第7話

 中学の制服を身に着け少しだけ大人びたクレハは、全ての初めてに少しだけ戸惑い、だがそれほど問題もなく学校生活を送っていた。成績は平均よりもよく、俺は何となく誇らしかった。近所のガキどもが親に反抗しているのを見かけるたびに、俺のクレハは不平ひとつ言わず、俺のことをまだ慕ってくれていて、ありがたかった。

 クレハの通う中学では、部活動とクラブ活動を選べるようになっていて、前者は本格的なもの、後者は時間のある時に自由参加、という結構気楽なものだった。好奇心旺盛で、気分屋のクレハは、やはり気楽なクラブ活動に入った。しかも掛け持ちときた。文芸クラブと、映画鑑賞クラブ。どっちもクレハの好きなことだった。俺は、毎日クレハの帰りが俺の帰宅時間よりも遅いので、少しがっかりしたし、大人気のないやきもちを妬いて困らせもした。バカみたいな俺の要求を、クレハは聞き入れてくれて、週末は二人で何かをすると決めた。それは本当に他愛も無い事で、映画を見に行ったり、家で本を読んでゆっくりしたり、ファミレスで少しいつもと違うものを食べてみたり、というものだった。その時に限って、クレハはいつも控えている肉を食った。俺はやっぱりこいつも肉が食いてえんだな、と少しかわいそうになった。しかし、それはたまにする自分への褒美みたいな感覚で、クレハは嬉しそうに言うんだった。


「今日は、特別なんだ。だからいいでしょ、お肉?」

「ああ、今日は特別だ、しっかり食え」


 だが知っていた。たらふく食った後、こいつはすぐにトイレに駆け込むんだ。きっと、食ったもの、全部吐いているんだ。俺はそんな徹底したクレハが誇らしかったし、立派に自分の意志を貫く英雄のように思えた。俺たちは幸せだった。こういう日常が永遠に続くんだと思っていた。こういう、だらだらして、何も恐れることのない、普通の日常が。


 妹が家に戻ってきたのは、あの時と同じ、冬がもうすぐそこまで、という時期だった。夜遅く、玄関を激しくたたく音で目覚めた。


「どちら様ですか?」

「私、私よ、にいさま、開けて。入れて」


 少し太めでしゃがれた、だが聞き覚えのある妹の声だった。俺は慌ててカギを外し、ドアを開けた。湿った秋の冷たい風が、俺を通り過ぎ、暗闇の中、一人の女が立ってこっちを見ていた。そいつはずいぶんやつれた形相で、年よりもずいぶん老けて見えた。体つきは、想像以上に醜く、あの女神の面影はどこにもなかった。手足は醜くたるみ、髪は緩やかなパーマネントを掛けてあり、黄色に近い茶色に染めてあった。化粧は濃く、夜の女そのものだった。タバコ臭い、堕落と死の香りが一面に立ち込めた。俺は立ちすくんで、何も言えなかった。


「にいさま、ごめんねー。また逃げてきちゃった。一緒に住んでいい?」

「七海なのか?」

「そうよ、わたしよ。醜くなっちやったので、驚いたでしょう?色々あったのよ。上がるわよ」


 そう言って彼女は強引に、居間に入っていった。


「あー寒かった。うー、暖かーい。あれ?私の子供は?」

「七海、クレハと名付けたんだ。明日学校だから、もう寝ているよ。」

「起こしてきなさいよー。久しぶりの再会なんだから。ほら、早く」

「七海、明日でいいじゃないか」

「どこに寝てるの?私が起こして、びっくりさせてあげる」


 そう言って、目の前の悪夢のような存在は寝室に強引に入っていった。俺は止めることもできず、黙ってみていた。俺は、今目の前で起きていることの状況がつかめず、ただあたふたしているだけで、しかし体は動かない。俺は情けねえ人間だ。あいつを止める事すらできなかった。醜い怪物みたいな、女神の面影すらねえ、欲望の塊みたいな女を止める事すらできなかった。


