第5話

 一週間後、妹は生まれたばかりの赤ん坊を連れて戻ってきた。帰ってくるなり、部屋に閉じこもり、それっきり出てこないのだ。俺は、そのうち何か言って出て行くんだろう、と放っておいた。


 次の朝方、赤ん坊の泣き声で目が覚めた。あまりにも長いこと泣いているので、しびれを切らした俺は寝室のドアを開けた。そこにあいつの姿はなく、ベッドの上に置き去りにされた赤ん坊が、火が付いたみてえに泣いていやがる。俺は全くどうしたもんだかと、その得体の知れねえ物体に近づいて、のぞき込んでみたんだが、いつまで経っても泣くのをやめない。部屋の中を見回してみたが、あいつの荷物はなくなっていて、サイドテーブルの上に出生届けがぶっきらぼうに置いてあった。あいつは赤ん坊にそれだけしか残さなかったんだ。


 俺は人間の赤ん坊をこんなに近くで見たのはそれが初めてだった。得体の知れない、サルみてえな生き物は、何かを訴えかけるように泣いている。きっと腹がすいてるに違いない、そう思って俺は近所のスーパーに粉ミルクを買いに走った。酒を買うはずだったなけなしの金で、驚くほど高額な粉ミルクを買い、息が上がるほど速く走った。


 家に着くと、哺乳瓶がないことに気づいた。もう、金がねえ。どうすりゃいいんだ?こいつが死んでしまう。必死に生きようと泣いている、こいつが死んでしまう。俺は慣れねえ手つきでそいつを抱き上げてみると、命のあまりの重さに俺はひっくり返るかと思った。ふにゃふにゃと思ったよりも柔らかく、ずっしりとしたその生き物は、すごくもろそうに見えて、案外しっかりとしていた。俺はそいつの体温をところどころに感じながら、なぜか神々しい気分になった。そっとそいつを抱きしめると、安心感が内側からこみあげてくるようで、ああ、俺はこいつを守らなきゃいけねえんだ、なんて考え始めていた。そいつも安心したのか、泣くのをやめて、小さい黒い目で俺を見つめるんだ。俺はそいつを抱きかかえ、量販店で小さい哺乳瓶を盗んだ。俺が盗みをしたのはそれが最初で最後だ。その哺乳瓶を使い、なれねえ手つきで俺はそいつにミルクを飲ませた。そいつは必死に哺乳瓶に吸い付き、うまいこと飲むんだ。こんな不思議な生き物が、世の中に存在していたって事を俺は知ろうともしなかったんだ。損した気分だったよ。でも、わからねえ事ばかりだったし、頼れる奴なんてどこにもいなかった。俺はそれでも、真面目にそいつを守ろうとしていた。


 ふと梅雨の合間の美しい曇り空を見ようと庭へ出た。紫陽花の隣に一本のもみじが植えてあったんだが、その木が紅葉していた。珍しいなあと思いながら、俺はふと思い出したように、サイドテーブルに置いてあった出生届けに記入した。紅葉、と書いてクレハと読む。俺はえらくその名前が気に入った。俺は再び自分の崇拝対象が見付かったと、心がひらひらした。今度はもうだれにも邪魔されないし、一から育てることができる。俺はこの世がまだ、腐り切っちゃいないという事を改めて感じたし、俺にも何かを愛せるということを悟ったんだ。


 その日から俺は酒を一滴も飲まなかったし、日雇いの仕事に毎日行った。俺が仕事をしている間、近所に住む同級生の妹のあやのが暇を持て余しているというから、クレハの面倒を見てもらっていた。そいつは少しおかしい奴だったが、俺の言ったことを機械のようにちゃんと守ってくれるので、安心して任せておけた。そいつもクレハの虜になっていった。周りのやつみんなが、クレハの事を好きなんだ。俺は誇らしかった。クレハを立派に育てようと思った。


 日雇いの仕事である程度金を貯めた俺は、今度は定職に就こうと様々なツテをあたった。運よく知り合いの印刷所で、営業の仕事にありつけた。クレハは日に日に大きくなり、俺は何があっても必ずこいつを不幸な目にあわせるもんかと、やけになって頑張った。仕事は無理を言っていつも五時の定時で帰ることができたし、クレハの面倒を見てくれていたあやのが、いつも飯まで作って待ってくれていた。


 あやのは小さい頃から少し風変わりな女だった。ほとんど喋らず、頭が少し弱いのか、人に言われたら何でもするんだ。あやのの兄である俺の同級生は、両親が死んでしまった後結婚もせずにあやのと二人暮らしをしている。あやのには、まともな人間にはない、奇妙な色気があった。周りの男どもは子供の頃よくあやのをからかい、女たちは集団でいじめていた。子供たちの社会には理不尽な制度が多く存在して、特に幼い少女たちは何よりも残酷だった。誰が命令したのだろうか?ある日小学校の校庭で、真っ裸で走るあやのが先生に見つかり、叱られるという事件が発生した。みんな窓から一部始終を眺めて笑っていた。俺は笑えなかった。隣にあやのの兄が涙をこらえて座っていた。


