第3話

第二章


(1)


 その女は親父の愛人が孕んだ、半分血のつながる異母妹だった。俺は実母に内緒でよく親父の愛人の家に入り浸っていた。その半分血のつながった妹があまりにも妖しく、俺を魅了したからだった。妹とは五つ歳が違った。彼女は俺の事をにいさまと呼び、俺が十二の頃から、純粋なまなざしの中に大人の色香を持ち合わせた、奇妙なしぐさでいつも後ろをついてきた。それが俺には得体のしれない恐怖であり、甘美な夢物語でもあった。俺の中でまさしく彼女は、聖母だった。すぐ近くにいるのに、触れることのできない高貴な存在。


 そしてあの事件が起こった。俺の実母が精神的に参ってしまい、自殺したのだった。彼女は、俺の親父に愛人ができる前からずいぶん病んでいたと思う。ヒステリーもちで、何かにつけてイライラし、怒りの矛先はいつも親父か俺に向けられた。俺に兄弟はいなかったし、いつも一人で母親の怒りや、理不尽な態度にびくびくと怯えながら過ごしていた。それから親父が当てつけのように家に帰ってこなくなった。母親の機嫌はいつにも増して悪くなり、それまでは言葉の暴力や精神的苦痛を与えるだけだったものが、今度は肉体的暴力も加わり、食べ物や必要なものを与えてくれない、というネグレクトまでされた。それを見かねた親父が、週に何度か母親に内緒で愛人の家へ連れて行ってくれたのだった。しかし、それはまさしく火に油を注ぐ結果となり、俺は実家に帰ることを恐れ、親父の愛人の家に入り浸るようになった。


 親父の愛人は、従順でやさしく、美しかった。何度この人が本当の母親だったら、と願った事だろう。俺のことを毛嫌いする、なんてことは全くなく、無償の愛情を俺に注いでくれた。彼女の作る手料理も、俺の母親が作るものよりも数倍手が込んであり、味付けもちょうどよかった。欲しいものは何でも用意してくれたし、俺も彼女に気に入られようと、幼いなりに気を使っていたと思う。そんな俺を親父は微笑ましく見てくれ、俺がそこに入り浸ることを許してくれた。其の頃あたりから、母親が自殺まがいの狂言で、俺と親父の気を引こうとしてきたのだった。俺はそれを哀れに思うどころか、むしろ早く死んでくれと願っていた。一人の人間を見ているというよりは、屠殺場で殺されていく、一匹の豚を見ている感覚に近いものがあった。俺と母親に、人間らしいつながりはあっただろうか?それをずいぶん長い間考えていた。しかし浮かぶのは親父の愛人の、無償の愛情に満ちた、内側から光り輝くような純粋な笑顔だった。そしてそんな慈愛に幼い頃から守られ、純粋にこの世の中の良いとこばかりしか知らない、清らかな妹がいつもその側に存在した。俺はその中に存在したいと思った。俺は母親を否定し続け、ついには実家に帰らなくなった。


 月に二度、俺は親父に言いつけられて、母親に金を渡すため実家に戻る、それだけが俺と母親を繋ぎとめていた。その二度でさえ、俺は億劫で、出来ることなら金を郵便受けに入れて帰りたかった。しかし何度かそうしているうちに、母親は郵便受けを外してしまった。それからは、俺も仕方ないと割り切って、玄関まで行って母親に金を渡すようになった。封筒の中の金がいくらだったのか、俺は知らなかった。だが、母親はその金を心待ちにしている様子はなく、俺に会いたかったと笑顔で招き入れるのだ。うわべだけの嫌らしい笑顔で。俺はまずい飯を並べられた食卓に、三時間ほど義務のように毎月二回座っていた。今日は肉じゃがを作ったのよ、と引きつった能面のような顔で話しかける母親を極力見ないようにしながら、俺はいつも心を無にして、その時間が過ぎるのを待った。はじめは穏やかなのだ。そして怒り出す。そして泣きつく。それがルティーンのように毎月二回。いいじゃないか、あの美しい帰る場所があるのだから。そう言い聞かせて、俺はその対価を精神的な何かで払ったつもりになっていた。それが積もりに積もり、母親の精神をますます歪んだものに変えていったのだろう。


