森島章子は人を撮らない

秋永真琴

前篇

 今日も書けなかった。

 会社からまっすぐ帰ろうと思っていたのに、終業間際で上司から「どうしても今日中にやってほしい」という書類の作成を頼まれ、いらいらしながら片づけた私は、つい行きつけのワインバーに寄ってしまったのだ。

 飲まずにご飯だけ食べるという高等技術を、私が使えるはずもなく――

 マンションの部屋に戻るや否や、トレンチコートとトートバッグを床に放り出し、お酒でふわふわした身体をベッドの掛け布団の上に横たえていた。

 化粧を落とさなきゃ、歯を磨かなきゃ、パジャマに着替えなきゃ、部屋の灯りを消さなきゃ、スマホを充電器に差さなきゃ――いろんな「しなきゃ」が、脳のなかでぐるぐると回って、泡みたいに消えていく。

 最後まで残った「しなきゃ」は――

 一行でも二行でもいい、小説を書かなきゃ。

 それも果たせず、私は眠りの沼に沈んでいく。


     *


 水分を摂取して脱水症状になるの、人体の欠陥だと思う。

 どうしてアルコールを気化して排出する構造にできなかったのか――と、創世神に呪いの念を送りながら、這うようにして起きる。やたらと寒い。後頭部が重たい。

 窓の外を見ると、ぱらぱらと雪が舞っていた。寒いのも道理だよ。

 十一月の札幌には、こんな日がかならずある。

 水道水をコップに注いで三杯飲み、熱いシャワーを浴びてから、インスタントのみそ汁をボウルにふたり分作ってすすり、ようやく人心地がついた。

 土曜の朝は、だいたいこんなふうに始まる。

 よほどのことがない限り、週末と祝日は休みなのが、私が事務員として勤める会社の数少ない長所だ。そういう会社を選んで就職した。

 パソコンを立ち上げて、午後まで机に座っていた。正確には立ったり座ったり、ごろごろしたり、ネットショッピングをしたりしていた。

 五時間かかって、八百字しか書けなかった。しかも、おもしろいと思えない。この展開ではおもしろくならないのが確認できたという成果を得たと思うことにする。そうしよう。じゃなきゃ虚しい。

 パソコンの電源を落として、出かける支度をした。


     *


 西11丁目駅で地下鉄を降りて外に出ると、雪の勢いが強まっていた。まだ積もりはしないだろうけど、本格的な冬の始まりを感じさせる。

 春が来なきゃいいな――ふと、そう思った。

 春が来たら、大学を卒業して二年、小説で結果が残せなかったことになる。それは、自分の才能を疑わなきゃいけない節目を迎えてしまうことだった。

 ため息をつき、トレンチコートのベルトを締めて、早足で歩き出した。

 市電の線路が延びるメインストリートを少し進んで、中通りに折れると、目的の場所は迷わず見つけられた。裸の枝を広げる木々に囲まれてたたずむ、木造の大きな建物である。古民家を改造したカフェ兼ギャラリーだと聞いてきた。

 店先に置かれた看板には、引っかいたような字体で「山羊の歌」と刻まれ――オーナーは中也ちゅうや好きかな――その下にラミネート加工された貼り紙がある。


 ~キミノキオク~ 寫眞家しゃしんか・コヅカコースケ 個展


 この小塚コヅカ浩介コースケくんが、夜の盛り場で知り合った飲み仲間なのだった。フリーのデザイナーをやりながら、プロとして活動しているカメラマンである。

 真鍮の取っ手を引いて、ドアを開けた。

 見た目よりも奥行きのある、大きなお店だった。手前が、カウンターとテーブルを合わせて十二、三人くらい座れるカフェ。その奥が、学校の教室くらいの広さがあるギャラリーになっている。あとでお茶しよう。

 オーナーとおぼしき四十代のおさげ髪の女性に「先に写真展、観てもいいですか?」と許可をもらってから、ギャラリースペースに入った。

 三方の壁を、大小のパネルがびっしりと埋めていた。百枚は下るまい。

 基本的に、一枚にひとりの女の子が写っている。街中で、河原で、公園で、線路脇で、ビルの廊下で、ホテルの一室で――さまざまな場所で、さまざまな女の子が、気ままなようすを見せている。

 笑顔だったり、憂い顔だったり、カメラをまっすぐ見つめていたり、どこか遠くを見ていたり――魅力的な表情やしぐさを、少し褪せた色合いで焼きつけた、おしゃれでかわいい写真たちだった。

