独りの午後の沸騰

荒河 真

独りの午後の沸騰

 ピピピっとタイマーの音が鳴った。見ていたスマホはテーブルに置いて、急いで火を止めた。茹であがったうどんをざるにあげて水を切り、どんぶりに入れる。そこにあらかじめ作っておいた、ネギとワカメが入った汁を注ぐ。完成だ。所要時間約10分。簡単に済ませたいけど、でも市販のカップ麺などという俗物に屈したくはない時に作る、自作うどん。手軽、安価、美味という三拍子が揃った、一人暮らしの大学院生がやる気のない日曜に作るのにもってこいな昼食だ。


 少し遅く起きて、さっきまで来週発表するセミナーの資料を作っていた。昨日も土曜日なのに一日研究室で実験してたし、もう今日は働かなくていいだろとパソコンを閉じ、遅めの昼食をとることにした。部屋には午後の日差しが注ぎ込んでいて、暖かい陽だまりを作っている。こんないい日和の日に俺は部屋にこもっているのか。まあぼっちだからしょうがないか。


 火を消して換気扇も止めると、部屋の中は途端に静かになった。どんぶりから湯気が沸き立つ音さえ聞こえてきそうだ。椅子に腰を下ろし、「いただきます」とつぶやいた。当然ながら、「召し上がれ」と答えてくれる人はいない。いや、自分で作ったのだから、「召し上がれ」と言う立場の人がいるとすればそれは自分なのだが、自分で「いただきます、召し上がれ」なんて言ったら、なんだか俺がイタイ人みたいじゃないか。今でこそ部屋で一人だからいいものの、もし大学の食堂でそれをやったら、周りの人の「あっ(察し)」という心のつぶやきが聞こえてくるに違いない。


 うどんをすする。うん、旨い。シンプルな旨み。うどんは裏切らないから好き。いや、一度みりんとお酢を間違えて汁を作った時に裏切られた気がするけど、まああの時は俺も悪かったと思ってるよ。これからも裏切らない君でいてくれよ、うどんさん。またズルーとうどんをすする。ズルーという音が部屋に響く。唇とうどんと、うどんに付随する汁と、それから一緒に吸い込まれる空気が、絶妙な相互作用で作り出す摩擦音。その音が、しがない大学院生が住む静謐な部屋の空気を震わせた。そのどこか間の抜けた振動が瞬く間に減衰した時、また部屋に静寂が訪れた。


 静かだな。うどんをもぐもぐと噛みしめながら、ぽかぽか陽気の外を眺めてみた。リア充はこんな午後に愛する人と平和な時間を過ごすのだろうか。リア充……相変わらず忌々しい響きだ。最後に彼女がいたのはいつだったっけ……と考えようとしてやめた。わざわざ辛い事を考えて辛い気持ちに自らなるほどドMではない。まったく、ニンゲンはうどんと違って裏切るからいけない。こんなにのどかな午後に過去のトラウマなど思い返すべきではない。


 でも、なんだろう、こんなに静かでぽかぽかした昼下がりだからだろうか、誰かが何かの連絡をしてきそう気がする。いや、別に根拠があるわけではないのだけど。高校の部活の親友が「久しぶり、元気?」とか。先週、研究室に見学に来たあの子(後で何か質問したいことがあったら聞いて、と連絡先を渡しておいた。下心なんて当然微塵も無い。100%の親切心から。いやマジだから)が「先輩、先日はありがとうございました。実は相談したいことがあるのですが…」とか。そういう連絡って、経験的に一定の確率で来るものだ。ここ最近そういう連絡が来た覚えはないから、この午後に来てもなんらおかしなことはない。


 そんなことを考えていると、スマホの振動する音がした。ほら、言った通りではないか。思わずニヤリとする。誰だか知らないけど、俺に連絡したくなったんでしょ?わかるよ、その気持ち。わくわくで胸を高鳴らせながら、スマホを手にとって覗き込むと、フェイスブックの通知だった。


「高野啓介さんが久々に近況を報告しました」


 どうでもいい。ものすごくどうでもいい。てか高野さんて誰だったか一瞬考えてしまった。フェイスブックのアプリを開いてみると、学部の時に1度だけ講義で話した時に繋がった高野啓介さんが、俺の知らない人の結婚式に参加した投稿だった。


