が建っていくから不思議だ。
もう家までは下り坂一本だけ。下り坂の途中に僕の家はある。息が切れていた。登下校は毎日のことなのに、不思議と毎日息は切れる。シャツは汗で体にべっとりだ。
きょろきょろしながら家のドアの前に立つ。こんな時に奴らに呼び止められたら最悪だ。同じ学校の生徒なので住所なんていくらでも調べようがありはするのの、奴らも一線を越えるつもりはないらしく家にまで踏み入って来られたことはなかった。
雨どいから降りているパイプに指を突っ込んで鍵を取り出す。鍵は鞄に入れていたら中身をぶちまけられる時失くしてしまわないか不安だ。ポケットに入れていたら殴られたりした時に痛いし、逆に殴った方が痛くて余計ひどい目に遇ったりもする。あれこれ考えて無用心な気もするけれど鍵は玄関近くに置いておくことに決めてあった。
家に帰れば安全だ。僕の部屋には両親ですら入らない。また明日になって、学校にいる間上手に耐えて、家に戻る。
その繰り返しを耐えるだけ。二年間、悔し涙が枯れないように祈るだけ。
耐えるだけ。これといってなにかしなくてはいけないわけでもない。できるはず。我慢し通せる。そう思っていた。できなかった。
屋上から見下ろすコンクリートの地面は薄汚れた灰色で僕がそこに降りていくことですぐに赤に変わる予定。それで全てとさようなら。
今日は下校時間になってもなぜか絡まれなかった。終業のホームルームが終われば呼び出されなくても校舎裏に行くよう命令されているのでいつものように行くと誰もいなかった。
しばらく待っても誰も現れず、不意打ちにボールをぶつけられたりエアガンで撃たれたりすることもなかったので帰ることにした。今までにもこういうことは何度かあった。
帰るつもりで下足室まで行く間に奴らとすれ違った。校舎裏にいないという理由で殴られる、そう予想して血の気が引いた。
ところがリーダー格にぽんと肩を叩かれただけだった。
「気をつけて帰れよな。うんこ踏むなよ」
後ろで子分が笑っていたのが気になったけれどとにかく殴られなかったことにほっとした。行ってしまうのを確認してから急いで靴を隠している桜の下へ行く。気が変わって戻ってくる前に帰らなければと焦った。
無かった。靴を入れている袋が見当たらない。注意深く見なければわからないように隠していてもそれでもまったく見えないわけでもない。それが何度見ても無い。
うんこ踏むなよ。
靴か。素足で帰るわけないじゃないか。外履きがなければ上履きで帰る。靴としての機能は大差ないのになぜ妙なものを踏む心配をする振りをしたのか。
そんなことはどうでもいい。校舎内に靴程度を隠す安全地帯すらなくなってしまった。そこだけが唯一権利を主張している部分で、わずかに勝利していたのに。
校舎に沿う非常階段から屋上に続くドアは鍵がかかっていたが内側のアルミ板が外れることは知っていた。ぐらついていたアルミ板は軽く押しただけで軽い音を立てて落ちる。知ってはいても屋上へ実際に入るのは初めてだった。僕のようなタイプの人間が屋上へ登ることの意味はもうそれしかないように思っていたからだ。
さて、どこから飛び降りようか。なんて冷静に考え始める。
視線を巡らすと隣の校舎、三年生の教室が見えた。放課後で人も少なく誰も屋上を気にすることはない。そちら側に飛び降りればコンクリートに激突して確実に死ねるだろう。水道が近くにあって後片付けも楽ちんだ。
確実に死ねればどこでもいい、ここでいい。そう思ったが一応全ての方向を確認しておこうと思った。どこか魅力的な落下地点があるかもしれないし。
死を恐れていることはわかっていた。でも生きていたって仕方がない。結局抜け出せない。高校に行ってもまた別の誰かに殴られるだけ。長い間我慢するよりも飛び降りて地面に激突するまで我慢する。短い苦痛を選ぶシンプルな答え。
魅力的な落下地点を探すつもりが視界なんて意識になく、ただふらふら歩く。なにもしていないのに息が荒れる。喉が詰まったような感覚で呼吸の度に変な音がして肩が上下する。眼が熱くなって涙で前が見えない。
もう駄目だ。もう耐えられない! もう、死ぬしかない。どこでもいい、どこだって飛び降りたら死ぬはずだ。打ち所は積極的に悪い方向で。
飛び込むつもりで屋上の端に立って、足元よりももっと下を見た。金玉が縮み上がる、というのがよくわかった。殴られるよりも能動的な分度胸がいる。できるだろうか。できなければ、いよいよ逃げ場のない日々を送ることになる。
それは嫌だ。逃げかけた腰を前に突き出して眼を閉じた。歯を食いしばる。膝から揺れる体をなんとか止めたくて、とりあえず力いっぱい腕を組んだ。
まぶたにぎゅっと力を入れかかとを上げて前傾に倒れる。小さな加速に髪がなびく。耳で風を切る音が聞こえてまぶたを閉じているのに視界が白くなった。
「わぁっ! ぐああ!」
地面に全身を叩かれ、意味のない悲鳴をあげて転がる。意識ははっきりしていて、土ぼこりが目と鼻を刺激して苦しい。
どうにかパニックから抜け出して、死に近づいていないことに気がついた。あばら骨は飛び出していないし、耳から脳も流れ出ていない。それどころか痛みも残っていなかった。あんなに恐い思いをしたのに、どうして死んでいないんだろう。
不思議に思って屋上を見上げる。間違いなくあそこから落ちたはずだ。三階建ての、フェンスもなにもない屋上。上から見るよりずっと低いということもない。
鼻水を吸って涙を拭う。なんということはない。落ちて、まったく無傷だったということは、これくらいの高さでは駄目だということ。落ちた場所が土だったのも悪かった。それならまたやり直せばいい。もっと高い所からコンクリート目指して。
もう一度挑戦することを決めて初めて周囲を見回した。どうやら旧体育館跡の更地に落ちたようだ。周囲は土手に囲まれていて、すぐそばに跳び越した花壇があり、その向こうで教室に残っている生徒が空から降ってきた僕に驚いて――いない。そもそも教室がない。窓も戸もない。一面ただの壁だ。
校舎に駆け寄って確認してみる。花壇に沿って2クラス並んでいるはずが、汚れた薄黄色の塗装には窓一つない。そこにあるべきなのは僕自身が半年近く通い続けているクラスなので間違いようがなかった。僕の教室だけでなく他の場所、二階や三階も同じだ。ベランダはただの凹凸と化している。
鳥肌がたった。一年の校舎から飛び降りたのに、ここはそのどの面とも一致しない。教室のない校舎。枯れかけのひまわりが並んでいた花壇にはなにもなくただ荒れ果てている。全体的な景色は似ているが違う。
「そんな馬鹿な!」
ひょっとすると飛び降りには成功していて、ここがあの世だったり。やった成功だと跳び上がって喜ぶべきなのか迷った。
「うっせーな。わめくな」
突然の声にどきりとする。硬質で良く通る声。校舎を背もたれにして誰かが座っていた。あぐらをかいて、特になにかするわけでもなく座っている。髪の毛がぼさぼさで顔があまり見えない。僕と同じ制服を着ているので彼もこの中学の生徒だとわかった。ここはあの世というわけではなさそうだ。
ほっとした自分に気づいて愕然とした。死ぬことを望んでいたはずなのに、ここでは死神の登場だけを喜ぶべきなのに。
「なに見てんだよ、気持ちわりーな。早くどっか行け」
睨まれ視線をそらす。まるで具体的に恨みがあるようで、どの不良より凄みがあった。
口の中ですいませんと呟いてその場を離れる。そこの校舎の角を通ればグラウンドに行けるはずだ。駆け足で角を曲がった。そのはずだった。
