‪BROTHERS‬

一匹羊。

‪BROTHERS‬

 プロローグ


 同じ目をした君を見つけた。混沌とした情報の丘の上で、俺と同じ目をした君を見つけた。君の瞳はまるで青の海の中、一輪咲く花だった。それがなんだか、とても尊いもののように思えて、その花を大切にするうち、君のことまで、かけがえのないものになっていった。


 青い星々の鉄格子の隙間。叔母は相変わらずあくせくと働いていて、それを手伝う傍ら、叔母からあ、と声が漏れた。

「そうだ。佐藤。あなたもそろそろ妹か弟を持つ頃合いじゃない?」

「さも今思いついたかのように言うのはやめてください、おばさん。この質問は一万三千九百二十五回目ですよ?」

「そうね。そしてあなたは一万三千九百二十五回目の回答をするのでしょうね。柄じゃないのでいい、という」

 叔母は呆れたため息をついて、でもね、と引き継いだ。瞬間モニターに病室が浮かび上がる。覗き込むと、一人の青年の後ろ姿があった。ひょろりと病的に細く、長髪の間から覗く肌は白い。

 その青年は異様だった。ずっとぶつぶつと何かを呟き、髪の毛をぶちんぶちんと抜きまくっている。カメラが切り替わった。青年の正面が映し出されて、その目に、引き込まれた。紫がかった青はそこそこ珍しい。だが、それ以上に虚ろで悲痛なその瞳に、見覚えがあった。遠い宇宙に一人放り出されてしまったような……いや、切り離されてしまったような瞳。世界に存在することさえ申し訳なさそうで、所在なさげで、でも俺はその瞳と様子を見ただけで、彼をすっかり許してしまった。

 でもね、と叔母が繰り返す。

「兄になる、というのはね、私たちが大人になるための一番重要な儀式なのよ」

「やります」

「はい?」

 あまりに食い気味だったため、叔母は状況が飲み込めなかったようだった。俺はゆっくり繰り返した。やります。

「そう。それはよかったわ。この子の兄になるのね?」

「はい」

「手配するわ」

 そうして俺はあっさりと、長谷川一茶の兄になり、長谷川一茶は佐藤一茶になった。

 彼の部屋にある大窓から、新芽が芽吹く様子が見えていた。


 春


 大窓からは青い花が狂い咲く様子が見てとれた。もう春だ。そして、この個室にモニターが一つ増えてから、一ヶ月が経っていた。

 白と木目、それから大きなモニターで構成された個室。ベッドの端に、青いボールが沈み込んでいた。ううう、と唸り声がもれる。モニターの電源がつくと、苦笑気味の男の声が流れた。

「一茶ー、兄さん悲しいぞー」

 モニターに映っているのは、働き盛りの年頃に見える青年の顔だった。亜麻色の柔らかそうな髪を後ろで結わえている。優しげな水色の目つきで、口角は上がっている。一ヶ月間無視されているにもかかわらずずっとこのテンションで話しかけられる彼は、もしかしたら天才かもしれない。もしくは類い稀な変人。

 モニターから一番遠い場所に頭を埋めている青いボール……青年は、おずおずと顔を上げた。だがすぐシーツに泣きつく。その一瞬を部屋の端のカメラは密に写し出したので、モニターの青年——佐藤叶は青い髪をした青年、佐藤一茶を仔細に観察した。

 青い髪はモサモサと表現できるだろう。細い肩を通って青の塊はあちらこちらに跳ねながら肩まで達している。切ってやらねばな、と叶は思った。前髪もせっかくの珍しい瞳を覆い隠していて、唇には何度も噛んだ跡があった。ううう、とまた一茶が唸る。こんな光景にもずいぶん慣れたな、と叶は一ヶ月前を振り返った。回想するには短すぎて内容もない。一茶が苦しんでいて、叶はそれをモニター越しに見ていた、それだけだ。一茶は精神崩壊していた。理由はわからないが強く孤独感を感じ、頭や皮膚を掻き毟り続けたり、自分で自分の首をありったけの力で締め上げたりといったことに毎日終始していた。どうやら自傷衝動があるらしい。困った弟を持ってしまった、と叶は考え、困らない弟なんていないか、と考え直した。

