九度目の正直

懐中時計

第1話

 猫には九つの命がある。

 嘘だと思うかも知れぬが、これは本当の話だ。ためしに、私の話でも語ってやるとしよう。



 一度目は、生まれ落ちてすぐに死んだから語るような記憶もない。

 二度目の記憶は、母さんがいない間に鴉に襲われたところで途切れている。ゆえに、今も鳥畜生は大嫌いだ。特に、鴉は。

 三度目は、母さんや兄弟たちとはぐれて歩いていたら池に落ちて溺れて死んだ。これ以来水が大の苦手になった。

 四度目はそこそこ大きくなれたが、定宿にしていた屋敷の猫嫌いの下男に棒でぶたれてからの記憶がない。歯っ欠けの人間や中年男が今も嫌いなのは間違いなくこのときのせいである。

 五度目はさすがに用心を覚えて、烏にも池にも陰険そうで歯の欠けた人間には近づかないように努めた。これといった思い出はないし、とりわけ長く生きたわけでもなかったが、それなりに穏やかな生涯だった。




 転機は六度目に訪れた。人に拾われたのだ。棒でぶたない、心優しい主人だった。彼は「ショセイ」というやつで、今思えば暮らし向きはあまり良くなかったが、精いっぱい大切にしてくれた。私はこのとき初めて自分の名前をもらった。猫だから「マタタビ」という雑な名前の付け方ではあったが、代わりに私は彼を「主人さん」と呼ぶことにした。

 寒がりな主人さんのために、冬の日にはその薄っぺらな半纏の中に潜り込んで温石代わりになってやるのが、私は好きだった。

 そうこうしているうちに世の中は移ろい、彼は「センソウ」に行かねばならないからと泣きながら私を橋の下に捨てた。私はこのとき人の言葉がわからなかったから、ただひたすらみいみいと鳴いて一層主人さんを困らせた。私は初めて、置いて行かれる寂しさを知った。結局主人さんは帰っては来ず、私は一際寒い冬の日に寿命を迎えた。




 七度目は、まず人の言葉を覚えた。のんべんだらりと路傍に寝そべりながら、行き交う者たちの会話を聞いた。誰も猫が人の言葉を覚えようとしていることなど知らぬから、これは大いに良い方法だった。それから、私は主人さんを迎えに行った。六度目から幾らの年月が流れたのかも理解せずに出向いた長屋は跡形もなく、薄汚いあばら屋が密集した市場になっていた。私は猫の姿だったから、食い物を荒らされるのではないかと至るところで人間たちに追いかけ回された。這々の体で逃げ回っている最中、私は子供たちに捕まっていたぶられ、死んだ。




 八度目は、七度目から随分間が空いた。そうして目が覚めると、奇妙なことに気がついた。私の尾は二股に分かれていたのである。いわゆる猫又というやつだ。人の子に化けることもできるようになっていて、私は時折人の姿で街を歩くことを覚えた。街は随分様相が変わっていて、とてつもなく大きな建物が空を覆わんばかりにそびえ立つようになっていた。それはそら恐ろしい感じがして、「ビル」という名前らしいあれらにはあまり近寄らなかった。

 さて、猫又になったからといってやるべきことが増えるわけではない。私は少しのつまらなさを抱えて日々を過ごした。世は今までで一番平和な時代に移ろっていて時の流れが随分遅くなったように思えた。猫の連中は私を異質な者と敏感に感じ取っていたから遠巻きにされるばかりで張り合いはなかった。

 そんなある日、塀の上でぼんやりと尻尾を揺らしていた私は信じられないものを見た。視線の先には、くるりくるりと黄色い傘を回して砂利道を歩く子供がいた。おそるおそる、にゃあ、と鳴いてみれば、子供はぱっとこちらを見上げた。泣きそうになった。身体に鞄の大きさが合っていない年端も行かぬ子供だったが、その顔は、紛れもなく主人さんだった。

 塀から飛び降りてそっと近づけば、主人さんははじめ怖がって後退ったがすぐに私の頭に触れてきた。

 『……かわいいなぁ』

 主人さんは私のことを覚えてはいなかった。それはそうだ。私が八度生まれ変わりを繰り返してきたように、主人さんとて生まれ変わりを繰り返す。ただひとつの違いは、それまでの記憶があるかないかだけだ。