 ギャラリーには、男女のカップルふた組、女子のふたり組、ひとりで来ている女子――七人の観賞客と、コヅカ先生ご本人がいた。

 長い髪を結いあげて、ウェリントン型の眼鏡をかけ、膝丈のカーディガンを羽織った、痩せた男子である。顎だけに不精髭――正確には不精ふうの髭――を生やしているけど、前に会ったときはそんなもんなかったな。アーティストっぽさを出しちゃって、この。

 私に気づいて、コヅカくんが近づいてきた。

「おー、沙織さおりさん。ありがとー」

 間延びしたしゃべりかたも、泰然としたムードを醸しだすのにひと役買っている。決してイケメンじゃないんだけど、酒場でもよくモテるし、そのことを充分に自覚している男子だった。二十八歳だったかな。

「すごい数。何枚撮ったの」

「ひとり三百枚は撮るからなー。今回は十四人で――四千枚以上から選んだ百二十枚だ」

「順調そうだね」

「おかげさまでー。沙織さんは小説、どう?」

「――ぼちぼち、かな」

 一瞬、言葉に詰まった。

 それを悟られたかもしれない。私の考えすぎで、挨拶がわりの質問に過ぎなかったのかもしれない。どちらにせよ、コヅカくんはそれ以上なにも訊いてこなかった。

「ゆっくり観てってー。そんでポストカード買ってって」

「はいはい、後でね」

 私は一枚一枚の写真をじっくりと観ていった。

 ネットで見たことがあるものも混ざっている。コヅカくんの写真はSNSで人気があるのだ。新しいのがアップされるたびに「いいね」が何百、ときには何千と押される。

 コヅカコースケの作風というものがちゃんとあり、それにファンがついているということだった。

 いい写真展だと思う。かわいいは正義。

 でも、なにか、観ていて胸がざわつく。肯定的な意味ではなく。

 ジャンルは違えど、同じ表現者として、順調にキャリアを積んでいるコヅカくんへの嫉妬かな、と考えた。それならば、そうだと素直に認めよう。自分に生まれた負の感情をごまかさずに受けとめれば、それは健やかな燃料に変わるはずだ。

 大きなパネルを、遠くから全体を見ようとして後ろに下がり――

 どん、と背中がだれかにぶつかった。

「すいませんっ――」

 反射的に詫びながら振り返る。

「いえ、こちらこそ」

 礼儀正しく応えてくれたのは、私より少し下――二十一、二歳とおぼしき、白いダッフルコートを着た女の子だった。

 顔が小さくて、背が高い。きゃしゃなロイド眼鏡と、黒髪のショートボブがよく似合っている。ストラップをつけた大きなカメラをたすき掛けにしているのが印象的だ。

「大丈夫、アコちゃん? 怪我はない?」

 コヅカくんが私たちに――正確にいえば、眼鏡の彼女に――駈け寄ってきた。

「はい、大丈夫です」

「気をつけなよー、沙織さん。まだ昨夜の酒が残ってるんじゃないの」

 寫眞家シャシンカ先生センセーのおっしゃる通り私が悪いんですけど、この差な。

「いえ、わたしも不注意でした。申しわけありません」

 比べて、このカメラ女子の謙虚さよ。私のなかで好感度が上がった。ゲームならピロリンと音が鳴っている。

「アコちゃん、新井あらい沙織さん。五年以内に直木賞作家になる女だって」

「やーめーてー」

 いつか酔ったときに吐いた妄言を、しらふのときに聞かされるのは堪える。現状では妄言だと思わざるを得ないから、堪えるのかもしれない。

「はじめまして、森島もりしま章子あきこと申します。大学生です」

 コヅカくんの紹介を待たず、彼女はすすんで名乗った。両手を身体の前で合わせ、お辞儀してくれる。

 私も「どうも、新井です」と頭を下げた。

「新井さんはコヅカさんのお友だちなのですか」

「そうです。飲み友だち」

 のみともだち、と、声を出さずに森島さんの唇が動いた。

「それは、お酒を飲むお友だちということですか」

「えっ、うん――そうだね、そういうことですね。最初に飲み屋で知り合って、いまも飲み屋で会うことがいちばん多い友だち。共通の趣味が飲むこと」

 突っこまれてちょっと面食らったけど、なんとなく通じている――通じているようでいて、じつは曖昧な言葉を、きちんと定義してしゃべっていくのは、不思議な気持ちよさがあった。小説を書くときと同じ脳の部分が動いている感じ。

