7(魔王の逆襲)

 一月も、もう終わり頃近く。

 その日の天気は大荒れだった。遠くシベリアで発生した冬の寒気は、長旅の鬱憤を晴らすべく各地に雪を降らせた。前日の天気予報を見て喜んだのは、犬とスキー場くらいだろう。文字通り、町は白い雪の下に埋まった。

 雪のせいで一部交通機関に麻痺が見られたけど、F組の生徒で遅刻してくる者はいなかった。これも魔王の加護かな、と思っていたら、みんなかなりの苦労をして時間に間にあわせたのだという。ぼくは感謝した。

 その日、どうしてもクラスの全員がそろう必要があった。冗長性による安全設計なんてものはない。一人でも欠けてしまえばそれでおしまいだった。

 何故なら惑星交差なみのタイミングで、その日は全校集会が予定されていたから。

 ――簡単に言ってしまおう。

 ぼくらは全校集会ジャックをもくろんでいた。



 うちの中学には新美記念館というのがある。

 校舎が新設されたときに、いっしょに建てられたものだ。資金提供者の名前をとってつけられたらしいけど、そんなことはどうでもよい。

 この記念館、かなりの設備を誇っている。床にはコンサートホールのようなスロープがつけられ、生徒全員を収容してもまだ余裕のある座席シートはすべて固定。舞台設備についてはいわずもがなのことで、本格的な演劇場としての使用が可能になっている。

 全校集会が行われるのも、この記念館だった。

 昼休みの終了時刻から、生徒たちは三々五々、観客席に着きつつある。輪郭を失った音が、ざわざわとホールに響いていた。温度調節のされた館内に外の寒さはなく、幽閉された星の輝きみたいな光が床を照らしていた。

 幸いにして、そして高田先生にはおそらく不幸にして、ぼくらの四時限目は理科の授業だった。従って昼休みの分もあわせてそれなりの時間を、ぼくらは最後の準備に費やすことができた。もしも今度のことで一番の被害者がいるとしたら、それはたぶん高田先生ということになるだろう。

 必ずしも万端とまではいえないものの、準備を終えたぼくたちは全校生徒が集まるのを待っていた。

 時間の感覚がおかしくなって、ぼくは時計の針が遅くなったり、早くなったりしているような気がした。さすがに緊張しているらしい。

「大丈夫ですよ」

 舞台袖にいると、不意に声をかけられた。千絵だった。

「きっとうまくいきます。魔王が言うんだから間違いありません」

「そうだよな」

 笑うと、少し気が楽になった。

 何人かで走りまわって、全校生徒が着席したことを確認する。

 それからぼくは、はじまりの合図を送った。

 館内にベルが鳴り響いて、一瞬生徒たちのざわめきが大きくなる。けれど電鈴が終わって照明が落とされる頃には、あたりは潮の引いたあとの砂浜みたいにひっそりとしていた。

 壁のスピーカーから、館内アナウンスが流れる。

『本日は全校集会にお集まりいただき、大変ありがとうございます――』

 見事なウグイス嬢ぶりで小林さんの放送がかかると、生徒たちの声はいっそう小さくなった。

『ここで、残念なお知らせがあります。本日予定されておりました〈校長先生による受験生への訓示〉は諸般の都合により中止とさせていただきます。手元に入ってきた情報によりますと、職員室に爆発物が仕掛けられたため、身動きがとれないとのことです』

 生徒たちのあいだにさざ波のようなざわめきが広がった。

 けれど、実際のところこれは半分くらい嘘じゃない。今頃、藤野が職員室に電話をかけ、教師全員を足どめしているはずだった。爆発物のことも、本当だ。高田先生が理科教師としての誇りにかけて作ったのだから間違いない。減俸処分ですめばよいが。

 もちろん、ぼくらは今回のことで学校側の許可なんて一切とっていない。そもそも、とれるはずがないのだ。よって今回のことを実現するためには、多少強引な手段をとる必要があった。

 ちなみに足どめ役というもっともリスキーな役を藤野のやつにやらせたのは、それなりの理由がある。いつかぼくらが〝無許可放送事件〟を起したとき、授業を抜ける言い訳をやつに頼んだことはすでに述べた。