 どうでもいい。果てしなくどうでもいい。こんなことで通知を出していいなんて許可した覚えはないぞ、フェイスブック。なんだよ「久々に」って。そのうち「高野啓介さんが新しい靴を買いました。履き心地はバツグンです!」とか、「高野啓介さんは今日10時間寝ました。寝すぎて逆に眠いです」なんてことでも通知を出し始めるんじゃないのか。いや、せめてもう少し近しい人の投稿だったらまだよかったよ?高野さんって本当に話したの一度だけで、確か当時使ってた携帯の機種が一緒だったのをきっかけに話し始めて、

「この間修理しに店行ったら『こんな古い機種初めて見ました』て言われて」

「やっぱりですか?僕の周辺でももっぱら生きる化石扱いですあはは」

みたいな世間話して、まあこの講義で助け合うこともあるかなとフェイスブック教えたけど、次の週からすぐに高野さん講義に来なくなったし。


 まあいいよ高野さんのことは。どうでもいいし。アプリを開いたついでにフェイスブックのタイムラインを眺めてみると、今となってはほとんど関わりの無い人たちの当たり障りのない投稿が並んでいた。なんか「学会や出張の際にはフェイスブックを投稿しなくてはならない」みたいな暗黙のルールでもあるのだろうか。というよりそれくらいしか投稿に適した事が無いんだろうな。俺も自分のタイムラインをしばらく更新していない。色々な人と繋がりすぎて、すべての人に共有して差し支えないことなんて滅多に思いつかないし、そもそも共有したいと思わない。


 それとも、「 元カノと旅路を別にしてから3年の時が過ぎた。よどみなく流れ続ける時の中で、俺は雪崩のように押し寄せる孤独と常に闘いながら、それでもなんとか尊厳を保とうと、不断の努力を試みてきた。しかし、それもついに限界だ。世界は残酷で、美しい」

なんて意味不明のポエムを投稿したら誰か構ってくれるだろうか。ひょっとしたら高野さんが心配してコメントしてくれるかもしれない。いや、別に高野さんはどうでもいい。それに、皆も「うわー」と引きつった顔でドン引きするだけに違いない。フェイスブックはmixiではない。mixiって単語久々に思い出したな。


 先輩とか、少し上の人たちは、夫婦の旅行とか、子供の投稿ばかりだ。なんなら同期ですでにその段階の奴もいるし。フェイスブックという窓を通して見ると、世界は幸せな夫婦と家族に満ち溢れているように見えた。彼らはきっと俺とは違う世界に住んでいるのだろう。そうでなきゃ、俺が見ている現実の世界との乖離を論理的に説明できない。


 ふー、とため息をついて、フェイスブックのアプリを閉じた。紛らわしい通知のせいで見なくてもいいものを見てしまった。結局誰からも連絡は来ないし。こんな時はやっぱツイッターしかないと、ツイッターのアプリを開き、

「昼ごはんにうどん作った。うどんは裏切らないからいいよねえ」

とツイートした。


 特に何かを期待しているわけではないし、そんなこと呟いたって誰も得しないというのはわかっている。でもツイッターではそんなツイートをすることが許されている気がする。まあ誰も反応しないだろうと思ってタイムラインを眺めていたら、さっきのツイートにリプライが来た。タラバさんだ。タラバさんは俺の専門分野である材料工学関連で繋がった相互フォロワーさんだ。

「うどんは裏切らないけど、何なら裏切るんけえ?」

おー、さすがタラバさんだ。ツイートに書かれていない行間まで汲み取って、痒いところに手が届くようなリプライを返してくる。普段は撮り鉄として鉄道のツイートばっかりしてるのに、研究の専門的な話にも付いてくるし、たまにこういういじりリプもしてくる。普段のツイートから良い人感がにじみ出てるし、安心してやりとりできるフォロワーさんの一人だ。