 字の読めるあやのに、俺は箇条書きで決まり事を書いた。それに加え、毎日仕事に行く前にその日やるべきことを書いて渡すのだ。


決まり事

• クレハが泣いたらミルクを飲ませること

• ミルクの作り方は、缶に書いてある

• ミルクを飲ませる前に温度を確認して、火傷をさせないこと

• ミルクを飲み終わったら必ずげっぷをさせる

• おむつのチェックは泣いたらすぐ

• 一時間に一回はおむつをチェックし、汚れていたら新しいのに取り換える

• 汚れたおむつはビニル袋に入れごみ箱に捨てる

• クレハが寝たらベビーベッドに入れる

• 仰向けで寝かせること

• ベビーベッドの中には何もいれないこと

• 電話が鳴ったら出ること、俺だったら指示を聞く、それ以外は切る

• ドアベルが鳴っても出ないこと

• 雨やひどい天気でないときは、必ず一時間程度散歩をする

• 公園や買い物に外へ連れ出す

• 本を読んであげること

• 歌をうたってあげること

• 泣いたら抱っこしてあげること

• クレハの嫌がることはしない

• 何が何でもクレハを守ること

• クレハは神様です


 ほとんど喋る事のないあやのが、クレハに歌ったり本を読んだりする事はないと思うが、それ以外の事はきっちり守ってくれていた。俺も安心して仕事に専念できて、俺は真っ当な人間になったつもりでいた。世界はまだ美しく、俺には希望があって、守るものもあった。死んでいった者の事なんか忘れていたし、逃げて行った奴の事なんか、心の隅にもなかった。


 しゃべり始めたクレハに、俺の事を父さんと呼ばせ、あやのの事はおばさんと呼ばせた。俺とあやのが、クレハの世界の全てだった。俺たちは毎日クレハに跪き、俺たちの愛情を全て捧げることを誓った。そんな俺たちをクレハは、やはり形のない慈愛で返してくれた。クレハは子供の格好をした神だった。誰にでも、同じ笑顔と純粋な愛情を振りまく。俺は神を育てる存在になる事が誇らしく、時に厳しく、しかし正確に愛情をもってクレハを育てた。


 クレハは三歳を過ぎる頃には、簡単な文章を読む事ができたし、好奇心旺盛な子供だった。しかし、神様のクレハを俺は、他の子供達に近付けさせることを極力避けさせた。俺にとって、子供は恐ろしい毒だった。あいつらは、世界のきたねえ色んな事を純粋なクレハに吹聴して、クレハが汚くなっちまう、そう考えた。

 だから、小学校の入学は俺にとって、一種の賭けでもあった。うまくいけば、全ての者がクレハを愛すだろう。しかし、もし失敗すれば、クレハは恐れられる存在になるだろう。


 こんな事があった。近所のババアどもがクレハの事について話していた。


「あそこのうちの子、不気味よね?陰気臭いっていうの?ぞっとするわ」

「え?クレハちゃんの事?何言ってんの、すごくかわいいじゃない。男の子なのに、真っ白で、お人形さんみたい。礼儀正しくて、私は好きよ」


 いつも両極端だった。神様ってそうだろう?信じる奴は心から信じているのに、信じない奴らは心から否定する。クレハは、神様なんだ。だから俺はそれが怖かった。


 小学校に入学してしばらく経った頃だったと思う。クレハが朝、布団から出てこない日があった。


「どうしたんだ?具合でも悪いのか?」

「とうさん、きちがいってどういうこと?」

「誰が言ったんだ?クラスの奴らか?」

「あやのおばちゃんは、きちがいだって。しゃべらないし、おかしいって」

「俺が、先生に話してやるから、安心しな」

「とうさん、おばちゃんは、僕にはいっぱい喋ってくれるんだよ」

「そうなのか?」

「うん、小さなころからずっと。お歌もうまいんだよ」

「よかったな。今日はどうするか?学校」

「とうさん、行くよ、大丈夫だよ」

「じゃあ、ゆっくりでいいから支度しなさい」

「はい」


 俺は、悔しいのと、驚いたのと、焦ったのが変に混ざって、とにかく担任の先生に話さなくちゃいけねえと思った。担任は、いじめを黙って見てるわけがないはずだからだ。きっと、話し合いとかの機会を持ってくれるはずだ、なんてタカをくくっていた。俺はクレハを学校に送ると、職員室に直行した。


「なんて言いました?」

「ですから、子供同士の喧嘩です、ひどくなるようでしたらまた報告してください、と」

「一方的に悪口言われているのは、喧嘩とは言わないでしょう?」

「こういう事にいちいち構っていましたら、時間がいくらあっても足りません。クレハ君は、もうほかの子供さんたちと同じように、送り迎えなくても大丈夫だと思いますよ。そういう過保護的な行動が、ほかの子たちの好奇の的になっているんですよ。お父様も、もう少し離れて見ていた方がよろしいかと思いますが」


 その三十代後半の独身の女の担任は、子供たちの心なんてどうでも良いように出来ているんだ、何を言っても無駄な類の女だ。俺は黙って職員室を後にした。こうなったら、俺がクレハを守ってやるしかない。


