8(エピローグ――春)

 春だった。

 沿道の桜は満開で、風に花片が散った。桜吹雪というくらいで雪に似ているけど、それは雪のように冷たくはない。まだ時折寒い日もあるけど、おなじみの西高東低の気圧配置は終わろうとしている。もう雪が降ることもないだろう。

 ぼくは晴れて入学試験に合格して、第一志望だった新しい高校に通おうとしていた。今日は入学式だ。昔の城址にある古い県立高校で、今ぼくは堀のほとりを歩いている。堀の水は澄んで、魚が泳いでいるのが見えた。

 天気がよくて、空は新品みたいな濃い青空だった。まわりを、たぶんぼくと同じ新入生たちが歩いている。

 あれからのことを、話さなくてはならないだろう。

 実際のところ、藤野はよくやったと思う。丁々発止のやりとりで、先生たちを職員室に足どめしたやつの功績は大きい。けれど結局のところ、それは敗北を約束された戦いにしかすぎなかった。最後には毒に倒れるヘラクレスみたいに、その時はやってきてしまう。教員たちは出発した。ドアにつっかえ棒がしてあったため、窓から外に出て。

 その後は物理的手段による足どめだった。粘着シートを並べたり、水の入ったビニールプールで廊下をふさいだり、胡椒入りの大量の風船を浮かべたり。だがそれもいつかは突破されてしまう。

 教師の最初の一人が記念館にやって来たのは、千絵が例の発言をしようとしているときのことだった。「だからわたしは――」。その時、鍵のかかったホールのドアが叩かれた。

 ぼくらの処置はすばやかった。あらかじめ決めておいたからだ。ホールの扉はすべて事前に鍵をかけてある。鍵のかかっていないのはただ一つ、裏口だけだ。

 その裏口から、ぼくらは脱出した。つまり、逃げた。そういう計画だったのだ。

 ただし、やはり何事も計画通りにはいかないもので、ぼくらの行動もだいぶ混乱していた。右往左往という言葉があるけれど、まさにそれだった。

 そんな中で、衣装担当の倉持を責めるのは酷というものだろう。何しろ日程の都合で、あの劇までは一週間という時間しかなかったのだ。その限られた時間の中ですべてを用意しなければならなかったのだから、多少が甘かったとしても、それは仕方のないことだった。

 館内にドアの叩く音が響いた瞬間、ぼくらは昔懐かしい鬼ごっこよろしく、いっせいにその場から逃げ出そうとした。ぼくも千絵を連れてとんずらを決めてしまおうと、そばに駆けよろうとした。

 その瞬間、後ろにいた倉持の口から、

「――あ」

 という声がもれた。

 舞台上では慌てて走りだそうとした千絵が見事に足をもつれさせて転んでいた。さっきも言ったように、縫製が甘かったのだろう。まず、見るからに邪魔そうな背中の羽の一つがもげ落ちた。同時に、まるで神様が嘲うかのような不吉な音が腰まわりで響いた。

 その後に起こったことについては、ここでは書かずにおいてやるのが情けというものだろう。本人の名誉のために書いておいてやると、それは何ら公衆良俗に反する事象ではなかった。客席からは爆笑が起こったから。

 そんなこんなで記念館からの脱出に成功したぼくらは、着替えをすますと教室に戻って 事の成り行きを待った。かなりの時間が経過してから、高田先生と飯沼校長が教室に現われた。全校集会は中止したそうだ。とてもそれどころではないと。

 ぼくらの処分については、追って沙汰あることになった。二日後にくだった判決は、F組クラス全員による一週間の校内清掃活動だった。ぼくらのしでかしたことを考えると、ほとんど処罰なしの結果に等しい。

 この温情措置には、生徒会の工作が一枚かんでいた。生徒の署名を集めて、嘆願書を作成したのだ。発起人は当然、乾一彦生徒会長。

 一週間の居残り掃除のあいだ、ぼくはみんなにぶうぶう言われつづけた。そんなぼくへの対応とは裏腹に、千絵に対してはみんな何の文句も言わない。ぼくとしては、今でもそれは納得がいかない。男女差別だろうか。千絵はずっと笑っているだけだったけれど。

 高校入試が終わって、それから間もなく卒業式が行われた。生徒の何人かが泣いて、何人かが第二ボタンをなくした(ちなみにそれはぼくのことではない)。

 みんなのことについて、少し話しておくべきだろう。

 藤野は内申書の点数が響いたわけじゃないと思うけど、第二志望のすべりどめの高校に合格が決まった。数学で優秀な高校だからわざと落ちたんだよ、と本人はうそぶいていたけれど。