 あの日はえらく寒かった。俺は親父とその愛人、そして妹と共に近所のスーパーで、何の変哲もない、仲の良い家族のように買い物をし、雑談をしながら帰宅していた。家の前まで来た時、親父が立ち止まっていつもと違う緊張感のこもった声質で、ゆっくりと言った。


「幸助、逃げなさい。みんなを連れて、逃げなさい」


 そこには無表情の母親が生気なく立っていた。それは今までに見た中で一番寂しく、人間味のあふれる顔だった。ああ、この人も血の通った人間だったのか、そんな事を考えていると、またいつものようにわめき始めた。


「ねえ、なんで?なんで帰ってこないのよ。あんた、なんでそんな事して平気でいられるのよ?ねえ、あんたよ!あんたに言ってるの!人のものぶんどって、それだけじゃ足りなくて、私の息子まで手玉に取って!何でなのよおおおおおおおお!」


 俺は茫然とその醜い母親を眺めていた。残りのみんなもそうだった。みんなそれをただ眺めているだけでやっとだった。これは人間じゃない。こんな人間が存在することがそもそも間違っているんだ。早く消えてくれ、お願いだ、早く消えて、俺を自由にしてくれよ。そう呟いていた。俺は哀れみさえもその女に感じることなく、ただただ死を願っていた。


「ユリコ、お願いだ、帰ってくれ。こんなところを子供たちに見せたくないよ。別れよう、な、お願いだ、金ならちゃんと払うし、俺は耐えてきたんだ。幸助も耐えてきたんだ。もう十分じゃないか。幸助は俺が責任をもって育てるから、お願いだ、もうこんなことで煩わせないでくれよ」


 親父は極力母親を刺激しないように言葉を選びながら話しかけていた。


「笑わせないでよ!私があんたを愛したことなんてあった?あんたが私に惚れたのよ!それなのに!それなのに!なんで帰ってこないのよ!」

「ユリコ、解っている、でもな、一方的な愛だけじゃ報われないんだよ。俺は、おまえにも愛してほしかった。でも、もうダメなんだ。わかるだろ?彼女と愛し合っているんだよ。俺はもう、お前を愛していないんだ。すまない。本当にこの通りだ。もうよしてくれ」


 親父は跪き、土下座した。その親父の頭を母親が蹴りだした。親父は無抵抗で、その罪を償おうとしているのだろうか?何度も何度も振り下ろされる足に、親父は声も漏らさず、必死に耐えていた。俺は妹の手を握り、どうしたら良いのかわからず、ただそれを眺めているのでやっとだった。


「お願いです!もう、もうやめてください。気が済むなら私を殴ってください。ごめんなさい。ごめんなさい」


 愛人が親父に抱きつき、守る形になった。


「汚らわしい」


 母親の醜態はまだ続いた。


「あんたみたいな醜い女は、人のおこぼれを貰うしか、道がないんだからね。あんたがその男と同じ籍に入れることは、私が生きている限りないんだよ。はっはっは!おかしいね。一緒にいればいいさ。私はこいつと別れない!あんたが苦しむのなら、私は喜んでそれを実行するよ」


 ふと母親の瞳の中から憎しみの類が消えたように感じた。


「でもさ、もういいよ。もう、いいよ」


 そう言うと、母親は手提げかばんに手を突っ込み、中からライターを取り出した。そして、電信柱の隅に置かれていた青いポリ容器を抱えて、不気味なほほえみを浮かべた。


 親父は愛人を抱え、素早く立ち上がったかと思うと、俺と妹の手を引き、急いで母親から距離をとった。俺はスローモーションで流れる時の中で、しっかりとそれを見た。


 母親は手提げかばんを地面に投げると、ポリ容器のふたを開け、こっちを見ていた。ガソリンだろうか。彼女は何をするつもりなんだ?まさか、俺たちを燃やすつもりなんじゃないのか?俺は妹の手をしっかりと掴み、出来るだけ遠くへ逃げようとした。しかし、それを遮る叫び声が聞こえ、俺の体は動かなくなった。その叫び声は親父の愛人のもので、俺のすぐ隣から聞こえていた。俺はその光景を今でもしっかりと思い出すことができる。