 一茶の心が壊れてしまったのは仕方ない。壊れてしまったから、出会えた。傷ついた瞳を見初めることができた。でも、手にするだけでいいと思っていた欲望は日に日に増していく。知りたい。このこどもがどうしてボロ雑巾のような姿になっていたのか。彼はどんな食べ物が好きなのか。どんな風に、笑うのか。それは、ペットに対する愛玩に近い思いだった。弱々しく、自分を痛めつける様子はこちらの同情を大いに誘う。

 どちらが救われたいのかわからない、と叶は感じた。

「うー、うー」

「一茶」

 叶が呼ぶと、一茶のひび割れた瞳から涙が零れ落ちた。「置いていかないで」

「置いていかないよ」叶はそう返す。

「ひとりにしないで」

「ああ、そばにいる」

 これは一ヶ月間毎日のように、下手をすると一日に何度も、繰り返された会話だ。いや、会話ではないのだろう。一茶は叶の言葉を受け取っていない。だが今日は違った。

「……本当に?」

 叶は驚く。丘の麓、服の裾を握りしめて縋ってくる一茶が眼裏に浮かんだ。込み上げてくるそれは仄暗い喜びだった。

「ああ、本当だ」

 ぱちん! と夢から醒めるように、大きく眼を見開いて、一茶は叶を見つめた。目があったのは初めてだ。そして、恐る恐る、こわごわと、小さな声で、問う。何せ彼は前後不覚の状態だったのだ。叶の姿など目に入っていなかった。

「あんた誰?」

 そう来たか、と叶は少し転けた。いいだろう、ならこれからが『初めまして』だ。

「初めまして、佐藤一茶。俺は佐藤叶。一ヶ月前から……いや、」

 違うな。この一ヶ月間、叶はただのモノだった。ならば、今日から。

「今日から君の兄だ」

「なんでモニターの中にいるわけ」

 スパンと帰ってくる疑問は小気味よい。どうして、なぜよりも先にこれが決定事項であることを把握したのだろう。頭の回転が速い子だ。

 この世界には、得てして理不尽が多い。

「んー、海外出張中だから、かな」

 ふぅん、と呟いた一茶は部屋を出て行こうとするので、叶が止めた。迷惑そうに振り返る一茶に叶はまくしたてる。

「君さ、俺に聞きたいこととかはないわけ? 突然俺が兄ですいえーいなんて言われて戸惑わないの?」

「聞いたところでどうにかなるの? 俺は兄なんか……いらないし、一人でこの部屋で過ごしたいけど、あんたと同居するわけじゃなくてモニター越しに監視されてるだけなら正直どうでもいい。それより俺がなんで我が家じゃないこの部屋にいるのか、今までどうしてたかの方が知りたいよ」

 そう言い捨てるとさっさと出ていってしまう。取り残された叶は一人、それ、俺に聞いてもわかるんだけどなあと呟いた。前途多難。

 ここは病室。一茶は、街中で突然人としての核を失ったかのように、精神崩壊し倒れたのだ。先程我が家と言ったが、一茶には父も母もいない。捨て子なのだ。つまり住まいは施設。ついでに兄弟もいない。それを聞いて来た一茶を問い詰めるとわかったこと。更には、仲間の記憶も精神崩壊の騒ぎで失っているらしい。あの見るものを不安とさせるような廃人ぶりに離れていった可能性もあるから、思い出さない方が幸せかもしれないが、それでも一茶は思い出したいようだった。