 私はもう一度主人さんの隣で過ごすことにした。小さい主人さんは私を傘に入れてくれた。それは随分昔に懐に入らせてくれた冬の日を思い出して、涙が出る思いがした。

 主人さんの家族は初めこそいい顔をしなかったが、とても私を可愛がってくれた。それは今まででいちばん幸せな暮らしだった。私は人の子の姿になることもなく、猫のふりをして主人さんの傍らに在り続けた。名前は、やはり「マタタビ」だった。こればかりはどうやら宿命のようなものらしい。

 しかし、幸せとは突然姿を消してしまうものだ。ひたひたと死神がやってくる足音に、私はそのときまで気がつかなかった。

 その日、私はいつもの塀の上でのんびりと過ごしていた。そうして主人さんが帰ってくるのを待っているのがすっかり日課になっていたからだ。日の光を燦々と浴びて微睡んでいると、さてさて主人さんが帰ってくるのが見えた。「ナツヤスミ」というやつで、両手に荷物がいっぱいの主人さんはよたよたと道路を歩いていた。やれやれと腰を上げたとき、私は一台の車が真っ直ぐに主人さんの後ろから突っ込んでくるのを目にした。主人さんは気づいていなかった。すべてが時の流れを失ったようにゆっくりになり、私は気づけば駆け出していた。

 伸ばした手は、人の子の形をしていた。主人さんの目がまん丸になって、失敗したな、バレてしまったと思ったが、そんなことはどうでも良かった。主人さんを道路の反対側に突き飛ばした。代わりに、私の視界は反転した。車は止まって、キキーッという甲高い叫び声ばかりが今も耳に残っている。

 あぁ、八度目が終わったのだなと思ったのは、もはや何も見聞きができなくなった後だった。何かに包まれたようなふわふわとしたあったかい感覚だけ、覚えている。





 さて、こうしていよいよ九度目の……最後の生が始まることとなったわけだが。

 これが驚いたことに、私は人間として生を受けた。どういうわけか、身体はとうとう猫も猫又も卒業してしまったらしい。しかし記憶はすべて残っている。実に、実に奇妙な感覚である。

 そして、極めつけは────

 「黒木」

 振り返ると、そこには八度目のときよりも随分と大きくなった主人さんが立っていた。「学ラン」に袖を通して「リュックサック」を背負った主人さんは、どこから切っても普通の「高校生」である。かく言う私はというと、「セーラー服」にマタタビの「キーホルダー」をつけた鞄を持つごく普通の「高校生」である。

 「……おはようございます、しゅ………じゃなくて、奈川くん」

 「おはよ。宿題やった?」

 猫のときと違い、今は主人さんの顔が近いところにある。変な感じがする。でも、初めて会ったときと同じ感覚だ。

 「あぁ、まぁ……ぼちぼちです」

 「ぼちぼちかー、後で見せてよ」

 「それは……頑張りましょうよ」

 黒木は厳しいなぁと笑う主人さん。胸の奥がさわさわする不思議な感覚を味わいながら、私はその顔を見上げて笑う。

 ふと視線を感じて振り返れば、白昼に一瞬八匹の猫の影を見た。まるで自分たちの分まで、といわんばかりである。私は小さく微笑むと、再び主人さんの顔を見上げる。

 「……ん?なんか俺の顔についてる?」

 主人さんは不思議がって私を見るけれど、私はなんでもないですよ、と首を振った。




 いつまで続くかわからない九度目の生涯。主人さんを覚えていられるのもこれで最後で、次はない。はじめにも言ったが、猫の命は九つで終わりだ。

 だからこそ、今日も立派に主人さんの傍らにいられる幸せの味は、生きていられることの喜びの味は、今までのどんな場面よりも温かくて深い。あんまり良い猫生だと胸は張れないけれど、最後の最後でこんな素敵な人生とが待っていてくれたのなら、最高の幕引きであろう。

 まさに、これぞ「めでたしめでたし」「ハッピーエンド」というやつである。

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