忍法 影撫(にんぽう かげなで)

……雨代と名留羅が沙衛門を看取っていたのと同じ頃。

 沙衛門が逝った事など露ほども知らず、船着き場で待っていた柘榴の元へ巴が駆けて来るのを、木の影から千手丸は見た。

 早朝だ。それに村外れの草ぼうぼうの石ころと戦死者の骸骨のみが転がっている船着き場である。

 こんな所に朝早く誰が近付こう?

「来たか、巴」

と、何時もまとっている紫の布を頭から被った柘榴が口を開いた。

「躯螺都はどうした?」

「後から参ります。

『先に行っていて頂きたい』

との事でした」

「そうか。苦悶と凪がまだ現れぬが……あれらの事であるし、恐らく後から追い付こう。

 船に乗りゃ、巴」

「……はい……」


 言われるままに乗ろうとして、ふと岸辺を振り返った巴の瞳が見開かれた。

「……千手丸!」


 両手に十手を引っ提げ、千手丸は彼女達の五メートルほど後ろに、風に吹かれながら立っていた。

 二つの目で巴を、そして柘榴を見据え、眉間にしわを寄せながら口を開いた。

「柘榴……!」

「来たか、千手丸」

 柘榴が猫のまなこでニヤリと笑った。

「私はこれから半蔵殿の元へ行く」

「行かせはせん」

「これでもか?」

 次の瞬間、柘榴の頭から被った布が、彼女の体から生えているにしては随分と下の方から現れた手に引かれ、風になびいた。

 巴の身体は、柘榴の残りの五本の腕に抱きすくめられ、更にその内一本の腕がついと伸びて、彼女の喉元に苦無が突き付けられていた。


 柘榴の正体を目にした千手丸は愕然とした。

「驚いたかえ?」

と柘榴がおどけた様に言った。

 あろう事か、彼女の髪の毛は意思があるかの様に巴の体に絡み付き、離れ、肌を蛇の如く滑っている。

「うっ……」

 怖気が走り、巴が苦悶の声を上げ、切なげに瞳を閉じた。

「何のつもりだ……!?」

「十手を捨てよ、千手丸。巴は私達の船が岸辺を離れ、潮の流れに乗るまで人質にさせてもらう。

……早くしろ。血染めの巴が見たいか!?」

「貴様……」

 千手丸はぶるぶると怒りに震えながら十手を離す。きん、からん、という音がして、それは地面に転がった。

「巴は……お前らの仲間じゃねえのか!?」

「おうよ。じゃがな、巴とはかねてよりこう約束をしてある。

『千手丸に会わせたら、そこまで連れて行ったらその後はどの様に扱おうと構わぬ』

とな……」

「!?」

 それを聞いて巴が悲しげに顔を伏せようとしたが、柘榴の苦無が押し付けられ、無理矢理顔を上げさせられた。

 巴の瞳が千手丸を見ると、目だけで切なげに微笑した。


「巴……」

 千手丸の疑惑を巴の表情が、その時晴らした。巴は千手丸に会いたかっただけなのだ。

 しかし、まだ疑問がある。

「躯螺都や鴉丸はその時……もうお前らの仲間だったのか?」

「村の中でどれほど名が知られていようと、結局は田舎者じゃ。外に出て何をしたらいいかなど分かりはせぬ。

 あの二人は何を考えたか、この娘の為に私の仲間に入ったのよ。

『巴を千手丸に会わせてくれるなら』

などと言ってな。

 少し後に仲間に加わった苦悶は笑っておった。

『それなら俺も会いたい。あのガキを貪り尽くしながら殺してやりたい』

……私だけにそう告げて」

 巴は驚いて柘榴を見た。

……彼女は本当に何も知らされていなかったのであった。


「それからは躯螺都も鴉丸も苦悶も、ふふふ、面白い様に自分から地獄へ落ちて行った。

 私に操られておる事にも気付かずにな。

 その証拠に見ろ、ほほほう。何時までも現れぬ所を見ると……どうやら三人とも死んで行った様ではないかえ?」

「……な……何という……事を……」

 ぶるぶると肩を震わせながらそう呟いてから、巴は悔しさに涙を流しながら叫んだ。

「躯螺都は来ます! あの人は死なぬ体です!!