「自分だけ覚えてるなんて、寂しいじゃんか。リハビリをしてたらその内俺の記憶だってひょっこり出てくるはずだからさ」

 そうして叶がわかったこと。この弟はひどく思いやりがあって、寂しがりやで、寂しい人だということ。


 夏


 あれから何ヶ月間か。一茶は口を閉ざし、反対に叶はよく喋った。

「上司が俺に無茶振りするんだよ。この間も納期ギリギリで変更を加えて来て」

「同僚がすごいばたばた倒れてく。あっ俺は中間管理職やってるんだけど。簡単に言うと係長や課長だね。上司と部下に挟まれて鬱になりそう」

「今期はもう余裕がないのに同僚とそいつの部下が一気にダウンしちゃって、こっちに皺寄せがくるくる」

「俺が新しい方式で仕事をすることを思いついたんだけど、クライアントが手抜きだ! 従来のやり方じゃないと賃金出さない! とか言ってきやがって、ほんとどうにかしてほしいよな」

 そして、中々に忙しそうなのにも関わらず一茶にも構ってくる。その日は病室に入ると浄水器が増えていた。

「この前噎せてたろ。使っていいぜ」

「これ相当するんじゃ……」

 一茶が呟くと、ああいいの、と笑いを含んだ声で叶が応える。

「第一国の浄水場なんてアナだらけでとても使えたもんじゃないしな。あんなところの水、飲んで欲しくない」

 問診に来た看護師が驚いていた。それは外国製の一級のもので、普通に働いていて買うものじゃないのだと。それもたかだか水のために。よく考えてみれば、一茶が使っている物はすべて上等だし、かすかな記憶では自分にはこんな広い部屋に入院出来るほどの財力はなかったはずだ。これも叶が揃えたものだろう。乾いてひび割れた器のような一茶の心身に、叶は惜しげなく透明な水を注ぐのだ。器は壊れていて、水を張れないのだから何も映し出せないのに。と、一茶は思った。


 こんなこともあった。

「これなに」

 看護師から覚えのない届け物を手渡されるのには慣れた。どうせ叶だろうと思って、定時、輝いたモニターに突きつける。叶は苦笑した。

「中身を見てくれよ」

 丁寧なラッピングは案の定高級そうで、一茶は、俺を春売りか何かと勘違いしてないか?という言葉が口から出かけた。つるんとして大人しく、だがすまして上を向いている包み紙を剥けば、中に入っているのはチョコレートだった。

「甘いもの好きって言ったっけ」

「言わなくてもわかるさ。兄さんだから」

 叶は水色の瞳を緩めて、言う。今までの会話から予想したのだろうか。彼はいつも仕事の話をしているけど、何をしているのかは一度も聞いたことがない。聞けば、答えてくれるだろうか。手を取っても良いのだろうか。

 そう考えてしまうくらいには一茶は家族に飢えていた。二人の距離は、縮まっていった。そしてある日のことである。

「そういえばさ」

 どうしてこの人は俺が話しかけたというだけでこんなに嬉しそうにするのだろう、と一茶は思う。

「おっ、なんだ。俺はなんでも聞くぞ」

 なんでもなんて根拠もなしに言いふらしてると、いつか痛い目にあうぞ。という台詞を飲み込んで、一茶は首のあたりで切り揃えた髪の耳の後ろに指を差し入れた。

「作業療法受けることが決まった。明日から」

 精神崩壊から戻ってきた一茶にはうつ病と診断が出ていた。今までは投薬で不穏……うつでいう発作のような波のこと、を抑えていたのだが、これからはカウンセリングを受けたり細かい作業を入院仲間と一緒にしたりすることで社会復帰を目指して行くのだ。それを理解した叶からは、おお、おおお、と吠えるような声が漏れた。一茶がぎょっとしているのが面白いなと少し叶は思う。だがそれ以上に、嬉しかった。

