最後のクリスマス

黒宮 圭

最後のクリスマス

 寒い日だった。

 体中が痛む。指一本すら動かすことができず、音は何も聞こえない。

 なぜこうなってしまったのか自分でもわからない。

 今まで俺がしてきたことは全て無駄だったのだろうか。努力は裏切らないのではなかったのか。こんな小さな願いも叶わないのか――

 いや、今は悔やんでいる場合じゃない。まだあの子のためにしてあげられること、それを探せ。

 体は……動かない。

 でもまだだ。

 何か残してあげられるものは……何もない。

 でもまだだ。

 今俺に残ってるものは……まだ命がある。

 なら、俺のことはもういい。どうせ長くない。だから頼む神様。この死に損ないの命と代わりに、せめてあの子だけには幸せをあげてくれ。それ以上は何も望まない。だから頼むよ……


なぁ神様



「パパ。みか、おなかすいた」

「あぁ、そうだな」

 娘の訴えに俺はそう答えることしかできなかった。

 12月25日。今夜はクリスマスだ。街中ではクリスマスツリーの装飾が輝き、行き交う人々でにぎわっている。

 腕を組み、ツリーの前で写真を撮るカップル。早く帰ろうとせかす子供を、後ろから微笑みながら歩いて見守る父親と母親。おしゃれな店の中で照れくさそうにプレゼントを交換し合う夫婦。

 そんな大イベントで街が生き生きとしている中、俺は娘と手をつなぎながら歩道を歩いていた。

 今日、世界中の子供たちは温かい服を着て、豪華な料理を家族で囲みながらこの夜を笑顔で過ごしているだろう。

 そんな中、この子だけはぼろぼろの古着を着て、お腹を空かせている。

 こんな特別な日なのに、服も、料理も、家族のぬくもりさえも娘に与えることができない。そんな情けない自分を、俺は悔いた。

 妻は娘が生まれたときに死んでしまった。俺の両親もすでに他界し、彼女の両親は俺との結婚を反対していたため関係を断ち切られている。

頼れる人が誰もいなかったあの時から、俺は一人でこの子を育ててきた。かれこれもう6年くらいたつだろうか。

 最初は死に物狂いで働いて、とにかく金を稼いだ。幸い、仕事先に恵まれた俺は、子ずれでよく職場に出勤させてもらった。仕事仲間もみんないい人達で、俺が娘の面倒を見れない時は俺が言わずとも変わってくれた。

俺たちの暮らしは決して裕福ではなかった。正直毎日がギリギリの生活だった。でも、彼らのおかげで生きていくのに最低限のことは娘にしてこれたのだ。

 この調子なら一人でも育てていけると俺は思っていた。

 だが、娘が生まれてから4年後。順調かと思えた俺たちの暮らしは、突然終わりを迎えた。

『社長!うちの会社が倒産てどういうことですか!?』

『あぁ、君か。残念だが本当のことだ。うちと契約してくれる企業がもうないんだよ』

『そんな……俺たちはどうなるんですか?娘だってまだ4歳なのに。ここで俺が仕事を失ったら俺たちは生きていけないですよ!』

『そうだな……』

『もう、決定事項なんですか?こんなこと、納得できるわけ――!』

『そんなことはわかってる!』

『っ!』

『君だけが不幸だとでも思っているのか?社員みんな同じ気持ちに決まっているだろ!理不尽、悔しい、何故!そう思っているはずだ!それでも彼らは諦めて、新しい職をすぐに探し始めたよ!君と同じで、生きるためにな!』

『社長……』

『……すまない。君にあたってもどうしようもないのにな。とりあえず、今は新しい職を探してくれ。私もできるだけ協力する』

『はい……俺の方こそすいませんでした』

 それからの俺は娘のために職を探す毎日だった。

 しかし、特技もなければ才能もない。学力も高校止まりのこんな俺を雇ってくれるところはなかなか見つからなかった。

 いくつか見つかった職でも、幼稚園に行っている娘の送り向かいに追われ、すぐにクビになる。そうして職を失うたびに、前の職場がどれだけ恵まれていたのかを実感した。

 だが、それでも俺は働かなければならなかった。生きるために。だからこの歳にもなってアルバイトを掛け持ちして、コンビニで余った弁当などを娘の分だけでも分けてもらいながら何とかやってきた。 