 確かに、藤野は立派にその役を果たしてくれた。

 彼は言ったのだ。「清川は具合が悪いそうで、奥村がつきそって保健室に行ってます」そして一言。「どんな看護を受けてるかは知りませんけど」

 ぼくが危険で困難な足どめ役を頼んだとき、藤野は快く引き受けてくれた。藤野及び何人かのメンバーが無事に任務を果たして帰還することを、ぼくは心より願う。

 そんなことを考えているうちにも、アナウンスは続いていた。

『従いまして、本日急遽上演プログラムを変更いたしますことを、皆様方にはご了承願いたいと思います。代わって行いますのは、三年F組による演劇〈ベルフォレスト物語〉です。それでは、最後までゆっくりとご観覧下さい。なお、恐れ入りますが上演中、携帯電話の電源はお切りいただくか、マナーモードに変更するよう、お願いいたします』

 アナウンスが終了すると、開始のベルが打ち鳴らされた。条件反射的に静かになった館内に、音楽が響く。

 音楽は某有名ゲームのプレリュード。全般的にゲームやアニメ音楽が多くなったのは、音響担当の室重の個人的な趣味のせいだった。

 物語冒頭に聞こえる印象的な音楽とともに、二つのスポットライトが舞台を照らす。

 そこには、双子の少女(幸乃姉妹)の姿がある。精霊のごとき荘厳な衣装を身にまとった二人によって、プロロゴスが開始された。

「ああ、何ということだろう」「ああ、何ということだろう」

「国土は血に染まり、空さえも暗い」「国土は血に染まり、空さえも暗い」

「二つは一つ、一つは二つ」「二つは一つ、一つは二つ」

「この予言が成就されることのないかぎり、この地に平穏が訪れることはないのだ」「この予言が成就されることのないかぎり、この地に平穏が訪れることはないのだ」

 二人による交互の輪唱が物語全体の世界観を告げる。さすが双子だけあって見事な輪唱だった。

 スポットライトが消え、二人がいなくなると、舞台全体がフェードイン(照明担当は未来のDJを目指す芦田)。右袖から一人の少年と一人の男(実際はどっちも少年だが)が現われる。

 一人はこの国の王子、もう一人はその従者だ。王子は生まれて以来十五年間踏むことのなかった故国の地に足を下ろす。それはある予言のためだった。王子が生まれたときになされた、「彼が十五の歳を迎えるまでは決してこの国の大地を踏んではならない」という。

 ここまで、どうやら生徒達による妨害行動はなさそうだった。本当のところどう思っているのかは分からなかったけど、大人しく観劇することに決めてくれたらしい。ぼくはひとまず胸をなでおろした。

 ――十五年ぶりに故郷に戻ってきた王子は、けれど国内が戦争状態にあることを知る。しかもその戦争は奇怪なものだった。いったい誰と戦っているのか、誰も知らないという。

 二人は王の親愛厚く、また国の賢者と称えられえる公爵の元へ向かう。しかし公爵にも、やはり詳しいことは分からない。王の城は今、大変な混乱にあるという。「行くのはおよしなさい」と公爵は言う。「だがわたしは行かなければ」と王子。

 一刻も早く城へ向かおうとする二人の前に、薄汚れた姿の少女が道をふさぐ。公爵の館で見かけた婢女だった。彼女は何故か二人についていくという。

 一悶着の末、従者の反対にもかかわらず王子は娘の願いを許可する。射るような娘の強い瞳とその熱意に押し負けた格好だった。喜ぶ娘。しかし何故か少年が王子であることを知っていた娘に、従者の疑念はゆるまない。

 国が戦争による混乱状態にあるというのは本当のようだった。一行の前に追いはぎの群れが現われる。待て、わたしたちは城に向かい、正義を行おうとしているだけだ。そんなこと知るか。

 襲いかかる野党の群れ。多勢に無勢、危うく刃にかかろうとする一行。しかしその時、剣をとった娘が八面六臂の活躍をはじめる(この役は武芸百般の李によるものなので、下手なヒーローショーよりよっぽど迫力があった)。鬼神のごとき娘の剣さばきに恐れをなして逃走する悪人ども。