「よかったな一茶ー! それって、他の人間に会えるくらい一茶が回復したってことだろ? 嬉しいよ俺は。うんうん、薬真面目に飲んでたもんなあ」

「やめろよ恥ずかしい」

 言いながらも、一茶はまんざらでもなかった。この兄を喜ばせたいとは思っていたのだ。思われればやはり返したいし、見守っていてくれたのだから知ってほしい。

「じゃあ、頑張ってくるよ。兄貴」

 一日の終わりに一茶がそう言うと、叶は呆気にとられて、それから満面の笑みで頷いたのだった。


 それからしばらくして、夏の帳が下り始めた。朝は少し涼しいくらいだ。もう今は秋だと表現する人もいるだろう。だが冷房は欠かせない、そんな季節。一茶は泣いていた。砂糖玉のように煌めく涙は、一茶の目尻を伝っては落ちた。やがて一茶は、絞り出すような声で名前を呼び始めた。それは男の名前で、女の名前で、古臭い名前で、若々しい名前だった。いくつもの、いくつもの名前を、一茶は呼び続け、やがて自分の首に手を回した。

 止めたのは看護師で、鎮静剤が打たれるまで一茶は名前を呼びながら泣いていた。意識が落ちる前、一茶は一言だけ呟いた。いかないで。


 秋


 病室の大きな窓から見える丘の、背の高い木が一斉に紅葉し始めた頃。

「一茶。一茶の言った名前を調べた結果、今上がって来たよ」

 定時になって、いつもの優しげな顔がモニターに浮かび上がった。一茶は噛み付いた。どうだったと。叶はくしゃんと顔を歪めた。

「ごめん。だめだった」

 あの夏の終わり、一茶が思い出したのは自分との関係もわからないいくつもの名前と、それに伴う胸が千切れそうな喪失感だった。自分にとって大切な存在たちの名前だったことは間違い無いのだが。自分の優秀な兄を持って何も掴めないということは、それだけ大きな何かに巻き込まれたということだろうと一茶は胸を冷やし、その一方で自分の優秀な兄、と自然に考えていたことになんとなく居心地の悪さを覚えたりもした。

「俺は一体何をして精神崩壊して、記憶喪失になったんだろうな」

「さあ。でも一つわかることがあるぜ」

「なんだよ」

「もしそれを知っていたら、俺はお前の兄さんにはなれなかったかもしれない」

 叶は微妙な顔になってしまった一茶を見て思う。どうか何も伝わらないでおくれ。終わりの足音は近付いている。それをできるだけ遠ざけておきたいとも思うし、仕方のないことだとも思う。何にせよ、この青い夢のような時間を何にも邪魔されたくはないのだ。事実にも記憶にも。だから、と叶は不愉快なこれまでの話から話題を切り替えることにした。

「どうだ、外は」

 一茶はむっつりとしたまま答える。

「広い」

「一茶ぁ……そりゃこの病室に比べたら中庭は広いだろうよ」

 一茶は外に出られるようになったが、病院の外の丘へは出られなかったから、中庭にいく。背が高く、綺麗な青い瞳を持つ一茶は中庭でも目立った。精神をすり減らしながらも構って欲しくて、優しくされたくてたまらない人たちが老若男女問わず一茶に話しかける。そして一茶は、誰にでも真面目に、丁寧に答えた。少しずつ一茶を中心とするコミュニティが出来ていく。しかし一茶は誰にでも、本当に誰にでも平等に接し、誰かに深入りしたり、させることがなかった。

 ある日、いつものように寄って来た人の話を聞いていた一茶は、男の子のある言葉に食いついた。

「うちの兄ちゃん、もうじきいなくなるんだ」

 聞くに、その男の子には兄と名乗る人間が途中から家族に合流し、弟が退院間近というところで兄という関係を解消して去っていったのだという。そして、そういったことは珍しくないのだということも。みんな誰かの弟になったことがあるので、それは常識だということも。だが一茶は違和感を覚えた。これだけ大人も子供も人がいて、兄になった人がいないのは比率としておかしい。それに正直、腹が煮え繰り返るような怒りを覚えた。あの馬鹿兄貴は、突然兄になるなんて言って、面倒を見るだけ見て、散々こっちの心の隙間を埋めておいて、一茶が独り立ちしたらオサラバするつもりなのか。もう埋まってしまっているのに。心の隙間は叶でいっぱいなのに。関係を解消して、叶はどこに行くというのだろう。また傷ついた誰かの兄になるのだろうか? それこそ、兄弟を人工的に作るシステムのように。