 だが、それも今日まで。数週間前、児童相談所から電話が来て娘を保護すると言ってきた。

 最初はふざけるなと電話を切って無視した。しかし、その行為を続けていたら、ある日突然彼らが訪問してきた。

 彼らは家の中の暮らしの様子や俺の現状を調査し、このままだと強制保護もやむを得ないと俺に警告した。

その日からだ。俺と娘との時間が終わりに向かい始めたのは。

 今日、児童相談所が娘を迎えに来る。だがこれでいいのだろう。このままじゃ娘はいつまでたっても安定な暮らしを送れない。腹を空かし続けてしまう。だからこれでいいのだ。娘のためにも。

 ……いや、本当は俺が逃げたかっただけなのかもしれない。この辛い生活から。そして、この生活をいつか娘のせいにして、暴力をふるってしまうかもしれない未来から。

 どちらにしろ、俺と娘との時間は今日が最後。後1時間もすれば、家に児童相談所の役員が来る。だからせめて、この日だけは最後まで一緒にいることにしたのだ。この特別な日だけは――

「あ、サンタさんだ!ねぇパパ!サンタさんがいるよ!」

「ん?あぁ、確かにサンタさんだな」

「でしょ!みか、はじめてあった!」

 見ればある店の前で『クリスマスケーキはいかが?』という看板を持ち、赤い服着た人が客呼びをしていた。ついでに言えば白い髭も付けている。確かに、その格好はサンタそのものだった。

