第2話
(2)
次の日、乾燥機でふわふわに乾かしたあなたの持ち物と、暖かそうな旦那のお古をいくつか選んで、もう使わないであろうリュックに詰め込んで、あの歩道橋の辺りをうろうろしてみた。あなたがいることはゼロに近いかなあなんてことを考えているにもかかわらず、必死に探している自分がいた。
ねえ、あなたは今まで一人でどこにいて、何を思いながら日々を過ごしてきたの?あなたの悲しみや寂しさを私が癒してあげたい。そんな一方的な私のわがままをあなたは不快に思うかしら?
その日、あろうことか、私は我が子を捨てた。
リュックを背負い駅の周りをうろついているうちに、あなたのこと以外、もうどうでもよくなってしまったのだ。容赦ない都会の突き刺すような風は、骨の芯まで震え上がらせ、温かいコートなんて何の役にも立たなかった。あなたはどこで震えているの?ユウタロウには家があるわ。暖かい家が。屋根のある家が。だからあの子のことは全然心配じゃないわ。でもね、クレハのことはとても心配だった。クレハには家がない。抱きしめてくれる家族もいないんだわ。何時間もただぼーっと駅前のベンチに腰掛けて空を眺めていた。やがて日は暮れ、もうこの寒さに我慢できないなんて弱音を吐きそうになった時、私を見つめて立ちすくむあなたがいた。歩道橋の向こう、昨日消えてしまったままの服装で、あなたはただずっとこっちを向いて私を見つめていた。
奇跡だと思った。
私はそっと手を振った。あなたは歩道橋の階段をのぼり、こっちにやってきた。あなたは私のこと、どう思った?なんであの時こっちに来たの?ねえ、あなたは私の事どうしたかったの?
「ねえ、忘れ物。届けに来たの。寒かったでしょう?」
「ありがとう」
あなたはちょっとぶっきらぼうに答えて、リュックを受け取った。
「本当、寒かった。あなたはいつもこんなに寒いところで寝るの?」
「うん、あっちの公園の遊具の中で毎日寝てる」
意外なあなたの躊躇ない回答が、私に一線を越えさせた。
「私もいっしょに行っちゃだめ?」
「なんで、かまうの?」
「ねえ、なんで昨日あんなに泣いたの?なんでいなくなったの?」
「優しくされるのに慣れてないから」
公園に着くとあなたは砂場にあるドーム型の遊具に入り段ボールを敷いて見せた。布団の入ったごみ袋を公園の片隅に隠して、夜になったらそこから段ボールと布団を持ち出してきては暖をとる、それがあなたの毎日している事だった。こんなに軟弱そうな人間が、よく一人で都会の真ん中にある、ある意味物騒な公園で、今まで一人で暮らしていけたのか不思議でたまらなかった。
「ねえ、クレハ。クレハって漢字でどう描くの?」
「こうようってかくんだ」
「紅葉か。いいね」
「母親は、僕を産んだ後消えて、父が僕に名前をくれた。でも、父は本当の父じゃなかったんだ。それは僕がもう少し大きくなって分かった事だったんだけど、でも父は僕のことを唯一人間として扱ってくれた。厳しかったけれど、いい人だった。でも死んだ。だから僕はこうして一人になったんだ」
「お母さんには一度も会っていないの?」
「あの人のことは、話したくない」
「ねえ、うちに来るのは嫌なの?ねえ、こんな所じゃとても寒くて、いつか死んじゃうかもしれないよ?」
「早く死にたい。父の所に行きたい」
「ねえ、お父さん、なんで死んじゃったの?」
「ずっと、調子が悪かったんだ。僕が小さいころからずっと。どんどん悪くなって、発狂して、自殺した」
あなたが見つめてきた狂気の空間を私は知ることができない。あなたが置かれていた、孤独と歪んだ愛情に満ちた、特殊な世界の構造を私は一ミリでさえ見ることはできない。あなたは母親に置き去りにされ、本当の父親ではない男に育てられた。だけれど、もしも私が我が子に対してはじめて愛情を抱いた時の不思議な感情を、その男も感じていたとしたのなら、あなたは少しでも愛されていたという事でしょう?
