最終話 the Garden of Vampire

 古のヴァンパイア、ジガの強大な力によって亜空間に転移されたブシェクの街の跡地。


 中央部分がまるまる巨大な更地と化したそのブシェクの街の、さらにその中央。

 初夏の爽やかな朝日が斜めに差し込むその場所で、フラウと名付けられた八本足の高級軍馬が、そこに倒れ伏した人影を心配そうに鼻先でそうっとつついている。


「う……ん…………」


 愛馬の吐息を感じ、微かに身じろぎをしたのは黄金色の髪の可憐な乙女。

 このブシェクの街に突如として襲来したヴァンパイアの首魁を討伐すべく、仲間と共に乗り込んでいったシェダ家の姫君リーディアだ。 


 すぐ脇にはやはり同様に乗り込んでいった仲間の高名な傭兵、ケンタウロスのフーゴがその馬体を横倒しにしてやはり気を失っている。その隣には最近とみに名を挙げた天人族のその愛娘、月姫ことダーシャの姿もある。


「おお、気がついたぞ! リーディア様、起きてください! 大丈夫ですか!?」


 周りを取り囲んでいるのは、彼らと共にこのブシェクにやってきた十五名のザヴジェルの精鋭兵達だ。

 さらにその外側には昨晩の惨劇を生き延びた多くのブシェクの人々が遠巻きに取り囲み、街を救った英雄の様子は如何かと固唾を呑んで見守っている。


 彼らは突然襲ってきたヴァンパイアから逃げ惑う中で、正門を確保したというザヴジェルの兵達に誘導され、奇跡的に命を拾った人々だ。

 街の外で一夜を明かし、危機は去ったと聞いて戻ってきたのだ。噂によれば、シェダ家のリーディア姫を始めとした勇敢な有志が街に突入し、全てのヴァンパイアの力を封印したという。街の中央部が綺麗な更地になっていることに驚きもしたが、そのさらに中央で倒れているこの三人を見つけ、夜を徹して捕らえたヴァンパイアの処理をしていた同じザヴジェルの十五人を正門から引っ張ってきたのだ。


 ザヴジェルの兵達が言うには、街に突入したのは四人という話なのだが――


「ん……え、ここは……? 私たち…………?」


 最初に目を醒ましたシェダ家の姫君が、がばり、と身体を起こして美しい紫水晶の瞳で周囲を見回しはじめた。

 元より可憐な美姫として有名な彼女だったが、今は朝日がその黄金色の髪を輝かせているせいか、更にその印象深さはいや増している。以前にはなかった触れがたい静謐さが加わり、神々しいとまでいえる雰囲気を放ち周囲の民衆を魅了している。


「んん――あれ? リーナ姉さん?」


 天人族の娘、月姫ことダーシャも目を醒ましてそこに加わった。

 二人とも熾烈な戦いをくぐり抜けてきたようで身につけた防具は散々な痛みようだが、周囲の民衆の目はシェダ家の姫君の神々しいほどの静謐さか、未だ幼さを残した天人族の月姫の艶やかな黒絹の髪と特徴的なアイスブルーの瞳、楚々とした風情に釘付けになっている。こんな可憐な姫君たちがこの街を救ってくれたのかと。


「ね、ねえ、ヤーヒムは? あの人はどこ?」


 シェダ家の姫君が戸惑い顔でザヴジェル兵の代表に問いかけ始めた。

 その表情は徐々に必死なものとなり、そこに天人族の月姫も加わって更に騒ぎが大きくなっていく。その声でケンタウロスの傭兵フーゴも目を醒まし、やがて状況を把握したのか、場を落ち着かせていく。


「――いいか二人とも、あいつは生きてる。あいつから……をもらった俺たちなら分かるだろ」


 途中で声をひそめた部分は周囲の民衆には聞き取れなかったし、詳しい事情も分からない。

 ただ、三人が目を醒ましたら口々に感謝の言葉を投げかけようと集まっていた彼らは、そこで虚を突かれたように一様に口を噤む。彼らの目を奪った二人の可憐な姫君が、傭兵フーゴの言葉を受け入れつつもあまりに悄然と俯いたからだ。集まった民衆に何とも言えない沈黙が広がった、その時。


 遥かなる頭上、初夏の早朝の爽やかな青空の一点から、赤く輝く何かがゆっくりと降下してきた。

 それは赤子の握りこぶしほどもある、この世の物とも思えないほどに美しい宝玉だった。朝日に煌めくだけでなく自らも複雑な紅の光を放っている、どこまでも透きとおったその宝玉。