「そ、それは聞いてくれるな・・・」とタラバさんにリプを返した。表向きは過去のトラウマに触れられて動揺しているようだが、そのリプライを打つ顔は快心の笑みである。今の俺の顔を撮って、「計画通り」という吹き出しをつけたら、ネットでよく見る某新世界の神の画像と瓜二つに違いない。やっぱりよく知っていて気の合う人との絡みは楽しいな。ツイッター上でしか絡みはないし、彼の正体は全く知らないけれども。年齢はたぶん俺より少し上で、関東住みかなくらいの予想はできるけど、顔や本業などは未知のベールに包まれている。


 ツイッターは素のつぶやきが投稿されるからだろうか、そのつぶやきが積み重なると、その人の人となりが象られていくような気がする。考えてみると、ツイッターの相互フォロワーは真の姿は不明だけど人柄はよく知っているという人ばかりだ。真の姿は一応知ってるけど、全然親しくない人が沢山いるフェイスブックとは大違いだな。


 そんなことを思っていると、またツイッターの通知が来た。誰だろう、ん?少し前の俺のツイートを引用リツイートしてる。このツイートはあれじゃないか。先週報道された某化学企業の薬品流出事件の影響について、相関関係と因果関係をはき違えて結論を導いているブログ記事を見つけて、その内容を揶揄したツイートをしたんだ。確か50リツイートくらいされたっけ。俺のツイートにしてはリツイートされた方だが、さすがに50リツイート程度では「ちょwwwお前のツイ伸びすぎwww有名人かよwww」とテンプレを送ってくるフォロワーはいなかった。ちょっとそのやりとりしたいなと期待してたのに。


 その引用リツイートではこんな文が書かれていた。

KeiT@KTLeibniz

「うわ、こんな風に無知を晒して恥ずかしくないのか。学生の分際でわかったような口をきくからこうなる。勘違い専門家()の典型例だな」


 うわ、完璧に喧嘩腰でマウント取りに来てるな。KeiTって誰だよ。引用リツイートすると俺にも通知が来ることわかってんのかな。ん、待てよ、もしや……。やっぱり、俺が揶揄したブログ記事の執筆者だ。ツイッターやってたのか。気づかなかった。


 タラバさんとのやりとりで少し満たされかけていた心は、途端に余裕をなくした。どうするんだよ、これ。KeiTさん絶対今、めちゃくちゃ怒ってるだろうな。俺がツイートした内容に大きな間違いは無いと思うけども……。


 対処法を考えていたら、また通知が来た。今度はKeiTさんが俺に直接リプライしてきた。

「きっと普段ろくに研究もしないでツイッターばかりやってるからこんなろくでもない間違いを堂々と書けるんだろうね。国民の税金が君みたいな人間の教育に使われてる思うと吐き気がする。せいぜい良いところに就職できるといいね」


 おい、なんだよこれ。これじゃあただの誹謗中傷じゃないか。そりゃあ休憩中にツイッターを覗くこともあるけど、平日昼間は真面目に研究してるぞ。「せいぜい良いところに就職できるといいね」とか完全にバカにされてる。堂々と間違ったことを書いているのはそっちの方なのに。頭にきた。こっちもマウント取ってやりたい。口汚ない言葉で罵ってやりたい。やりたいが、ここで相手と同じレベルに落ちてはいけない。俺はぐっと高ぶる気持ちを抑えて、冷静にリプの文を考えた。まず何がどう間違っているか言ってもらわないことには議論にならない。


「失礼ですが、私が記載したことについて、具体的にどこが誤っているか指摘していただけませんか?」


 よし、冷静だし、こっちが一枚上手感があるぞ。伊達に研究室で普段から議論の訓練を受けているわけじゃない。大丈夫。ちゃんと議論できる知識も余裕もある。そう言い聞かせてはいたが、スマホを持つ手は震えていた。


「そんなこと少し考えたらわかるだろ。君、本当に大学院生なの?まあバカはどうあがいてもバカのままだから仕方がないか。きっと君の教授もろくでもない御用学者で指導力が無いんだろうね。かわいそうに」


