最終話
どれくらい闇は続いただろう。
突然、ポツンと遠いところにボンヤリと白い光が見えた。
それは徐々に大きくなっていく。
酒井信子はうなされながら目を開けた。
いつも通りのあみだくじのようなクリーム色の天井が見えている。彼女は額の汗を拭いながら、ほっとため息をつき、起き上がる。
窓にはレースカーテン。壁に掛けられたドガの「踊り子」のレプリカ。いつもの寝室の光景だ。
まだ、動悸がしている。
─また、変な夢……ここのところ、こんな夢ばかり……わたし、どうかしてるのかしら……
そう思いながら、ふと、横を見ると、夫がいない。
慌てて時計を見た。九時。
―いけない!朝ごはん作らないと!
急いでガウンを羽織ると、スリッパをはいて、バタバタと寝室を出た。
奥の居間に行くまでに、一人娘の部屋のドアをノックする。
「起きなさい!遅刻するわよ!」
信子が居間のドアを開けたら、
いつもの朝のニュースキャスターの元気な声が聞こえ、食卓テーブルの前には、既にワイシャツとネクタイの夫と制服姿の娘が座っていた。目映い朝の陽光が二人に当たっている。
「あらあら、ごめんなさい!わたしが最後だったみたいね!すぐご飯準備するから、ちょっと待ってちょうだいね。本当、わたしったら、最近寝坊ばっかりして、変な夢は見るし……」
と一人ブツブツ言いながら、バタバタと皿を準備し、冷蔵庫を開けて、食材を出す。そして、フライパンをガスレンジの上に置いた。
「目玉焼きとパンでいいでしょう?それくらいしかできないわよ!」
信子は食卓の二人に聞いた。
だが、返事はない。
「まったく、何か返事くらいしなさいよ…」
相変わらず二人は無言であった。
夫はイスにもたれ掛かり、焦点の合わない目で宙を見上げ、ダラリと両手を垂らし、口をポカンと開けている。
娘はテーブルの上に横向きに頭を乗せ虚ろな目をしながら、両手を顔の横に置いている。
二人とも顔には生気が全くなく、小バエが数匹、二人の肩や顔に
とまっては離れている。
壁際の大型テレビでは、若く元気な男性が今日の天気を明るい調子で紹介していた。
テレビの前の絨毯には、乾いた血の付いた包丁が落ちている。
周りには、何枚もの新聞紙がくしゃくしゃになって散らばっていた。
やがて、食卓テーブルの上に、朝食が並べられた。
いつもの目玉焼き、クロワッサン、そして、コーヒー。
信子も一緒にイスに座る。
「さあ、早く食べないと、間に合わないわよ~」
目の前の二人は先ほどの姿勢のまま、全く動かなかった。
……
「そう…そうよね…あなたたちは
いつもそうやって、わたしを無視するのよね……。分かりました!もう、会社にも学校にも行かなければいいわ。何時までもそうしていればいい。わたしは知りませんからね!」
と、信子は突然立ち上がり、
テーブルの上にある熱いコーヒーの入ったカップを持つと、目の前に座る夫に中身をぶちまけ、力任せに床に叩きつけた。大きな音とともに、それは割れ、破片があちらこちらに飛び散った。
白いワイシャツは茶色に染まり、
湯気を上げている。だが夫は相変わらず、惚けた老人のように、天井を見上げている。
信子はテーブルの上に顔をうつぶせると、大声で泣き出した。
玄関の電話が鳴り続けている。
やがて、それは留守電に切り替わった。
「もしもし、あの、酒井さんですか?こちら、S社です。
ご主人が今日もまだ出社されないんですけど三日めです。
折り返してご連絡お待ちしてます」
続いてまた、電話はしばらく鳴り続け、留守電に切り替わった。
「もしもし、一年三組担任の緒方です。娘さん、今日も学校に来てませんが、ご病気かなにかでしょうか?お電話下さい」
食卓テーブルの前に座る物言わぬ二人を呆然と眺めながら、信子は思っていた。
─きっと二人も、わたしも、いつものように、幻のように消えてしまい、またいつものように、わたしは目を覚ますはずだ、
そうに違いないわ、と……。
夢殺 ねこじろう @nekojiro
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