ほんの少しの甘さをください

望月くらげ

第1話 コーヒーにほんの少しのミルクを混ぜて

 カタカタとキーボードを叩く音が部屋に響く。

 

「ねえ、先輩」

「んー?」

「まだ終わらないの?」

「もうちょっと」


 答えながらも先輩は手を止めようとしない。

 溜息をつくと私は


「今日は帰るね」

「あー悪いな」

「これ、ここ置いておくから」

「いつもありがとう」


 机の上にあった本の山をどけると、カフェオレを置いた。

 砂糖無しのカフェオレなんて何が美味しいのか分からないけど……。


「明日は?」

「あー無理かも。これ、今週中なんだ」

「そっか……」

「悪いな」


 言葉とは裏腹に、全く悪びれていない態度が嫌になる。

 でも、それ以上にこんな態度を取られても嫌いになれない私自身に呆れる。


「そうだ、今度の日曜日――」

「…………」

「なんでもない。じゃあね」


返事のない背中に声をかけると、私は先輩の家のドアを閉めた。


「学生時代は楽しかったんだけどなぁ」


 出会ったのは学部の新入生歓迎会だった。4回生だった先輩が随分と大人に見えて気付いたらどんどん好きになっていった。

 初めて二人で行った水族館。イルカショー全身ずぶ濡れになって泣きそうになったっけ。

 告白されたときは、本当に嬉しかった……。


 付き合いだしてからは二人でいろんなところに行った。

 夏は海に花火大会、秋は紅葉に果物狩り。冬は寒いからおうちデート。

 突然「そうだ京都に行こう」なんて言って車で京都まで行ったこともあったっけ。

 とにかく二人でいられるのが楽しかったし、嬉しかった。


 だから卒業しても何も変わらないと思っていた。――けれど、社会人と学生では自由になる時間が全然違っていた。書類や研修、それに取らなくてはいけない資格の勉強……4月から先輩はいつだって忙しそうだ。


「来年も一緒に行こうって言ったのは先輩なのに……。約束、忘れちゃったのかな……」


 あの日、水族館の帰り道。また来ようねって二人で買った年間パスポート。

 でも4月からは行く機会もないまま、今度の日曜日で期限が切れる。


「先輩のバカ……」

「パスポートの切れる最後の日に、また二人で行こうねって約束したのに……」


 見上げた先輩の部屋には、開けた窓からの風で揺れる真っ白なカーテンだけが見えた。



「あーもう!今日土曜日だよ! 明日は約束の日だよ!」


 どうしたものか悩みつつ先輩の家に今日も向かう。いつものようにドアノブを回すと簡単にドアが開く。


「お邪魔しますー……」


 相変わらず部屋の中からはカタカタとキーボードを叩く音が聞こえてきていた。


「せんぱーい、入りますよー」

「おー、ごめんな。もうちょっとで終わるから」

「はーい」


 もうちょっと、もうちょっと……いつまで経ってももうちょっとのまま進まない。

 しょうがないな、なんて思いながら私はキッチンへと向かう。


「せんぱーい、カフェオレでいいですか?」

「悪いな」


 先輩はいつもカフェオレ。それもお砂糖抜きのミルク少な目。

 いっそのことコーヒー飲めばいいのでは? と思うけれど、コーヒーとは違うらしい。が、甘いのが好きな私にはよく分からない。

 なんでも、ミルクの甘みがほんの少し入るのが美味しいのだとか。

 かすかに感じるミルクの優しさとコーヒーのほろ苦さが癖になるらしい。


「こんなの、苦いだけだと思うんだけど」


 先輩のために入れたカフェオレに口を付ける……けれど、やはり飲めたものではない。何が美味しいのか本当に分からない。


「そうだ」


 あれがカバンの中に入っていたはず。

 私はカバンの中を漁って目当てのものを取り出すと、そっとカフェオレの中に溶かした。


「先輩、これどうぞ」

「いつもありがと」

「いえいえ」

「ん? 何見てんの?」

「別に。飲まないんですか?」

「おう……頂きます。……って、あっま!! おま、これ何入れたの!?」

「チョコレート」

「お前な……」

「美味しいでしょ?」


 味見した私が言うのだから、間違いない。


「だからって……」

「頭使ってるんだから棟分も必要ですよー」

「糖分ねぇ」


 そう言うと先輩は立ち上がって私に顔を寄せる。


「え、な、なんですか……?」

「……ごちそうさん」

「っ……!! 何するんですか!」

「口の端にチョコ、ついてた」

「だからって舐めること……!!」

「糖分、必要なんだろ?」


 したり顔で言われると、言い返せない。

 先輩の唇が触れた箇所を抑えると、笑いながら先輩は私の入れたカフェオレを飲み干す。


「やっぱり甘いわ……。そうだ、明日だけど」

「明日?」

「忘れたの? 水族館」

「あっ……覚えてたんですか?」

「当たり前。そのために今週仕事頑張ってたんだから」

「先輩……」


 忘れてるんだと思ってました、と言うとだろうなと先輩は苦笑いを浮かべる。


「なかなか相手してやれなくて悪いと思ってる。けど、優月のこと想う気持ちは変わってないからな」

「先輩……」

「もう少し落ち着いたら、前みたいにデートしような」

「はい!」


 苦さの中に広がるほんの少しの甘さ。

 そんなカフェオレのような先輩に、今日も夢中な私です――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ほんの少しの甘さをください 望月くらげ @kurage0827

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説