目の前には寂しい花壇がある。左には教室のない校舎の壁。右に砂利の更地。目つきの悪い彼も校舎に寄りかかって座っている。
通ったはずの角とは逆側にいると気づいた。わけがわからない。怖くなってまた振り返って逃げた。座ったままの彼が首を向けたから。それだけでとてつもなく怖ろしくなった。移動したはずなのに戻っている。
彼は本当に死神かもしれない。早くここから逃げなければ殺される。どこでもいいから早く。死ぬのはいいとしてもこんなにわけがわからないのは嫌だ。
今度はちゃんと校舎と舗装された崖に挟まれた道に出られて少し安心した。先に進めばグラウンドだ。助かったもののすぐに胃が重くなる。それは僕にとって当前の反応だ。
通路として想定された道ではないせいか窓などがなく校舎の中からここの様子を見ることはできない。学校の敷地内で最も人目につかない、いわゆる校舎裏と呼ばれる場所で僕がいじめられている主な場所だ。
憂鬱な気持ちで壁についた血の前を通る。ほんの少しなので知らずに通れば誰も気づかないだろう。この血は僕のものだけれど、僕そのものを象徴している。
憂鬱な気持ちで校舎裏を抜けると無事グラウンドに出られた。これが自然だ。無事あの変な場所を抜け出せてほっとする。そのままグラウンドを通って校外へ出ようとしたが、荷物を下足室に置いたままにしていたのを思い出して取りに戻った。
無事だった荷物を持ち、上履きのまま下校する。自殺はひとまず中止することにした。
すぐにしないからといって諦めたわけじゃあない。ただ校舎から飛び降りた程度では死ぬとは限らないことがわかったので、次の決行は計画と準備をもって望むことにする。
そして計画と準備に入る前に疑問を解決しておきたかった。できればすっきりした気持ちで死にたい。知りたいのはあの場所と、あの場所にいた彼について。
学校を出て自分の部屋に入ってからようやく考える余裕が出てくる。
おかしなことは他にもあった。死ななかったのは土に落ちたからだとしても、ほとんど痛みがなかったのは妙だ。実はしっかり深刻なダメージを受けて仮死状態に陥り、いわゆる三途の川のような場所に意識がいっていたのか。そこにいた誰かに立ち去るよう言われたということはつまりおばあちゃんがまだ来るなと言った、そういうことだろうか。
結局納得できる答えは出ず、布団に入ってからもそのことを考えているうちに朝になってしまった。ぎんぎんに照りつく日差しを反射する通学路をぼうっとして歩く。もしかしたら彼が拒絶しなければ今頃この世にはいなかったのかもしれない。そんな風に考えるようになっていた。
昨日盗まれたせいで今日は外履きを隠すことを考えなくてもいいので早く登校する必要がない。普段より遅く、たくさんの生徒に混じって通学路を歩くのは久しぶりだ。長い間登校時間を早め、下校は裏道を使っていたのでこんなことでも新鮮に感じてしまう。
校門をくぐったところで目の前に幽霊が登場した。あの場所にいた彼だ。昨日と同じぼさぼさ頭が他の生徒と同じように校舎に向かって歩いている。驚いて思わず声を上げてしまいそうになった。
徹夜明けみたいにどんよりした眼で今にも文句を言い出しそうに口をとがらせて陰気に背中を丸めている。歩くのも他と比べ一際だらだらとしていて遅い。朝が弱いだけの普通の生徒にしか見えなかった。しかし彼が死神でもおじいちゃんでもなく、平凡な生徒だったとしても昨日彼がいた場所が普通ではなかったことは間違いない。
早歩きで少し前に進み、彼の胸の位置を盗み見た。
夏服の左胸には校章が縫い込んであってその色で学年を見分けることができる。青、オレンジ、緑の三色が順繰りに毎年の新入生にあてがわれていて、今年の一年生は青、二年生がオレンジ、三年生が緑だ。
彼の胸にはオレンジ色の刺繍がしてあった。二年生だ。
胸に向けていた視線を上げて、なんとなく彼の顔に目がいく。ものすごい顔で睨まれていた。昨日と同じか、それ以上の憎悪だ。
彼の呟きがすくみ上がっていた僕を動かした。低い声でほとんど聞きとれなかったが、多分彼は「死んでろ」と呟いたと思う。
思わずかっとなって気がつくと彼の肩を掴んでいた。
言われなくてもそのつもりだった。どうしてそんなことまで強制されなくちゃならないんだ。
「触るな」
言葉と涙を歯を食いしばってこらえる。言う度胸がないだけかもしれない。とにかくその間に彼は掴んだ手を払って行ってしまった。学年ごとに分かれている校舎と同じで下足室も各学年別々だ。彼が歩いていったのはやはり二年生の校舎の方だった。
憎しみのこもった瞳。ひとつ年上なだけの彼がどうしてあれほどの感情を持てるのだろう。そしてどうしてそれを無関係なはずの僕に向けられるんだろう。
足はあった。太陽も出ている、触れもした。どうやら彼は幽霊とは違う。そんなもの信じてはいないけれど、まともな存在にも思えない。
後ろ姿は周りにいる他の生徒と馴染んで不自然さはなかった。無気力に見えるくせに目つきだけは鋭く、反抗期が実態化した姿のように思える。
「おい、お前その靴どうしたんだよ」
呼びかけられて振り返ると奴らがいた。にやにやしている。
通学靴は昨日無くなったので今日は仕方なく似たような白い運動靴を履いて来ている。よく似ているのでぱっと見たくらいではわからないはずなのに、彼らは見つけた。当たり前だ。彼らが盗んだのだから。
「なんか、無くなっちゃって」
そう答えると奴らは笑った。背中をばんと叩かれ笑い声が去っていくのを見送る。お前らがやったんだ。そう言えず口を横に広げて顔を作っていた。
ひょっとしたらと思っていたが靴棚に通学靴が戻っていてほっとした。ほっとするのもおかしい。もちろん感謝もいらない。感情が色々な方向へ反復する。
自分が情けないとよく思う。昨日死のうとしてそれもできずに今日は机に座りまじめに勉強する振りをしている。授業の内容なんててんで頭に入ってこない。今指名されたら答えられないな。そう思っていたら本当に指された。立ち上がって広げていた国語の教科書を見て、今が英語の時間だと気づく。くどくどとした説教が始まった。
小さくため息。うつむいて眼を閉じる。いっそ消えてしまいたい。
すると急に強い風を感じた。日の光も。ただし登校中感じたような容赦ない熱射線ではなくそっと包み込んでくれるような暖かな日差しだ。
驚いて眼を開けると教室にいたはずがまた昨日と同じ不思議な場所に立っていた。荒れた花壇。砂利で整地されたスペース。窓のない校舎。壁際の彼。
「また来たのかよ。早くどっか行け」
ミスター反抗期は僕に顔も向けずに冷たく言い放った。しかし僕は昨日と同じようにただ従うつもりはない。わからないままにしていたくない。
「ここはなんなんですか? なんで先輩はここにいるんですか?」
言うと、彼は聞こえるほどの舌打ちをして立ち上がり、地面を蹴った。
「ごちゃごちゃうっせーよ! うぜえからどっか行けって言ってんだろ!」
縁石を一つ取って持ち上げ、壁に投げつける。花壇が荒れ果てている理由はこれかもしれない。
「なんでそんなに怒ってるんですか? 聞いてるだけなのに」
「死ぬのはお前の勝手だ。そんなに死にたけりゃさっさと死ねよ。どこでもいいから他所で飛び降りてさっさと死ねよ」
命を粗末にして、とかそういうことで怒っているわけではないらしい。目の前で酷いことを言われむっとしたあと、大事なことに気づいてはっとなった。
「なんで、飛び降りたって知ってるんですか? 見てたんですか?」