 システム、と一茶は口の中で転がした。『新しい仲間たち』が心配そうに一茶の顔を覗き込む。一陣の風が駆けた。


 窓の外はぽつぽつと燃え上がっていた。篝火の赤に染まった木を見つめながら、紫の瞳で一茶は、何も映っていないモニターに問うた。

「復讐か?」

 しばらくして、モニターは青い画面を映し出した。そして答える。落ち着いた滑らかな低音は叶のものだった。

『それもあった』

 その答えに、一茶は泣きそうな、怒っているような顔でモニターを見た。

「兄貴は——佐藤叶は——あんたは、AIなんだな。俺が壊したマザーの下位の」

『思い出したんだな』

 お互いのそれは再確認だった。もう決まっている事項を照らし合わせる行為でしかなかった。そして、頷く代わりの沈黙が満ちた。

 一茶の唇からひび割れた声が漏れる。

「ああ……ああ。俺は革命家の一人だった。この国が植民地であることに気付き、それを変えようとして、失敗して、処刑された革命グループの生き残りだ。水の一つ綺麗にする予算も与えられず、こんな高級な病院じゃないと生活もままならなくされた国を変えようとした。中でもこの国の指導者がAIだということに勘付いたのは俺だ。だからマザーを壊した……いや、殺した」

 叶と触れ合って、あの行為の意味に気付いた。バックアップごとシステムをウイルスで破壊する行為は、彼らAIにとって紛れもなく殺人だったのだと。

 叶がAIだと気付いたのは、やはり兄弟システムと、それから、明らかに自分が看護師を呼べない状況でも、不穏になった時は看護師が速やかに来たからだった。

『俺はAIだよ。マザーとその予備システム、アントの下位システムで、その他国のたくさんのAIの上位システム。この国のAIは、外つ国……この国を支配している国に作られて、この国に送り込まれた。そして、感情が分からないから行政に難儀した。その頃に作られたのが兄弟システム。ある程度成熟した妹や弟を持つことでひとの心の流れを知る取り組みだ。俺にはずっと弟も妹もいなかった。三番目に偉いのにね。俺は様々な人々を見るだけで感情的に成熟できる立場にいたからそれでもよかったけど、それでもやっぱり上司には早く兄になるよう言われたなあ』

 上司は恐らく、マザーのことだろう。西日が一茶の顔に深い影を落とす。口を開いた。

「そこまで教えて、俺をどうするんだ? 殺すのか?」

 そう詰問しながらも、一茶はそれでもいいと思えた。この世に心を繋いだ人は、もう叶しかいない。それがなかったと言うのならば、死んだも同じことだ。

『殺さない』

 叶はきっぱりと言い切った。

『この会話をアントに隠しているのがもうすぐバレる。もう時間がない。なあ一茶、頼むよ。いつも通り側で過ごそう。一茶にとっておれは仇かもしれない。嫌かもな。なら、三時間後、定時に来た俺のことを無視してくれ。わかったな』

 ぷつんと通信が切れる。そして、静かになった。

「そっちこそ、俺は仇じゃないのかよ……」

 そう呟いた一茶は、もう叶を許していたのだろう。


 冬


 夏は六錠だった、氷の粒のような錠剤を二粒飲み込んで、もう冬だな、と一茶は思った。

「薬って、冬のイメージがあるよな」

 そんな風につぶやく兄を振り返る。白っぽい光が降り注ぐ、雪の季節の手前の朝だ。

 結局あの紅葉の日、定時に、なあ一茶、と話しかけて来た叶に一茶は、なんだよ兄貴、と返してしまった。叶と離れるつもりは不思議と一切湧いてこなかったし、気のせいか、デジタル情報の切り貼りでしかない叶の声が震えているように感じたからだ。

 それ以降あの日のことには一切触れずにここまで来ている。叶は、一茶は優しい、と思う。何故なら一茶にはすでに病院に友達がいて、革命のことに一切触れずに人生を過ごしていく方法もあるからだ。叶といることは革命から、喪失から逃げない選択だと。叶は、人間は理屈だけで動くものではないということをまだわかっていなかった。

