第6話
次の朝、小学校から連絡網が回ってきて、少女が一人行方不明により、集団登校するので所定の場所に集合という事だった。俺の心臓は高鳴り、不気味な高揚感と、その一方で少しの罪悪感を覚えた。俺はクレハを起こして、言った。
「神様、神様、懺悔します」
「とうさん、どうしたの?」
俺はクレハがまだ小さいころから、日課のように懺悔してきた。懺悔するときは必ず、クレハを神様と呼んだ。その度にクレハは俺を許してくれるんだ。俺はクレハから、クレハの中の神様から許されることに喜びを覚えて、安心してきた。でも、今回の罪は今までとは比べ物にならないほど大きい。俺は不安だった。神は俺を許してくれるのだろうか?
仏間は祈りをしたり、懺悔をする部屋にしてあった。クレハは神様用の立派なソファーに腰かけ、俺はその前に跪く。いつもクレハは落ち着き払い、その時ばかりは神様の威厳の顔つきで俺を見つめる。それは幼いころから変わらなかった。
「罪びとよ、許しを請いなさい」
「神様、俺は、俺は取り返しの付かねえ事をやっちまった。」
「知っていますよ」
俺はぎくりとした。知っているだと?まだ何も喋ってもいねえのに、こいつは今までこんな事を言ったことがなかったし、心の片隅では、俺は本当はクレハの事を神様だなんて思っていなかったのかもしれない。神様として俺が作り上げたクレハに心酔していた。俺は、俺のいいように動く神様が好きだったんだ。それなのに、今日の神様は違った。俺はいよいよ本当に恐ろしくなってきた。
「あ、えっと、あの、神様…」
「とうさん、いいんだよ」
そういうとクレハは俺の頭を抱え込み、やさしく抱擁した。俺はその偉大なすべてを包み込むような慈悲感と、神懸った温もりに涙があふれてきた。いつの間にか、赤ん坊のように嗚咽をあげて泣いていた。
「とうさん、安心して。僕は父さんを許すよ。何も怖くないよ。あの子は、残念だっただけなんだ」
「クレハ、何を知っているんだ?」
「とうさんは、ただ消えてほしかっただけなんでしょ?僕に意地悪する子に」
クレハは俺の手を握り、子供とは思えないような目でしっかりと俺を見つめ、諭すように言った。
「あの子は今、幸せな場所にいるよ。いじめも、偏見も、憎しみもない場所。だからとうさん、安心して。僕はとうさんの事ちっとも悪いって思ってないから」
「神様……」
その日俺はクレハに学校を休ませた。電話口で担任は、過保護過ぎます、とイライラする口調で捲し立てた。俺は何も言わず受話器を置くと怒りが募ってきた。あのバカみてえな担任も制裁せねば。
少女の死体が見つかったのは、その日の夕暮れ時だった。
貯水池の底に沈んでいた死体を捜査員が引き上げた。小さくテレビのニュースにも出た。しかし運がいい事に、不幸な事故として片づけられ、俺は変な安心感を覚え、神様の存在の強さに核心的な喜びの類と、心が変に納得するのを感じた。これはもういよいよ俺が神に選ばれし人間になったのだと確信した。
クレハは居間のソファーに座り、本を読んでいた。あいつは字が読めるようになると、毎日のように何かしら読んでいた。最近では、俺の本棚にある難しい本まで読み始める様だ。
「とうさん、これは誰?」
本の中から二枚の写真が出てきた。それは親父が持っていた本で、ずいぶん難しい事が書かれているんだが、資料として沢山の興味深い写真が載ってあった。なんでそんなところに挟まれていたのか、それは妹と愛人の写真だった。
「これは、お前の母さんとばあさんだ」
「美しいね」
まだ誰も不幸ではない、幸せな日々に撮られた写真だった。あどけない顔つきの七海が、壊れそうな笑顔でこっちを見ている。誰がこんな展開を想像しただろう?愛人はしっとりとしたすました顔で写っていた。もうこの人はこの世にいない、そして俺の母親もいないんだと考えると、変な不安がこみあげてきて、気分が悪くなってきた。
「そうだな、お前も俺に似なくてよかったな」
「とうさん、母さんはどこに行ったの?」
「ずいぶん前に出ていったきり、帰ってこないからな。俺もよくわかんねえよ」
「とうさんは、母さんのこと、愛していた?」
「まあな」
「母さん、戻ってくるかな?」
「戻ってきてほしいのか?」
「よくわからない。でもみんな母さんがいるんだ。僕は、母さんってどんなのかなあ、って思うことがたまにあるよ」
「そうだな、俺は、母さんの代わりにはならんよな?」
「そんなことないよ。とうさんは、母さんみたいだよ、ご飯もおいしいし、色々器用だし、僕、とうさんが十分母さんの代わりになっていると思うよ」
「クレハ、ありがとうな」
「とうさん、ありがとう。大好きだからね」
クレハは、俺の目の前でどんどん成長していって、時に突拍子もないくらい、恥ずかしい言葉で自分の気持ちを表現する。俺はそれがうれしかったし、ここまでの愛情を表現してくれる人間に、今まで出会ったことがなかった。
「とうさん、この写真貰っていい?」
「ああ、持っていなさい。たった二枚だけしかないから、大切にしまっておきなさい」
俺は怖かった。いつか、クレハが本当の事を知る日が来ることが。俺がこいつの父親じゃないと知ったら、どんな反応をするのだろうか?俺の事をそれでも好きでいてくれるのだろうか?それとも、軽蔑して去っていくのだろうか?