屋上には誰もいなかった。もし別の校舎から見ていたのなら、落ちたこの場所に先に来ていたのはどう説明できるのだろう。この場所が校内のどこでもなく、無傷だった以上単に落ちてくるのを見られたとも思えない。
また舌打ち。後頭部をかきながら近づいてくる。目は相変わらず鋭く、思わずたじろいで一歩下がってしまう。
「死のうとしなきゃここに来てねえよ」
彼に肩を捕まれて反射的に目を閉じて緊張した。この状況からは顔を殴られるか腹を殴られるか。しかし彼の行動はどちらでもなかった。
手が肩から離れ風に前髪があおられるのを感じて閉じていた目をゆっくり開けると、なんと空中に立っていた。違う。足の下にはしっかりと硬い感触がある。足元の確認をして、見なければよかったと後悔した。
屋上の端に立っていた。昨日僕が飛び降りた、校舎の屋上。つま先より向こうで枯れたひまわりがかすんで見える。
危ない――。
慎重に下がりながら振り返ると、彼がこちらに向かって跳んだところだった。膝を曲げ空中で横に寝た、ドロップキック。靴の裏が迫ってくる。
「危ないぃぃ!」
声ばかり出てよけられなかった。胸を蹴られ空中へ飛ばされ、蹴った本人と一緒に落下する。屋上から落ちたというのに彼は平然としている。全てが理解できない。どうやって教室からあの場所へ、そして屋上に移動したのか。なぜ落とされたのか。
もしかしたら本当に、今までのことは全部昨日屋上から飛び降りた時に始まった白昼夢なのかもしれない。屋上から飛び降りて、屋上に戻ってきてまた落ちた。最初と最後だけは正しい。その間は全部幻覚なのかもしれない。そうならなぜもっと楽しい夢を見ないのか。せめて死ぬ前くらいには。
視界に空がある。空だけがある。浮かんだ雲は流れず模型のように形を変えない。
「寝てねえで起きろよ」
声をかけられて我に返る。上空に、雲より手前に彼の顔があった。落ち着いてみると手が届く範囲だ。
「なにするんだ危ないだろ!」
立ち上がりながら抗議する。教室のない校舎を背負う彼はまるで気にした様子はなく相変わらず敵意の目つきで僕を睨んでいる。
蹴り落とされた僕も一緒に落ちた彼も無傷だ。彼は多分実践して見せた。なにを? まだ理解が追いつかない。屋上から落ちても死なないということではないはずだ。
「お前みたいなのはここじゃ自殺できねえ。特に飛び降りは」
「なんで? なんで屋上から落ちたのにここに来るの? ここは――なんなんですか」
徐々に興奮が冷めてきた。というよりも今いる場所の異常性を改めて実感して得体の知れない恐怖を感じ始めていた。
校内にこんな場所はない。しかしここは校外ではありえない。確かなのは死に繋がるところに存在していることだけ。
「ここはあの世ですか?」
答えを求めて彼を見つめた。彼は黙ったまま、ふっと目から敵意を消し元いた壁際に戻る。攻撃的な意思の消えた両目は半開きで、作り出す雰囲気を無気力に変えた。ずっと気づかなかったが彼は体つきが細く貧弱だ。腰が引ける迫力を肉体には微塵も感じない。
「そこに逝けねえからお前はここにいるんじゃねえか」
理解不能な答え。この場所の説明になっていない。
怒りは消え、この不思議な場所と彼に興味が湧いた。
「僕の名前は中川たかし、一年。先輩はなんていうんですか?」
自己紹介して同じものを求めると、彼は苛立ったらしく舌打ちをすると四つんばいになって地面に頭をぶつけ始めた。今度は別の意味で怖い。
「お前聞いてねえのか。どっか行けって言ってんだろ。俺に関わるな」
本来ならこんな危ない人間には近づきたくはない。しかし彼はこの場所について詳しそうだ。他に誰もいないのでは彼を頼るしかない。
ここなら奴らにばれない。オカルトの匂いを強く感じてもその一点だけがこの場所を聖地にする。ここを緊急避難場所にするためには、知りたいことがたくさんある。
まずはここへ来る方法。三度とも突然で普通に歩いて来たことはない。次に出る方法。昨日は普通に出られたけれどその理由もわからない。さしあたってこの二つを解決する必要がある。それにはここの発見者、もしくは住人の彼と仲良くなることが重要だ。
「ここへ来る方法を教えてください」
単刀直入に訊く。あまり時間をかけない方がよさそうだ。地面にぶつけるのをやめこちらを向いた額が青く内出血していた。よく見ると他にも治りかけの傷がたくさんある。
「……ここにいたいって言うのかよ」
「はい。誰にもここのことは言いませんから」
返事は刺激するものではなかったはずが彼の眼に再び凶暴な光が宿った。
「お前、いじめられてるよな」
驚いてしまったけれど僕の知らない人がそれを知っていても不思議はない。気づいていないのは教師たちくらいだろう。それさえも気づかない振り、かもしれない。
「それでここに来たんだろうけどよ、ここにいても別に助かったりしねえからな」
なにを言うのだろう。奴らの知らないここは最高の隠れ場所だ。冷静に見れば暖かな日差しやなにかに包み込まれているような安心感もある。絶対にここは聖地だ。ここがあれば残り二年が楽になるのは間違いない。
「それでもいいなら勝手にいたらいいだろ」
ぷいと所定の位置に戻り、彼はまた元のように壁にもたれてぼうっとし始めた。受け入れられたのだろうか。あれだけ暴れたにも関わらずあっさりしたものだ。しかしまだちっとも話を聞けていない。
「……なにやってんだ」
「なにって、隣にいるだけですよ」
彼の隣に座り、視線を正面に放り出す。
更地の向こうには土手がありその先は青々とした木々に遮られ見えない。僕の知っているこの景色ならその先には通学路があるはずだが、このおかしな場所からはどこに通じているかはわからない。昨日の体験を参考にすれば、進んでもどこかに戻ってくるだけだ。
「ここって、死のうとしたら来るんですか?」
考えてみるとそれが答えのように思う。一度目は自分で屋上から飛び降りて、二度目は授業中生きているのが嫌になった。三度目は自分からではなくても、屋上から落ちたという事実が共通している。
彼は答えない。否定されない。
「それなら出る方法は生きようとすることですか? 違いますよね。僕は昨日そんなこと考えていないから」
唐突にチャイムが聞こえた。普段学校で聴く授業と休憩時間を分ける音と同じだ。現実を思い出させられたけれどそれの登場にも違和感は覚えなかった。ここは非日常の空間で、それでも学校だ。
「お前、戻らなくていいのか? 授業終わっただろ。授業中ここ来たんなら他の連中からは急に消えたように見えるから、ここに来る時は気をつけろ」
いきなり妙に親切に教えてくれた話によればこの音は本物で、授業をボイコットしたことになるらしい。血の気が引いていくような気がした。生徒に味方がいないのに、教師の印象まで悪くしてしまったら最悪だ。
授業を抜けた理由をどう説明するか考えているうちに、気がつけば自分の教室の前に戻ってきていて仰天した。やはり出る方法は前向きに生きようとすることではないようだ。さっぱりわからない。
ここには来ねえ方がいいぞ。
考え込んでいる間彼がそう言った。楽園を独り占めするつもりかとつい勘ぐってしまいそうになるが、彼の声は真剣だった。
「中川、お前どこに行ってたんだ」
教室のドアが開いて担任の体育教師が顔を出した。英語の授業だったので彼はそこにいないはずだ。そう考えていたら大きな体にの向こうに英語の教師を見つけた。捜索されていたのかもしれない。