 それを見た娘が俺の手を引っ張り始めた。

「パパ!ほら、はやくいこ!ことしのプレゼントおねがいしなきゃ!」

「……はは。そうだな」

 娘は今日が俺といられる最後の日だとは知らない。知らない方がいいと思った。

 もし知ってしまったら、娘はきっと今日を楽しめない。だからこれでいい。最後の日くらい、この子の笑顔を見ていたいから。

 俺は娘に引っ張られるままゆっくりと歩いた。そんな俺を早く早くとせかす娘。

 その姿がとても愛らしくて、ついこの時間が永遠に続けと思ってしまう。

 感傷にふけって、涙が出そうになった俺はそれを必死にこらえる。

 そして先ほどのサンタのところまで来ると、娘が少し恥ずかしそうな顔をしてサンタに言った。

「こ、こんばんわ!」

「お、元気がいいねお嬢さん。どうしたのかな?」

「サンタさん!みか、くまのぬいぐるみがほしいの!いいこにしてるから、おねがいします!」

「え……あ、えっと」

 娘の勢いについていけないサンタが困惑する。

それもそのはず、ここはケーキ屋だ。ここに来てぬいぐるみをくださいなんて、場違いもいいところだ。

 流石にこれは止めてあげるべきだろう。

「こらこら。サンタさんが困ってるだろ?」

「あ、うん。ごめんなさい。でもみか……」

「いいかい?この人はケーキのサンタさんなんだ。ぬいぐるみをくれるサンタさんはまた違うところにいるんだよ」

「え、そうなの?サンタさんは、ケーキのサンタさんなんですか?」

「あ、あぁ!そうなんだ!ごめんね、お嬢ちゃん」

 娘の問いに慌てて答えるケーキのサンタ。それを見て苦笑いしながら、俺は娘に言った。

「ほらな?でも大丈夫。ぬいぐるみのサンタさんはパパが探しとくから。今日はもうおうちに帰ろう」

「ほんと!?やった!パパだいすき!」

「あぁ、パパも大好きだよ」

「パパ……?」

 サンタが首をかしげる。だが、それに気づかない二人は仲良く街中を歩いて行った。


「ただいまー!」

「ただいまー。と言っても誰もいないけどな」

 あの後、俺たちはまっすぐアパートに向かって帰った。

 時刻は7時30分。あと数十分で娘とはお別れだ。多分、一生会えなくなるだろう。だから残りの時間はゆっくり過ごそう。一緒に暮らしたこの部屋で。

「パパ、みかおなかすいた」

「……あぁ、そうだな」

 娘が街中にいた時と同じことを言った。そして俺も同じことしか言えなかった。

 今の俺たちには金がないのだ。一千円もない。だから、本当の意味で今日が娘と暮らせる最後の日だった。

「みか、聞いてくれ」

「ん?なにパパ?」

最後の日。だからこそ、お別れをしなければならない。

俺はしゃがんで、娘の目をしっかりと見た。

「お腹すいただろ?ごめんな、こんなパパで」

「パパ?」

「欲しいものも今まで買ってあげられなくてごめん。でも大丈夫。明日からはお腹いっぱいに食えるし、好きなものも買ってもらいなさい」

そう、明日からは普通の暮らしをさせてあげられる。ここよりは何倍もましな暮らしを。

 いきなりの俺の発言に、娘は戸惑った。当然だ。なんでこんな話をするのか、それすらも知らないのだから。

 言葉の意図も掴めないまま、娘は俺に聞き返してきた。

「誰に?」

「これから来るパパの友達だ。みかはこれから……その人達が連れてく場所で暮らすんだ」

「なんで?」

「……何でもだ」

 正直限界だった。今にでも泣き出したかった。でもここで泣くわけにはいかない。最後くらい、かっこいいパパでいたいじゃないか。

「いいかい?これから困ったことがあったらその人たちに言いなさい。きっと何でもしてくれる」

「……パパは?パパはいっしょじゃないの?」

「……一緒じゃないんだ。パパにはやらなきゃいけないことがあるから」

嘘だ。そんなものあるわけがない。でも、こうでも言わなきゃこの子は……

そんな俺の思考を娘の大きな声が遮った。

「いや!みか、パパがいっしょじゃなきゃいや!」

「みか……」

否定的な俺から不安を感じ取ったのか、娘はそう言って俺に抱き着いてきた。それを俺は優しく抱き返した。

 こらえていた涙がついにこぼれる。

 ずっとこのままでいたい。本気でそう思う。でも、それが叶わないことはわかっている。だからここでけじめをつけなきゃいけない。

 俺は胸の中にいる娘をそっと離した。

「みか、パパは幸せだったよ」

「やだよ……パパといっしょがいいよ」

娘の目に涙が浮かび始める。

 だが大丈夫。これでいい。これからはこの子にこんな思いはさせないで済むんだ。明日からずっと幸せに生きていけるんだ。親としてこれほど喜ばしいことはないだろ。親として――

「なわけねぇだろ」

「?」

 違うだろ。そうじゃないだろ。親なら最後の最後まで子供のことを思って行動するべきだろ。

 食べたいものも食べさせてあげられない。欲しいものも買ってあげられない。

 だから別の奴らに託すのか?

 ふざけるな。それをしてやるのが親としての義務だろうが。喜びだろうが。なのに俺は――

「みか、パパちょっと出かけてくる。少しだけ待っててくれないか?」

「……ちゃんとかえってくる?」

 娘が不安そうな顔で訪ねてくる。それに俺は笑顔で答えた。

「すぐに帰ってくる。なぁに、サンタさんに会ってくるだけさ」

「サンタさん?」

「あぁ。じゃあいってくる!」

 そう言っておれは勢いよく部屋を飛び出した。

 俺はさっきまで娘と一緒に歩いた街中を全速力で走った。走って走って、冷たい空気で呼吸がままならなくなっても、ただただ走りつずけた。

「児童相談所の役員が来るまで……あと15分くらいか。少し短すぎる」

 頼むよ神様。今夜だけ、今夜だけでいい!だから、もう少しだけ俺を娘のそばにいさせてくれ!親としての喜びを感じさせてくれ!