 と、一行はその中で一人だけ逃げもせずに隅で震えている少年に気づく。娘が剣を突きつけると、少年は慌てて言う。「殺さないで。僕、みんなに協力したいんだ」

 劇がはじまって三十分くらい経った頃だろうか.ぼくは時計を確認する。藤野たちはうまくやっているだろうか。高田先生もひそかに協力してくれているはずだから、何とかうまくいっていると信じたい。

 ――少年が言うには、自分は城を作っていた大工の子供で、秘密の抜け道を知っている。野党に加えられたのは、そのせいだ。城に向かうならきっと役にたってみせる。

 三人はその言葉を信じて、少年の案内に従う。城の正面を迂回する形で小高い丘の教会へと向かった。丘を登るにつれ、城の全景を見渡すことができる。

 そこには不可解な光景が広がっていた。城門の前で兵士たちが戦っている。だが敵の姿は見えない。兵士は剣で何もないところを斬り、槍で何もないところを突いた。時々、誤って味方を傷つけさえする。だがそれで一向に平気なようだった。千人あまりの兵士たちは、いったい何と戦っているのか。

 一行は疑問を抱きつつも、城の中へと向かう。教会の墓地から秘密の地下通路へ。

 その途中、四人は見たこともないような怪物と遭遇する。娘の奮闘と従者の機知によって辛くもその場を脱出する一行。どうやら城は魑魅魍魎の跋扈する怪しげな場所へと変貌しているようだった。

 城の内部へと侵入した四人は、一路玉座の間へと向かう。再び現われた魔物を、最初に少年と従者が、次に娘がひきつける。単身、玉座へ向かう王子。広間の扉を勢いよく開け放つ。

 そこにいたのは、本来王の座すべき場所に腰を下ろす、仮面姿の謎の人物だった。彼は言う。「生まれてからこの地を十五年踏まなかったものにしか、私を殺すことはできない」。王子は予言の成就されるべきときを知った。

 剣を構え、仮面の男を突き刺す王子。男の顔から仮面が落ちる。その時広間に駆けこんできた娘の叫びが響く。「お父様!」

 そう、男は王子の父親であるこの国の王。そして下女に見えた娘は王子の妹にしてこの国の王女。彼女は予言に従ってそのことを隠していたのだ。

 悲しみの対面。正気に戻った王は紋章の欠片を取りだす。割れたその欠片は、身の証として一方を王子に託されたものだった。ぴたりと一致する紋章。

 舞台、フェードアウト。

 次の瞬間、同時に照らされる三つのスポットライト。一つは王子を、そしてもう二つは最初に登場した双子の精霊を浮かびあがらせる。

「あなたがたは?」訝る王子。

「今こそ予言は成就された」

「二つは一つ、一つは二つ」

「二つの紋章は一つに。一つの紋章は二つに」

「すべての運命は元へと戻り、王の生命はこの世界にとどまるだろう」

「あなたがたはいったい?」戸惑う王子。

「私たちは世界を律するもの」

「私たちは運命を司るもの」

 舞台、再び暗転。次に光が戻ったとき、そこに双子の姿はない。倒れた王の心臓に手をあて驚く王子。死んだはずのものは生き返った。歓喜にわく四人。正気に戻った兵士たちもやってくる。舞台は大団円。鳴り響く生徒たちの拍手。


 ――ところが、話はこれで終わりじゃない。

 というより、ここからが本番なのだ。今までのは長い長い長い前ふりだ。

 ぼくはインターカムを使って指示を送る。「第二幕、魔王の逆襲を開演」と。


 大拍手に包まれた館内に、突如雷電の音が響く。ぎょっとして静まりかえる生徒たち。続いて流れる不吉な音楽。某ゲーム最終戦のテーマ曲だった。

 観客席は軽い混乱におちいっているようだった。舞台はこれで終わりではないのか?