「どこに行ってたか答えろ。煙草の臭いはしないな。なにをしていたか、答えなさい」
徐々に凄みを加える口調に沈黙した。話したところで信じてもらえるとも思わないが、あの楽園は秘密のままにしていたほうが都合がいい。
なにも言わないでいると職員室に連行された。よく雑用を押しつけられるので職員室には慣れているつもりでいたけれど、叱られるために入るのは初めてで萎縮してしまう。
職員室に着いてドアを開けた直後に担任教師が「くそったれ」と口走るのを聞き逃さなかった。直感のようなものがあって、担任教師の脇から職員室の中を覗くと独特の紙の臭いと同時に、彼を見つけた。あの不思議な場所にいた目つきの悪い二年生だ。大人三人に囲まれている状況で平然と冷めた眼をしている。視線がどこにいっているかわからないところもさっき見た時と変わっていない。
「山田、どうして授業をサボった」
彼の担任だろうか。黒ぶち眼鏡の厳しそうな教師が足を組んで椅子を軋ませながら尋ねた。かなり厳しい口調だ。山田、その名を忘れないように胸に刻み込む。
彼、山田先輩は答えなかった。もちろんそれで教師たちが引き下がるはずはない。
「時々授業中にいなくなって、お前どこでなにやってるんだ?」
凄むような口調と細かい巻き舌が迫力を作っている。しかし山田先輩はどこ吹く風で聞いていないようにすら見える。当事者でありながら無関心な様子はまるでなにも考えていない、からっぽの人間に見えた。冷めて見える眼の温度はマイナスなんじゃなくてゼロなんじゃないだろうか。
「お前トイレって言って出て、戻ってきたことないじゃないか」
黒縁眼鏡が頭を抱えている隙に山田先輩が視線をこっちによこした。眼が合ったけれど、ただ見つめられただけ。そうでなければ睨まれただけ。相変わらず温度はない。炎のような狂気で睨まれた時とはまったく違っていて、なぜかその時よりも恐かった。
「あいつを知ってるのか?」
存在をすっかり忘れていた担任教師が声をかけてきた。訝る表情をしている。名前すら今知ったばかりで、まだ知り合いというほどのレベルには達していないのではと答えを迷っているうちに担任教師は続けて言った。
「ろくでもない奴だから影響受けないようにしとけよ」
言われなくても彼が模範的な生徒でないことはわかっている。それでも実際批判されて多少ショックはあった。抱いていた期待を裏切られたというわけではなく、安全地帯に先に入り込んでいたのが危険人物だったらという不安。死にたくなって行く場所でまたいじめられたら救われない。
担任教師に彼の人となりについて議論するまでもなく、それほど悪い人物ではないという予感はある。人相が悪く荒れて物に当たったりしてみても、彼も追い詰められてあの場所に来ているのだから。同じ感情を持つ者として敵ではないと心が告げている。ような気がする。
彼と長い間見つめ合ったまま、伝わってこない感情を想像した。どうして彼はいつも睨むような目つきをしているのか。彼を焦らせ、苦しめている原因はなんなのか。
彼の視線が動いて時計を見つめた。周りがそれに気づき、もう次の授業まであまり時間がないことを知る。
「ああ! またなにもできなかったじゃないか!」
慌てた様子で教師たちが散った。結果的に解放された彼はゆっくりした足取りで出口、こちらに近づいてくる。まるで勝者のように堂々とした足取りだが、顔にそんな余裕はなく相変わらず敵にしか出会ってこなかったようにすさんでいる。
立ち止まることなくすれ違って遠ざかる後姿を眼で追う。
死のうとしなきゃここに来てねえよ。彼はあの場所でそう言った。彼もあの場所にいたのだから、死にたがっていることになる。その理由は一体なんなのだろう。
「お前どこであいつと知り合ったんだ」
担任教師に聞かれたので「知らないです」と答えた。本当に知らない。苗字は山田、中学二年で死にたがっている。あとは彼のお気に入りの居場所を知っている、それだけだ。
教室に戻るとひそひそ声に囲まれた。不可抗力とはいえ授業をサボってしまった。いじめられっこと不良行為が結びつかず不審に思われている。これが奴らの耳に入ったらと思うとぞっとする。けれどきっと知られてしまう。放課後が憂鬱だ。
はっとして落ち込んでいく意識を振り払う。マイナスなイメージが過ぎるとまたあの場所に移動してしまうかもしれない。そうなれば悪循環だ。あそこがどんなに楽園でも授業を抜け出すわけにはいかない。
次の授業は数学で、余計なことを考えないよう最高の集中力で授業に臨んだ。おかげで不明だった点もしっかり理解することが出来た。その代わり異様に疲れた。
その後も順調に授業を受け、給食の時間になって奴らが来た。ほとんどの生徒が食べ終わり片付けを終えている状況でもそもそ食べていると、わざわざ六人勢ぞろいでぞろぞろとやって来た。こういうことは珍しい。
最初はてっきりデザートの青りんごゼリーが欲しいのかと勘違いして渡すと受け取ったうえで違うと怒鳴られた。返してくれるどころか、その場で残っていた給食は全て捨てて校舎裏に連れて行かれる。青りんごゼリーはその場でひと口で食べられた。
「お前授業サボったらしいな」
やはり耳に入っていた。まずへらへら笑うなと殴られ、それから理由は挙げずにたくさん蹴られた。いつになく力が入っている。彼らの口にする言葉を繋げていくうちに理由がわかった。授業をサボるような不良を更正する大義を背負っているつもりらしい。
思うに彼らは悔しいのだと思う。彼らはこの平和な学校内で不良、問題児として認識されている。しかし彼らの行動はこっそり煙草を吸うくらいで大きな事件を起こしたことはない。喧嘩をするわけでもなく、遅刻はしても登校していれば授業は欠かさず出る。早退したなんて話も聞いたことがない。煙草を吸っているところを見つかれば謝りもする。
要するに気取っているだけでたいして不良らしくない彼らは、普段いじめの対称にしている僕が自分たちよりも大胆な行動に出たことに腹を立て危機感を覚えているのだろう。
なんて身勝手で、気の小さい。情けない奴らだとは思ってはみてもやはり怖い。情けない彼らに怯える自分はもっと情けなかった。
「調子のんじゃねえよ」
捨て台詞を吐いて彼らは去った。いつもよりひどくやられたのですぐには立ち上がる気にもなれない。咳き込むと血が飛んだ。口の中の出血は実感より多いようだ。いっそ内臓が破れてこのまま惨めに死んでいくのも悪くない。そう思った瞬間目の前の景色は変わった。薄暗い校舎裏にはない日差しが背中を温めている。あの場所だ。
「酷い目に遭ってるな」
壁際で彼、山田先輩が興味のなさそうな声で言う。僕の方に顔を向けてすらいない。
ここに来るつもりはなかったけれど、動けない間はここにいた方が好都合だ。今は昼休みなので次の授業まで時間もある。
寝返りをうって空を見上げると大きな雲が浮かんでいた。ここはいつでも暖かで、安心して休んでいられる空気を作っている。
「この場所って一体なんなんですか?」
寝転がったまま訊いてみた。傷だらけなので許してくれるだろう。それに彼が礼儀を重んじているとは思えない。
良かったのは気に障らなかったらしいこと。悪かったのは質問ごと気にとめてもらえなかったこと。要するに無視された。
もう一度訊いてみると苛立った様子で答えてもらえた。
「俺やお前みたいに死にたがってる奴が来る所だ。学校の中ならどこだっていいから真剣に死にたいって思ったらここに来るようになってる。理由は知らねえ」