俺はこいつが生まれてすぐに、そこにいた。初めて抱き上げた時の、あの感触を今でも覚えている。それは何にも代えがたい安心感と、例えて言うならば、母性というもんだ。女でも、母親でもねえ俺が言う母性なんて、きっとゴミ屑のようなもんかもしれない。でも、俺はクレハを愛したし、俺のしたこと、してやったこと、全部自信をもっている。俺は、クレハの母親でもあるし、父親でもある。実の母親は、逃げたんだ。こいつを捨てたんだ。俺があの時ドアを開けてクレハを抱き上げていなかったら、こいつは、もうこの世に居なかったかもしれない。俺がこいつの親なんだ。誰にも渡しやしない。
クレハの担任の女が、学校を辞めたのはそれから暫くしてからだった。一身上の都合による退職で、次来た男の先生は大らかで、クレハも気に入ったみたいだった。
「とうさん、神様は、懺悔しないの?」
「どうしたんだ?急に」
「僕、あの先生を辞めさせたんだ」
「何言ってるんだ?あいつは、自分の事情で辞めたんだろ?」
「ううん、僕ね先生に毎日、加奈ちゃんを殺したのは先生なんでしょう、って囁いたんだ」
「加奈ちゃんって、誰だ?」
「とうさんが殺した、赤いカーディガンの女の子」
「何でそんなことしたんだ?」
「だってねとうさん、僕はもう、とうさんがこれ以上罪深い人間になることに耐えられないんだ」
「だから、お前があいつを退職に追いやったのか?」
「うん。だからね、僕も懺悔しないとって思ったんだ」
「いや、いいんだ。神様は懺悔なんてしなくていい。それにお前は、あの嫌らしい毒のような女を導いてやっただけなんだ。本来いるべき場所に戻してやっただけなんだ。だからお前が懺悔する必要なんてないよ」
「そうか。じゃあ、僕あの人の為に悲しくしなくて、いいんだね?」
「ああ、もちろんさ」
「とうさん、僕もう疲れちゃったから、先に寝るね」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
寝る前に俺たちは、外国人みたいにいつも抱擁した。俺は、いつもその頼りない華奢な体を抱き寄せるとき、妹の姿が目に浮かんだ。それは、決まって幼いころの妹の姿だった。俺が恐れおののき、触れることを躊躇したその聖母のような妹。それに反して、俺は安心してクレハを抱きしめる事が出来た。神様と崇めて、恐れているはずの存在なのに、触れる事が出来た。触れると、安心した。俺は、触れることで、クレハの神懸ったものをもっと敬うべき存在に近付けれると信じていた。妹に触れられなかったのは、心の奥底で、あいつが汚らわしい存在だと知っていたからなのかもしれない。
存在している肉体と魂が見事に調和しているクレハは、神様だった。心は清く、汚れを知らず、真っ白の陶器のような白い肌、吸い込まれるようなはしばみ色の瞳、長く細い儚い手足、中性的で、嫌らしさのない肢体。成長するたびにそれは神懸り、俺は誇らしかった。
クレハが小学六年生になった頃だった。俺が仕事から帰ると、暗闇の中電気もつけず、一人ぼーっとするクレハの姿があった。その姿はいつにもまして悲しみを携え、ひどく落ち込んで見えた。そして病人のように青白い顔をしていた。
「クレハ、おい、電気もつけねえで、どうしたんだ?」
「とうさん、おかえり」
「具合でも悪いのか?」
「とても気持ち悪いんだ。ぼく、学校で吐いてしまったんだ」
「そうなのか?病院に行くか?」
「すごくすごく嫌なことがあったんだ」
「どうした?」
「僕、大人になりたくないよ」
「何か、されたのか?」
「ううん、今日、保健の授業で赤ちゃんが生まれてくるところを見たんだ」