 俺はクレハのためなら、悪にだってなれる。落ちるのは、簡単だ。目の前の人間が崖から転がり落ちるよりも早く、人生を転がり落ちていくのを何度も目撃してきた。俺も何度か転がって来たじゃねえか、今度は神様の為にやるんだから、めでたい事じゃないか。


 俺はその日から、あやのにクレハの面倒を頼むのをやめた。そして、クレハに他の子供達と遊んでいいと伝えた。クレハは普通の子供のように喜んで、放課後、近所の公園でほかの子供たちと遊ぶようになった。俺は仕事帰りその公園に寄って、クレハと一緒に帰るようになった。これは一種の計画だった。神を冒涜するものは、制裁を下される。俺は、選ばれし者となったんだ。


 公園に着くと、俺はいつもベンチに座り、十五分ほど観察して、クレハを呼んだ。じっくり、毎日見た。そうするとどいつが弱くて、どいつが強い奴かわかるんだ。強いのにも種類があって、陰険ないじめのリーダータイプや、英雄タイプ、ガキ大将タイプなんかがあった。クレハは、目立つタイプではなかったが、おとなしいタイプの子供たちとつるんで、まあ、楽しそうに遊んでいた。そして何日かたった時、俺は確信的な事実を突き止めた。クレハたちのグループにいつもちょっかいを出してくるグループが存在して、その中のリーダー的存在の少女が、きっとクレハを虐めた奴なのだ、と。その日そいつは赤いカーディガンを着ていた。


 車に乗ったクレハを問いただした。


「お前が言っていた、あやのの悪口を言っていた奴ってのは、あの赤い服の奴か?」

「なんでわかったの?」

「俺は、凄いんだ」

「父さん、すごいよ。でも、もう悪口は、言ってこないよ」

「そうか、よかったな」

「うん、みんな遊んでくれる」

「何かあったら、ちゃんと父さんに言えよ」

「うん、ありがとう」

「クレハ、ちょっとここで待っていなさい、父さん鞄をベンチに置いて来たみたいだ」

「鞄?」

「ああ、すぐ戻るから、ドアを開けちゃだめだよ」

「はい」


 俺は車から降りると、まだ公園に残り遊んでいた少女たちを確認した。あの赤いカーディガンの少女もいた。


 かくれんぼを始めた子供たちに気付かれぬよう、俺はベンチの隅に身を隠した。


「一、二、三……」


 小さい子供たちが一斉に隠れ始める。俺はその赤いカーディガンの少女だけに焦点を絞り、そいつが運よく一人で垣根の中に隠れた事を確認した。神様は、俺を見捨ててはいないじゃないか。俺はこんなについている。ゆっくりと、息をひそめそいつの後ろに近づいた。そいつは、垣根の間から外を見つめ、鬼がどこにいるか、のんきに確認していた。俺は、そこにあった大きな石を拾い上げると、そいつの頭めがけて思いっきり振り下ろした。ずん、と鈍い音がして、そいつは一言も言わず、倒れこんだ。血は出なかった。俺はそいつを抱えて、一目散で、森に続く道を駆け抜けた。森の奥には貯水池があった。俺はだらりと重くなったその少女を抱え、ひたすら走った。夕暮れ時の森の奥、フェンス越しに見える、怪しく黒い底なし沼のような、古い貯水池。俺は少女をフェンスから、向こう側に落とした。筋肉の抵抗もなく、少女はそのままゴミみたいにコンクリートの上に着地した。それから、俺はフェンスをよじ登り、再び少女を抱えると、そのまま水の中に少女を放り込んだ。ぶぐぶぐと水は騒めき、呼吸をしていた少女は水を吸い込み、ゆっくりゆっくりと沈んでいった。水面に再び静寂が訪れて、黒い無限の底に映るのは、夕闇の青い空だけだった。俺はうまくやった。神を冒涜するやつを制裁してやった。静かにフェンスに手をかけ再びよじ登り、暗い森を抜けた。公園にはもう誰もいず、駐車場まで行くと、クレハが車の中でちゃんと待っていた。


「父さん、鞄、見つかった?」

「あ、ああ、ちゃんとあった。弁当買って、帰ろうか?」

「うん、お腹すいた。ぼく、魚の乗ったのがいいな」

「おう、シートベルト、ちゃんとしな」

「うん」


 俺は罪悪感なんてちっとも感じなかったし、むしろ清々しい気持ちだった。この世界にいる、俺の神を否定する奴らは、全て居なくなればいいと思っていた。俺は献身的にクレハに尽くした。クレハもそれに応えるように、不平不満を言わず、年の割には考えもしっかりしていたし、何より美しかった。可愛いとかではなく、クレハは美しかった。冷たさの中に時折見せる無垢な瞳の輝き、体から溢れ出す、気だるい類の慈愛のオーラ。俺の神様は、愛なんかよりも心臓で俺に訴えてくる。心臓は、一定の音とリズムで心地よく響き、泣きたくなった。俺はいつもクレハの隣で、その心臓の音に耳を傾けながら、眠りについた。俺は、あいつの前でなら、赤ん坊にだってなれた。

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