「ゲームでしか自分を表現できひんような人間にはなるなよ」
赤羽の下宿先は、学生向けにしてはなかなか広く、小綺麗なアパートだった。サークルの人間であれば、一度は必ず飲み会で行ったことがあるその部屋の前に、船橋の車が到着する。
「ほな、また明日」
「お疲れ様です」
簡単だが、快活な挨拶を交わして、助手席から赤羽が出ていく。西田は相変わらず対戦動画を眺めている。
「こら」
西田が視線を上げると、船橋が後部座席を振り返っていた。自分の隣に指をちょんちょんと差している。
「助手席が空いたんやから、こういう時は前に来るもんやで」
そういうものなのか。西田にとっては理解しがたい慣習であったが、そういえばうとうとしていた川嶋を後部座席に押し込んだ時、赤羽は自然と助手席に座っていた。格闘ゲームの知識であれば西田に分があるのだが、こういう社会の不文律に関しては、赤羽はごく普通にこなすことのできる男だった。改めて助手席に座り、シートベルトを締める。船橋がアクセルを踏んだ。「キタロー」と、船橋が呟く。
「おまえ、童貞か?」
「なんですか。いきなり」
「ええから答えろや。由紀ちゃんは寝とるから」
西田は川嶋が本当に寝てるかどうかを確認したあと、か細く「童貞です」と答えた。
「そうか、童貞か」船橋は大きな声で笑う。先輩で、しかも運転中ではあるが、つい手が出そうになるのを西田は堪えた。川嶋は相変わらずシートに顔を伏せたままだった。
「睨むな睨むな。実はな、おれもつい最近まで童貞やってん」
船橋の意図が察せずにいると、
「彼女が出来たんや。そない可愛くはないけど」初耳だった。
「自慢、ですか」
「まあ聞けや」
船橋の横顔を覗くと、先ほどまでの様子と違って、真剣な面持ちで前方を見据えている。
「おれもこんなサークルの会長やっとるわけや、ゲームが好きで堪らん。けどな、生身の人間と付き合ってみて初めてわかった。画面上のコミュニケーションやなく、現実の人間と理解しあえることでしか得られへん喜びがある」
船橋の独白を、西田は黙って聞いていた。
「おれはおまえのことが心配でしょうがない。おまえは確かにゲームは強い。強さだけで言ったら、全国クラスかも知れへん。でも、その強さを手に入れるために、一体何を犠牲にした?」
答えるべき言葉が、何も無かった。自分の存在が、余りにも虚ろに思えてきた。
「余計なお世話かも知らんけど、キタローよ」船橋はちらりと西田を見る。
「ゲームは好きでいい。でも、ゲームでしか自分を表現できひんような人間にはなるなよ」
船橋は、粗野ではあったが、嫌味や当てこすりを口にするような人種ではない。おそらく、心の底から西田を心配している。一年間の付き合いもあって、それは痛いほど分かっていた。分かっていたが、それ故に船橋の優しさに応えることの出来ない自分が、たまらなく嫌になった。今すぐ、この走る車のドアを開けて飛び出したい。西田は、そんな衝動に駆られていた。
「お、着いたで」
いつの間にか、アパートが目の前にあった。
西田はシートベルトを外し、助手席のドアを開けた。
「お疲れ様でした」
それは、鉛のように重くなった身体で、西田が口にすることができた限界だった。
船橋は、いつもより更に小さくなった背中が、ふらふらと自宅のドアを開けるのを見届けてから、アクセルを踏んだ。
下鴨大学非公認サークル格闘ゲーム同好会 ひどく背徳的ななにか @Haitoku
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