Absurdity -I-

@MyYm-34443

ある男

 眠い目をこすりながら目を覚ますと、もう日差しは夕刻を示していた。

 当然だ。明け方まで眠ることなくテレビをみていたツケが睡眠時間となったまでだ。

 どちらにせよ時間は捨てるほどある。頭の隅でそう思いながら男はベッドから抜け出した。

 やけに狭く感じる。

 自分の見慣れた部屋をぐるりと見渡す。なぜか、いつもより狭く感じた。

 ただでさえ狭い部屋が、これではもっと窮屈に感じる。

 汚いベッドがひとつ。小さな机がひとつ。壊れかけの小さいテレビ。むかしは大画面に素晴らしいステレオを用意したこともあったが、親が死んで実家は兄が相続し、放り出されてからそんなものは夢となった。

 生活費を出してもらっているだけでもありがたい。こんなことを感じるのは久方ぶりだ。いつもの窮屈な生活とは、少し違った思いが男の中に去来していた。

 今日という日を待ち望んでいた。今日は、今までを吹き飛ばす一日となる。

 連絡をもらったのは数週間前だった。ある友人からの連絡だった。作家志望の男のもとに、彼はやや興奮気味に電話をかけてきた。さる有名な文学の新人賞を受賞したというニュースだった。友人は巨大出版社であるK社の編集者である。思えば頭の出来が男とは違った。男は、文章を書くこと以外てんで何もできなかったが、彼はあらゆることをそつなく、うまくこなしていた。だから最高学府たるT大に進学し、更に出版社にまで入ったのだろう。彼は高校時代から男の文章を気に入り、何かと応援してくれていた。今日は正式な発表の前に打ち合わせをしたいということだった。

 部屋が更に狭く感じる。

 時計をみるとまだ時間はたっぷりあった。待ち合わせの時間を夜にしておいてよかった。すっかり生活習慣が崩れていたので、朝方に起きることは不可能だとわかっていた。

 着替える。お風呂にはちゃんと入っていた。久しぶりのまともな服。でっぷりと突き出た腹をベルトで抑え込み、なんとか見られる姿を整える。髭は昨日中に剃っておいてよかった。

 これから生活が劇的に楽になるわけではない、それはわかっていた。出版不況と言われる昨今において、作家もデビュー後に激しい努力を要するのは言われなくてもわかっていた。しかし男は、部屋の隅に溜まった原稿の山を見やると、涙が出そうになった。何の取り柄もないと思っていた自分が、唯一大切にしていたものが報われた瞬間だと思った。

 鏡がない。容姿など気にすることもなかったからだ。財布はある。携帯も充電される。特に不備はないだろう。

 手の先が冷たくなる。もう緊張してきた。

 さっきより部屋が狭く感じる。

 部屋は、どんどん狭くなる。あれ、あれれ。壁が迫ってくる。文字通り。足早に部屋を出ようとする。壁はもっと早く追ってくる。どんどん。どんどん早くなる。逃げろ。逃げろ。

「ぎぇ」と声をひとつ出して、男は果実のように押しつぶされた。

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