 鴉丸も……きっと来ます……!」

「……そうか、躯螺都はそうであったなあ。奴だけはどうにも面倒じゃ。巴、お前と会わせるのも癪に障る。

 行くぞ」

 柘榴はそう告げてから水面を見て、自分を睨み付けている千手丸に背を向けたまま、こう言った。

「千手丸、お前の相手はこ奴らがしてくれる。

 私達が海原へ出て行くのを歯噛みして眺めながら足首掴まれておれ」

 ざば、と音がして、水面から十の影が千手丸へ殺到した。


「……『忍法 変身転生』」

 憤怒の羅刹と化した千手丸の瞳を見てしまった一人が横にいた仲間を抜き打ちにした。その男目掛け、他の八人が跳躍して刃を閃かせ、串刺しにする。

 しかし、その時既に自分の体に戻っていた千手丸の、横合いからの十手の一閃が二人のアバラを叩き折り、血の霧をその口から吹かせた。

 残る六人のそれぞれの方向からの突きを真上に跳躍してかわした千手丸は、自分を見上げる六人の目にざっと己の視線を走らせてから、かつての姉の忍法の名を口にした。

「『忍法 幻燈蝶』!」


 千手丸が着地するのと同時に、立ち尽くしていた六人の頭が爆発して地に伏すのを見やった柘榴はうめいた。そしてその時既に柘榴の腕と髪から解放されていた巴は、冷徹な視線を彼女の背に浴びせている。




……最初から自分はおもちゃでしかなかったのだ。この女は服部半蔵に千手丸を間違いなく売る。半蔵と立ち合って、帰って来た忍法者を巴は知らぬ。

 万一勝ったとしても、半蔵を殺したと知られてはきっと生きては戻れまい。かつての同郷の者達から憎まれ嘲られ、何処までも追われ、今回の様に誰かを失い、最後には殺されるだろう。


 最早、何も知らなかったでは済まされまい、と、巴は思った。

 自分には何を言う権利もない、と、巴は思った。


 彼と再会した時の改めての決別よりも、更に深い悲しみがその胸を深く抉る。

 躯螺都と結ばれた今でも、千手丸を脳裏に浮かべるだけで込み上げて来る様々な思い出が、彼女を絶望のどん底へと突き落とした。



 身勝手なのは身にしみて良く分かっている。

 それでも、巴は思い出の中で無邪気に微笑む千手丸を、思った。

(……千手丸……!)




 結果的に彼を、躯螺都を、鴉丸を裏切る形になってしまった巴は覚悟を決め、柘榴の背を爛々と光る瞳で見つめたまま、その唇から、はっきりと告げた。




「『忍法にんぽう 影撫かげなで……」




 どう、という音がして、目を見開いた柘榴の体が揺らいだ。

 巴の足元から伸びた幾つもの影が、柘榴の体を同じ様に足元から貫いたのだ。ずずず、という音がして、柘榴の体に毒が押し込まれ、その肌は何と緑色に変色していく。

「う……ううっ……!」

 のけぞり、がくがくと震えながら柘榴は巴を振り返った。冷え切った視線が己を見ているのを見て、柘榴の中に激しい怒りが燃え上がった。

「とも……えええええええええええええええええええええええええええええええええぇぇぇっ!!」


 柘榴の喉をからす様な絶叫を聞いた千手丸がそちらを振り仰ぐと、そこには着物を引き裂かれ、柘榴の髪で縛り上げられ、血を滴らせながら、首から下のその白かった裸身に刺青をまとった巴が掲げられていた。