俺は、凍り付いた。ひたすら隠してきた、世の中の汚らわしいことを学校が率先して教えることを俺はどこかで忘れてしまっていた。男女の体の仕組みの違い、どうやったら子供ができるか、女性に起こる毎月の倦怠な血の祭り。俺は、あの妹が女になった日のことを思い出していた。トイレに駆け込むと、食ったものを全部吐き出してしまった日のことを。
「クレハ、済まない事をしたな」
「ううん、とうさんは何も悪くないよ」
「ベッドに寝るか?」
「とうさん、僕も大人になるの?」
「僕、気持ち悪いよ。僕、このままがいい。僕、神様なんでしょ。だから、成長しなくていいよ」
「クレハ、わかった、俺が何とかする」
「とうさん、やっぱりとうさんは凄いや」
何とかすると言ってしまったものの、人間の成長を止めるには、死ぬしか思い当たらなかった。俺はクレハと一緒に死んでしまう事を考えてもみた。しかし、まだ俺にはそんなことできなかった。恐かった。俺はまだ自分がかわいかったし、クレハの傍にいて、こいつを見守ってやるという行為に喜びを抱いていた。俺はめっぽう弱い人間だし、クズなのはわかっていた。そして、単純にうれしかった。俺はクレハが大人になる事を恐れたし、クレハも自分が大人になる事を恐れていた。妹は、七海は躊躇せず大人になった。俺の考えていた事と、クレハの考えが一致しているという事は、まだ希望があるように思えた。
春になれば、クレハは中学生だ。きっと身長も、ものすごい速さで伸びていくんだろう。俺を追い越してしまうかもしれない。中性的な、神に相応しい身体つきのままでいて欲しかった。そのうちどんどんと、あいつの体は男らしい身体つきになっていくんだろう。俺は恐ろしかった。クレハも妹の時と同じように、普通の人間に成り下がってしまうんじゃないか、と。
恋をして、反抗的になって、欲の塊みたいな、色めいた仕草や顔つき、そして俺を去っていく。どうにかしなければ、と思っていた所だった。
俺は色々考えて、栄養価の低い食事生活で、成長を抑える、という方法にたどり着いた。ご飯はおかゆにして、野菜中心の生活にした。肉や卵はあまり取り入れず、油なんてもってのほかだ。俺は工夫して、少しでもクレハの負担にならないように、うまい飯を作った。それをクレハはいつもおいしい、と褒めてくれるんだ。俺はクレハに望まれるなら、全力で頑張ったし、望まれる以上の事をしようといつも思っていた。本来母性というものは、母親の為にあるような言葉だ。もしも父性というものと、母性というものが根本的に違うのなら、俺はその母性のほうを強く感じていた。俺は、クレハの為に死ぬ事だってできる。クレハが殺してくれと言ったら、クレハを殺めることだってできる。それほどに、俺の持つ母性は深いものだった。
よく同じ夢を繰り返し見た。母親が赤ん坊の俺を抱えて、青い海に身を投げる。沈んでいったところは温度のない不思議な世界で、俺はあまりにも気分がよくてそのまま眠っちまうんだが、今度目が覚めると、真っ暗な湖に浮かんでいるんだ。それも心地よくて隣を見ると、クレハも一緒になって浮かんでいるんだ。音のない静寂。温度のない安心感。手を伸ばすといる、大切な人間。クレハの手を握ると、あいつもそっと握り返してくれる。そうすると、幾千もの流れ星が、真っ暗闇に煌めくんだ。その夢を見て目が覚めると、俺は決まって泣いた。そして、クレハがちゃんと横にいることを確かめた。俺がこいつを失うときは、俺の死を意味している。俺は、こいつ無しじゃ生きていけない。こいつは、俺の世界の全てだった。
うまくいったのか、クレハはあまり男らしい体つきにならないまま、しかし身長だけは伸び、ひょろひょろした体つきで、小学校を卒業した。
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