後篇
ひとりで来るときはカウンターに着くんだけど、今日は入口に近いふたり用のテーブルに、
「今日はありがとう」
私がいうと、森島さんは首を振ってほほえんだ。
「いいえ、こちらこそ、お誘いありがとうございます」
*
昨日の夕方、なんとなく――じゃないね、明らかに――微妙な感じのままコヅカコースケと別れ、私と森島さんはカフェ兼ギャラリー「山羊の歌」を後にした。
早くも夕闇に染まる街を、地下鉄の駅までいっしょに歩きながら、
「凄いね、森島さん」
と、私はいった。たぶん、なにが凄いのか本人は自覚がないのだろうと思いながら。
果たして、森島さんはきょとんとした顔つきで私を見た。
「凄いですか」
「厳しい意見を忌憚なくいえるところが凄い」
「写真のモデルをお断りしたのは――やはり、冷たかったでしょうか。コヅカさんは『札幌フォトジェニック』でお世話になっているので、少し心苦しくはあったのですが」
「あ、心苦しいとか思うんだ」
私も忌憚なく思ったことを口から出してしまい、さすがの森島さんもちょっと眉間に皺を寄せた。
「
「なんでしょう」
「わたしはたしかにひとづきあいが不得意なほうですが、コヅカさんがわたしに異性として興味があるのは認識しています」
「あら意外。まったく気づいてないのかと思ってた」
「そうでなければ、あえてわたしを撮ろうとする理由がないので」
そのロジックが凄いっつーの。だって、コヅカくんの写真が被写体に固有の魅力を引き出そうとしていない、だから自分じゃなくても別にいいはずだ、なのに誘ってくるのは別種の下心でしかない――森島さんは、そういっているのだ。さっき、本人にそういったのだ。
「コヅカくんはナシ?」
「ナシ、とは」
「異性として興味があるかないか」
「とくには」
「あらら、かわいそ」
「コヅカさんも、わたしに『興味』があるだけで、それは『好意』ではないのだと思っています。きちんとした『好意』を寄せてくれるひとには、わたしも可能な限り、誠実にお応えしたいのですけど」
ただのぼんやりしたオボコい子からは出てこない見解だった。
「ねえ、森島さん」
と、肚を決めて私は訊いてみた。
「私、森島さんの写真を見てみたい。見せてくれませんか」
「えっ」
森島さんが足を止めた。
「なぜ?」
「あなたが、見て、感じて、撮ったものに、とても興味があるから」
怪訝そうな面持ちになる丸眼鏡の女子を、私はまっすぐ見据えた。
「写真に興味を持たれるのは嫌い? 自分で撮って、見て、それで満足して、他人の目に触れさせたくないというのなら、無理強いはしない。でもほんとうは無理強いしてでも、森島さんの写真を見てみたい」
知り合って何時間も経っていない相手に、こんな物言いをすることはめったにない。でも、この子にもってまわったいい方は無意味だ。
森島さんは私を見つめ返した。
鋭いまなざしではないけれど、そのまっすぐさにゾクリとした。私のコーヒーカップになにかを見いだした、あのときと似た目つきだった。
「――わかりました」
と、森島さんはいった。
「新井さんに見ていただけるのは、嬉しく思います」
*
で、いつにしようと話し合い、さっそく翌日に再会することとなったのである。
まずは、グラスワインで乾杯した。私は赤、森島さんは白。
「お酒、飲むんだね」
すっかり敬語はとれてしまった。歳下だし、いいか。森島さんもそういうことを気にするタイプではないようだ。
「少しですけど。脳の働きを適度に鈍らせ、リラックスできるのは嫌いではありません」
「私はリラックスしすぎる傾向があるな」
「いけませんよ、小説を書くひとが飲み過ぎては」
正論すぎて身が縮む。
「じゃあ、私のお脳が鈍らないうちに見せて」
「はい」
森島さんは床のカゴに入れた大きなリュックサックの中から、分厚いクリアファイルを取りだした。重そう。こんなのを背負ってきてくれたのか。
「タブレットじゃないんだ」