 森島さんは納得したようにうなずいた。

「ありがとうございます。理解しました」

「いえいえ。森島さんは、コヅカくんとどういう?」

「そうですね――『写真友だち』です」

 初めて知ったいい回しを喜んで使う子どもみたいな、ちょっと高揚した気配が漂ってきて、私は思わずクスリと笑ってしまった。おもしろい子。

「おれが『札幌フォトジェニック』っていう写真サークルの世話人をやってて、そこで知り合ったんだー」

 コヅカくんが補足してくれる。

「アコちゃん、お茶しようか」

「お茶ですか」

「時間ある?」

「はい、あります」

 ある? と訊かれれば、あります、という感じの返事をコヅカくんにしてから、森島さんは「新井さんもいかがですか?」と尋ねてきた。

 二分の一秒くらい、コヅカくんの顔がわずかに引き攣ったのを見逃さなかったけど、私は気づかなかったふりをして、

「ぜひぜひ」

 と答えた。ごめんね、コヅカくん。これが一世一代の勝負どきというなら私だって気を利かせるけれど、きみはそうじゃなかろう。ふたりで会う日は別につくってください。私も森島さんと話してみたい。


     *


「アコちゃんと沙織さん、同じ大学だったのかー」

 コヅカくんが、隣り合う私と森島さんを交互に見やった。

 テーブルについて注文を済ませてから「森島さん、どこの大学に通ってるの」という話になり、私の後輩であることが判明したのだった。

「面識はないんだ?」

「ありません」

「ないねえ」

 私たちは首を横に振った。私が四年生のとき、森島さんは一年生だ。同じ部活をやってでもいなければ、言葉を交わす機会はない。

「新井さんは小説家なのですか」

「の、卵」

 と、私はつけ足した。

「会社員やりながら、新人賞に応募してるんだ」

「応募しているということは、長い小説を書きあげているのですよね」

「まあ、そうだね。次に応募する『小説つばめ新人賞』の規定は、原稿用紙で三百枚以上だから――十万字とか」

「凄いよなー。おれ、絶対むり」

 笑うコヅカくんに「私もむりだと思ってた」と応えた。

「どうやって書けるようになったのですか」

 森島さんの質問が続く。

 少し考えて、私は口を開いた。

「有名な作家の受け売りなんだけど――小説とは、翻訳である」

 ほんやく、と森島さんが無音で復唱した。なにか心に引っかかるワードが会話に出てきたときの、彼女の癖らしい。

「だれもが経験したことはあるけれど、うまく言葉にできなくてもやもやしている事柄とか感情とかを、どうにか言語化して、名づけ、かたちを与える。ただストーリーを小学生の日記みたいに追いかけるんじゃなくて、『翻訳』する――それが小説なんだっていう意味だと、解釈したんです。私なりにそれを意識していったら、どうにかこうにか、書けるようになった」

 説明していることに、嘘はない。でも、いいながら、どこか滑稽だと感じている自分がいた。いまはどうにもこうにも書けていないからだった。

「それ、おれがいただいていい? 写真は世界の翻訳である。かっこいー」

「どうぞどうぞ。私のオリジナルじゃないし」

 そんな話をしているうちに、注文したものが運ばれてきた。

 私はブレンドコーヒー、コヅカくんはカフェオレ、森島さんはアップルティだ。カップがそれぞれ違う。手作りで焼いたという感じの、肉厚で素朴なかたちだった。

 私は、森島さんを見た。

 彼女の放つ雰囲気が変わっていた。

「失礼します」

 森島さんは腰を浮かせて、私のほうに少し身を乗り出した。唇を真一文字に結んだちいさな横顔に、凛とした緊張が浮かんでいて、ドキッとした。

 森島さんはカメラを構え――画面を見るのでなく、眼鏡を当ててファインダーを覗きこみ――私の前のコーヒーカップを二、三回、撮った。

「ありがとうございます」

 椅子に座り直す森島さんに、私は思わず「えっ、それでいいの」と訊いてしまった。

「これ、撮るんなら、近くに持ってっていいですよ」

 カップを森島さんのほうにずらそうとしたけど、

「大丈夫です。もう撮りましたから」

「そう……?」

 こっちが気を遣うくらい、あまりにも無造作で素早い撮影だった。

「アコちゃんはもうちょっと落ち着いて撮ったほうがいいと思うけどなー」

 コヅカくんもそんなことをいうけれど、森島さんは無言で微笑み、自分のカップを持ちあげて紅茶を飲むのだった。

 私もコーヒーを飲んだ。香ばしく、まろやかな苦みが口の中に広がる。

 手にしたカップに、目を落とした。

 このコーヒーに――コーヒーを注いだカップに――カップが置かれた空間に、森島さんはなにを視たんだろう。自分のでもコヅカくんのでもなく、私のこれを選んで撮る、その衝動を呼び起こした要素は、いったいなんだったのか。

