インスタント彼女

19

 

 手元に小さな容器がある。燻蒸殺虫剤のような容器だ。数日前、近所のフリーマーケットで怪しい露天商に押しつけられたものである。商品名は「インスタント彼女」。側面には使い方が書いてある。曰く、

「内側の線まで水を入れ、三分待つとインスタント彼女が現れます。屋外でご使用下さい。時間:六時間」

だそうだ。

 俺はその容器を眺めていた。今日は土曜日。せっかく晴れているのに、特にすることもない。これを信じている訳ではないが、やってみるのも一興だ。

 アパートの廊下に出た。人影はなく、敷地外からは見えない。よっぽどのことが無ければ咎められないだろう。

俺は容器に水を注いだ。すると、もくもくと煙が出てくる。殺虫剤みたいだなぁ、使ったことないけど、と思いつつ、時間が経つのを待った。なんか煙の奥に影が見えるな、と気づくと三分が経過しており、煙は止んだ。

「ご使用ありがとうございます。インスタント彼女です」

煙の奥から現れた少女が言った。よくわからないが、今の季節にあった出で立ちである。ちゃんと靴も履いている。

「インスタント彼女……?」

本当に現れるとは思わなかった。オウム返しに言う。

「はい。こちらに商品名は書いてありますよ」

少女は容器を手に持ち言う。

「あぁ、確かに……。いや、本物だとは……」

「ははあ、なるほど。まぁそうですよね……」

少女は少し悲しげに言った。動揺が落ち着いてきたので観察してみると、可愛らしい顔立ちをしている。どこかで出会ったとしても、俺からは話しかけられないタイプだ。

「それで、インスタント彼女っていうのは?」

インスタント彼女が何たるやについては容器に書いてなかったと思う。

「あ、はい。端的に言うと私があなたの彼女になるということです」

わからん。

「えーと、容器には六時間と書いてあったから、六時間彼女になってくれる、ということかな」

「はい!そうです!」

ふーむ、なるほど。にわかには信じがたい話だが、現に目の前にいる以上信じる他ない。

「そうか……。何したらいいんだろう」

「デート……とかですかね?」

俺の問いに少女が答えた。その手の経験はろくすっぽないので、全然わからない。

「どこか貴方の行きたいところへ行くのはどうでしょう。……貴方と呼ぶのも何なので、お名前を教えていただけますか?」

「あ、ああ。俺は夏井譲二」

「私のことはハルとお呼びください」

なんか暴走しそうなコンピュータっぽい名前だな、と思った。


「ごめん、待たせちゃって」

俺は外行きに服に急いで着替えた。時計を見ると十時半だった。

「それでは行きましょう」

ハルはにこやかに言った。

「今日はどちらへ?」

「まずは近くに出来たパンケーキ屋に行きたいんだ。一人じゃ入りにくそうな雰囲気だから助かるよ」

「いえ。インスタント彼女ですから」

 少し歩くとパンケーキ屋が見えてきた。昼時なので列が出来ている。殆どが女性のグループかカップルで、男一人では並びにくい。しかし、今日は大丈夫だ。

「すこし並ぶけど良いかな?」

「ええ。こういうのも醍醐味だと思いますよ。」

「ありがとう。助かるよ」

「では何かお話しましょう。夏井さんはパンケーキとホットケーキの違いをご存じですか?」

「そういえば知らないなあ……」

「本質的には同じものだそうですよ。パンケーキの『パン』はフライパンの『パン』で、外国では厚めのものをホットケーキ、薄いものをパンケーキと呼ぶそうです。日本では砂糖を使ったものをホットケーキ、使っていないものをパンケーキと呼ぶことが多いみたいですね」

「へぇ……」

そんなことを聞いているうちに、列の先頭まで来ていた。案内された席に座り、メニューを見た。

「この『チョコレートソースパンケーキ』で良い?」

当店のオススメ、と書かれているメニューをハルに見せながら訊いた。

「はい。それでお願いします」

俺も同じものを注文した。

 しばらくして店員さんが二人分の「チョコレートパンケーキ」を持ってきた。

「いただきます」

食べた瞬間に甘さが口一杯に広がる。俺は甘いのが好きだから良いが、苦手な人もいるかもしれないと思った。

「パンケーキの味どうだ?」

俺はハルに訊いた。お気に召さなかったら申し訳ない。

「美味しいですよ」

とハルは答えた。

 食べながら考えたが、俺にはやっぱり「インスタント彼女」がわからない。何気なくそこにいてパンケーキを食べているが、そもそも人間なのか。不気味に思えてきた。

 そうは思いつつも表に出せるものではない。その手の縁が無かった俺でも女性相手にそういう態度を取るのが良くないというのはわかる。……いや、「インスタント」だしなぁ。一過性の関係だしなぁ。