「やはり、紙に焼いてみないと。どうぞ」
グラスを脇に寄せて、私は自分の正面にファイルを置いた。
森島さんは緊張したようすで、私の胸元あたりに視線を向けている。
門外漢の人間に作品を見せて感想をもらうときの寄る辺ない心持ちは、私も痛いほどわかる。まだプロでない表現者というくくりで、私と森島さんは仲間だった。だから今晩、こうやって来てくれたのかもしれなかった。
私は表紙をめくった。
そして、自分の思い上がりが一瞬で砕かれた。
私は森島さんと仲間ではなかった。
*
コヅカくんがいっていた通り、ポートレイトはひとつもなかった。風景を構成する一部として人間が写りこんでいることはあるけれど、主題ではない。
特別なものを撮っているわけではなかった。街にある、日常的なものばかりだ。
見慣れた事象たち。私もよく知っている札幌の景色。
私もスマホで撮ることがあるような、食べ物とか、のら猫とか、青空とかの写真もある。
でも、これは、違う。
どれも、見たことがないものだ。
なんで……なんでだろう……そんなつぶやきが声になって出ていたにちがいないと、後から思った。
なんで、こんなふうに撮れるの。
私はつぎつぎとファイルのページを繰った。
自分が外国人になって、生まれて初めて、日本の、北海道の、札幌の街に来て、目に映るものすべてが新鮮な違和に満ちている――喩えるなら、きっとそんな感慨が私を支配した。
森島さんの視たもの――視たときに感じたものを、他人の中にも、きっと正確に呼び起こしてくれる写真だった。
吸い込まれた。
没入した。
最後のほうに、昨日「山羊の歌」で撮った、コーヒーカップの写真があった。
私が視たものと同じかたちをしているけれど、私が視たものじゃなかった。森島さんが視たものを、いま私も視ているのだった。
*
クリアファイルを閉じる手は震えていた。
私は大きく息を吸った。呼吸が止まっていたのだと、それで気づいた。
「いかがですか……?」
いままで――といっても、合計して二、三時間だけど――聞いたことがない、かぼそく不安そうな声で森島さんが訊いてきた。
「負けた」
「えっ」
「負けました」
「あの、新井さん」
「私、才能ないわ」
グラスをつかみ、赤ワインを一気に飲み干した。渋みが舌と喉に沁みる。次いで、森島さんの白ワインもいただいた。
「新井さん?」
「おかわり、ボトルでください」と、手を挙げて店の奥に呼びかけてから「森島さんはこれと同じような味でいい? すっきりした甘口の」と訊く。
「わたし、なにか気づかずに失礼なことを――」
「合わなかったら私が全部飲むから、別のを頼もうね。マスター、白で飲みやすいやつ、お願いします」
「
森島さんが私の右手を両手で包みこんだ。
「きちんといってください。厳しい意見でかまいません」
「厳しいわ。なまら厳しい。これは私にとって厳しすぎるわ」
左手で、森島さんの両手を上から撫でた。なにしてんだ、私たち。抱擁するようにして、お互いの手を握り合っている。
「章子ちゃん」
「はい」
「小説は翻訳だって話をしたじゃん」
「ええ。写真にも通じるお話だと思い、とても感銘を受けました。それで、沙織さんに見ていただこうと思ったんです」
「章子ちゃんがいれば、私は要らないです」
「いまは写真の話をしているのではありませんか」
「写真も小説もひっくるめた表現の話だよ。表現者として、章子ちゃんはもうわたしより上の段階に立っていて、わたしが意見する余地はありません。コヅカのアホも同様。章子ちゃんの写真が地味? もしかしたらわたしより写真に向いてないぞ、あいつ」
我ながら、うっとうしい台詞ばかり出てくる。だって、仕方がないじゃない。アルコールより強烈に、森島さんの作品は私の脳を打ちのめしたのだ。
「章子ちゃんは、世界を自分のセンスで翻訳して、見たひとに伝えるちからがもう備わっている。私がやろうとしていることを、もうあなたはできてるんだ」