予想が裏付けられて安堵した。学校内ならいつでもここに来れる。死にたがることに関しては自信があるのでうまく利用すれば危険を減らせるだろう。僕は安全地帯を手に入れた。
彼の眼が僕を見ていて、視線が合うとまた正面に戻った。一瞬だけあの凶悪な双眸に射抜かれ心臓が激しく高鳴った。恐いから、違う。彼に恐怖を感じていない自分に気づいた。
同じように死にたがっているはずなのに僕とはまるで違う。この場所よりも彼に興味が湧いている。率直に言えば、彼に惹かれている。
「ここはお前が思ってるような所じゃないからな。精神的なあの世の一歩手前だ。社会復帰したいって思ってるなら気をつけろ。気をつけようがないけどな」
よく理解できない。なんとか立ち上がれたのでよろよろしながら彼に近づいた。
「近くで見たら、余計ひでぇな。気色悪ぃぞ」
僕を見る目つきはそのままに、口を横に広げて舌を出しおえっというような顔をした。一体どんな状態になっているんだろう。顔が腫れて熱をもっているので痣ができているかもしれない。鏡は見たくない気分だ。
「そんなことより今のもう一度詳しくお願いします」
「お前、こんな馬鹿馬鹿しい話よく信じられるな」
うさん臭くても光明が見えるなら信じたい。現実が馬鹿みたいに悲惨だから尚更。みっともなくて返事はできなかった。
「放課後また来い。その時話す」
彼に肩を掴まれた。同時に強い風が吹いて目を閉じるとまた屋上へ来ていた。一年の校舎の屋上だ。端へ行って見下ろすと花壇に枯れたひまわりが見えた。彼はいない。
どういう事情があるかわからない。今まで拒絶されていて、また会う約束をしてもらえただけで嬉しい。それだけをとっておいてこれ以上欲ばってはいけない、そう思った。
本来なら、というのも癪だけれど普段通りなら僕は放課後校舎裏に行かなければいけないことになっている。奴らが来るにしても来ないにしてもそう命令されているからだ。それを無視してあの不思議な場所に行く。勇ましい反抗ではなくもう散々殴られたから今日はいいだろうとびくびくしながら人目を避けて体育館の横の駐車場に移動した。
肩にかけた通学鞄のベルトを握り、目を閉じて意識を集中する。僕はいじめられっこだ。それが苦痛で死にたいと思った。自殺も実行した。気持ちは今も変わっていない。
校内で死にたいと思えばあの場所へ行ける。校内、校舎内のことだとしたらこの場所では駄目かもしれない。そんな疑問はどうでもよくなるくらい僕の気持ちは落ち込んでいる。駄目なら屋上に行けばいい。本当に死んでしまっても願ったり叶ったりじゃないか。
と、降り注ぐ陽光に気づく。一日のほとんど体育館か校舎の影になる駐車場ではありえないことだ。
青空の下、例の一年校舎によく似た壁に彼が寄りかかっている。移動は成功したようだ。万歳をする気にはなれない。死にたい理由について考えて気分が暗澹としている。毎回こうなるとしたらそうそう易々とは利用できないかもしれない。
沈んだ気分のまま彼の近くへ行くと早速説明が始まった。気持ちが落ち着くまで待ってはくれないようだ。
僕は知ることができた。この場所がどういう所で、ここにいるということがどういうことなのか。
いつからかはわからないけれど、この場所はかなり昔からあるらしい。死ぬ気になればここに来る。でもそれは避難にはならない。なぜならここに長く居続けると、死ぬことになるから。
いじめから、わずらわしいことから解放されるストレスのエアポケットだと思っていたのに。ここはどこを向いても平和的な場所だ。とても信じられない。なぜここにいると死ぬのだろう。
「ここ、お前にはどんな風に見える」
首を巡らせて改めて周囲をくまなく見た。静かで温かく、土の良い匂いがする。
「ハイキングに選ばれそうな所」
素直に感想を述べると彼は吹き出して笑い始めた。初めて見る笑い顔だ。
「俺には違うものが見える。たくさんの亡霊……ま、地獄だな」
確認するまでもなくそんなものは見えない。ましてここが地獄だなんて信じられない。
彼には霊感があるということだろうか。急にそんな話をされても信じられないが、この場所自体オカルトの上に存在しているので簡単に否定もできない。
「亡霊って言っても死んだあとここに来るんじゃなくて、ここに来る奴が死んで――死ぬっていうか、普通なら見えない幽霊みたいな状態になって、えーっと、そのあともずっとここにいるんだ。お前もしばらくしたら見えるようになると思う」
説明がつっかえつっかえで要領を得なかった。実際僕の目には平穏な風景しか映っていない。周囲を見回していた動きの意味を彼が読んだ。
「……信じられねえだろ。でもな、なんで俺が知ってるかって言ったら、俺が初めてここに来た時誰かいたからだよ。今はもう亡霊の仲間入りしてるはずだけどな」
こんな平和な場所に死を呼ぶような危険があるとは思えない。僕が死ぬのを止めてくれて、心を休ませてくれる場所にしか思えない。
「亡霊って?」
「だから……長い間ここにいればそのうちここから出られなくなる。それから段々忘れられる。皆に忘れられたら最後には見えなくなる。普通は見えないから亡霊だ。俺はもう長いことここにいるから見えるけど、どれがここにいた人なのか思いだせない。これだけいるんだから、いるはずなんだけどよ」
寂しそうな眼で虚空を見回す。そこに見えるという亡霊の中から、かつて知っていた人を捜しているのだろう。そこでそうしている彼もいずれ忘れられ消えていくというのだろうか。冗談を言っているようには見えない。
「その話とか、あーだこーだ色々話したのは憶えてっけど、どんな人だったかどうしても思いだせねえ。結構付き合い長かった――はずなんだけどな」
その時彼の眼から涙が落ちた。誤魔化すように体をねじってそれを拭う。
「お前も消えたくなかったらこんなとこ来るな。本気で死のうと思ってるんだったら、家ででもどこででも死んでるだろ。生きたいんだったら、こんなとこ来るな」
図星だった。一度は自殺を決行したくらい思い詰めていたけれど、今気持ちは変化している。僕を追い詰めた彼らが憎すぎて悔しすぎて、どうしても死ぬ気になれない。生きていたくはないけれど、せめて少しでも復讐したい。
なんで僕が、なんでお前らが。そういう想いがぐるぐると渦巻いて気持ちが悪い。気がついたら瞼が熱く、涙が溢れていた。
「なに泣いてんだ、気持ち悪ぃな。そんなんだからいじめられるんじゃねえか」
あんただってさっき泣いたじゃないか。言葉を飲み込んでじっと顔を見る。
「なにガンつけてんだ」
「……違いますよ」
「だろうな。そんな根性あったらあんな連中にいじめられてねえよな。お前、なんで反撃しねえんだ。悔しくねえのか」
「嫌ですよ。恐いし、負けるに決まってるじゃないですか」
「お前、ロッケンロールじゃねえなあ」
「ロッケンロール?」
日常生活では初めて聞くかもしれないその単語が、よりにもよって目の前の彼の口から飛び出すとは夢にも思わなかった。緩みそうな口元を撫でて落ち着かせる。
「まさかロッケンロールを知らねえなんて言わねえだろうな」
なぜか得意げな態度に戸惑って曖昧な返事をする。睨まれると思い視線を外しかけ、彼の眼が情熱を秘めた熱心な眼差しに変わっていることに気がついた。どうやら彼の関心をひきつける話題にぶつかったようだ。
「知ってるんなら、なんでもいいからロッケンローラーの名前言ってみろ」
「ええと、尾崎……なんでしたっけ」