……柘榴の毛の先から出る特別な毒が彼女の体に死の刺青を施したのである。

『忍法 三途刺繍』(にんぽう さんずししゅう)であった。




「……やはり……思った通りじゃ。

 巴……お前の、その身体だからこそ……美しい……」

と、喜びに目を細め、柘榴は呟いた。

「あ……ああ……!」

 千手丸の喉からそのうめきが漏れると同時に、柘榴がごぼ、と血を吐いてよろめき、途端に束縛から解かれた巴と共に船からまろび落ち、水飛沫を上げた。

「巴……巴えええぇっ!」

 千手丸は十手を腰の後ろへぶち込むと、川面へ走り出し、飛び込んだ。




……岸辺。

「巴! 目を、目を開けてくれ!!

 巴ぇっ!」

 ずぶ濡れのまま、雫を滴らせながら、千手丸は膝をつき、腕の中の巴を揺さぶった。幾度か揺さぶられた後に、濡れた髪を額に、頬に張りつかせたまま、巴はうっすらと目を開けた。

「せ……千手……丸……」

「と、巴!?

 しっかりしろ! すぐ薬師の所へ連れて行ってやる!!」

 巴はゆっくりとだが、首を振った。

「ざ……柘榴の毒は……もう私の……体中に……回っている。

……お、お別れ……ね、千手丸……」

 巴はしゃくりあげ、瞳を閉じるとその目尻から涙がこぼれた。

「……巴……!」

 千手丸は溢れる涙をそのままに、巴を、かつての幼馴染を、しっかりと抱きしめた……。


 千手丸は腕の中で次第に弛緩して行く巴の頬に自分の頬を寄せ、彼女の背を暖める様にさすりながら呟いた。

「お、お前は何も知らされていなかったんだな……俺に会いたい一心で、奴らの後に付いて来ただけだったんだな。

……一瞬でも疑った……俺が馬鹿だった……巴……」

 巴はそれを聞くと、嬉しくて自分から千手丸に頬を寄せた。

……心配していた誤解が解けたのだ。

 寂しさから、道連れにしようかと躊躇いながら伸ばしていた、彼女の影が、足元へすっと引いた。


「……千手丸」

 微かな彼女の囁きに、彼は顔を上げ、巴の瞳を見た。

「ん……?」

「鴉丸も……躯螺都も……悪くないの。私を……手伝ってくれただけ。

……悪く……思わないであげて……憎まないであげて……」

「……分かった。お前を……ここまで連れて来てくれた二人だものな。

 悪いのは柘榴、そして苦悶だけだ。お前を騙していたあの二人だけだ。

 そうだな……?」

「いいえ、何も出来ないと思い込んで……何も知らずにいようとした私も悪いのよ。

 お時さんの事を……私は……ほんの少しだけど……恨めしく思った。

 きっと……ば、ばちが当たったんだ……わ……。ね?千手丸……」

 寂しげに微笑する巴の頬を撫でながら、千手丸は涙を流し続けた。

「違うよ、巴!

 俺達は一寸すれ違ってしまっただけだ。お前は絶対に悪くないよ!!

 そんなの……わ、悪い内に入るかよ……」

「……千手丸……」


……穏やかな表情で千手丸をまっすぐ見つめた巴は、千手丸の腕の中で言った。




「私は……千手丸と何処かで、静かに、昔のように暮らせれば……それで良かった。

……本当よ……」




 それだけ呟くと、微笑を浮かべようとして、力なく千手丸の胸にもたれかかり……そのまま動かなくなった。


「……巴……」

 彼女を抱いたまま、千手丸は自分達の辿った運命を呪い、明けて行く空へ向かって慟哭した。

「あ……ああ……うがああああああああああああああああああああああっ!