 副島委員長と葛城書記のその後について詳しいことは知らない。ただ、葛城の東京行きは親の都合で中止になったらしい。今度こそ立派にふられ――もとい、立派に恋を成就することを願っている。

 放送部員の千葉は、自主制作ビデオをどこかに送って雑誌に載ったそうだ。それが猫に関するものじゃないことだけは確実だろう。声が小さくて引っ込み思案だった宇佐美は、髪を切ってイメチェンをはかった。久しぶりに会った宇佐美は見違えるほどだったけど、中身のほうは必ずしもそれに追いついてはいないようだ。

 その他、おしゃれ好きの伊勢崎、法家的な笹本、双子の幸乃姉妹などなど、みんな元気にやっているという話だ。

 最後に、李美花について。

 彼女は卒業後、中国へと帰ってしまった。ささやかな送別会を開いたとき、李はぼくらのことを決して忘れない、と言った。ぼくは別れ際、彼女と最後の握手を交わした。武術家であるにしては、彼女の手は柔らかくて、何となくそれは中国の奥深さを感じさせた。

「花発多風雨、人生足別離」

 その時、李は言った。

「何それ?」

「ハナニアラシノタトエモアルゾ、『サヨナラ』ダケガ人生ダ」

「サヨナラだけが人生、ね」

「お前に会えてよかったよ」

 李は弦月のような口元でにっこりと笑った。

 さて、こんなところで友人たちのその後については語り終わろうと思う。

 ……ん、何か忘れてるって?

 そうそう、すっかり忘れていた。高田先生のことだ。

 緘口令のおかげで、先生は減給にも離職の憂き目にもあうことはなかった。今でも鈴森中学で理科を教えているはずだ。近頃恋人ができたと噂は聞くけれど、実際に見たことはない。結婚の予定はまだないそうだ。ぼくとしては、それが脳内彼女でないことを祈っている。

 以上で、近況報告は終わる。

 いや、冗談はそろそろやめにしよう。肝心のことを言っておかなくちゃならない。

 奥村千絵のことだ。

 でもそれは難しい。何しろ千絵は、今もぼくのすぐ隣にいるからだ。すぐ近くにいる人間のことをわざわざ思いだしたりするのは難しい。

 千絵はぼくと同じ高校に合格した。ぼくとしては納得のいかないところだけど、採点者が何かミスをしたのだろうと思っている。あるいは、散々いっしょにテスト勉強をしてきたせいかもしれない。

「幸文くん、どうかしたんですか?」

 そう言って話しかけてくる千絵は、やっぱりいつもの千絵だった。元気で、明るい。

 でも、そこに前のような無理は感じられなかった。

「――何でもない。そろそろだな、と思っただけだ」

「そうですね」

 千絵は少しだけ、何かをいたわるような表情をした。

「六花ちゃんが亡くなってから、もう八年になるんですね」

 清川六花はぼくの妹だ。あるいは、妹。この町の病院に移ってからしばらくして、死んでしまったからだ。ぼくと千絵が熱を出してまで流れ星に願ったことは、結局のところ叶わなかった。この世にはどうしたって叶えられないことがある。

「……サヨナラだけが、人生だ」

 ぼくはそっと、口ずさんでみた。

「え?」

「いや、何でもない」

 ぼくは軽く手を振ってごまかす。

 桜が散る。季節が巡る。それでもぼくらはどこかへ進んでいく。ここではない、どこかへ。

 正門前のやけにきつい坂をのぼりながら、ぼくは訊いた。

「ところでさ、あの最後の時――」

「ん?」

「あの時、何を言おうとしてたんだ。ほら、『だからわたしは――』ってやつ」

「んー」

 千絵はもったいぶるように口を開こうとしなかった。

 坂をのぼって正門を抜けると、学校の校舎が見えてきた。古ぼけた、いかにも旧式の建造物だ。明日にはおじいさんといっしょに止まってしまうんじゃなかろうか。

「聞きたいですか?」

 グラウンドのフェンス沿いを校舎玄関に向かう途中、千絵はぼくのほうにくるりと体を向けながら訊いた。

「まあね」

「じゃあ、三回まわってわんと言ってください」

「――断わる」

 ぼくのプライドはそこまで安くはない。

「なら秘密です」

 と笑いながら言って、千絵は春の陽気に誘われた五線譜上の音符みたいにその辺を駆けはじめた。

 その姿を見ながら、魔王のいる世界も悪くないな、とぼくはふとそんなことを思ったりしていた。

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魔王のいる世界 安路 海途 @alones

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