その日、私たちはドーム型の遊具の中で震えるお互いの体を寄せ合いながら一夜を明かした。静かに寝息をたてる、野生化した元ペットのような凛と美しいクレハ。私はといえば、ユウタロウの事が頭をよぎり、一睡もできなかった。
空にやさしく薄明かりが差しだす頃あなたは起きて、公衆トイレに消えていった。私も公衆トイレに駆け込み、用を足し、冷たい水で顔を洗った。まだ一日目で、もうこの暮らしにとても耐えられそうにない、と感じ始めていた。逃げてしまおうか?そもそもあなたが私の事に居てほしいなんて、少しも確証がないのだし、かえって迷惑なのかもしれない。
トイレから外に出ると、あなたがベンチに腰かけて、待っていた。待っていなかったら、もしあなたがまだトイレに居て出て来ていなかったら、私は逃げだしていたと思う。だけどあなたはそこで、当たり前のように待ってくれていた。
あなたはこれからの一日、何をするのだろうか?全く想像できなかった。
「寒いね」
「これから、何したい?」
「いつもは何してるの?」
「とくには決まってない。大体ウロウロしたり、顔見知りに会ったり、そんな感じかな?」
「え?友達がいるの?」
「友達とか、そんな深い仲じゃない。ただ同じ境遇の仲間とか」
「へえー、縄張りとかあったりするの?怖い人とかいそう」
「僕は金稼ぎしないから、みんな優しいよ」
「金稼ぎ?」
「空き缶とか、廃品を回収して売るんだ」
「へー」
私たちは、日が昇りきる頃には歩きながら、彼がいつも食べ物を分けてもらうという仲間の居場所を目指し歩き始めていた。そこは河川敷で、幾つも掘っ立て小屋やテントが建てられてあり、立派なコミュニティーになっていた。ペットを飼っている掘っ立て小屋もいくつかあり、電気の通っている建物まであった。その中にある、群を抜いて立派な小屋が、今も日雇いで大工として活躍する、佐々木さんの住処だった。小さなソーラーパネルを使い、電気も利用できるようになっていた。何度も立ち退きの危機に合い、今住んでいる小屋は4軒目らしい。佐々木さんは私の事にはじめ驚いていたけれど、クレハが「友達」と説明してくれて、普通に接してくれた。佐々木さんは勤めていた会社をリストラされて、家族に何も言わずに家出して、今に至るそうだ。何も言わずに出てきたことは私も同じだったけれど、彼には奥さんと二人の娘がいたそうで、私はユウタロウが一人なのがあまりにもかわいそうに感じてしまい、やっぱり帰ろうかなあ、なんて心が揺らいだ。
佐々木さんはカセットコンロ二つを使い、まずご飯を炊き、そして外に放し飼いしてある鶏から卵を三つ失敬して、卵焼きを焼いてくれた後、お湯を沸かしてインスタントの味噌汁を入れてくれた。立派なご飯だった。クレハはいつもご馳走になったら、佐々木さんが唯一家から連れてきた犬のジョンの散歩を代わりにするそうだ。佐々木さんは最近年のせいか、大工の仕事がつらくなってきたそうだ。そんな佐々木さんが少しでも楽になるように、とクレハなりに考えたらしい。
掘っ立て小屋のコミュニティーには、女の人の一人暮らしはなかったが、夫婦や連れで住んでいるという家は何軒かあった。
「ねえ、クレハは小屋を建てようって思わないの?」
「いらない。消えたいから」
「そうか」
「クレハは、結構長い間外で暮らしているが、いつもどこかに行っちまって、ある日ふらりと戻ってくるんだよな。猫みてえなやつだよな」
佐々木さんが言った。
「なあ、ねえちゃんよ、悪いことは言わねえ、こいつに情を移すのはよくねえよ。俺もずいぶん振り回されてよ、一番いいのは放っておいて、戻ってきたらいつも通り接してやることだ。戻って来なかった時は、ああうまくやったんだなって喜んでやる事さ。こいつの心は、だれにも癒す事は出来ねえんだよ」
「ジョンの散歩に行ってくる」
自分の話題が上がってもクレハは無関心で、気にしたり恥ずかしがったり反論なんてしなかった。ぶっきらぼうに犬に鎖を繋ぐと、クレハは私の方なんて見向きもせず出て行ってしまった。
「頼んだぞ」
慌てて、私も行くと言いかけたら、佐々木さんが遮った。
「ねえちゃんよ、こっち手伝ってくれねえか?」
「は、はい」
