第16話 未来くんの思い出。あるいは、京都、そのバックヤード(『ナマの京都』)

 大昔、アニメの「美味しんぼ」を見て驚いたことがある。


 毎度おおきにでんがなまんがな調のベタな大阪人が登場し「ひゃ~、関西で生まれ育ったわては納豆なんて臭いもんようたべられまへん。目の前からさげとくんなはれ」と大騒ぎするところから始まる、東西の食文化カルチャーギャップ回があったのだ。

 「美味しんぼ」なので、そのあたりは山岡士郎がなんだかんだ食うんちくでその場をまーるく収めた筈だが、自分の身の周りの常識しかしらない子供にに衝撃をもたらしたのはそこではない。


 関西人は納豆が嫌い。よう食べられない。


 ここである。

 私は京都府の田舎の出である。そのころには「私は京都府民である」というアイデンティティもぼちぼち芽生えている。

 京都府というのは関西の一部であるという事実も頭の中にインプットされている。

 ところが、この番組の雰囲気から察して「関西人は納豆が嫌い」というのはどうやら社会の常識らしい。

 これは一体どういうことだ? 


 この点で子供の私が混乱したのは理由がある。我が家は朝からバリバリ納豆食べる家だったのだ。

 私は苦手だったのであまり食べなかったのだが、親や姉妹たちは昔から普通に愛食していた(ちなみに薬味は塩のみである。塩だけで味をつけるとどういうわけか粘りと臭みがよりきつくなる。だから私は苦手だった。なぜに薬味が塩のみなのかは後程説明する)。


 普通に納豆を食べる京都府の子であったため、姉や妹たちも件のエピソードには「……え?」と戸惑ったらしい。その件で語り草になったこともあった。


 調べてみると京都市の西北部から南丹市の一部あたりの山間部では納豆を昔から常食していた地域であり、京北町あたりでは納豆発祥の地を謳っていたりもする。

 なおこの地域では正月に納豆に餅を挟んだ「納豆餅」を食する。

 各地域各家庭によって製法は異なるだろうが、うちのやり方は以下のようなものである。

 ①丸い餅を用意してホットプレート等で焼く。適当なタイミングで取り上げる。

 ②できるだけ平につぶす(熱いので餅の扱いになれたおばあちゃんやお母さんに任せがち)。

 ③塩のみで混ぜた納豆(必ず塩のみ!)を乗せる。

 ④円を半分に折りたたむように、餅で納豆を挟む。

 ⑤できあがり。


 餅と納豆である。食材の相性的に失敗する筈のない組み合わせなので、来年の正月に普段と違う餅の食べ方に挑戦してみたくなった時にでもおためしください。なお、しつこく念をおすけども納豆餅を作る際に納豆に混ぜるものは塩のみです。アジシオとかの食卓塩ではなく、伯方の塩とかのああいう塩で。量はお好みで構いません。添付のタレとか醤油とか使わないように。この辺の調味料をつかうと何故か美味しくないのです(我が家の納豆の薬味が塩のみだったのはここが起原だと思われる)。


 母方の祖母の家では②の工程で黄な粉をまぶしていた。どうもこうして黄な粉をまぶすのがトラディショナルな作り方らしいが、「甘いのと塩気が混ざり合ってるのがなんかイヤ」という理由から黄な粉を省略するのが我が家のスタイルとして落ち着いた模様。



 ――と、決してケンミンショーあたりでとりあげられることもないごくごくマイナーなローカルフードを取り上げたのは「私は納豆を常食する京都府の一部エリア出身である」と説明したいためであった。――個人の嗜好の問題で納豆を食べることは大きくなるまで敬遠していたけれど。


 納豆を食う民の存在する京都府の一部地域……、そこはぶっちゃけ単なる田舎である。

 嵯峨野線と国道九号線に依存する典型的なロードサイドである。山内マリコさんの『ここは退屈迎えにきて』を読んだ時、全国展開するチェーン店の看板が並ぶ幹線道路の風景を車から眺める主人公のうんざりした描写をみて「これ映像化するとき九号線でロケできるな」と思ったものだ。