 と考えながら食べていたらいつの間にかパンケーキはなくなっていた。味はあまり覚えていない。ハルの皿も空になっていた。

「夏井さん、この後はどのような予定ですか?」

とハルが尋ねる。俺はぼんやりとだが考えていたプランを話す。

「電車で少し離れた所の動物園に行こうと思うんだ」

「動物園!良いですね」

とハルは嬉しそうに言った。


 電車に乗って動物園まで来た。ちなみに、ハルのパンケーキ代も電車賃も動物園の入場料も俺持ちである。パンケーキ代は少し痛かった。しかし、ハルはお金を持っているのだろうか。知らないのは俺がへたれで訊けていないからである。なんかデート代は男持ちみたいな風潮がある気がするので、言いづらい。よしんばハルが持っていたとしても、それが本物という確証を持てない。もらい物でも偽札は使用者が逮捕されるのだ。

 俺のそんな気持ちを知らないであろうハルは、

「象の鼻って本当に長いんですねー」

と無邪気に言っている。

「象を見るのは初めて?」

「そうですね。動物園自体初めてです」

そうなのか。

「じゃあ、他の動物も見に行こうか」

「はい!」


 園内を進むと、トナカイのような動物がいた。

「これは……、シフゾウ?」

とハルは言う。

「ああ、シフゾウか」

「夏井さん、知ってるんですか?」

とハルが訊いてくる。

「ああ、まぁ」

少しばかり動物には詳しいのだ。

「元々は中国原産のシカの仲間で、乱獲や災害で野生では絶滅したんだ。人間に飼われていたのを繁殖して野生に返している最中の動物だよ」

日本では特定外来生物に指定されていることは言わなかった。

「そうなんですか!凄く物知りですね!」

とハルは言う。褒められて悪い気はしない。

「他の動物についても教えてください!」

「そうだなぁ」

シフゾウから離れてしばらく進むと、レッサーパンダが見えてきた。

「今、『パンダ』と言うと白黒のジャイアントパンダが思い浮かぶけど、元々パンダはレッサーパンダを指していたんだ」

俺は得意げに言った。

「レッサーパンダというと、立ちますよね。二足で」

「あぁ、周りを見るために立つことがあるんだ」

「あれって芸ではないんですか」

ハルが驚いたように言う。

「うん。元々頻繁にする行動ではないけどね」

「そうなんですねー」

そんな解説をしつつ、動物園を回った。


 動物園を一通り見回った後、家の近所まで戻ってきた。陽の短いこの時期なら丁度よい時間だろう。

「キリン、長い首でそんなことまでするんですね!」

ハルは特にキリンの印象が深かったようだ。楽しんでもらえた……と思う。思いたい。なんか直接訊くのは憚られる。

「この後はどこへ?」

とハルが尋ねてくる。

「まぁ、もうすぐだから」

出来ればサプライズにしたいと思った。

「あとは、この階段を登るだけっ……!」

「はい!」

長い坂を登ってきた後の階段である。俺は息絶え絶えであるが、ハルは平気そうだ。そして、階段を登り切った後、そこには期待通りの光景が広がっていた。

 そこは小高い山の展望台。丁度沈もうとしている夕日が街を照らし、赤く染め上げている。

「わぁ……!」

ハルは感動したかのように呟いた。

「これを見せたくて?」

「うん。どう、かな?」

俺は直接訊いた。

「凄く……素敵です」

「そっか……。それは良かった。今日は楽しかった」

思ったことが口から紡ぎ出される。俺の意思の力では抑えられない、心からの言葉だった。

「その……また会えたら……」

ああ、勇気なんて要らないんだ。心から思ったとき、それは流れ出るものなんだ。俺はそう思った。

「あっ、もう時間ですね。今日はご使用ありがとうございました」

「え?」

どう返答されようとも受け入れる心づもりでいたが、流石に全く関係ないようなことを言われて動揺する。しかし、彼女が答えることはなかった。

 ボンッ!

と大きな音と光が突然発生した。俺は思わず目を閉じた。そして目を開けると、そこには立ち上る煙があるばかり。突然のことに混乱した頭を必死に回し、思い出した。

「インスタント彼女 時間:六時間」

時計を見ると十六時を回ったところだった。家を出たのが十時半だったから、容器に水を入れたのは丁度六時間前くらいか。時間をすっかり失念していた。

 なんかもやもやした気持ちを抱えながら家にとぼとぼと帰る。部屋の扉の前に空の容器があった。もう一度水を入れ、三分待ったが何も起きなかった。

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