「クレハー、起きてー。私、あなたのお母さんよ」


 おれは、電気をつけて、強引に布団をはがし、揺さぶる化け物を片目に、クレハを見ていた。


「誰?眠いよ、とうさん?!」

「起きて、母さんよ。クレハ、ごめんねー。会いたかったー」

「…母さん?」


 クレハは一瞬たじろぎ、怪物をじっと見つめていた。クレハの持っていた写真の女神とは、ずいぶん違う生き物がそこにいるんだもんな、驚くさ。


「大きくなったわねー。今いくつなの?ああ、こんなに男前になって」

「十三です、本当にあなたが母さんなんですか?」

「そうよー、なに、期待外れ?」

「いえ、でもどうしたんですか?こんな時間にいきなり」

「あら、嫌ね、かしこまっちゃって。だーれ、こんな子に育てたの?」


 七海がじろりと俺のほうを向く。ニヤリとして、普段は呼ばない俺の名前で呼ぶ。


「幸助ね。幸助がこんな子に育てたんでしょ?」


「さあ、もう陰気な暮らしはおしまいよ。私が来たんだから、全部うまくいくわ。ああ、疲れちゃった、お風呂入るわ」


 そう言うと、七海は風呂場に消えていった。空気が悪い。搔き乱された静寂が、不快に揺れているようだった。


「とうさん、本当に母さんなの?」

「そうらしいな。暫く一緒に住むことになりそうだ。すまないな、さあ、もう休みなさい」

「うん、とうさん、おやすみ」

「おやすみ」


 風呂から出てきた七海は、ますます醜く俺よりも若いはずなのに、俺よりも随分年上に見えた。気怠げなのは変わらず、しかしその気怠さは、年増の貫禄の入った気怠さだった。七海は居間のソファーに腰掛け、タバコに火をつけた。欲望の塊だったあの日の七海は、絶望と腐敗の気を持ち帰ってきた。気分が悪かった。俺の平穏な日々を搔きまわさないで欲しかった。


「なあに、にいさま、あの子に自分のこと、とうさんって呼ばせているの?」


 再度ニヤリと陰気な笑顔を見せて、黄色い歯を惜しげもなくさらす、それは確かに七海だった。


「ねえ、呆れたー。ふふ、まあいいわ。こんな思ってもなかった形で夫婦になれるなんて、ようやく結ばれたんだわ、私たち」

「七海、俺はあいつの父親だ。大切に育ててきた。お前があいつを置き去りにしていった日から」

「私だってね、置き去りにしたくなかったのよ。わかる?今まで耐えてきたの。あの悪魔みたいな男から」

「七海、どうか、壊さないでほしい、俺とクレハの日常を」

「分かってるわよ、そんな事。私だって、何時までここにいるか分からないんだから」

「今まで、何してたんだ?追われているのか?」

「そうね、あの人がこの辺りうろうろしてたから、あわててあの子置いて出てきちゃったのよ。ずーっと、会いたかった。あの子に名前を付けてたのよ。私の中では、ずーっとヒカル君だったの。大きくなっちゃって、何にも思い出がない。私、ばかみたい。あの人が死んで、やっと自由になれたと思ったのに、あの人には借金が沢山あって、また逃げてきたの。私、とことんついてないわよね」

「ここ、見付かったらどうするんだ?」

「いいの、もう疲れちゃった。見付かったら、その時に考えるわ。今は、もう、何にも考えたくない」

「お願いだ、クレハに迷惑はかけないでくれ。俺には何をしたっていい、だがあの子だけには、苦労はかけたくない」

「ふん、何さ、偽善者ぶっちゃって。あんたが私にした事、どれだけ私を傷付けたかも知らないくせに。私は、私なりにあんたに尽くした。報われなかったけど。それにあの子は、私が産んだ子なんだから、私が何しようが、勝手でしょ?違う?」

「クレハは、幸せにならなきゃいけないんだ。俺たちの、汚れた血の呪いを断ち切らなきゃいけないんだよ。俺は、あいつを神様の様に崇めて育てたんだ、あいつにはそれなりの器量があるし、才能だってある。普通に落ちぶれてはダメな存在なんだ」

「なにそれ、気持ち悪いんだけど。あ、あんたもしかして、私と同じようにあの子を育てていたの?不気味で嫌らしい目であの子を見て、触れもせず、女神さま、だとか、神様、だとか勝手に呼んで、特別な気にさせて、そして何かのきっかけで、それを突然やめる。私、捨てられたのよ、あんたに。知らないでしょ、私がどれだけあなたを好きだったか。慕っていたか。でも、もういいの、もう過ぎたこと。私は汚れてるし、醜いし、最低」

「七海、それは違う」

「やめてよ、汚らわしい手で触んないで。もう、寝るわ。私どこで寝ればいいの?」

「寝室は、クレハが使っている。ここか、仏間があいているけど」

「じゃあ、仏間、私の部屋にしていい?極力、あんたたちの中は探らないから、安心して、神様ごっこでも何でもすればいいわ。おやすみ」

「ああ、おやすみ。あ、布団は押し入れに入ってるから」

「そんなこと、わかってる」


 俺は、恐ろしかった。俺の築いてきた大切なものが、あっけなくあの汚らわしい手で壊されていくようで。七海の事は気の毒には思えても、かわいそうだとは感じなかった。あいつが、全部自分で選んでやったことだ。俺だって、そうしてきた。全部自分で決めてやってきた。何もあいつに強制した覚えはなかったし、クレハにもしているつもりはない。俺は、自分がそう思っているだけで、もしかしたら、他の人間にはそうじゃないのかもしれない。俺は、自分が思っている以上に、人でなしなのかも知れない。