佐々木さんは、私の心配をしてくれていた。そして、私もクレハのことについて、佐々木さんが知っていることをすべて知りたかったのも事実だ。私は佐々木さんの小屋に残り、クレハの事を少しだけ教えてもらう事にした。
佐々木さんがリストラされて、ホームレスになったのが十二年ほど前で、クレハに初めて会ったのが六年前だった。そのときクレハはすごく取り乱していて、父親を失った直後だったらしく、佐々木さんも私が彼に対して抱いた不思議な感情、母性本能のような、守ってあげたいという感情に心が揺さぶられたそうだ。
「娘たちのことは愛していたよ、確かにすまないとは思っていた、だけどなあいつらは、なんとかやっていけるだろうっていう変な確信があってな、だけどよ、クレハは違ったんだ、あいつはなんか俺が守ってやんねえと、死んでしまいそうでさ、強いて言えば母親になってやりたかったんだ。だから飯を毎日作ってやった。そしたらさ、だんだん喋るようになってきて、父親みてえに育ててくれた奴が死んで、頼れるやつもいねえから、ふらふらしてるんだと」
「母性本能ってやつですよね?わかります、すごく。私も息子がいるんだけど、彼は絶対一人で大丈夫って思って、おもわず置いて来ちゃった」
「ねえちゃん、悪い事は言わねえ、はやく息子さんのもとに帰りなさい。ここに留まってちゃ、元に戻れなくなるよ。外に長くいればいるほど、普通じゃなくなるんだ」
ユウタロウの笑顔が浮かんだ。いいの、ユウタロウは一人で大丈夫。
「じゃあ、クレハはだれが守るの?」
「あいつは案外一人でも平気だよ。かわいがってやってるのに、ある日何も言わずに忽然と消えるんだよ。初めての時はずいぶん焦ってな。死んだんじゃねえかってな、探し回ったよ。だけどよ、居なくなったときみたいにまたふらりと戻ってくるんだよ。そしてまた、何日もしゃべらねえんだ」
佐々木さんがうらやましかった。佐々木さんは、クレハが戻ってこれる温かい家だ。その存在に私はなれるだろうか?一人ぼっちのクレハを想像して、涙があふれた。私の中でクレハは、大人の姿をした子供だった。
「戻ってきて暫くしたら、またしゃべり始める。いつも父親の話からだ。どうして死んだか、どんなにいい奴だったか。そして、いなくなってた間の話を始める。いつも誰かが死ぬんだ。誰かが死ぬ。なあ、ねえちゃん、分かっただろう?あいつと関わっちゃいけねえ。あんたも死ぬことになるよ」
「どういう事なんですか?理解できない」
「あいつと関わった人間は死ぬんだ」
「じゃ、なんで佐々木さんは死なないの?」
「あいつがそうしたいと望んでいるからさ」
「わからない」
「あいつが必要ないと感じたらそれまでさ、あいつにはそんな不思議な力があってな、絶望を味わった人間はそこから這い上がれなくなっちまうんだ。そして自ら死を選ぶんだ。クレハに関わった人間はみんな自殺していく」
佐々木さんは今までの事を語りだした。
「あいつの親父は、実の父親じゃなかったんだ。あいつが生まれる前、あいつの母親とその男は腐れ縁みたいな関係で、体の関係はなかったらしいんだが、男はあいつの母親を愛しておったそうだ。それをあの女は良いように利用して、生まれたばかりのクレハを捨てて出て行った。だがな、あの男は、愛した女の残していった赤ん坊までもを愛してしまったんだよ。それはもう異常な愛情で、クレハを片時も離さんかったそうだ。学校に上がるころになると、毎日送り迎えをして、少しでも体の調子が悪かったら、休ませたそうだ。そういう子供は他の子供たちの好奇の目にさらされる。そのうちクレハも虐められるようになってな、ある日虐めのリーダー格の子供が池に落ちて死んだそうだ。クレハは見たんだとさ、あの男がそいつを池に落とすところを。それからだ、クレハはあいつを恐れだした。そのうち自分も殺されるんじゃないかと。まあ、その頃はあの男を実の父親だと信じていたんだがな」
「その後、虐めはなくなったが、クレハには友達が一人もいなかった。近寄りがたい感じで見られていたんだろうな。あいつが十三歳のころ、母親がふらりと戻ってきたそうだ。すごくやつれて、アルバムの中の美しい女とは全く別人の、太った化けもんに見えたそうだ。そう思ったのは、クレハだけじゃなかった。あの男もその化けもんを目にして、一気に冷めたんだろうな。そいつに出て行きやがれと凄んだそうだ。そしたらその女、クレハを連れて行こうとしやがる。まあ、実の母親なんだからそうするのは当たり前なんだが、何も知らないクレハは父親と居たいと切願するんだが、あの女、実の父親じゃない奴に父親と呼ばれる権利なんかねえって言っちまったらしいんだ。その時初めてクレハは、その男が実の父親じゃねえって知っちまったらしい」