 なぜか定期的に某農業アイドルが食材を求めてロケにきたり、再来年の大河ドラマの主人公に選ばれた人に由来する史跡もあったりで、探せば地域の魅力というのも見つけることはできるのだが、住民の意識としてはやっぱり「田舎、郊外、ロードサイド」以外のなにものでもない。


 さて、京都といえば世界に名だたる観光都市でもあり、伝統の街であり、千年の都でもあり、学生の街でもある。そして近年は小説や漫画の舞台としても屈指の人気を誇る場所でもある。

 古くは山村美紗あたりに起原があるのかどうかしらないが、ともあれ講談社ノベルス系のミステリで魅力的な探偵たちが推理を繰り広げたり、森見登美彦さんは万城目学さんがデビューしてからは京大生がなんだかファンタジックな体験をする物語の舞台として脚光を浴びたりした結果、最近ではライト文芸やらキャラノベと言われる界隈で量産されるストーリーの舞台に好まれるようになって久しい。

 歴史と伝統がある反面新しもの好き、観光客でごったがえす通りの裏では下町めいた風情の漂う地域もあり、何気ない街角に史跡が潜んでいてどこかに異界の入り口も開けていそうな、はんなりほっこりであやかしな京都……。

 ハイハイ魅力的ですねー! 素敵ですねー! 物語にしたくなりますねー! でもそんなん京都市の一部地域だけやからなー! せいぜい京阪沿線だけの世界観やからなー! 基本的にあいつら御池通りと烏丸通りで囲まれたエリアで生きとるからな! 

 とまあ、そういった物語群にはこのように子供っぽく敵愾心むき出しになってしまう自分がいるのだが、一応理由がある。私は京都府の出身だが、県民性といった意味て言う所の京都人ではないためである。そして通っていた大学のエリアの問題もあって、左京区を地元や馴染みの遊び場として認識できない。あくまで遊びに行くところ、である。


 京大出身作家バブルで吉田山近辺は物語の過密地帯になった結果、目端のきく作家は西陣あたりに目をつけているようだけれども、とはいえ西大路より以西は未だ物語の過疎地である。過疎地というか僻地である。京都物語物件に魅力を見出すブローカー型作家はそろそろ嵐山や太秦あたりに目をつけているころではないかとみるが、そこはやっぱり例外だ。西大路以西、鴨川ではなく桂川が流れるあのエリアは様々な物語たちできらめく左京区とは異なり、キャラクター映えする物語が非常に生まれにくい一帯である。原野商法という言葉で使うときの「原野」が相応しいように思う。

 そして、フィクション的には過疎地で僻地な原野を横切るのが、国道九号線でありJR嵯峨野線である。


 納豆を常食する京都府の一部地域の民にとって、京都とは最寄りの都会でしかない。そして、「京都」も国道九号線とJR嵯峨野線から見える眺めを指す。


 縦貫道が出来る前に通った、老ノ坂峠のうねうね道(車酔いする人にとっては地獄)。

 縦貫道出入り口に展開されるラブホと墓場と洛西ニュータウンの織り成す風景。

 昔はえげつなく込み合った千代原口。

 最近は道路事情もよくなったようで、九号線を利用して京都市内に向かう親の車から流れるKBS京都のラジオ番組内のCMで同じみ、焼肉の天壇の立体駐車場が見えるまで随分楽になった。子供の頃は本当に全く車が進まなくって渋滞嫌いの子どもにあの道程はひたすらきつかった。

 嵯峨野線は嵯峨野線で今は複線化されたらしいが、以前は一時間に二~三本しか電車がなかった。その上、城崎や天橋立など日本海沿いの観光地へ向かう特急の出会いのせいで平気で待たされる。うっかり各駅停車に乗ってしまうと本当に地獄。

 京都駅でも嵯峨野線の地位はかなり低いのか、ホームはかなりの果てにあることでも有名。昔は山陰線の一部だったらしいせいか、あるエッセイストによる鉄道エッセイで「山陰に向かうという気持ちを高める薄暗さ」といったような、通勤通学電車として利用している地域住民の神経を絶妙なソフトタッチで逆なでするようない言い回しで紹介されていたりしたのを読んだ覚えがある。

