第4話

(2)


 親父たちが死んだ後、俺はアパートを引き払い、母親が最後まで一人で住んでいた、親父の実家へ妹と二人引っ越した。そこは陰気臭い平屋建ての一軒家だった。もともと親父が所有していた物だったので、家賃を払わなくて済むという安易な考えで決めたのだが、やはり何か湿っぽい、不気味な空気がそこには留まっているような感じがした。


 俺は洋間を妹の部屋として与え、自分は仏間で寝起きした。妹は、思春期特有の近寄りがたさと、もともと備え持った慈愛の間を怪しく行き来し、俺はますますのめりこんでいった。俺は彼女を崇拝していた。信仰に近い何かが彼女からは溢れ、俺は触れる事さえ出来なかった。 

 

 そんな俺の気持ちを知る由もない妹は無邪気に毎朝俺を起こし、俺はむちゃくちゃになりながらも、仕事と妹の世話に翻弄した。それが義務とかなら、俺はそこから逃げ出していただろう。しかし俺には心地よかった。その得体のしれない、人間を選ばない、女神のような妹がいたから、俺は当たり前のように愚痴一つこぼさず、随分と長い間彼女の面倒を見れたんだろうと思う。しかし、妹は俺に越えてはいけない一線を越えさせようとした。そうだった、あの出来事の後からはもう、俺の中で妹はあのカリスマ的な輝きを失い、一人の只の女に成り下がってしまった。あの一瞬の気の迷いというのだろうか?少女から大人になる過渡期の女ほど醜いものはない、そんなぞっとするような出来事だった。彼女は俺に欲情したのだ。俺の守ってきた彼女の純潔が、俺によって汚されるなんて想像しただけでも反吐が出そうだった。


「にいさま、なんで私に触れないの?私は、そんなに醜い?にいさま、私も人並みの肌のぬくもりを感じたい」


 妹は情熱と欲望の混ざった、人間らしい目で俺をじっとりとみるんだ。その欲望が、汚らわしく俺を押し倒そうとするんだ。あの時もし俺が一瞬の気の迷いで、彼女に少しでも触れていたとしたら、俺は死んでいたかもしれない。


「にいさま、何とか言って。私はにいさまの事こんなに恋い焦がれているのに、どうしてにいさまは私に触れないの?あんな眼差しで私を見るくせに、どうして指一本触れないの?」


 俺は何にも言ってやる事ができなかった。調子の良い一言でもかけていれば、まだ救いようがあったのかもしれないが、俺はそんな余裕がないくらい、ショックだった。妹は、もうそれきり俺を見ることをやめてしまった。あいつは、女になっちまった。十五の冬だったと思う。帰りがいつもより遅くて、俺だってちょっとは心配したんだが、あいつが帰ってきた時よく分かった。欲望の匂いだった。顔を少し赤らめて、目にはギラギラした輝きが卑しく光り、女の獣のにおいがした。俺は便所に駆け込み、食ったものを全部吐き出すと、嗚咽を漏らしながら外に出た。妹はそのまま風呂場に消えていった。それからは、地獄なのか、夢なのか、よくわからない感情に支配され、非常に不快な日々が続いた。あいつは毎日のようにその匂いをさせて家に帰ってくるんだ。得意げな顔つきでもって、気だるげなあばずれの様な出で立ちで、俺を見下すんだ。俺がもしあいつに触れる事があるのなら、それはあいつを殺す時くらいだ。俺はあいつに決して触れてはいけなかった。あいつの中の女神が俺を狂わせ、堕落させ、いつの日か死に追いやるのだろう。


 あばずれに成り下がった妹は、だんだんと家に帰って来なくなり、年上の男と暮らすようになった。俺はむしろほっとしていた。もう苦しまずに済むし、一人で気楽に何も気にする事なく暮らせるのだ。しかし、心は嘘がつけねえ。俺は虚しかったし、心に空いた穴を埋める手立てはなかった。アルコールだけが俺を怠惰な酩酊した世界へ連れて行ってくれた。俺は酒にどんどんと溺れていき、仕事にも支障が出るほどだった。しかし、もうどうでもよかったのは事実だ。守るものが何もないということは、俺にとってすごく惨めなことだったし、生きる喜びというものがなくなった途端、俺は生きたいとも死にたいとも思わなくなった。しかし、酒のせいか無性に腹立たしくなることが多くなり、見ず知らずの相手とよく喧嘩をした。人生よりも大切に考えていた信仰が失われたとき、人間は立ち止まり、落ちこぼれ、ぼろ雑巾のようになってしまう。それを取り戻すのは容易なことではないし、並大抵の人間にはきっと簡単にできないほど、精神的な力が必要だ。俺は弱かったし、人間の温かさに触れるなんてまっぴらだった。俺は親父や母親、愛人のような関係は欲しくなかった。俺は不器用だし、愛されるという事は考えてもみなかったし、崇拝する相手がいれば生きれると思った。だが、あの汚れる前の妹のような存在は見つからなかった。


 十九になった妹がふらりと帰ってきたのは、秋が終わりを告げ、厳しい冬がすぐそこに近づいている感じのする、ひどく寒い夕暮れ時だった。妹の顔には痛々しい痣や切り傷があり、永遠の聖母だったはずの妹の腹には忌々しい膨らみが少し目立つようになっていた。