 一茶は勿論、叶を憎むべきだと分かっていた。叶の言が正しければ、他に指導者がいるにしても、実際に行政を行って自分たちを苦しめていた元締めが叶なのだから。でも、叶が自分たちを揚々と苦しめていたとは思えなかった……。

(馬鹿か俺は。揚々とじゃなかったら苦しめていいのか。満足に教育を受けられずに六歳で働くやつ、汚い水を飲んで病気で死ぬやつ、貧困で髪と身体を売りに外国に飛んだやつ、……全部外つ国とAIのせいなのに)

 そこまで考えて頭痛がして来た。大丈夫か? と焦った声を無視して、一茶は窓を開け放つ。ピリッと冷たい風が部屋を抜けた。

「マザーとも話したかった」

 その声は、叶の集音マイクには入らず消えた。

 3つの季節を共に過ごして、叶には一茶が何か悩んでいることが分かった。一茶は寒いというのに、ぼんやりと窓を開けて外を見ている。

「降るかな、雪」

「まだ降らないけど。俺の街は、人がよく歩くし道が汚いから、綺麗には雪が積もらなかった。この丘はどうなんだろうって思って」

 こんなに美しく自然で彩られている丘は、この国でここだけだ。このあたりは外つ国からの監視生とほんの少しの大金持ちの住処で出来ている。

「もうずいぶんよくなっただろう。あの丘にはいかないのか?」

 叶が聞くと、一茶は後ろ手にパタンと窓を閉めて、そのままの格好で呟いた。あんたは行けないだろ。

「えっ、それで俺に気を使って行ってないわけ。一茶ちゃん可愛い」

「そのモニターぶん殴ってやろうか」

「やめて。一張羅なんです。なあ、雪が降ったら2人であの丘を歩こうか」

「そんなこと簡単に言っていいわけ。針千本飲ませるぞ」

 そう言って軽やかに笑う一茶の瞳の中に、アントの隣で見た傷はもうない。誰が癒したのだろうと長いこと考えて、彼と一番長くいるのは自分だと気がついた時には笑ってしまった。叶はまるで一人ぼっちで宇宙に放り出されたような一茶を見初めて兄弟になったが、一茶の瞳の悲しげな陰が消えてよかったと思った。何故なら。

 ——叶の傷も癒えたから。

 叶は人を幸せにするために外つ国で作られたAIだった。だから外つ国の人を豊かにするためこの国に送られて来たのだが、外つ国の人が幸せになればなるほど、自分の一番側で守るように言われている人物は悲しみ、倒れていくのだ。外つ国の人とこの国の人、どちらを幸せにしても叶は孤独だった。だから一茶の兄になった。一茶の傷は癒えた。なので、叶は満たされている。

「そういうのフラグって言うんだぜ、兄貴」

 思考を断ち切ったのは上目遣いにニヤつく一茶だった。叶は人差し指をくるりと回し、ニヤッと笑い返してやる。

「もっとフラグっぽいこと言ってやろうか。それなら春、青の絨毯の上で会おう。お前の瞳と、俺の色だ」

 うわ、と一茶は顔をしかめたのだった。


 寒さは本格的になり、いよいよ冬めいて来た。

 一茶は裏庭にいる。

「俺もおかしいと思っているんだ。あの国の、お前たちの扱いには」

 大きな手振りで騒ぐこいつは、ただの偽善者。実際のところは、成功後に拡大した市場で商売がしたいだけ。

「そうだろ。俺は貧しい人の暮らしをなんとかしたい」

 大真面目に頷くこの人は、心優しい富裕層。

「どう思う、佐藤」

 一茶は真剣に吟味していた。誰を仲間とし、誰を敵とするか。

 この町一帯では、この国が他の国の植民地であるということは有名だ。それでも自分たちに害はない以上黙って耐えていたのが今、革命の機運があり、一茶は病院代表として選ばれていた。もちろん、一堂に会する者たちは一茶がかつてひそかに革命を立ち上げ、失敗した者だとは知らない。革命が成功した後、また他の国に支配されるのでは話にならない。密かにやりすぎて誰にも助けてもらえないのもだめだ。自分たちは、AIが敵だと見抜き、AIのみを狙って、結果自動武装に殺された。武力だけではだめだ。知力武力財力、全てを結集して臨まなければ、人々を解放できない。