 嵯峨野線の太秦駅から円町、二条、丹波口を出て途中あたりが高架になっていて高い所から右京区の町並みを見下ろしたり眺めたりすることになるのだが、マンションにスーパーにパチンコ屋が見えたりしてやっぱり古都らしい趣を一切感じたことが無い。

 

 いわゆる京都とは、古都とは、一体どこにあるのだろう……と考えながら、円町から二条間のカーブに身を任せたりしていた学生時代にぼんやり考えていたことは、このエリアは京都のバックヤードなんだろうなということだった。

 日本が誇る観光都市で千年の都で――という対外的な京都の裏側、舞台裏。化粧を落としたすっぴん。そんな所か。


 納豆を常食するエリアで育ち、国道九号線と嵯峨野線を通して京都を見て育った人間には、県民性の本などで語れる京都人の京都意識や京都文化を異文化でしかない(実際、本当に京都市で育った人たちからは明確に区別される。それが当たり前にネタにされる。私の出身地とはそういう地域である)。

 異文化でしかないのに、「京都ってお高くとまっていて嫌い!」みたいな京都アンチの矢面に立たされる場所では、京都府民であるというだけで連座させられる。

 そのくせ結構有名な県民性擬人化漫画では、京都ではなく兵庫県の属性として擬人化されていたりする(※1)。


 そういう人間が京都に対して素直な愛着をもてるわけがなく、また各ある京都礼賛本に気分をアゲることができるわけもない。

 かといって地元や最寄りの街としての愛着がないわけでもなく、批判されたりすると「いやいやそんなことはない。いい所はある」と擁護したくなるところもあり、非常に複雑な思いをいだかせる土地である。



 そんな人間の気持ちに一番しっくりくる京都本、それがグレゴリ青山著『ナマの京都』である。

 京都市の出身ではあるけれど根っからの京都人ではない、そんな作者が実際に体験してきた京都の日常風景を元にしたエッセイ漫画だ。

 バイト先でいかにも京都! なイケズをくらわされて震え上がった思い出。友達と立ち寄った餃子の王将の思い出(京都府外の友達に「今度旅行で行くからどこか美味しいところ教えて」と頼まれて「お、王将……」と答えるしかなかったというエピソードのリアリティ)。KBS京都で昔やたら流れていたCMの思い出(岩田呉服店や亀岡山田団地……!)とか、とにもかくにも飾らなくてぜんぜんはんなりもほっこりもしていない、別に毎日おばんざい食べたりしてるわけでもない、普通の人々が当たり前に生活している京都のくらしぶりが描かれている。

 それだけでも京都に対して非常に拗らせた思いを抱いている人間にとってはかなり嬉しかったけれど、一番テンションが上がったのは「未来くん」について触れられていたことだろう。


 未来くんとは、1989年の京都国体のイメージマスコットである。今でいうゆるキャラだ。

 聖火らしき松明をもって走る、牛若丸のような少年。それが未来くんだ。白目もなくハイライトすらない黒一色のカマボコ状の目に終始笑顔の彼はなんとも不気味だ。

 未来くんの詳しいビジュアルに関しては「京都国体 未来くん」で検索すると出てくるのでとりあえずググってほしい。そして彼のことをしばらく見つめて欲しい。せんとくんのようなアッパーさには欠けるが、見ているとじわじわと不安になってはこないだろうか。絶妙な薄気味の悪さを放つこの造形、これぞゆるキャラという貫禄に満ち満ちている。お前らはもうサンリオとかサンエックスと同じ土俵に上がって勝負しろ! と言いたくなるような完成されきったファンシーさや、テレビサイズやネットニュースにちょうどいい塩梅のキモカワイさを身につけだした昨今のゆるキャラが持ち得ることのないこの味、この雰囲気。彼が世にはびこった時代はみうらじゅんがゆるキャラの概念を発見するはるか以前だったのが非常に悔やまれる。


 1989年前後、世はバブル景気の真っただ中、この未来くんが何故か京都府のあちこちに姿を表したのだ。今となっては何故なんだかよくわからないが、京都府が一丸となって京都国体をもりあげようとしていた結果、かれの絵が描かれた看板があちこちに掲げられ、公共の配布物には彼がプリントされ、そして粗品として彼のキャラクターグッズが各家庭に舞い込んできた。

