第8話 303号室
玄関の前でわざとらしく咳をしていると、待ち望んだハイヒールの音が後ろを通りすぎた。
「風邪、まだ治らないの?」
少し心配そうな声を投げ掛けたその人の為に、今俺はここに立っている。
「そうなんです、少し長引いてて。」
ふらつきそうになる足を踏ん張って、へらりと笑ってみせる。
「それなんだったら尚更病院にいかなきゃ駄目でしょう。」
市販の薬で済ませようだなんて思うからよと呆れたようにため息をつくのは、隣人のお姉さん。
職業はデザイン関係の仕事をしているそうで、俺と歳が近い弟がいるからか結構気さくに話しかけてくれる。
そんな彼女に俺は、
「本当に治す気あるの?ぼうっと立ってないで早くお家に入りなさい。」
お姉さんが自分の部屋の鍵を回す。このままでは埒があかない。
「おねえさ、」
一歩踏み出せば、上手く足に力が入らずよろめく。やっとここまで来たのに。
「ちょっと、本当に大丈夫?すごい熱いわよ。」
倒れそうになった俺を支えるお姉さんの声色が慌てていくのが解る。
そのままお姉さんを力強く抱き締める。そう、このまま。
柔い腕の感触。ぼやけていく頭では慌てふためくお姉さんの声も理解できず遠退いていく。
ああ、俺はこの為にずっと耐えてきた。
お風呂上がりにわざと髪を乾かさなかったり、何度も咳をしているクラスメートの近くにいってみたり、薄着で出掛けたりもした。
俺は、お姉さんに自分の風邪を移したい。
お姉さんの薄く白い肌が赤らんでいく様を、渇いた咳が止まらず熱でつらそうする様を、見たい。
単にお姉さんが風邪をひくのでは意味がない。
俺が、俺の、俺から、移したい。
俺の風邪を、そのまま彼女に移したくて堪らない。
すがり付くようにお姉さんの背中を掴む。マスクの中は荒い息で湿って気持ちが悪い。頭もひどく痛む。
けれど、これでお姉さんに風邪が移るならなんてことない。
今にも溶けそうなほど熱い体をもて余しながら、俺は、笑った。
空想団地 ちとり @chitori
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