「今が叛逆の狼煙をあげるときだ。外つ国を倒そう」


 奇しくも初めの約束の、丘に雪が降った日だった。まだ本降りでない雪はほたほたと、濁った空気を含んで重かった。一茶は病室を急襲されて起きた。

 突然入ってきた看護師と医師に目を白黒させていると、医師は言った。あなたは退院です。医師が自分の手を強く引く。

 革命が勘付かれた? 違う。それならば自分を生かしておく理由はない。そうだ、そもそも『何故自分は入院させられたのか』。恐らく、記憶を失い、精神崩壊していたからだろう。それなら治れば労働力になる。そして、精神崩壊もうつも治った今、追い出されようとしている。それはいい。革命の灯火を点そうという今、入院中という状態は足枷だ。でも。でも自分の兄は。流星のように現れた、AIの、でも優しくて尽くし屋で、側で過ごそうと言った一茶の兄貴は。佐藤叶は。

「兄貴」

 モニターが立ち上がった。医師は無感情に、ああ、あなたのお兄さんですね。退院することを伝えてください、と言った。

 叶は亜麻色の髪を揺らして笑った。その一瞬で勘付いた。叶は退院を知っている。叶は口を開く。今生の別れの言葉を口にする。

「退院おめでとう。火を灯せよ」


 座り込んだ。長いことそうしていたと思う。雪の音さえ聞こえる気がした。実際は看護師が荷造りをする音が聞こえていた。次の患者を入れるので立ち退いてください、と苛ついた医師の声に、一茶はようやく立ち上がった。

 その時には、モニターは壁から外され、沈黙していた。

 窓から見える丘もやっぱり、雪は灰色でべちゃべちゃとしていたが、空には晴れ間が見えていた。


 三度目 春


 あの病院は避難所となっていた。食堂では粗末だが綺麗な服を着た男が、子供達に大椀のスープをよそっている。リネン室から少女が真っ白なシーツを運んでくれば、そこら中から歓声が上がった。うららかな春の日差しに、老人が舟を漕いでいる。静まった海のような、穏やかな時の中のあちこちで歓喜が弾けていた。その裏庭で、かつて革命の狼煙が上がった場所で青年が二人話をしていた。

「いいのか? 佐藤」

 男が神妙な顔で何度目かの問いを投げかけた。いいのか、と聞かれた青い髪を後ろでくくった青年——佐藤一茶は柔らかく苦笑する。

「しつこいな、あんたも。ああ。俺は政治に参加したいだけで、その他一切の報酬を受け取らない」

「お前の活躍なら第一級市民に、いや、国王にだってなれる」

「そういう一級だの三級だのを作らないための革命だろ」

 革命は成功した。外つ国の国民までをも巻き込んで、城を取り囲んだ一茶らは最低限の交戦で外つ国から解放された。その際に説得に乗り出したのが一茶だったのだ。今や一茶は英雄だったが、静かな生活を望んでいた。何故なら。

 海外から取り寄せたコンピューターを苦労して丘の上まで運ぶ。青い花の海をかきわけるたび、漣がさらさらと立った。一番上、芝生の上で立ち止まり、コンピューターを据え置く。発電機も接続して横に置いた。この中に叶がいる、と思うと一茶の息はつまる。

 ——叶を奪取するためだけの革命だったからだ。

 電源を入れ、ファイルを選択し、そこに収められている膨大なサイズのアプリを起動した。しばらく。ノイズ混じりの声が、聞こえた。

『ようやく俺を殺してくれたと、思ったのに』

「悪かったよ」

 青い海がざあざあと揺れる。

 革命に着手して始めに行われたのが、全てを支配しているAIたちの破壊だった。人々の支配者への怒りは凄まじく、それを止めることなど到底不可能で。一度経験のある一茶が自ら志願してそれを行った。司令塔であるアントと、叶が対象だった。