 母親が、電灯の下でポリ容器を逆さまにし、中に入っている液体を全部かぶり、言った。


「よーく見ていなさい。あんたたちが殺した女の最期を」


 その声は、確かに震えていた。それが恐怖で震えていたのか、怒りで震えていたのか、寒さで震えていたのか、俺には知る事は出来ない。


 そしてライターを握りしめたかと思うと瞬時に、発火した。火は爆発するように彼女を包み、この世の終わりのような轟音と叫び声が聞こえた。俺たちはただ立ちすくみ、あっけにとられながらそれを見ていた。母親は、燃え盛っているのに、耳にこびりつくような叫び声を上げ続け、地面に倒れこむとくるくると転がり始めた。叫び声は途切れることなく、オレンジ色の炎の中で彼女の着ていた服が姿を消し、赤黒い肉体に変化した。こげくさい、髪の毛が焼ける匂いに、肉の焼ける油臭い匂いが重なり、あたり一面に広がった。ぷすぷすと肉体に水膨れが出来、はじける音が静寂の中不気味に響き、知らぬ間に近所の人が呼んだのであろう、消防車と救急車、そしてパトカーが到着した。


 火が消え、母親は救急車に乗せられた。奇跡なのか、神様のいたずらなのか、母親はまだ微かに呼吸をしていた。親父と愛人が付き添いや、事情聴取の為に警察署と病院に行ったので、俺は妹と二人、ずいぶんと静かな家で二人の帰りを待った。

 親父の話によると、意識のしっかりしていた母親は、三時間余り苦しみながら息を引き取ったそうだ。長い間死にたくない、恨んでやる、呪ってやる、祟ってやるという類の言葉を呟かれ、親父は憔悴しきっていた。しかし、精神をやられたのは、親父の愛人のほうだった。あの日から彼女の顔に、あの慈愛に満ちた聖母のような笑顔は宿らなくなった。ただ、死んだ眼が宙を見つめ、時に思い出したように涙が頬を伝うのだった。


 そんな愛人を親父は優しく見つめ、献身的に看病していた。取り残された感じの妹は、どこか寂しげで、俺はよく陰気な家から連れ出しては、近所の喫茶店で喜びそうなデザート類を買ってやったりした。


 ある放課後、家に着くとパトカーが一台、家の前に止まっていた。俺は嫌な予感がして、急いで玄関まで走った。親父が泣いていた。その傍らには手錠をかけられた愛人と、それを連行しようとしている警察官。


「親父、何があったんだよ?」

「幸助、すまんがあとにしてくれないか」


 妹の姿が見えなかった。俺は心臓が破裂しそうになるほど、早く波打っているのが分かった。耳がドクドクと鳴り、頭頂部がキーンと響いた。


「おい、あいつは、七海はどこに行ったんだよ?」


 親父は下を向いたまま黙っている。もう一人いた警察官が、俺のほうにゆっくり近づき言った。


「大丈夫、妹さんは病院です。早く行ってあげなさい」


 連行された愛人を追うように親父は車に乗り込むと、行ってしまった。俺は仕方なく徒歩で妹が収容された病院へ行った。案内された病室には、首に包帯を巻き疲れて眠ってしまった妹がいた。暫くしてから、先ほどの警察官がわざわざ来てくれ、事件の一部始終を説明してくれた。