「にいさま、少しの間でいいの、お願いよ、ここにいさせて」

「どうしたんだい、その腹?」

「赤ちゃんがいるの。この子が生まれてくるまででいいわ、守りたいの、お願いよ」

「相手の人は、どうしたんだい?」

「嫌なの、もう、逃げてきちゃったの。にいさま、黙って出て行って、ごめんなさい。迷惑はかけないから、お願いよ」

「勝手にしな、どうせ、ここはあんたの家でもあるんだから」


 もう俺には妹の存在なんて所詮どうでもよかった。ただ日々をいたずらに持て余し、日雇いの仕事をしたい時にし、稼いだ金で酒をあおる。日に日に大きくなっていく妹の腹には得体の知れない化けものが住んでいるようで、俺は極力妹を避けるように暮らしていた。


 その年の冬は厳しいもので、俺はほとんど仕事をせず、金も尽きてきた頃だった。妹は夜な夜な出かけていき、朝方帰ってきては、俺に金をくれるのだ。その大きい腹を抱えて、妹が何をしているかなんて、世間知らずの俺には見当もつかなかった。時間を持て余していた俺は、ただ単純に妹が何をしているのかを知りたくて、後をつけていった。


 彼女は繁華街のちょっと目立たない場所に突っ立っていた。周りを見渡せば、同じような場所に、同じような女が立っている。一人、一人、と男と消えていく。腹の目立つ妹のところに立ち止まる男はいなかった。こんな寒い切り付けるような空気の中、妹は毎晩何時間も立ち続けているのだろうか?ようやく一人の年のいった背広を着た男が妹に話しかけた。そして、二人は繁華街に隣接するホテル街に消えていった。俺の妹は売春して稼いだ金を俺に渡していたのか。可笑しくて笑いが込み上げてきた。俺も随分と落ちぶれたもんだな。あいつは慈愛に満ちた聖母じゃないか?こんな俺に、まだ献身的に尽くし、無償の愛をくれる。俺は情けなかった。しかし、俺にはどうすることもできなかった。落ちるとこまで落ちた人間が、心を入れ替えるのはそう容易なことじゃなかった。俺は、何も言わず、妹に甘んじた。毎晩うまい酒が飲めればそれでよかった。


 春が来て、妹はあまり稼げなくなった。俺はこれっぽっちも構わなかったが、妹の時折見せる悲しみと不安に満ちた瞳が俺を苦しめた。腹が痛むのか、たまに寝室に籠りっきり、何日も出てこない時があった。俺はそういう知識は何もなかったから、只オドオドして、いつ子供が産まれるのか、気が気でなかった。妹が病院に通っているのか、いないのかも全く見当がつかなかった。


 五月に入った頃、妹がもう何日も部屋から出てこないので、俺はあまりにも心配になってしまい、寝室のドアを開けてしまった。そこにはベッドにもたれかかった妹が、臨月の腹を抱え、気だるげに外を眺めていた。臨月の腹だけが大きく、ほかの部分は屍のように細く、地獄絵図に出てくる生き物のような体つきの妹は、やつれた笑顔を浮かべて俺のほうを見た。


「やっと来てくれた。にいさま、ほら、触ってみて。ここにいる生き物がもうじき出てくるの。ねえ、にいさま、私を町の病院まで連れて行ってちょうだい」


 俺は恐る恐る妹の膨れた腹に触れてみた。その腹は丸く、硬く、生命が詰まっているなんて想像できないくらい、不気味に無だった。赤ん坊がいる腹って、動くものじゃないのか?そう考えていると、察したのか妹が言った。


「昨日辺りから動かないの。きっともうそろそろ出てくるんだわ。お医者様が言っていたわ。今までぐるぐる動いてたのが急に静かになる事があるけど、それは産まれる準備をしているから大丈夫って。にいさま、私お水が飲みたいわ」


 水を飲み終わると、妹は風呂に入りたいといった。最後のお願いだから、私を風呂に入れろとせがむのだ。俺はもうどうでもよくなり、衰弱した妹の体を抱え上げ、風呂場に連れて行った。そこにいたのは女神でも聖母でもない、ただの化け物のような女だった。俺は、ゆっくりと彼女の着ていたものを脱がしていった。骨と皮のような肉付きの彼女の裸体には、十代の色香はなく、肌着を脱がしていくとそこにあったのは、痛々しく彫られた深紅の鳳凰だった。俺の手は一瞬たじろぎ、その美しさに震えた。


「にいさま、私やくざと結婚したの。ひどい人なのに、好きになってしまったの。でもね、このお腹の子、その人の子供かも解らないの。だから逃げてきたの。にいさまに迷惑はかけないわ。産んだら消えるから、今まで本当にありがとう」


 彼女の指が俺に静かに触れ、その頬には静かに涙が伝っていた。俺は彼女を湯船に入れると、静かに立ち込める湯気の中、幽霊のような妹を眺めていた。永遠に感じられる時間は過ぎていき、俺と妹は身支度をして、町外れにある産婦人科を目指した。


 駐車場に車を停め、妹が下りるのを確認すると、俺はそこから逃げるようにして発車させた。後ろを確認するのは恐ろしかった。それに、医者や看護婦に俺の生活をつべこべ言われたりするのは、まっぴらだった。俺は極力妹のお産には関わりたくなかったのだ。


 酒を飲んで寝ると、気分がよかった。妹は言ったじゃないか、子供を産んだら俺の前から消える、と。俺はもうじき何の気負いをする事もなく、一人になれる。また仕事を始めよう。旅に出てみるのもいいかもしれない。出来なかった事をすればいい。俺は一人になるんだから。そう自分に言い聞かせると、ちょっとばかり今までの憂鬱な自分の人生が、まだ救いようのある美しいものに思えた。

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