 七海の登場は、少しだか、それなりにクレハを違う生き物に変えていった。女、という得体のしれない物体が、俺たちの生活空間にいるのは、あやのがクレハの世話をやめて以来だった。あやのが、白なら、七海は赤とか、紫だった。それは、彼女の着ける下着の色に関係していたのかもしれない。七海は決まって、居間の鴨居に自分の下着を干した。そこに並ぶ、見た事もない紐のようなひらひらが、俺は、最初それが下着という事すら知らなかった。それは、赤や、濃いピンクや、紫だった。年のいった、七海のような風貌の女が着けるには、いさかさ如何わしい気もする類の色だった。ある時、七海が外出中に、クレハがかしこまって聞くんだ。


「ねえ、とうさん、母さんが居間のところに干している、あれって、何なの?色が濃いやつ」

「あ、あれか?何だろうな?」


 そう言うと、俺は確かめるべく、それを改めてじっくりと見た。そしてそれが、ブラジャーだった事に気づいた。そして、紐みたいなのは、パンツだった。俺は、ぎくりとして、クレハを見た。クレハは、無垢な瞳でこっちを見ている。


「クレハ、これは、あれだ。女の人の、下着だ」

「下着?母さんの?何でこんな所に干すんだろうね?」

「嫌か?」

「ううん、別に構わないけど、僕がもし下着を家の中に干す様な事があったら、僕はきっと自分の部屋に干すと思うんだ」

「そうだよな」


 俺はそう言って、その物干しを七海の部屋と化した、仏間に移動させた。それ以来、七海は自分の下着を仏間に干すようになった。

俺が七海の生活を干渉したように、七海も俺の生活を干渉しだした。まず初めに、口出したのが、食生活の事だった。


「ねえ、おかゆだなんて、笑えるんですけど。あんたら何年早く老人になったわけ?クレハなんて育ちざかりの中学生じゃない。ご飯はお茶碗一杯食べて、お替りするもんじゃないの?こんなにひょろひょろして、もう、沢山食べたらどうなのよ!」

「母さん、これは僕がとうさんに頼んで始めた事なんだ、だから色々言わないでよ。これには、色々理由があるんだから」

「理由って、何よ」

「七海、いいじゃないか」

「いやだ、理由が知りたい。教えなさいよ、クレハ、私は、母親なんだから」

「母さん、僕ね、成長したくないんだ。ただそれだけだよ。ね、いいでしょ」

「どういうことよ、成長したくないって。大人になるのが嫌なの?」

「七海、もう止めてくれ」

「いやよ、自分の子が悩んでるのに、口出ししないなんて!」

「僕、男らしい体つきになるのが怖いんだ」

「何言ってるの?幸助、あんた変なこと吹き込んだんじゃないの?クレハ、成長するっていう事は、すごく普通のことよ。男らしい体つきになるって、誇らしいことよ。だから、何も恐れることはないのよ」

「僕、男の体にはなりたくない。このまま、子供の体でいたい」

「それは無理よ。あんたはやがて、こんな事してても、大人になるのよ。そういう風に、人間の体って出来ているのよ」

「とうさん、そうなの?僕が今までしてきた事は、無駄だったの?」

「クレハ、そんな事はない。母さんはただ意地悪したいだけなんだ」

「やめてよ、そんなウソ子供に吐くって、すごく残酷じゃない」


 俺は、目の前が真っ暗になるような感覚に襲われた。そうじゃないんだ。俺は、ただクレハを守りたかっただけなんだ。


「クレハ、あんたのお父さんは、すごく嘘つきで、残酷だわ。本当のことを言えない親なんて、親じゃないわ」

「七海、もう止めろ。争い事は、嫌なんだ。お願いだ」

「なによ、偉そうに。汚らわしい。そうやって、嫌らしい目つきで、クレハの事も見てたんでしょう」

「母さん、もうやめてよ。とうさんは、何も悪くないから。だからやめてよ」


 俺は、静かに泣いていた。この、俺たちの平和だった世界が、ある日突然、何の前触れもなく戻ってきた、怪物に乱されるのが、たまらなく不快だった。


 七海が戻って来てから、俺は居間のソファーで寝るようになった。クレハと一緒に寝ていたら、きっと七海は黙っていないだろう。懺悔も、祈りも殆どしていない。俺たちの神聖だった仏間は、七海の色めいた、しつこく甘いパフュームの香りによって汚された。俺たちの場所なんて、もうどこにもなかった。あるのは、俺の場所、クレハの場所、七海の場所だった。クレハの心臓の音に癒されたかった。俺は、赤ん坊になって、クレハの羊水の中に浮かんでいたかった。そこで体温と同じ温かさの、安心感に満たされていたかった。ただそれだけがもう出来ない、遥か昔の事のように思えて、俺は果てしのない焦りを覚えた。

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神々の嫉妬、無責任な母性 まみすけ @mamisuke

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