 愛人が我が子の首を絞め、無理心中を企てた、そんなところだった。それをいつもより早めに帰宅した親父が発見して、救急車を呼んだ。妹はぐったりとしていて、愛人のほうは首を吊ろうとしたが怖くて、苦しくて実行できず、刃物で腕を少し切りつけた軽傷。そして救急から呼ばれた警察官が、愛人を事情聴取のために連行した。妹の命には別状がなかったが、精神的にかなり傷ついていたみたいで、何日も口をきかなかった。愛人は精神病棟に処置入院することとなった。親父は愛人に付き切りで看病し、俺は妹に付き切りだった。俺はいつの間にか、親父と愛人を憎みはじめていた。そして得体の知れない、死んだはず母親にも怒りの感情しかわいてこなかった。俺は女神のような妹を汚す存在を心底恐れ、嫌悪した。気が付くとまたまじないの様に、死んでくれ、と唱えていた。今度は親父と愛人に対してだった。


「にいさま、そんな怖いお顔をしないでちょうだい」


 妹はいつもそうやって俺を戒めた。俺はそれでもあいつらに死んでほしかった。一週間入院した妹が退院し、その後愛人が、妹の退院したちょうど二週間後に家に戻ってきた。俺は彼女に付き切りで、あの壊れてしまった、人形のような親父の愛人から守ろうとした。


 焼身自殺の目撃は、俺の母親が望んだように、純粋な心の持ち主だった愛人の心を蝕んでしまった。しかし、人のものを奪った愛人が、果たして純粋だったといえるだろうか?母親が死ぬ直前に吐いた暴言がよみがえる。


「よーく見てなさい。あんたたちが殺した女の最期を」


 一人の人間を狂わし、自殺に追い込んだ人間を女神と呼べるだろうか?己の欲望のまま、一人の人間を完全否定し、絶望の淵に追い込み、それでもなお親父は懲りていないのだろうか?おい、死んでくれよ。これ以上何も関係ない人間を巻き込むのは、やめてくれよ。お前らもどうせ仮面の下には、醜いひきつった笑みを浮かべているんだろう?人間の形をしたクズだ。


 俺は、俺はどうだった?俺だって、母親を置き去りにしたじゃないか?俺も、同じじゃないか。いや、違う。俺は母親に追い込まれていたじゃないか。暴力だって振るわれた。いつも腹を空かせていた。一人で、極力あいつの気をひかないように、息をひそめて毎日を過ごしていたじゃないか。俺は違う、俺は違う。はやく死んでくれよ、そうすれば俺は解放されるんだ。 


 日々刻々と迫りくる憎しみは衰えを見せず、俺はいくらかその漆黒の沼のような己の心に躊躇しつつも、二人の死を願っていた。しかし、時は流れ俺はいつしか高校を卒業し、製鉄工場に就職した。三交代の俺とは違い、比較的自由な親父は愛人を連れてよく近所を散歩したり、ふと旅行に行ったり、ずいぶんと穏やかに見えた。十代になった妹は、まだ心の傷が癒えず、喋ったり、学校へ行くのもたまにだった。しかし反抗的な態度は見せず、いつも俺の事を気にかけてくれていた。俺は稼いだ金で妹の欲しがるものはすべて買ってやっていた。謙虚な妹はめったに欲しがる事はなく、そのほとんどは俺が独断と偏見で選んだ代物だったが、妹はなんでも喜んでくれた。


 三月の生暖かい休日、親父と愛人が消えた。あいつらは、俺の母親のような壮絶な最期を迎えることなく、穏やかに、薬を飲み車の中にためた排気ガスで心中した。二人の腕は赤い絹のリボンで結ばれており、死に顔は眠っているように美しいものだった。俺の心にぽっかりと空いた穴は広がり続け、母親の唸るようで切り裂くような叫び声が、再び蘇ってきた。あの女はそんな事で満足するような女じゃない。あいつは俺も、妹も欲しいのだ。俺は妹と肩を寄せ合い、何があってもあの狂った死神どもから自分たちの命を守ろうと必死だった。

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