やばい。鼻の奥がつんと痛んで、下瞼の裏が熱くなってきた。私が森島さんだったら「やっぱりよく知らないひとと飲むんじゃなかった」と恐怖してもう帰っているにちがいない。
「写真も公募の賞とかあるんでしょう。出したことないの? いくつか出したら、絶対どこかに通るって」
「いえ、特には。いちど『札幌フォトジェニック』で企画した合同展に参加したことはありますが」
「その合同展で、写真、すっごい気に入ってくれたひと、いたでしょう。いたよね。いなかったら客層が悪すぎる」
私の手に加わる森島さんの握力がぎゅっと強まって、私は我に返った。
森島さんの顔から、色が薄れていた。白くてきれいな顔で、森島さんは少しうつむき、今ではない、いつかどこかのことを見つめていた。
いたんだな、と思った。過去形で。
きっと、きちんとした「好意」を捧げられたことがあるんだな、と思った。
*
「先生、大丈夫?」
白ワインの栓を抜き、グラスに注いでくれながら、マスターが心配とからかいを半分ずつ混ぜた声で訊いてきた。四十がらみの、髪をきっちりと撫でつけた、端整な顔立ちの男性である。
私が作家志望者であることを、マスターや常連客は知っていて、先生と呼ぶ。ふだんは気にならない仇名が、今日はひどく揶揄をふくんで聞こえ、私は顎に力をこめていらだちを抑えた。マスターはなんにも悪くない。悪いのは私の精神状態だ。
「私が大丈夫だったこと、あんまりないですよね」
「確かに。でも先生は潰れても、ひとに迷惑をかける感じにならないから、いい飲みかたですよ」
マスターが立ち去ってから、私は森島さんに「ごめんなさい」といった。すでに手は離している。
「ビビったでしょう。めちゃくちゃ八つ当たりした。最低だわ」
「こちらこそ、沙織さんが求める議論がうまくできなくて申しわけありません。わたし、だめですね」
ロイド眼鏡の位置を直して、森島さんはため息をつき、せつなげにわたしのようすをうかがう。コヅカくんには冷徹とすらいえる態度を崩さなかった森島さんが、私のご乱心にはかわいそうなほど動揺していた。
「だめなのは私だよ」
「そんなことは――」
「だめなんだ、書けなくて」
社会人になってからじわじわと胸の奥を侵食していた、誰にもいえなかったわだかまりが、知り合ってまもない、まだ友だちともいえない女の子に対してこぼれ出る。
「大学三年のときに、新人賞の最終候補に残って、私が好きな選考委員の作家から『まだ未熟だけど、見込みがある。作家に必要な目を持ちかけている』みたいな講評をもらったんだ」
「素晴らしいですね。とても励みになったでしょう」
「なったよ。なりすぎた。もっといいものを書かなきゃって――いや、新人賞をもらえるようなものを書かなきゃって、変な欲が出て、なかなか書けなくなった」
「それは――他人の言葉は気にせず、まず思ったとおりに書いて、後から直していけばいいのではありませんか。小説のことはわからずにいっていますが」
「いいや、章子ちゃんが正しい。でも、その正しいことをコツコツできない私は、もう後に退けなくて、ごまかしごまかしやってきて――自分の才能のなさと向き合うことから逃げてるんだなって、たったいま、決定的に思い知らされたわけよ。世界を翻訳できている作品を見せられて」
「そんな、わたしの写真なんて――わたしなんて……」
森島さんがしょんぼりして、私もしょんぼりして、ふたり、同じタイミングでグラスを持ち上げた。
甘いけど、口の中でべたつかず、爽快な後味を残すワインは、昂った気持ちをいくらか鎮めてくれた。
「コヅカくんじゃないけど、章子ちゃんはポートレイトも撮ったらいいのに」
「沙織さんも、そう思うのですか」
「すごくいい写真になるよ。でもまあ、撮られたひとが気分のいい写真になるかどうかはわからないか」
私はファイルを開いて、森島さんの写真をぱらぱらと眺めた。