「森島さんは、プロの写真家なの」

 と、私は訊いた。

 答えは「いえ、写真でお金をいただいたことは」だった。

「アコちゃんは、きちんと撮れてるけど、ちょっと絵が地味なんだよね」

「そうでしょうか」

「静物や風景ばかりじゃなく、人を撮りなよー。対峙しておもしろいのは、やっぱり人間じゃないかな。おれみたいにやれってことじゃないけど」

 酒場では飄々としたコヅカくんも、気に入った子の前では、自分を大きく見せようとする平凡な語り口になるんだな――と、横で聞いていて思った。昼間に会わないとわからないことがある。

「どうだった、アコちゃん」

「どう、とは。紅茶はおいしいです」

「おれの作品」

「ああ、そうですよね。そのことですよね。失礼しました」

 森島さんは上体をひねり、数メートル離れたギャラリーを軽く眺めてから、こちらに向き直った。

「ノスタルジックな色味が美しく、どの写真も素敵です」

「ありがとー」

 嬉しそうなコヅカくんに、森島さんはこう訊いた。

「違う女性をまるで同じように撮れるのは、なぜですか」

「同じ?」

 と、訊き返したのは私だった。

 その問いに、私のなにかが刺激されたのだ。小説を書いていて、ある事象を表現するのにもっともふさわしい比喩を思いついたときのような――

 森島さんはうなずいて、

「モデルの女性は六人ほどいらっしゃると思うのですが――」

「十四人だよ」

「えっ、そんなに」

 目を見ひらく森島さんに、コヅカくんが苦笑する。

「アイドルの見分けがつかないタイプだなー、アコちゃんは」

「はい。芸能人の顔と名前をなかなか覚えられなくて、友だちに『アコはおばあちゃんみたいだ』といわれました」

 森島さんはきまり悪そうに肩をすくめ、コヅカくんは「あははっ」と鷹揚に笑うけれど、私は胸の裡で「待て待て待て」とつぶやいていた。寫眞家シャシンカコヅカコースケよ、いまのはとても重要な示唆じゃないか。

 私は席を立って、ギャラリーに入った。三方の壁を埋める写真を見渡す。

 さっきの違和感の正体が、わかった気がした。

 SNSで更新されるごとに数枚ずつ見ていると、気にならない。でも、こうやって並べて一気に見ると、女の子のムードも、撮影したロケイションもそれぞれ異なる写真なのに、不思議と同じ印象なのだった。

 この場合の同じとは、どれもいっしょでかわり映えしない、という意味。

 統一感があるとか、テーマが定まっているとかいうのじゃなく――撮る「絵」は最初から決まっていて、その通りに撮れた、そんな感じ。

 きっと、モデルを替えて同じ場所で撮っても、コヅカコースケが切り取って焼きつけるものは変わらないのだろう。

 それを、安定の練達と取るか、退屈な手癖と取るか――

 考えこみながら、私はカフェスペースに戻っていった。

「沙織さんも『みんな同じ子に見える』っていわないでよー」

「大丈夫、ちゃんと十四人いた」

 冗談っぽくいうコヅカくんに同じ調子で応え、わたしは席についた。

「どこまで話したっけ――そう、アコちゃんは一度撮られてみるといいんじゃないかな」

「いえ、わたしは――」

 どうやら森島さん、モデルになってほしいと口説かれているらしかった。私の存在を気にせず、コヅカくんは攻めていくことにしたらしい。

「コヅカさんの被写体は、わたしでなくてもいいと思います」

「そんなことないよー。アコちゃんを撮ったら、きっとおもしろい」

「コヅカさんはおもしろいのかもしれませんが、できあがる写真は同じです。他の方でも。ならば、あえて被写体に向いていないわたしでなくてもいいのでしょう」

 傍で聞いている私が、息を呑んだ。

 思い切って発した言葉という感じではない。ただ事実を述べただけという、森島さんの平熱の口調だった。だからおそろしい。

 さすがにコヅカくんも、少し顔をこわばらせた。

 顎髭を揉むように撫でてから、努めて笑顔を作り、

「『向いていない』とか決めつけたら、成長がないよ。なんでもやってみなきゃ。フォトグラファーには好奇心が大事だ。撮られる気持ちを知ることで、撮るほうの意識も変わってくるだろうし」

「私のことを考えてくれて、ありがとうございます」

 森島さんは膝の上に両手を揃えて、ていねいに頭を下げた。

「コヅカさんにきれいに撮ってもらえる女性たちは、きっと嬉しいでしょうね」

「じゃあアコちゃんも――」

「でも、わたしはとくにその喜びを必要としません。なので、コヅカさんがわたしを撮る理由は、やはり見当たらないと思うのですが――」

 森島さんは「なぜ?」というように、小首をかしげてコヅカくんを見やった。


     *


 翌日の夜、私は彼女といっしょに、行きつけのワインバーに来ていた。

 私にとって、今夜はとても重要な時間になる予感がしていた。

 彼女にとってどうかは、わからない。

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