今まで生きてきて音楽に興味を抱いたことがない僕は懸命に思い出そうとしてもひとつしか出てこない。その名前なら保健体育の教科書にも載っている。といってもフルネームは出てこずに引用されていた歌詞は共感どころか理解できなかったけれど。
「なかなか良いの出したな、けどあんなのは勝ち組の意見だからお前には合わねえだろ。お前盗んだバイクで走りだせねえだろ」
なにを言っているのかよくわからない。
「国内のはほとんどニセモンだから海外のを聴いてみろ。ジミーペイジとか」
はあ、と頷きながらもそんな機会は来ないことはわかっていた。
「そうだ、これ貸してやるから」
彼のポケットから出てきたのは、CD全盛の時代にあまり見ない六十分のカセットテープだった。しかもメタルテープだ。聴く気がないのを見透かされたようで動揺してしまう。
「アナログの方が生音に近いとか、そういうこだわりですか?」
音楽に関心が深いようなので話題を振ってみた。CDはデジタルサウンドらしいということは知っていても、果たしてテープがアナログなのかどうかは知らない。
彼はあっさり首を振った。
「別に、CDプレイヤー買う金がないだけ」
一万円そこらの物を買えないほど貧乏なのだろうか。小遣いや、お年玉だってあるはずだ。悪いことを聞いてしまったのかと思ってテープを持ち上げて彼の顔を隠した。
「レッドツェッペリン」
必然でそうなっていると思わせるほど乱雑な字でそう記してある。ラベルからはみ出さんばかりの豪快な字だ。
「たまたま持ってただけだけどよ、本物の音楽だから聴いてみりゃいい」
「洋楽ですよね」
「当たり前だろ。そんな名前の日本人いたら連れてきてみやがれ」
「帰ったら聴いてみます」
軽口をたたく。急いで帰ってすぐに聴いてみようという気持ちは湧いてこない。この僕が音楽、それもロックと相性が良いとは到底思えない。
「じゃあ俺はもう行くからな」
「はい――あっあの! ここから出る時はどうすればいいんですか?」
「言ってなかったか。具体的にどこか行きたいって思えばいい。校内でだぞ。ここは校内ならどこからでも来れるし、どこにでも行ける。移動で時間のない時とか結構便利だ」
そう言った彼の姿がふっと消えた。なんの前触れもない。
何気なく辺りを見回してみて、おかしなことに気がつく。放課後になってここへ来てそれなりに時間が経っているのに空は青空だ。まだ日が長いとはいえいくらなんでもおかしい。もうとっくに夕方になっているはずだ。
居心地の良い環境で誘い、そのうちに亡霊にする。まるで食虫植物だ。
急に今いる場所が異質に思えて帰りたくなってきた。ここを出る方法。具体的にどこかへ、例えば教室。
自分の教室の風景を思い浮かべ、その中にいる自分をイメージする。すると一瞬にして風景が切り替わった。窓から差し込む日が赤い。想像した通り自分の教室だ。
続けてもう一度意識する。最悪の状況を想像して憂鬱を呼び起こす。
うまくあの場所に移動できた。やはりここは青空で、時間が固定されているらしい。
今度は校門。これも成功した。思いの他簡単だ。
校門の脇に彼がぽかんと口を開けて立っていた。この場にいたのが彼でよかった。次からは誰にも見つからないよう移動する先を選ばなければ。
「山田先輩」
「は? なんでお前が俺の名前知ってんだ」
「先生が呼んでたんで」
「あーな。……お前、もうそんな簡単に移動できるようになってんのか。もうちょっと時間かかると思ったぞ」
難しさは感じなかったが、そう言う彼は多分手こずったのだろう。優越感から顔が綻む。しかし彼はひどく寂しそうな眼で僕を見た。
「お前、俺より先に亡霊になるかもしんねーな。気をつけとけよ。つけようがねえけど」
突き放した言い方にどきりとする。あの場所を居心地良く感じ、出入りも簡単にマスターできた。それは速いスピードで亡霊を目指していることを意味するのかもしれない。
しばらく会話もなく並んで歩き、国道に出たところで別れた。山田先輩は商店街や駅のある方向、つまりは町の中心部に向かった。といってもたいして栄えているわけでもなく、この町が宅地開発される以前からある古い地域なだけだ。
彼が遠ざかっていく間、背負っている学校指定とは明らかに違う黒く長い妙な形をした鞄が揺れるのをしばらく見ていた。
後ろ姿が小さくなると帰り道を向き、彼の真似をしてポケットに突っ込んだ手がカセットテープとぶつかった。帰ってこのテープを再生するかどうかはまだ決めていない。明日も山田先輩と顔を合わすことになるだろうから聴いた方がいいのは間違いない。
歩きながら考えをまとめてみた。
学校の庭のようで微妙に違うあの不思議な場所。校内で積極的に自殺を考えると強制的にそこへ移動する。出る方法は外へ出る目的を具体的に想像すること。居ついてしまうと誰からも忘れられていき、外に出ることもできなくなり、最後には誰にも見えなくなる。そうした亡霊があの場所にひしめきあっている。亡霊を見るにはあの場所に馴染む必要がある、つまり亡霊になりかけたら見えるようになる。
山田先輩はあの場所を地獄と言った。僕には呪いという言葉の方がしっくり来るように思えた。聖なる学び舎で自らの命を放棄しようとする者に対する罰。誰の記憶にもなく、仲間になる者以外の眼には留まらない。信じがたい話だけれど、実際何度もあそこへ行っている。全てを否定する気にはなれない。
あの場所は危険だ。だからといって行かずに済むとは思えない。どうやら僕はあの場所に馴染みやすいらしい。それだけ強く死を望んでいる、ということだろうか。
あの場所で亡霊化することと通常の死の違いをあれこれ考えている間に家に着いた。鍵を開け誰もいない居間を通って二階の自分の部屋にあがる。
物を置くのはあまり好きでなくこざっぱりしている僕の部屋にも一応コンポくらいはある。使う機能はラジオばかりで、FMをBGMにするのが好きだった。スイッチを切るか放送が終わるまで延々と情報が押しつけられるのでぼうっと聞けて楽だからだ。
ベッドに腰かけ、カセットテープを取り出してしばらく眺めた。これを聴いたら脳天に稲妻が落ちて、明日から髪の色が三色以上のロック少年に生まれ変わったりするのだろうか。それはそれでぞっとする。
きっとこれを聴いたからといってなにか劇的に変化が起きるわけじゃあない。最初は山田先輩と仲良くなるつもりでいたのでこれを聴くことはとても重要だったけれど、彼はそのうち消えてしまうと知った今ではその必要もないような気がする。進行が早いらしい僕の方がひょっとしたら先に消えて、そうなれば亡霊になってしまえばそれからは永遠に一緒なのだから尚更。
いつの間にか思考が袋小路に入り込んでいた。前向きな発想がない。あの場所をうまく利用して明るい高校生活に向かっていく選択肢が選べない。卒業前にあの場所で亡霊になる。それが決定事項のように思えた。
逃げ道も救いようも無い惨めな人生だ。いじめだけでなくオカルトにまで足を突っ込んでしまった。いっそ実はもう死んでいて、これは夢であってほしかったけれど、涙の伝う頬はちゃんと熱い。
僕が望んだいじめじゃない。僕が望んだ亡霊じゃない。この世に生まれたくなかった。でも死にたくもない。なに一つ僕が選んだものはない。
テープをコンポに差し込んで再生ボタンを押す。ボリュームを今まで設定したことがない大きさまでひねるとスピーカー表面の薄いスポンジを揺らしてけたたましい音楽が部屋中を跳ね回った。
次の日、遅く家を出て学校に向かいながらため息をついた。いつでも週末が待ち遠しい。休日なら学校に行かなくてもいいから。