「この強度で撮られたら、まるで自分じゃないみたいな――自分が目を逸らしていた自分が、がっつり写っちゃって、逃げられなくなる。その恐さは、想像できるよ」
にげる、と森島さんが声に出さずにつぶやいた。
「――逃げるというなら、私も逃げているのだと思います」
森島さんは悲しそうな微笑を浮かべた。
「無機物や動植物は、わたしが撮った写真を見ることがない。わたしの写真で、傷つけてしまうことはない。だから、ひとを撮らないのです」
「それは私が勝手に――」
「理屈ではわかります。でも――わたしだって、ひとを傷つけるのは、怖いのですよ」
「そっか」
彼女のような天才だって、怖いものは怖いか。
「そうだよね。怖いよね」
「はい」
私たちは、少しのあいだ、無言でいた。
いやな時間ではなかった。きっと森島さん――章子ちゃんもそうだと思う。店内を眺めたり、ワインを飲んだりしているうちに、強張りきったものがゆっくりとほぐれていく感じがあった。
ふいに、章子ちゃんが「お願いがあります」といった。
「沙織さんの小説、読みたいです」
「恥ずかしいからいやだ」
私は即答した。章子ちゃんは口をすぼめて、
「不公平です」
「等価交換の約束はしてない」
「わたし、傷つきません。大丈夫です。これまでに書いたものを読ませてください」
「なんの傷もつけられないだろうから恥ずかしいの」
「傷つけるのもいやで、傷つけないのもいやなのですか。矛盾です」
「小説書く女なんて理不尽のかたまりよ。はっはっは」
「どうすれば読ませてくれますか」
ロイド眼鏡の奥の目が妙にぎらぎらしていると思ったら、ボトルの中身がずいぶん減っている。いつの間にか、けっこう飲んでいたな、この子。
「じゃあ、私を撮って」
「それは――」
「いまじゃなくていい。そうね――私が作家デビューして、本が出ることになったら、撮ってよ。それを著者近影に使う」
私がいうと、章子ちゃんの顔がほころんだ。
今夜、この子をそんな顔にしてあげられてよかった。私はこの子と打ち解けられたんだな、と思った。それが嬉しかった。
どう撮られても、受け止められる私になる。そうなれたとき、きっと私は、だれかを傷つけたり、だれかを癒せたりする小説を書けているだろう。
「では、新しく、長い小説を書かなくてはいけませんね」
「うん」
「そして『小説すずめ新人賞』に応募する」
「『つばめ』ね」
「わかりました。お約束します。沙織さんを、撮ります」
章子ちゃんの言葉は、なんだか愛の告白の返事みたいに聞こえて、心臓の鼓動が一拍飛んだ気がした。私もけっこう酔っているらしい。
*
マンションの部屋に戻るや否や、コートとバッグを床に放り出し、お酒でふわふわした身体をベッドの掛け布団の上に横たえた。
化粧を落とさなきゃ、歯を磨かなきゃ、パジャマに着替えなきゃ、部屋の灯りを消さなきゃ、スマホを充電器に差さなきゃ――いろんな「しなきゃ」が、脳のなかでぐるぐると回って、泡みたいに消えていく。
最後まで残った「しなきゃ」は――
一行でも二行でもいい、小説を書かなきゃ。
私は、身体を布団から引き剥がすようにして起き上がった。
パソコンの電源を入れる。二百字くらい、書きかけの原稿の続きを、おぼつかない手つきで打つ。
どうせ見返せば、使いものにならない文章だ。それを削って、よりよい文章を書くことから、明日は始めていこう。
始めていくのだ。
保存してファイルを閉じてから、最終選考まで行ったときの作品を呼び出した。
メールに添付して、章子ちゃんに送る。
感想は、次に会ったときに聞かせてくれる約束だ。あの無垢な刃みたいな言葉で、どんなふうにいわれるのか。怖い。その怖さを楽しみに思いながら、私はベッドに戻って、眠りの空に飛んでいった。
森島章子は人を撮らない 秋永真琴 @makoto_akinaga
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