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」




「……千手丸……」

 沙衛門を背負った名留羅と雨代は、その場に少し前に辿り着いていたが、声をかけるにかけられずにおり、その時やっと、彼に呼びかけた。

 そしてその場に更に現れた者を、気配を感じた名留羅が見て、驚きの声を上げた。

「躯螺都……お前!」

 千手丸はその声を聞いて、気配のする方へ振り返った。


 躯螺都はこれまで着ていたボロボロの黒の着物ではなく、粗末ではあったが同じ色合いの忍び装束をまとってそこにいた。

 沙衛門をそっと下ろそうとする名留羅と、それに手を添えつつ躯螺都を見据える雨代、そして巴を抱きかかえたままの千手丸に彼は声をかけた。

「お前達とやる気はない。俺は……巴を迎えに来ただけだ……」


 そう言うと躯螺都は千手丸の方へ歩み寄り、彼の腕から巴をそっと抱き寄せた。彼女を屈み込んだ己の膝に乗せ、懐から出した大きな布を彼女の体にかけてやる。


 瞳を閉じて静かに眠る巴を寂しげに見つめたまま、躯螺都は口を開いた。

「……千手丸」

「何だ……?」

「巴の口から……真意はお前に伝わったか?」

「……ああ」

「巴はお前に会って……一緒に何処かへ行きたかっただけなんだ」

「……ああ」

「俺からはそれだけだ。

 巴は俺が連れて行く。もう二度と……誰にも渡しはしない……!」

 躯螺都は巴を抱き上げ、続けた。

「……もう貴様らと会う事もあるまい。あばよ」

 彼らに背を向け、歩み出す。


 船着き場に繋いであった船のひとつに飛び乗り、綱を解く。そして船の中に、抱いている巴の亡骸をそっと横たえると、櫂を握り、漕ぎ出した。

……あてのない海の彼方へ。

 千手丸達は、かける言葉もなく、静かにそれを見送った……。




……どうやら潮の流れに乗った様だ。

 躯螺都は船の櫂を中にそっと倒すと、腰を下ろしながら巴を抱き起こした。彼女の閉じた目尻に涙が残っているのを見て、左手の人差し指でそっと拭いてやる。

 満足そうな笑みを浮かべて眠る巴を見下ろす躯螺都の瞳に涙が浮かび、それは大きな玉となって頬を伝った。


 躯螺都は巴に微笑を向けた。

「千手丸に会えて……嬉しかったんだな。

……良かったな、巴……」




「お時は斬られていない!?」

「へえ、滝壷に飛び込んだのをあっしゃあ、確かにこの目で」

……沙衛門の弔いを千手丸達が終えた数日後、再び旅に出ようとしていた昼頃の事である。村外れで沙衛門と交流のあった事情通の男、文吉からそれを聞いて千手丸の表情が変わった。

「で、でも滝壷なんだろう?」

「あの滝はちょいと妙な造りになっておりまして、場合によっては下流へ傷ひとつなく流されるんで」

「……じゃあ……生きているかもしれないって事か……」

「大博打ですがね」


 本当ならこのまま旅に出ればいいだけの話だ。しかし、苦悶の

『お前は生きている限り永久に誰かを失い続ける』

という言葉が千手丸の心に呪縛として残っていた。

 現に今回沙衛門は死に、名留羅は左腕の筋を切られたとかで、もう右腕しか使えないと言っている。本人は

『なる様になっただけさ。お前の気にする事じゃないんだ。

 これまで通り何処までも一緒に行こう?』

と言って頭を撫でてくれた。




 が、千手丸にはその時既にこれまでの様な楽天的な思考は残っていなかったのである。




 翌朝、千手丸の残した書き置きを見て、寝床から着の身着のままで飛び出した雨代と名留羅は、勘だけで目星を付けた、柘榴と巴の旅立とうとした船着き場にいた。

 そして二人の視線の遠く向こうに千手丸の姿があった。


……躯螺都と同じ様に、海原の彼方へ船を漕ぎ出して行く千手丸の寂しそうな背中が。


 雨代の双眸から涙が溢れ、彼女は胸に握り締めた拳を当てつつそちらへ向かって走り出そうとしたがそれを名留羅が引き止めた。見ると切なげではあったが厳しい名留羅の表情がそこにあり、その口からは