出かける時母が妙に心配そうにしていた。昨日山田先輩から借りたテープのせいだろう。不良になったと誤解しているようだ。珍しく学校生活について尋ねられたのも、妙な友達ができたのではと推測しているらしい。普段顔に青あざを作って帰ってもおろおろするだけで事情を聞こうともしないくせに、急に心配されても苛立つだけだった。
もう隠すのはやめた上履きを下足入れから足元に落とし、履いてきた運動靴を拾い上げようと体を折る。その拍子に胸ポケットからテープが滑り落ちた。
「なんだそれ。お前学校になに持ってきてんだ」
変声期でざらざらの声が降ってきた。聞き覚えがある声に怯えながら見上げると奴らの内の一人がいた。背筋が凍る。
基本的に変わった持ち物は奪われるか壊されるかの運命をたどる。ロッケンロールなテープはどうだろう。借り物なので渡すわけにはいかない。慌てて拾いポケットに戻す。
「なに隠してんだ、出せ」
凄まれて肩を掴まれ壁に押しつけられた。他の生徒たちはこちらを見ないようにしながらそそくさと通り過ぎていく。
恐くて恐くて、自分からテープを渡した。腹の底でぐるぐる熱いものがうねる。
「レッドツェッペリン? お前こんなもん聴いてんのか。かっこつけやがって」
好きで聴いたわけじゃないけれど、なにを聴いたっていいじゃないか。家でのことまでとやかく言われなければならないんだろうか。言葉よりも先に涙が出た。
「なに泣いてん――」
笑いかけた顔を、横から室内履きが吹っ飛ばした。ドロップキックだ。驚いていると派手に落下した強襲者が先に立ち上がった。山田先輩だ。僕も昨日こうやって屋上から落とされた。周りで女子生徒が悲鳴をあげる。
「なにするんですかいきなり」
「今ロッケンロールを馬鹿にしただろ。だからだ」
蹴られた奴は壁に激突して気絶していた。いい気味だ。それを横目に山田先輩にテープを手渡す。
「ちゃんと聴いたのか。あとで感想聞くからな」
感想と言われてどきりとする。昨日聴いていて泣いたからだ。曲に影響されて涙が出たのか、まったく関係なく泣いたのか自分でもよくわからない。
「こんなとこでなにを騒いでるんだ」
体育教師が野次馬をかき分け下足室に入ってきた。それを見るなり山田先輩はさっと体の向きを変えて立ち去ろうとする。
「おい山田! そこのはお前の仕業か」
教師がのびている奴を指差す。山田先輩は振り返りもしなかった。
「あとで職員室行けばいいんでしょ」
「こら待たんか!」
教師の制止は聞かず人ごみに紛れて消えてしまう。本当に消えて、あの場所に行ったんだと思う。無駄な追跡をすると思った教師は、ところがなぜか僕の方へやって来た。眉間にしわを寄せて、言う。
「お前あんな奴となんで付き合ってんだ」
自殺志願の同志だなんて言えない。僕がまごまごしているうちに教師は苛々した様子で周囲の野次馬を睨み回した。
「お前ら早く教室に入れ! ホームルーム始まるぞ! 中川、お前も早く行け」
教師の指導力の賜物というよりは興味を注ぐ対象を失ったからだろう、野次馬はばらばらと散り始めた。壁際で泡を吹いてのびていた奴は教師に担がれ運ばれて行った。
山田先輩が彼を蹴っ飛ばしたのは少なからず胸のすくできごとだったにしても、僕はそのせいで二時間目のあとの休み時間には鼻血を出していた。
校舎裏に呼び出されいつものように奴らの暴力を受ける。けがの為一名参加できない分を補って余りあるほど残りの連中は気合が入っていた。
「あいつ首が痛いって病院行ったぞ。どうしてくれんだよ」
憤慨の理由はそれらしい。それなら僕は毎日あちこち痛いんですけどね。すいませんと言いながら胸の内に皮肉を捨てる。
蹴られた腹が痛くて体を丸め、僕がやったんじゃないと思いながら地面に向けていた顔をねじってリーダー格の顔を見た。仲間を心配しているとか仇討ちだとかいう友情は感じ取れなかった。いつもと同じ、楽しんでいる顔。
それを見た瞬間、感情が焦げたとでも言えそうな気分になった。
「なんだその目は!」
いきり立ったリーダー格に強く顔を蹴られた。これまでに体験した中でも最も強く、あまりの衝撃で目の前に火花が散る。こめかみに熱い血の流れを感じた。
こんなに本格的に出血したのは初めてのことで軽くパニックに陥りかける。それでも僕が冷静で戻れたのは僕に危害を加えた連中の方がひどく慌てふためいていたからだ。
「やばいって! やばいって! もう行こうぜ!」
「お前誰にも言うなよ!」
血にたじろいだ奴らはそんな捨て台詞を残してバタバタと走り去って行った。これで僕が立っていてかっこよくポーズでもとっているとしたら完全に勝者なのだけれど、実際僕がしたことと言えば惨めに横たわって顔を蹴られ、流血しただけだった。
とんだ小心者たちにいじめられているという事実でますます気分が落ち込んだ。
それよりもそれまでのぬるい打撃ではなく派手に出血させるほど強い暴力性を呼び起こした原因が気になる。なんだその目は。奴はそう言った。
僕は一体どんな目をしていたんだろう。あの時奴の面を見て、いつもとは違う怒りが湧いたのを感じた。
しばらく考えてから答えに思い当たって、急いでそれを頭から追い出した。そこまでお人好しだとしたら一生惨めな思いをしそうだ。
目を瞑ってため息。そして目を開けるとやはり目の前は例の場所になっていた。壁際には山田先輩もいる。
「お前それ、どうしたんだよ」
さすがに今日の負傷ぶりは普通でないと見たか気色ばんで立ち上がった。さっきのリーダー格よりは彼の方がよほど心配している様子が見てとれる。
大丈夫と主張するために立ち上がった。できるだけ平気な顔で笑おうとしたのに、裂けた左目の上が腫れ始めていてうまくいかなかった。
あんたのせいだよ、と少しも思わなかったと言えば嘘になる。けれど言わなかった。彼に恩義を感じているからじゃなく、言わばいじめられっこの意地かもしれない。ただ一つひとつ聞きたいこと、言いたいことがあった。
「なんで蹴ったんですか?」
暴力を振るわれると痛い。心も同じだ。よく知っている。自分と似たものを感じた彼がそれをしたことが腹立たしかった。それだけ思い切ったまねができることに嫉妬もある。そんなことができるのに、こんな所で死にたいと考えていることに対して苛ついた。
彼は少しも考えた様子はなく、顔から心配を消して僕の思いも寄らない答えを返した。
「ロッケンロールだから」
「は?」
「俺は俺がロッケンロール野郎であることを望んでるから」
それが善であるのか悪であるのか判断がつかない。常識と照らし合わすことができない未知の発言を聞かされ、僕は定型化した一般論を返すことしかできなかった。
「だからって暴力に訴えていいんですか?」
すると彼はひどくつまらなそうな顔をする。
「暴力って、なんだそれ。あいつはロックを馬鹿にしたんだぞ。許されねーだろうが。蹴ってなにが悪いんだよ」
「傷害じゃないですか。先生にばれたら、停学とかなっちゃうんじゃないですか?」
「お前あのクズどもになにされてんだ! 普段法律とか校則とか考えもしねえ連中になんで遠慮しねえといけねえんだ! 腹立って蹴った。あいつらのやってることだろ。なんであーだこーだ言われねえといけねえんだ。お前にそんなこと言われるとは思わなかった」
嫌悪感を露にした顔で地面を踏みつける。
申し訳ない気持ちになった。僕のために奴を蹴ったように思えたからだ。こうしてもいいと示してくれたような気がした。