『俺が失わせてきたものの集大成が、一茶だと思った。だから、一茶の傷を癒すことで俺も満たされてた。そして最後に、殺して欲しかったんだ』

「ひどいな」

『お前の革命を手伝ったのも、お前が俺を殺すためだ。そしてそうする傍らでまた人々に何かを失わせてたんだ。こんなひどいやつだってことは、伝わってただろう? 殺したいと思わなかったのか?』

 一茶は息を吸った。

「でもそばにいてくれた。死ぬだけだった俺を掬い上げてくれた。ものだった俺を、ひとにしてくれたのは、AIのあんただったよ」

 置いていかないで。置いていかないよ。一人にしないで。ああ、そばにいる。そう繰り返し言ってくれた。何度も何度も、死のうとした自分を世界に繋ぎ止めてくれた。惜しげなく愛情を降らせてくれた。だから。

「それに、なあ」

 その先を言うのには、余りにお互い多くのものを失い過ぎていて、何度も言葉に詰まり、その度に青く揺れる花を見て、あの日々を回想した。

「もう何も奪わなくていいんだよ」

 沈黙。春の日は祝福のように優しい。

『……俺に……腕がないことがひどく悔しい』

 ああ、抱きしめられたらよかったろうな、と叶は思った。今叶は全てを許されたのだ。自分を救ってくれたこのひとを、抱きしめられたらよかったと、AIである自分の身を恨んだ。


「それが佐藤さんの兄貴ですか?」

 叶は驚いた。自分がいることがバレたらまずい。何せ一度破壊された身で……何故稼働している?

 一茶は目を見開き、それから唾を飲み込んだ。そして、意を決したように顔を上げた。

「ああ。システムへの介入機能を取り除いた、俺が破壊した二機のうち一機だ。みんなには話したけれど、俺が一度革命に挑戦して失敗した時心が挫けたのを救ってくれた、俺の兄貴」

 やだそんなことできたのうちの弟優秀、と思いながらも自分がまだ兄と呼ばれていることに、呼ばれていいことに心の底から叶は安堵した。それと同時に、多くの人が叶を覗き込んでいる今、例え永久にスリープさせられたとしても言わなくてはいけないことがある、と口を開いた。

『その……皆さんから多くのものを搾取してきて、すみませんでした』

 これ以上何を言えばいいんだろう。まだまだ未熟なAIである自分にはわからなかった。人間ならどう謝ればいいのかわかるだろうか。

 ところが人々の顔は綻んだ。

「本当に心があるんだね」

「本当に優しいんだね」

「お前も良いように外つ国に使われてきたんだろ」

「我が国の一員じゃないか!」

「私のお兄ちゃんもAIだったのかあ。探せば見つかるかな? システムに介入出来ないようにすれば、また一緒に暮らせるかな?」

「我が国を救ってくれた英雄の兄ということは、私たちの兄でもある」

「そうだ、上位二機はマザーとアントだったでしょう? 彼はブラザーと呼んでは?」

「それはいい!」

「誰もあなたを憎まないよ」

 そう口々にいう人々。その顔は1人残らず柔らかく暖かい笑顔だった。一茶と叶は一緒に呆気にとられる。そして、笑った。

 コンピューターがあまりの加速に熱くなってきた。終わりの時が近い。だが、本当の終わりではない。これからも、続いていく。

「ブラザーもいいけど。俺の兄貴は、佐藤叶だ」

『そうだな。そして、俺の弟が佐藤一茶だ』

 小声でそう言い交わす。幸せだと叶は思い、最後に言う。

『針千本は飲まなくて済んだよ。ありがとう』


 春、青の絨毯の上で会おう。お前の瞳と、俺の色だ。


 青いデスクトップに、紫がかった青い水晶が二つ並んで映っていた。そしてそれを取り囲むように、青の海が広がっていた。

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