「今まで一緒にいて父親と思っていた奴が実は赤の他人だったってわけだ。十代の多感な時期だ。普通だったらぐれるよな?だけどあいつは違った。あいつは結局父親と慕ってきたあの男のところに残る事にしたそうだ。母親は出ていき、しばらくしてから自殺した。母親が死んだ後、あの男との関係が変わっていったらしい。あいつが言ったんだがな、自分はそれから母親みたいにいやらしい存在になったんだとさ。あの男を良いように扱う嫌らしい人間になっちまったんだとさ。でもあの男はそれで喜んだそうだ。命令すれば何だってする、まるで下僕のような奴だったらしい」
「あの、クレハの母親は、なんで自殺したんですか?本当に自殺だったんでしょうか?」
「さあな、クレハが自殺って言ってたから、自殺なんだろう」
腑に落ちない、まるで作り話のような現実味に欠ける物語だと思った。少女が殺されて、母親も自殺。ニュースになったりしたのだろうか?自殺ではなく、育ててくれた男が殺しているのかもしれないし、全部作り話の可能性もある。佐々木さんは、この話を全部信じているのだろうか?
「佐々木さんは、娘さんたちの元には戻らないのですか?」
「今更戻っても、どう接していいかわかんねえよ。死んだものと思ってくれていれば、本望だ」
「佐々木さん、息子を捨てた私が言うのは矛盾しているかもしれませんけど、私、十代の頃父を病気で亡くしているんです。大人になって辛かったのは、実は父の事ほんのこれっぽっちも知らなかった、という絶望感の類のようなもので、みんな父親と酒飲めるようになっただとか、本当にうらやましくて、まあ、うちはみんな下戸だからお酒は無理でも、いろいろ話とか、語り合ったりしたかったなあ、とか。まあ、変ですよね?私が言うの、説得力がないですよね。ごめんなさい」
「ねえちゃん、ありがとな。でも、いいんだ。俺はここで死ぬ、それでいいんだ」
私は、棺に入った父を火葬場で骨になるまでちゃんと見届けたはずなのに、いつも父がどこかで生きているのではないのかと、つまらない妄想にふけることがよくあった。あの棺に入っていた死体は誰か別の人間で、本当の父は私の知らないどこかで夢のように生きている。その妄想の中の父は決まって寂しげで、誰かが守ってあげないといけないような、クレハのようだった。私は、クレハに父を重ね合わせ、寂しさの漂う、行き場所のない魂のような存在の父を浄化しようとしていたのかもしれない。
母は父が死んだ後、当てつけのように高校の時の同級生と再婚した。きっと、ずっとそうしたかったんだろう。十代の少女の様に母は頬を赤らめて、ずっと待っていてくれたのよ、なんていうから私の居場所なんてどこにもなかった。
その後クレハが犬の散歩から戻り、私たちは再び凍てつく寒空の下、行く当てもなく彷徨い歩いた。
「クレハ、お腹すいていない?ねえ、どこか泊まってみる?あたたかいレストランにでも入ってみる?」
「帰ればいいじゃないですか?お子さんの待っている家に」
「じゃあ、一緒に行こうよ?」
「僕は疫病神ですから、いっしょに行けません」
「ねえ、そんな風に自分を蔑むの、やめなよ?」
「蔑んでなんかいませんよ。むしろ、笑いたいくらいだ。あんたみたいな、自意識過剰の人間が一番大嫌いなんだ」
「クレハ?」
「解ったでしょう?僕といても何も好い事なんてありませんよ。むしろあなたの価値が下がるばかりですから、早く帰ってください」
私は、クレハが怖かった。普段緘黙なこの青年がしゃべりだすと、その話声には説得力があり、悪魔的な魅力さえあった。私はもう既にクレハの虜で、そこからは抜け出せなかった。そうと知っている当人が、あえて私を突き放そうとしている。そこで帰っていればよかった。私は、そこで帰るべきだったのだ。
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