 普通なら、そうだろう。

 でもこれは違う。ここからが本番なのだ。主役が登場するのはこれからだ。

 スポットライトが客席中央の通路を照らす。

 そこにはいつの間に現われたのか、漆黒のドレスを身にまとった少女の姿があった。背中からは鴉のような闇色の翼を生やし、羊に似た小さな角をつけている。衣装担当、倉持の会心作だった。

 魔王というにはやや背の低い千絵は、けれどいつもとはどこか違っていた。伊勢崎によって軽く化粧をほどこされた千絵は、あまり千絵らしく見えず、むしろ本物の魔王みたいに見えた。

 もちろん、そんなのは目の錯覚だ。光線と衣装と化粧のせいで、そんなふうに見えるだけにすぎない。

 けれど――

 その時の奥村千絵は、確かに本物の魔王になったような気が、ぼくにはしていた。

 サーチライトに照らされた千絵は、ゆっくりと客席中央を歩いていく。その姿は禍々しさにあふれていた。誰もが客席から見つめるだけなのは、あるいは劇の途中だからという理由だけではないのかもしれない。

 牛歩を進める魔王の口から、言葉がもれた。ピンマイクに拾われ、電気的に拡大された託宣は館内に響き渡った。

「虚しく闘い続けた名もなき千人の兵士たちよ、お前たちはこれで救われたと勘違いしているのではないか?」

 歩みをとめず、滔々と語り続ける魔王。

「だがそれは間違いだ。お前たちの闘いは終わってなどいない。いや、まだはじまってさえいないのだ。それはもっと辛く、苦しく、そして実り薄い。その道には悲嘆が横たわり、呵責が渦をまき、絶望が顎を光らすだろう。呪わしく憐れな運命よ。

 私は予言する。絶対の真理の名の下に。絶望の運命の輪の下に。汝等は未来永劫呪われるであろう、と。その口に飲み込まれるのは渇きの水、その手につかむのは偽の黄金、その耳に囁かれるのは虚ろな骨音。汝等は迷い、悩み、苦しみ、そして失うだろう。聞くがよい、憐れな土塊の末裔どもよ。私はこの地に泥の種をまき、北風の花を咲かせ、孤独の実を穫り入れよう。不和がはびこり、怒りが覆い、悲しみが結ぶ。王の指は腐るだろう。神の栄光は地に落ちるだろう。私の腕は強い。誰も逃れることなどかなわない」

 ぼくはずっと忘れていたことを、ふと思い出していた――

 いつだったろう、とにかくそれは、ぼくが空き地でヒーローごっこをしていたときのことだ。悪役をしぶる千絵に向かって、ぼくは詐略を弄してこんなことを言ったのだ。

「誰かが悪役をやらないと、が散らばっちゃうんだぞ」

「悪い種?」

「そうだよ。それが体に入っちゃうと、その人が悪くなくても悪いことをしちゃうんだ」

 千絵は何事かをその小さな頭で考えているようだった。

「お父さんもお母さんも、近頃少しも口をきかなくて、それで言うんです。私たちはどっちが悪いっていうわけじゃないんだ。だからこれは仕方のないことなんだって」

「そう、それだよ。悪役がいないせいだ。悪い種を集める人がいないからなんだよ」

「さすが幸文くんです。何でも知ってます」

 千絵がことあるごとに魔王を名のりはじめたのは、その頃からだった。

 何のことはない、彼女を魔王にしたのはぼくだったというわけだ。両親の離婚という現実を前にして世界のバランスを失っていた千絵を、ぼくは知らずに魔王という物語の中に導いた。

 そのことを、ぼくは心の片隅で覚えていたのだろう。ぼくが千絵のことを手伝ったのは、当然だった。

 いや――

 本当は、それだけじゃなかった。ぼくもやはり知っていたのだ。この世には悪役がいなければ耐えられないようなことが、現実に存在するんだということを。

 魔王はすでに、舞台のすぐ下までやって来ていた。ゆっくりと迫るギロチンの刃のようなその歩み。動こうとする舞台上の人間たち。

 だが魔王の手の一振りにより、彼らはみな石と化してしまう。

 壇上へと続く階段の途中に足をかけ、観客席へと振り向く魔王。

「城門にたむろす名もなき千人の兵士たちよ、魔王はここに帰ってきた。汝等に真実を告げるため。偽りの希望を砕くため。茶番は終わる、現実がはじまる。逃げ場などない。約束の地は侵された。私は――