「頼む!間に合ってくれ!」

 俺はさらにスピードを上げて走り続けた。あの部屋で待っている娘のために――


「パパ、まだかな……」

 父親が出て行ってからかれこれ10分が立つ。

 普通ならそこまでたっていないように感じるだろう。だが彼女はまだ6歳の子供だ。そんな幼い子が夜一人で留守番している寂しさ、不安を感じるのにその時間は十分だった。

「寂しいよ、パパ……」

 ついに耐えられなくなったのか、みかは再び目に涙を浮かび始めた。

 だがその時、ドアをノックする音が部屋に響いた。

「パパ……パパだね!?」

 みかは急いで玄関に向かい、少し高い位置にあるドアノブに手を延ばして勢いよく開けた。

「おかえりパパ!みか、いいこにしてた……」

 しかし、ドアの先には誰もいなかった。その代わりにリボンで装飾された大きな黄色い箱が一つあるだけだった。

 見覚えのない箱にみかは首をかしげる。

「なんだろ?」

 みかが箱に手を伸ばすと、触れてもいないのにリボンが勝手にほどけ始めた。

 それに一瞬驚いて部屋に戻ろうとしたみかだったが、箱が開くのと同時に動きをとめた。

「え……」

 開いた箱の中には大きなくまのぬいぐるみが入っていた。

 それを見てみかは思い出す。そう、少し前にみかが街中でケーキのサンタにお願いしたものだった。

「もしかして……パパがぬいぐるみのサンタさんにお願いしてくれたのかな!やった!」

 これはきっとサンタさんからの贈り物なのだ。パパはそれを伝えるために出て行ったのだ。そう思ったみかはぬいぐるみに抱き着く。

「暖かい……」

 みかにとって、これほど大きいぬいぐるみを触るのは初めてのことだった。買ってもらったことは今までにもあったが、腕に抱えるくらいの小さいものだったのだ。

 だからこそ、みかはこれ以上ない笑顔で喜んだ。その笑顔はとても微笑ましく、ここに父親がいたら娘の反応に満足した顔をしただろう。

 みかがぬいぐるみの温もりを感じていると突然、横から声をかけられた。

「やぁ、こんばんわ」

「っ!」

 驚いたみかは瞬時に振り向く。

 そこにはスーツ姿の40代くらいの男性と30代くらいの女性が立っていた。先ほど声をかけたのは男性の方だろう。

 みかはぬいぐるみをしっかりと抱いて、すぐに部屋の中に戻ろうとする。だがそれを女の人が声をかけて止めた。

「まって!私達はお父さんの知り合いよ。今日、私たちが来るってお父さんから聞いてないかな?」

「……パパのおともだち?」

 みかは数十分前の父親との会話を思い出す。確か、この人たちについて行けと言っていた。だが、みかはそれに反対していたためなおさら部屋に戻ろうとする。

 しかし、今度もまた女の人に止められた。

「みかちゃん待って!お父さんについて話があるの!」

「いや!パパにしらないひととはしゃべっちゃいけないっていわれたもん!」

 そう言ってみかは部屋に戻って勢いよくドアを閉める。

 そのドアの向こうで女の人が悲しい声で言う。

「……やっぱり聞いてないのね」

「……?」

 聞いてないって、一体何を?

 みかにはこの女の人が言おうとしていることが全く分からなかった。

 だが次の彼女の言葉に、みかは言葉を失った。

「あなたのお父さんは……今朝方遺体で発見されたの」

「え……」

 絞り出すように話し出した彼女に、どう反応すればいいのかみかはわからなかった。

 女の人が続けて話す。

「死亡推定時刻は昨日の夜7時。路地裏でナイフで襲われて亡くなっていたそうよ。警察からその連絡がきたのは、ちょうど1時間くらい前」

 なにを言っているのかわからない。

 みかは彼女が話す言葉を一つ一つ理解しようとしたがやはりできなかった。

 それも当然だ。父親が死んだ?しかも昨日?そんなはずはない。なら、今日自分と一緒に過ごしたのは誰だったのか。間違いない、あれは確かに自分の父親だった。

 きっとこの人は嘘をついているのだ。自分をだまそうとする悪い人なんだと、そう思ったみかは大きな声で言い返した。

「そんなわけないよ!だってみか、さっきまでパパと一緒にいたもん!」

「え……」

 今度は女の人が言葉を失う。いや、女の人だけでなく男の人も同じ反応をしたのがなんとなく伝わった。

 みかはさらに言葉を紡ぐ。

「きょうだって、ずっといっしょだったもん!いまはいないけど……でも、サンタさんにみかがほしいものおしえにいってくれたんだよ!」

「そんな……ありえない!」

 ドア越しに伝わってくる女の人の驚き。

 それに腹が立ったのか、みかの勢いは増していく。

「ほんとうだよ!このぬいぐるみだって、パパがいなかったらサンタさんくれなかった!だからパパがしんだなんてうそつかないでよ!うそつき!」

「嘘なんかついてないわ!あなたのお父さんは死んだの!遺体だって私たちがちゃんと確認してっ……!」

「うるさいうるさい!」

「みかちゃん……」

 二人の間に沈黙が流れる。

 お互い、これ以上何を言えばいいかわからなかった。

 それもそのはず、一方は父親が死んだと言い、一方は父親と先ほどまでいたと言っているのだ。お互いの見ている現実が全く違う。これは会話以前の問題だ。

 しかし、沈黙を破ったのは二人のどちらでもなく男の人だった。

「みかちゃん。この開いてある箱はそのぬいぐるみが入ってたやつかな?」

「……うん」

「そうか」

 そういって男の人はしゃがんで空になった箱の中身を見る。そしてあるものに気づいた。

「……どうやらみかちゃんの言っていることは間違ってはいないらしい」

「先輩!?何を言っているんですか!さっき警察署に行って確認したじゃないですか!まさか、あの遺体が偽物とでも……」

 男の人の発言に大きな声で反論する女性。しかし、彼女もそれに気づいて押し黙る。

 急に静かになった外を不思議に思ったみかは、少し迷いながらも恐る恐るドアを開けた。

「……?」

 すると男の人が箱の前にしゃがんで紙のようなものを手にしていた。

 みかは横からそれをのぞき込む。

 そこにはこう書いてあった。


 『愛しているよ みか。メリークリスマス パパより』


 最初の漢字が読めないみかには、意味がよくわからなかった。だが、その文からは自分の父親の存在が確かに感じられた。


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