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「それで?」
「何がです? 藤井先生」
「六年ぶりくらいに連絡して来たと思ったら、こんな所へ呼び出して」
「久しぶりに旧友の顔を見たくなってはいけませんか?」
「敬語は止さないか。調子が狂うよ」
「ははっ、藤井さんは相変わらずだなぁ」
最奥の隅の席。
来てくれた客の中に引き摺り込まれた雪野を、黒須はただゆったりとした暖かな空気に酔った眸で眺めた。
藤井は物静かで紳士な佇まいの癖に、学生の悪乗りに便乗してしまうような少しお茶目な所がある。学生にも人気で優しいおっとりとした先生だが、若い時の事故で足を悪くして料理人として調理場に入る事が出来ず、自分で料理学校を設立してしまった様な野心家でもあった。
「君が帰って来たと風の噂で聞いて、ずっと心配だったんだよ」
「見ての通り、元気だよ」
「体はもう良いのかい?」
「うん。全然、元気」
「今は何をしているんだい?」
「食品会社の営業マン。これでも営業部筆頭だぜ?」
「君なら、そうだろうな」
食後の深煎り珈琲を俯きがちに啜りながら、藤井はそう言って微笑んだ。
黒須はそのしたり顔に見覚えがあるな、と苦笑いする。
いい人の振りしてこの藤井と言う男は、人を見る目だけは確かで、おっとりしている様でいて意外と鋭い。
「それで? 君は何を恐喝しに来たんだい?」
「恐喝とか……藤井さん、人聞き悪いなぁ……」
「君が知っているあの秘密をネタに
「それどっちもあんま、変わんないじゃん……そんな事しないよ。あんね藤井さん、時々で良いからさ。ここに飯食いに来てよ」
「それで、君の欲しいものは手に入るのかい?」
藤井の眦の下がった眸は、店の客に揉まれて不器用に笑う雪野を見ている。
「欲しいものは自分で手に入れるさ。ただ、純粋に彼の料理を美味しいって褒めてくれる人が必要なんだ」
「それだって君のメリットになる計算なんだろう?」
「まぁ、ね」
「勝算はあるのかい?」
「勝算がない計算はしない」
「僕は秘密を握られてしまった可哀想な被害者だ。加害者の言う事を聞かない訳にはいくまいよ」
「まーたそんな事言って! 藤井さんはすーぐそうやって、俺を苛める」
「はっはっはっ、僕が彼のお父さんに恋をしていた事は墓場まで持って行くべき秘密だ。君はそれを違えない男だと僕は信用している。ここにご飯を食べに来るぐらい、お安い御用さ」
「助かるよ、ありがとう」
「今度、学校の子達と一緒に来るよ」
藤井の人の好さは昔から変わらない。
学生だった黒須が、リストランテ・ユキノのナポリタンに夢中だった頃、彼はこの最奥の隅の席でいつも静かに珈琲を飲みながら、本を読んでいた。
その頃でも四十は超えていただろうと思う。
でも黒須は彼がこの店に通う理由が、他にあると気付いてしまった。
いつも杖をついて藤井が来ると、雪野のおじさんはドアを開け藤井の手を取り席まで案内していた。
雪野のおじさんを見る藤井の視線が、恋情を含んでいるのだと気付いてしまったのは自分がゲイだったからなのかも知れない。
黒須にしてみたらそれが初めて見る自分以外の同性愛者で、歳は親子くらい離れていたけど、どうしても友達になりたくて、黒須の方から声を掛けた。
おじさん、雪野のおじさんの事好きでしょ――――。
思い返せばとてつもなく生意気で、直球で、あの第一声を聞いてよくぞ自分を邪険にしなかったものだ、と藤井の大人対応に今更ながらに尊敬すら覚える。
「あー、もう、お腹がちゃぷんちゃぷんだ」
「雪野さん、顔赤い」
「だって、篠田さんが凄い飲ませるんですもん」
「ははっ、あいつのペースで飲まされたら吐くまで逃げられないよ」
「黒須さんはこんな所で藤井先生とシッポリして、狡いよ。あれ? 先生は?」
「俺は楽しそうな君を見ている方がいい。先生は一足先に帰られたよ」
少し酔っていたのかも知れない。
藤井と懐かしい話をして、腐っていた頃の自分を思い出して、少し心が愁いを帯びた事は確かだ。
丁度今の雪野と同じ歳の頃、我が道を邁進して来た黒須の一本道が急に断絶した。
それは
単身イタリアへ飛んで一流の料理人になるべく奔走していた黒須を襲ったのは、ストレス性の味覚障害。
味の分からない料理人など使い物になる筈もなく、六年前に帰国し、今の職に就いた。経験した事のないその世界から這い出て今に至るまで支えになったのは昔、藤井がしてくれたある例え話だった。
「昔、藤井先生が教えてくれたんだ」
「何を?」
「教会を作る話」
「教会を作る?」
「そう。教会を作っている現場で三人の大工に何をしているのか? って尋ねたら、一人は穴を掘っていると答え、一人は金を稼いでいると答え、最後の一人は美しい大聖堂を作っていると答えた」
人参を切る事より、何の為に人参を切るのかが、大事だよ――――。
その話をしてくれた藤井はそう教えてくれた。
だから加工食品であろうと、ダサいネーミングの目的不明な肉の塊であろうと、重たい鞄を毎日抱えて売って行ける。
黒須の中で料理人である事も、食品会社の営業マンである事も、たった一つの理由でちゃんと繋がっているからだ。
「黒須さん、酔ってる?」
「酔ってないよ。たださ、自分が何をしているのか分からなくなる事ってあるじゃん。そう言う時、こうやって目の前にその風景があったら、頑張れるでしょ」
黒須は呆然とこっちを見ている雪野に視線を合せる。
楽しそうに笑う人達、美味しいと喜ぶ声、お腹がいっぱいになったら、人は少し我儘になって、大人でさえ子供の様にだらしない所が垣間見えてくる。
美味しいもので人を堕落させるほど幸せにしたい。
黒須はそれが出来るなら、料理人でなくても構わないのだ。
ただ、好きな人だけは自分の料理で堕落させたいと思う辺り、まだ料理に未練があるのかも知れない。
「メリークリスマス、雪野さん」
「メ……メリークリスマス……黒須さん」
「パーティ、成功したね」
「そう……ですね……」
「お願い、聞いてくれる?」
「アッタンダを買えばいいんでしょ?」
「ふはっ、それも嬉しいけど、使わないのに買ってもしょうがないでしょ」
「つ、使うよ……。使うから、あのシチューの作り方、教えて……」
「良いですよ? その代り、雪野さんの下の名前を教えてよ」
「え、な、何で?」
「仲良くなりたいから」
「……
「……もしかして、雪の降るイヴに生まれたとか?」
「そ、そうだよ? 何か変っ!? く、黒須さんだって……燦多でしょ!」
シャンパンのせいなのか少し照れたのか、頬を赤らめる雪野はまた不器用に笑う。
でもそれは無愛想で飄々とした彼が初めて見せた少し幼い表情だった。
開始から三時間が過ぎる頃、窓の外は降っていた雪は止んで濃くなった闇の中にジェリービーンズの様な電飾が余計に瞬きを増している。
大人になっても恋をすると、チカチカと点滅する灯の様に、心臓が逸る。
サンタさんのシチュー 篁 あれん @Allen-Takamura
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