 わたしは」

 千絵はそこで、言葉をとめた。


 不自然な間が発生したせいで、館内には不穏な空気が漂いはじめた。魔王に扮した千絵は階段上に停止したまま。

 魔王の口上は、もうほとんど残ってはいない。散々呪いの言葉を吐きちらかした魔王は、最後に言う。だがこの予言が成就されるかどうかは、すべて汝等次第である。悲嘆にくれたくなければ、楽しむがいい。憤怒にかられたくなければ、笑うがいい。死にたくなければ、生きるがいい。だが魔王の予言を忘れるな。汝等がそのことを忘れたときにこそ、予言は成就されるであろう。努々、忘れることなきように……。舞台、閉幕。

 だが千絵は、舞台でも客席でもない場所でじっとしている。

 台詞を忘れたんだろうか、とぼくはまず思った。出番はここだけとはいえ、魔王の台詞は長い。千絵がそれを忘れてしまう可能性はあった。

 その場合は、もはや適当にしゃべらせるしかない。基本的には、呪いの言葉を吐き続ければいいのだ。そして最後の流れで終わればいい。必ずしも無理じゃなかった。少なくともゴリアテを倒すよりも簡単なのは間違いない。

 舞台袖からではほとんどその後ろ姿しか見えなくて、ぼくにはそれ以上の判断はつかなかった。何とかして千絵に指示を与えなくては――

 千絵はじっと、何かを確かめるような、ずっと昔の忘れものを見つけたような、そんな様子をしていた。

 そして不意に、千絵はぼくのほうを見た。舞台でも客席でもなく、ぼくのほうを。

 何故だか、その時の千絵は笑っていた。

 いつもの千絵の笑顔とは違う。

 あの明るすぎて、元気すぎて、まるで痛いのを我慢しているような、辛いのを忘れようとしているような、そんな笑顔とは。

 それはただ透明で、純粋で、静かで、自然で、たった今笑うことを知ったみたいな、ただの氷の小さな塊が一日で世界を白く変えてしまうみたいな――

 そんな、笑顔だった。

 千絵は――魔王は階段をのぼり、壇上に立った。そしてみんなを、この世界を見つめた。

「わたしは、理由がありさえすれば人は不幸になることはないと思っていました。どんなに辛いことだって、理由があれば耐えられる。何とかのせいで、何とかだから……そんなことで、人のバランスは保たれるんだと思っていた。そしてバランスが保たれ続けるかぎり、人は本当の意味で不幸になることはないだろう、と。でも本当は、そんなことじゃないのかもしれない。不幸はやっぱり不幸でしかなくて、そんなのは理由があったってなくったって同じなのかもしれない。人は不幸をどうすることもできないし、その前では本当に無力だ」

 客席は人がいなくなったみたいに、しんとしていた。

「本当のことは、分からない。でも、これだけははっきり言えることがあります。わたしがずっと魔王でいつづけたのは、わたしにとって魔王が必要だったから。世界を本当の不幸から守ってくれる、悪い存在が。そうでなければ、この世界はきっと耐えられないような場所だったから。でも――」

 でもそれは違う――

「でも、それも本当は違う。だって、わたしはもう不幸なんかじゃないから。わたしには仲間がいる。いつもそばにいてくれる、素敵な友達も。こんなんじゃ、不幸だなんて言ってられない。わたしは本当に幸福だ。胸をはって、この世界の隅々にまで叫ぶことができるくらい幸福だ。だから、わたしは感謝します。ここに来れたことを、ここにいることを、ここから去っていくことを。そして何より、を。できるなら、みんなにもそうであってほしい。わたしが本当にそう思ったことを、そう思えたことを、できれば忘れないでほしい。きっと試験で鉛筆を転がすくらいには、役に立つと思うから」

 そして、千絵はあの最後の言葉を口にしようとした。

「わたしにはもう、魔王は必要ない。だからわたしは――」

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