「行かせてやれ」

という言葉が漏れた。

「何で!? どうしてよ!!」

「……あの千手丸がさ、こんな事をするのはよっぽどの事だ。

 奴なりによーく考えたに決まってる。……俺達の事も考えたんだよ、きっと。

 だから雨代、行かせてやれ」




……書き置きにはこうあった。


「本当に世話になった。

 二人には、いや、三人にはとても感謝している。礼を言っても言い足りないくらいだ。

 つい先日、俺は文吉からお時が生存しているかもしれないとの情報を得た。村の中にいないとすればきっと外だろう。

 俺はどうしてもお時を探したい。そしてそれにみんなを巻き込むのはもう嫌だ。

 沙衛門さんは死んでしまったし、名留羅にも一生癒えぬ怪我をさせてしまった。

 次はどうなるかと考えると心が張り裂けそうだ。

 だから今度は俺一人で探す。見つけたらきっと連れて戻ってくるから。


 本当に今まで世話になった。ありがとう。

 十手千手丸」


「何故一人で行ってしまうの!?

 私達に何を今更遠慮しているの!?

 千手丸!!」

……雨代の泣き叫ぶ声に、辛そうな表情を浮かべ、千手丸が振り返る。その瞳には別離の涙が光っていた。

 そして大声でこう告げた。

「妹さんの事を頼む。

『きっと姉さんを捜して来るから待っていてくれ』

と伝えてくれ!」

と言って、頭を垂れた。


「いやああっ! 千手丸ぅーっ!!

……千手丸……」

 雨代のかれんばかりの声が、白々と明けて行く空へ消えて行った……。




……数年の歳月が流れた。

 あちらこちらで美女と見れば自分の側妾にしてしまう、太閤秀吉のいわゆる『女狩り』が本格化していた。

 その騒ぎの中をすり抜ける様にして、千手丸は今、やっと探り当てた、お時らしき娘のいる家へと歩いている。


 さすらい歩いた年月が、彼の容貌を野性味溢れるものに、そして凄惨なものに変えていた。

 前髪以外は伸び放題のそれを後ろでまとめ、雨代の様に布で海賊縛りにし、腰には二本差し、黒い上掛けを羽織り、下は漆黒の忍び装束。

 まるで夜盗の首領の姿であった。


 そして実際に彼は数日前までとにかく食って生き延びる為にそれをやっていた。

 荷運びの行列を襲い、百姓と女子供は斬らず、侍だけを斬り殺して荷を売り捌き、生き延びて来た。

……姉を殺したのも、お時を襲ったのも心無い二本差しだ。彼は躊躇なく、容赦なく、彼らの命を奪って、奪って、奪い尽くした。

 刀を叩き折り、数多の命を奪って来た十手は、その内、血の染みが取れなくなった。


 そして襲撃の後は速やかに荷だけを奪って煙の様に消え去る彼らを、捕えられるものはいなかったのである。




……そしてその仲間達と別れ、稼いだ金を手に、千手丸はこうして歩いている。

 秀吉に目を付けられたら恐らく二度とお時には会えまい。その前に何としても村へと連れて帰らねばならぬ。

 別の地へと逃れて行く人々の怒号と喧騒の中、千手丸は歩いて行く。




 千手丸の視線の先に、如何なる偶然であったろうか、捜し求めていたその姿はあった。

「おと……」

 千手丸の声がそこで途切れた。


……彼女は子供を抱いていた。

 知らない男が傍で微笑んでいる。亭主、だろう。


 千手丸は全てを悟った。すれ違う時、彼女は自分の顔を見たが、軽く頭を下げ、ゆっくりと去って行った。




 再び骸骨だらけの戦場跡を、千手丸は歩いている。満身創痍、その姿は歩く死びとの様であった。

 千手丸の頭の中で思考が堂々巡りする。




……自分は、これから何処へ行けばいい?

 お時はもう連れて帰る事は出来ない。

 名留羅達の元へ帰る事も、もう出来ない。

 恐ろしくて出来ない。

……自分はこれから何処へ行けばいい?