 おそらく地方自治体に一億円がばらまかれたらしいその当時のふるさと再生事業だかなんだかと関係していたんだろうなと後から考えることはできるものの、社会的な事柄に関心の薄い子供にはなぜこんな全く可愛くもなく親しみも持てないキャラクターが町中に叛乱するのかがまるで分からない。京都国体というものをどうしてこんなに盛り上げなきゃいけないのかもわからない。子供の疑問をさしおいてあふれかえる不気味なキャラクター・未来くん……。


 自分のあずかり知らないところで何かとんでもないことが起きている。世界がちょっとずつ自分の知らないものに変化していっている。しかし身近にいる大人はだれも説明してくれない。

 未来くんが町に溢れていた時期はちょうど京都縦貫道の工事中でもあって、私の住んでいたエリアのあちこちで土木工事で盛んだった。みなれた風景が一変することが当たり前だった。それが子供心にはとてつもない不安であり、脅える心に未来くんの全く可愛くないビジュアルがダメ押ししてくれた。

 変容するという世界の不気味さに、たった一人で耐えていかねばならない。

 大げさではなく、彼は生まれて初めて直に接する理不尽というか不条理といったものの象徴だった気がするキャラクターである。


 そんな未来くんを堂々ととりあげてネタにしている人は、知る限りグレゴリさんしかいない。

 京都国体終了後、誰からも忘れ去られていた未来くんはタクシー運転手となって乗客に恨み言を口にしながら深泥池に誘おうとしたり、京都タワーを訪れてシンパシーをいだいたり、哀愁漂うキャラクターとして活躍していた。


 京都国体終了後は未来くんのことなど綺麗に忘れていた(ていうかいつまでも記憶にとどめておきたくないキャラクターだった)が、この本で彼に再会した時は何とも言えないなつかしさと嬉しさで大笑いしながら胸がいっぱいになった。

 

 そこからグレゴリさんの未来くんというキャラクターを通し、はんなりでもほっこりでもインスタ映えもしない、結構マヌケで汚くてみっともないバックヤードな京都の風景への愛情を感じて思うさま共感を寄せてしまうのだった。


 以来、なんとなく自分の中では「未来くん」について語れる京都の人は信用していいという基準ができたのだが、先も言った通り彼について言及する人はグレゴリさん以外にしらないのだった……。そこが寂しい。


 あとまあ、とにかく京都というものをやたらありがたがる人をみかけると「京都なんていうたかて、未来くんをはびこらせたようなとこやで? そんな大層なもんちゃうで? あんまり期待するとガッカリするからほどほどにしとき」と声をかけたくなるのだった。



(※1)

 なのであの漫画に関しては結構なアンチ根性をたぎらせている。

 一都道府県につき一人って約束事をまもれないなら、ハナから擬人化なんかすなー! と言いたい。 


 この辺の事情もあって、県民性、国民性といったものに自分を合わせに行く人の発言がちょっと苦手だったりもします。


※以下はおまけです※


・このような、京都人ではない京都府民の複雑な心境とコンプレックスを元に「この辺を舞台に京アニも食いつくようなお話を作ってやるー!」という根性を炸裂させてつくって、見事に失敗したお話がこちらになります。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884507931


 キャラクターに関しては愛着はありますし、「この原野だか荒野だかでせめて私ぐらいは物語を……!」という野望がついえたわけでは無いのでまた挑戦してみたくはあるのですが、あの辺を舞台にライト文芸をやるのは本当に難しい……。

 別マ系少女漫画イラストの似合いそうな保津川下りの船頭さんと女子大生の恋愛とかを夢想したことはありますが、やっぱりムズイものです。


・宇治市あたりをモデルにされていた筈ではありますが、赤染晶子さんの小説、『WANTED!!かい人21面相』はこれぞ京都府! というマヌケさが出ていて素晴らしいものでした。タイガースにかぶれてる理不尽な体育教師が指導する格好悪いダンスをなんだかわからないままに踊らねばならに、とか……。

 赤染さんの小説はよくわからないけれどついつい笑わずにいられないところがあり、愛着を感じておりました。もっと小説を読みたかった方の一人です。

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