もし叶うのならばもう一度

真宵猫

プロローグ

 僕の世界から色が失われたあの日からなんの代わり映えのない普通の日々を送っていた。当たり前のように一日は終わり、当たり前のように季節は変わり、当たり前のように歳を重ねていく。世界は、時間は君の存在なんてまるで最初から無かったかのように進んでゆく。そしてその環の中に僕も存在していることにどうしようもない苛立ちを覚えていた。以前の僕や普通の人ならば世界が、時間が進むのは当たり前だと、むしろお前は何を言っているんだと思うのだろう。だけど今の僕にはそんな風に考えることなんかできなかった。それほどまでに彼女の存在が僕の中で大きくなっていたのだ。


 彼女が亡くなったあの日、彼女の知り合いは皆悲しんでいた。彼女の両親なんかはもう目も当てられないほどに。だけど今は違う。皆前を向いて歩いている。だが僕にはそれが許せなかった。前を向いて歩くことは何も間違ってはいないだろう。いつまでも彼女が亡くなったことを引きずっている僕なんかよりはずっと。でも振り返ることなく前に進んでいく彼ら彼女らを見ていると彼女が存在したという事実すらこの世界には残されていないのではないかと思えてくるのだ。それは錯覚で皆今でも彼女を思っていることは理解している。理解はしているがどうしてもそう思ってしまうのだ。


 そんなことを考えて生きることは正直苦痛だった。一日はとてつもなく長く感じるし、何をするにしてもやる気が起きないからだ。それでも自殺という手段を選ばなかったのはそんなことしたら死んだ後彼女に顔向けできないからだ。自殺したいとは何度も思った。だけどその度彼女を思い出して自制した。きっともっと生きていたかったであろう彼女のことを。だがそれも今日でおしまいだ。なぜだか分からないが今日自分が死ぬということが分かるのだ。


 もともと僕にとって世界は色あせたものだった。毎日働かず酒を飲んでは暴力を振るう父親。まるで感情の起伏を見せず僕の存在すら認知しているのか分からないような母親。そんな両親のもとに産まれた僕は人を恐れ嫌悪してきた。そしてそんな人が頂点に立ち作り上げているこの世界を。そんな僕に自ら関わってこようなんて思う人はいなかった。彼女に出会うまでは。


 彼女はどこにでもいそうな普通の少女、といった風貌をしていた。顔も、スタイルも普通。どちらかというと良い方ではあるのだろうがそれでも普通という域を出ているとは思わない。そんな彼女だがその内面は異常と言っても過言ではなかった。


 彼女が初めて僕に発した言葉は「私はあなたが気に入らない」であったことは今でもよく覚えている。当時の僕が人間嫌いだったとはいえ周りに敵意を振りまくことや迷惑になることをしていたわけではなかった。ただ、誰とも関わろうとしていなかっただけで。そんな僕に関わってくることもだがそれ以上に開口一番罵倒されたのに驚いた。そしてそんなことを言ったにもかかわらずなぜか彼女はそれ以降よく僕に関わってくるようになった。


 僕は彼女を煙たがっていたが彼女はそんなの知るかとばかりに僕に寄って来た。いつまでたっても彼女が離れる様子を見せないため僕はなぜ気に食わないのに関わってくるのか聞いてみた。すると彼女は僕から声を掛けられたのに少し驚いた後こう言った。


 「私はあなたが気に入らない。あなたのその眼が気に入らない。周りを見下してるのか蔑んでいるのかは分からないけどそんな感じの眼が。でもそれと同時に気になるの。なんでそんな目をするようになったのかって」


 彼女が僕に関わっていたのは好奇心からだった。だったら気になることを教えて満足したらいなくなるだろうと思って身の上話と僕の思っていることを全て話した。その結果、彼女は以前にも増して俺と関わるように、というか連れまわすようになった。


 彼女が俺の話を聞いた時の反応は「で?」というものだった。彼女曰くそれがどうしたと、それだけのことでそんな結論に至るなんて馬鹿か、と。そのとき僕は初めて彼女にキレた。思い返すだけで恥ずかしい、よくドラマなんかで聞く在り来たりのお前に俺の何が分かんだよ的なキレ方を。すると彼女はこう切り返してきた。


 「私は私の知るあなたしか知らない。そのあなたがあなたを構成するどのくらいかは分からない。まぁほんの一部なんでしょうけど。それと同じようにあなたは人のほんの一部しか知らないし世界のほんの一部しか見ていない。それでいて他の面を見る気もないと来た。そんなんで人間に、世界に見切りをつけるのは早すぎるんじゃないの?」


 「だから私が教えてあげる。あなたの知らない人の一面を、世界の一面を。そうすればあなたの瞳に映っているものはきっと変わってくるはずよ。もしそれでも同じ結論に至ったのだとしても別の一面を知るということは決して無駄なことではないわ。ま、同じ結論に至らせるつもりなんてさらさらないのだけど」


 そう語った彼女に僕は見とれえてしまっていて。あまりにも自然なその笑顔に。そして正面から他人の笑顔を見たのがしばらくなかったことに気付いた。だから見とれたのかもしれないが今思い返すとこの笑顔を見たこの時に僕は彼女に惹かれたのだ。


 それからというもの僕の生活は一変した。今まで目を閉じて歩いてきた僕には彼女が見せる世界は眩しすぎて躓きそうになることもあったけれどその時には必ず彼女が傍にいた。そんな生活を続けていると次第に目に映るものが色鮮やかになっていた。彼女が見せてくれるものは綺麗なもの、美しいものが多かったが醜いようなものもあった。だがそれによって今までみたいに世界が色あせることはなくむしろ色に厚みが出てきていた。そしてようやく目を開けても一人で歩けるようになった。そんな時だった。彼女が亡くなったとの知らせを受けたのは。


 僕は彼女と出会う前の生活に戻っていた。だからといって目に映るものは以前とは違う。色あせていた世界は今では無色となっていた。彼女が亡くなって以降色が抜けていったのだ。そこにいたってようやく気付いた。僕は彼女が好きだったのだと。世界に色がついたのは彼女が色々なものを見せてくれたのもあるが何より彼女の存在が大きかったのだと。今まで誰とも関わってこなかった僕は生まれて初めての言葉を交わし、頼ることができた存在である彼女に依存してしまっていたのだ。


 そんな無色の世界を歩き続け五十六年。今日ようやく彼女の下に行くことができる。そう思うと涙が出てきた。それはうれし涙であり悔し涙。彼女の下に行くことができるのは嬉しいことであるが彼女が願ったであろう生き方ができなかったことが悔しかった。


 僕の死を看取ってくれる者は誰もいない。


 目を瞑り、ただ一人静寂の中で君を思う。

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