 なんだこの人。失礼にも程があるな。さっきから関係無いことを持ち出して人格否定しかしてないじゃないか。質問に答えてくれないから議論にならないし。ちくしょう、教授もちょっと抜けてるところもあるけど、尊敬できる人なのに、なんでこんな風に中傷されなきゃいけないんだ。悔しい。このまま言われっぱなしで引き下がるわけにはいかない。俺が書いた元のツイートは正しいし、それに皆が共感してくれたから50リツイートされたんだ。自信を持て。俺。負けるな。俺はそう必死に自分に言い聞かせ、めげずにリプライを打った。


「すみませんが、自分はバカなもので、具体的に指摘していただけませんか?一体私のツイートのどこが誤っているのでしょうか?質問に答えてください」


 ふう。大丈夫。俺は間違ったことを言ってない。俺は間違ってない。そう言い聞かせながら、相手の出方を待っていたが、なかなか返信してこない。おかしいな。さっきからスマホの画面を今か今かと見つめて通知を待っているが、一向に画面に変化が表れない。こんなところで引き下がる怒り方じゃないと思ったけど。待てよ、まさか……。俺はKeiTさんのプロフィールをクリックして、相手のタイムラインに飛んでみた。すると案の定、俺の直前のツイートのスクリーンショットと一緒にツイートが投稿されていた。


「この無能大学院生、自分でバカであることを認めたぞwwwwwwwww あんな初歩的な間違いすらわからないバカとこれ以上議論しても時間の無駄だな。しかし、こんな無能が学位を取って社会に出てくると思うと日本の将来が心配になる。まあこいつが学位取れるかはわからないけどwww」


 このツイートを見て、俺の中のメーターが振り切れた。怒りが沸々と込み上げてきた。こっちが礼儀を守って返信してるからって調子に乗りやがって。無能はどっちだ。バカはどっちだ。許さない。相手が負けを認めるまで執拗にリプを送りつけてやる。原著論文まで引用して間違いを理詰めで白日の下に晒してやる。ブログの過去の記事まで漁って同じような間違いを全世界に晒してやる。ツイートも同じだ。一字一句しらみつぶしに読んで滑稽なものを一つ一つ晒してやる。間違いに気づいてツイートを消される前にスクショを取っておかないとな。許さない。絶対に許さない。相互フォロワーの学術クラスタの目に留まるようにしっかり晒してやる。俺と同じ意見の人はいくらでもいるんだ。その人たちの意見をしっかりとまとめて、自分が間違っているということをわからせてやる。ブログにだって間違いを指摘するコメントを何個でもつけてやる。許さない。絶対に許さない。俺を舐めるなよ。自分の間違いに気づいて顔を真っ赤にして発狂するまで攻撃してやる。そして醜態を晒せばいい。その醜態も一つ残らずネットに永久に残してやる。許さない。絶対にゆるさ



 タイマーの音が部屋に突然けたたましく響いた。俺はハッとしてスマホから顔を上げた。何のタイマーだっけとタイマーを手に取ると、どうやらうどんが茹で上がった時に誤操作で1時間のタイマーを作動させていたらしい。タイマーを消すと、部屋はまた静寂に包まれた。興奮して早く鼓動している心臓の音を胸から感じたが、突然現実に引き戻された気がした。部屋を見渡した。そこには午後の日差しによって温まった、静かで孤独な、しがない大学院生の部屋があった。そうだ、俺は一人うどんを食べていたんだ。うどんは熱を失って伸びきっていた。捨てるのももったいないし、残っていたうどんを一気にズルーッとすすった。静かな部屋にまた間の抜けた音が響いた。なんだかさっきまで必死に小さなデバイスの画面を凝視して、それに激しく心を乱されていたことがバカらしくなった。礼儀を知らなくて話が通じない他人に無理して構うことはないか。


 俺はKeiTとやらをブロックし、ツイッターアプリを閉じ、スマホをテーブルに置いた。ふうと息をついて、椅子の背もたれに寄りかかった。静かだ。口の中にうどんの汁の味がかすかに残っている。


「やっぱりうどんは裏切らないしいいわ」


 そう口をついたつぶやきは、自分以外の誰の耳にも届かないまま、急激に減衰して消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

独りの午後の沸騰 荒河 真 @truearakawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