それでも僕は賛同するわけにはいかない。彼に蹴られて病院送りになった奴が心配だ。その上仲間にちっとも心配されていない奴に同情して怒ってしまった。その結果僕が得たのは裂傷で、山田先輩にはストレスを与えてしまった。死にたいくらい僕はお人好しだ。
「最強にむかつくのは! あのボケはラベルを見ただけでロックってわかったのにあんなこと言ったことだ! なんでレッドツェッペリンを知っててこんなもんとか言えるんだ、ジミーペイジは神だっつうのに!」
山田先輩は吠えた。僕のためだとかいう考えは訂正する必要がありそうだ。ロッケンロールの信徒らしい彼は、ロックの尊厳を守るためだけに実力行使に及んだ。呆れてしまう。
授業の開始を告げるチャイムに負けずに山田先輩はひとしきり怒りの叫び声をあげた。目の前の絶叫を全身に受けて体が硬直する。校舎も土手も全てがこの音を僕に向けて反射しているような迫力があった。
一度深くうな垂れた顔が上がって僕を見る。
「お前保健室寄ってから教室行けよ。あいつら調子乗らせたくなけりゃ平気な顔してろ」
敵意を消した鋭い目つきのまま山田先輩は消えた。ぽつんとひとり残され、いっそ家に帰ってしまおうかと考える。それではまた奴らに理由を与える。早退はできない。
こめかみの出血はほとんど止まっていた。とにかく保健室には行かなくてはいけない。ガーゼなんてつけられたら目立つだろうけれど、傷をさらしたまま教室に戻るのは嫌だ。
この場所から保健室に移動するのはなんとも皮肉な気がした。死を望む場所と治療や療養を目的とした場所。
目の前には保健室のドアがある。移動は昨日と同じくあっさりできた。しょっちゅう死にたがって、あの場所に行ってはまた易々と帰ってくる。僕の頭はどうかしてしまっているんじゃないだろうか。
保健室のドアを開けると、保険医が血相を変えて踊りかかってきた。
「お前これどうしたんだ! えらいことになってるぞ!」
残念ながら男の保険医の逞しい腕で頭をかきむしられ、それまでなんともなかったところまで痛くなってくる。
「運動神経がどうしようもなく鈍いので階段から落ちました」
「そんなことでこんなけがするわけないだろう」
「僕はドジでノロマな亀です」
保険医は呆れた顔をして元の椅子に戻ると、赤チンを振りながら手招きした。
「なにかあるんだったら相談に乗るからな。先生独身だしモテないから暇なんだ」
僕はすいませんとだけ答えた。いじめられっこにも意地があるので誰にも相談をするつもりはない。それ以前に誰が見てもわかるはずなので教師たちにその気があれば幾らでも明るみに出ているはずだ。
いや、事実を明るみに出していないのはまず僕だ。奴らに抵抗するなり助けを求めるなりしていればなにかしら変化は起きた。それなのにただじっと耐えることを選択した。それも実際にはそのつもりでいるだけで、勝手に張った意地の陰でめそめそしている。
惨めな気分になりそうだった。このままではあの場所に行ってしまう。傷の消毒の最中に保険医の目の前で消えるのはまずい。けれどイメージは際限なく悪い方向へ転がり落ちていきそうだった。
どうにかして気分を持ち直そうと意識すると近い距離にあった治療に専念する保険医の口の開いた顔が急に間抜けに見えてきて吹き出しそうになる。慌てて顔を背けると窓際のベッドが目に入って、その上に思わぬ人物を見つけて目が飛び出そうになった。
ベッドの上の彼は半身を起こしたまま、気まずそうに口を尖らせている。今朝山田先輩に蹴られ、泡を吹いてのびた奴だ。
「ああ、なんか朝もめたらしくてな。たいしたことないんだからさっさと教室戻れって言うのに、聞きゃあしない」
事情を知らない保険医がわざわざ説明してくれた。僕は彼の仲間にやられたとは言わなかったけれど、病院に行っているはずの彼もなにも言わなかった。
「それでお前はどうする。ベッド余ってるけど」
ガーゼで狭くなった視界に保険医の心配そうな顔がある。ここにいればあれこれ聞かれかねない。
「教室戻ります」
するとベッドの上にいた彼も靴を履いた。
「俺ももう戻ります」
なにより彼と同じ部屋にいるのが耐えられないから教室に戻りたかったのに。僕が蹴ったわけではないのに八つ当たりでまた殴られそうだ。うんざりした気持ちで一緒に保健室を出ると保険医に能天気な顔でお大事にと見送られた。
これからまた校舎裏に逆戻りして殴られるか、また放課後改めてという形になるか。声をかけられないので後者のようだ。教室までの道が同じなので黙って彼のあとに続く。気持ちが落ち込みそうなのを利用してあの場所に逃げてしまおうか。いくらなんでもそれは不自然か。気にしていられないか。
「お前、洋楽好きなのか」
ぽつりと聞こえた。どういう意図で発せられた質問で、なんと返すのが正解か思いつかなかったけれど、どこか緊張した声だった。
「レッドツェッペリン、ポケットに入れて学校来る奴なんてあんまいねえと思うぞ」
「あー、あれ借り物なんです。その……蹴った人の」
急に振り返った顔に浮かんでいたのは怒りではなくて、驚きだった。僕までびっくりして縮こまっていた体が逆に伸びて硬直する。
「あの変人の?」
変人、ぴったりだ。
「山田よしお、二年。結構有名だぞ。先輩とかによくボコボコにされてるし、時々停学になるしセンコーからも目つけられてる。俺はあんま知らねえけど」
説明的に教えてくれた。気になる情報は「先輩とかによくボコボコにされてる」だけれど、詳しく聞くほど話をしたくない。
冷静に観察してみると目の前の彼は知性的な印象を持っていた。穏やかと言ってもいい落ち着いた眼をしていて、他の奴らとはなんだか雰囲気が違う。
「ふうん、あの人ロック好きだったのか。お前も?」
向けられる視線に邪気がない。こういう眼で見られるのは久しぶりで、いつも殴るくせになんて反感はわかなかった。
「僕は昨日初めて聴いたばっかりで」
深く質問されると困るので正直に答えた。苦笑いと一緒に。
「お前ロックとかいうタイプじゃなさそうだもんな。無理やり聴かされたんだろ」
笑いながら階段を登っていった。彼のクラスは二階にある。そんな風に爽やかに表情を崩すところは初めて見た。
僕自身はなにも変わっていない。けれど身の回りに変化が起きていることを感じてにわかに興奮した。ひょっとしたら僕の人生にロッケンロールが介入してきたせいだろうか。
もし僕がシンデレラなら山田先輩は魔法使いになる。もしこのまま幸せになれるのならカボチャのオープンカーでもハーレーでも進んで乗るのにと思うとちょっと笑えた。
教室に入ると派手な手当てのせいで教師から質問と生徒から奇異の眼を貰い、保険医に返したのと同じ答えのあとは沈黙を守った。今朝も昨日のけがで悲惨な顔をしていたのにその時はなにも言われなかった。要するに体面として気にしている振りをするだけで、実際は僕のことなんか誰もがどうでもいいんだろう。
こちらから近寄らなければけして近寄られることはないといういじめられっこの体質が今は便利だ。気を使ったり使われたりするよりも僕には考えることがある。ロックとは、ロッケンロールとは一体なんなんだろう。
昨日聴いた騒がしいメロディに感銘は受けなかった。あれを聴いて大喜びする人がいるのなら、山田先輩がそうなんだろう。僕には無理だ。ただひとつ感じたのは、人間にあんな声が出せるんだろうかという疑問。意味はわからない英語で発せられるもの凄い声。僕にも出せるんだろうか。
<続く>
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