 その背に空から声がかかった。

「悩んでいるな、十手千手丸」

「誰だ!?」

 千手丸は天を振り仰いだ。


 空に腰掛ける様に、そこには二本差しの男がいた。

 総髪を後ろで縛った、幾つだかその容貌からは掴めぬ姿だ。

「俺か。俺はかさねという。

 随分長い旅路を歩んで来た様ではないか、十手千手丸よ」

 その名を何処かで聞いた様な気が千手丸はしたが、渇きと絶望に錆び付いた思考の中から探り当てる事は出来なかった。

 ただ……血の染み付いた十手が彼の二本の腕の中にすっ、と反射的に現れた。


 自分をただ見ている氷の様な視線を受けながら、重と名乗る男はおどけて見せた。

「構えるな、千手丸。

 なあ、お前……鬼岳沙衛門に会いたくはないか?」

「……沙衛門さんに?」

「そうだ。その気になればお前の仲間の、ほら、名留羅や雨代にも会える」

「名留羅……雨代……」


……今はそのみんなの腕に抱かれて泣きたかった。

 眠りたかった。


「……ただじゃねえだろう? 何が望みだ?」

「いや、特に望みはない。何故ならお前には色々と役に立ってもらう事になるからな」

「……!?

 てめえ!!」

 異常に気付いた時には既に、千手丸の体は数十本の銀線に絡み付かれていた。

……霧雨。


 ぎりぎりとそれは千手丸の体を刻まずに縛り上げ、重の元へと上がって行く。

「ああっ!」

 身をよじり、千手丸は苦痛の悲鳴を上げた。

 その顎に手をやり、逆の手で腰を抱き、重は千手丸の顔をにんまりとしながら眺めた。

「……なるほど、沙衛門がるいと姿を重ねて助けたガキの事だけはある。まさに瓜二つよの……」

 そう言うなり、千手丸のわななく唇を奪った。

 驚愕に目を見開き、顔を背けて離れようとするが、重の手はそれを許さない。

 自分の口中に滑り込んで来た舌を思い切り噛んでやると、さすがに重は口を離した。

 千手丸の顔が怒りに紅潮する。

「侍は……二本差しは貴様みたいなのばかりか!?

 人を食い物にしやがって!!

 気紛れに俺達を食い散らかしやがって!!」

「そうよ。人を食い物にしたくて、女を片っ端から自分のものにしたくて、弱いものいじめがしたくて!

……それ故、男は侍になるのだ」

「……ど畜生が……」

「何でも良い。お前はこれから俺が少し可愛がってやる。

 そして沙衛門達にも会わせてやる。

……気が違ったとしか思えぬお前とな」

「や、やめろ!

 名留羅! 雨代!! 沙衛門さん!

 俺は……俺は!!」


 千手丸と、彼を抱き寄せたままの重はその瞬間、その場から、そしてこの時代から消失した。




 そこから百メートルほど離れた浜辺を名留羅と雨代はお夕と共に歩いていた。

 彼らは千手丸を、お時の行方を追って旅をしているのだ。

……ふと、遠くで千手丸の声が聞こえた様な、そんな気がして、雨代はそちらを見た。


「どうした? 雨代」

 名留羅の声に、雨代は微笑を浮かべて答えた。

「何処かで……千手丸の声が聞こえた様な気がしたの」

「……そうか。ひょっとしたらそんなに離れていない所にひょっこりいたりしてな」

 お夕も懐かしげに想い出を頭の中に巡らせながら、呟いた。

「かもしれませんね。頑張ってあの二人を探さないと……」




 三人は再び歩き出した。それとは知らずに彼らは力強く踏み出して行く。

 これから先に待ち受ける凄惨な運命の真っ只中へ。

 そして豊臣秀吉が敷いた女狩りの蜘蛛の巣の真っ只中へ……。

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千手忍法帖(せんじゅにんぽうちょう) 躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ) @routa6969

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