 多くの民衆が口を開けて見守る中、赤く輝くそれはゆっくり軽やかに舞い降りてくる。

 まるで、自分の意思を持っているかのように。まるで、行く先はもう決まっているかのように。


 そして、人々の輪の中心にいる三人の頭上で降下を一度止め、祝福するかのようにやわらかな光でその一人ひとりを染め上げていく。


 逞しい馬体を持つ歴戦の傭兵ケンタウロスで、その気さくな人柄から街の住民に顔見知りも多いフーゴ。

 人系種族は持ち得ないとされていた翼を誇らしげに背中に掲げる、未だ幼さを残した天人族の月姫ダーシャ。

 そして神々しき麗しの乙女、ハイエルフの血を引く名族シェダの姫君リーディア。


「……天空神の祝福だ」

「恐怖のヴァンパイアを駆逐し、街を救った英雄に天空神が祝福を授けたのだ」

「神に感謝を」

「我らが英雄に感謝を」


 集まった群衆が口々に呟きを漏らし、やがてそれは歓声へと変わっていく。

 英雄万歳、天空神万歳――歓声は徐々に熱狂的なものへとなっていく。家族を失い街の大半を失った彼らだったが、今、目の前で彼らを救った英雄達に天空神が祝福を授けた。それはつまり、天空神は彼らのことを見ていて、気にかけているということ。


 そんなひと筋の希望が途方に暮れていた人々の胸を照らし、それまでの絶望と不安を吹き飛ばすかのように爆発的に燃え上がっていく。

 ただただ感動の涙を流している者もいる。再興を誓って肩を叩き合う者もいる。そんな人々の歓喜の声が更地となったブシェクの跡地に広がり、初夏の青空へとこだましていって。



 彼らは知らない。



 その後ひっそりとシェダ家の姫君の手の中に舞い降りた天与の宝玉はラビリンスのコアに酷似したものであり、彼女がよく知る者の気配をまとっているものだったことを。


 その意味を悟った姫君が泣き崩れ、天人族の月姫といつまでも抱き合って咽び泣いていたことを。


 彼らの英雄フーゴが、あんの馬鹿野郎が、とこぶしを握り締めて天を睨んでいたことを。


 神の奇跡を目の当たりにした群衆の歓喜の大歓声は、鳴りやむことなく続いていく。



 ――突然のヴァンパイアの襲撃を受け、象徴であり中心だったブルザーク大迷宮ごとその中枢部を失った大陸有数の大都市ブシェク。



 この時は誰も知る由もないことだが。

 今この瞬間、更地となったそのブシェクの片隅に、新たなラビリンスがひっそりと誕生しつつあった。


 それは後に、様々な政治的権謀の果て、先の王都防衛戦で大功のあったザヴジェル領へブシェクの街ごと割譲されることとなる。

 旧太守であったブシェク三貴族家のナクラーダル家は一族全てが行方不明であり、新しい太守はザヴジェル伯の腹心、魔法で名高いシェダ一族の当主ローベルト=シェダが任命された。ブシェクを救った英雄の一人でもあるその娘のリーディア=シェダがその新たなラビリンスに寄り添うようにそこで暮らし始めるのは、本人に近しいごく一部しか知らないこと。




  ◆  ◆  ◆




 後の世でカラミタ禍と呼ばれる未曾有の危機がスタニーク王国を襲ってから、三ヶ月の月日が流れ。

 壊滅的打撃を受けた王都と、焦土と化した迷宮都市ブシェクにも等しく夏が訪れ、秋が訪れた。


 街の中枢が丸ごと消え、その発展の中心であったブルザーク大迷宮も同時に消失したブシェクは、されど驚異的な復興を見せていた。


 その要因のひとつは、消失の翌朝に街を救った英雄たちに天空神の祝福があったこと。

 人々はその神に認められた英雄を称えると同時に勇気づけられ、溢れんばかりの活力を持って街の復興に取り組んできた。


 そこに加えて、消失したブルザーク大迷宮の替わりに新しいラビリンスが出現したこともある。

 <終生の地>と名付けられたその奇跡のようなラビリンスは福音のごとく人々に受け入れられ、新たな太守ローベルト=シェダの亜人受入れ政策と併せ、従来以上の雑多な人種の人々で賑わうようになっている。その経済効果が街の復興を後押ししない訳がない。街の大通りには新たな住民たちも混じった喧騒が戻り、消え去った建物を大急ぎで建設する槌の音が鳴りやむことがない。


 心地良い中秋の風が吹く、そんな賑やかなブシェクの大通りに。


「ふむ。だいぶ様変わりしてしまったが、順調なようだな」


 赤銅色に輝く豊かな髪を吹き抜ける風になびかせ、白磁の肌の貴人が同行者を振り返った。

 彼女の名はアマーリエ=ザヴジェル。この地の統治権を持つラディム=ザヴジェル辺境伯の長女であり、先の王都防衛戦で更に有名となった<辺境の姫将軍>その人だ。


「ああ、あのラビリンスはまさに奇跡だからね。これからももっと人は増えるよ」


 そんな彼女に気さくに答えるのはこの街の太守、ローベルト=シェダだ。

 隣を歩くラディム=ザヴジェル辺境伯本人と軽く頷き合い、同行の一団を見渡して告げる。


「さ、あの角を曲がったらいよいよその<終生の地>だよ。皆が来ることはリーナとダーシャにも知らせてあるから、久しぶりの再会ができるね」


 その言葉にアマーリエが静かに頷き、続いて他の面々も言葉少なに頷きを返していく。

 その場にいるのは名高き辺境ザヴジェル軍の主軸とも言える豪華な顔ぶれだ。辺境伯次男にして<戦槌>騎士団を率いるアレクセイ=ザヴジェル、ザヴジェル筆頭上級騎士にして著名な軍特務部隊<ザヴジェルの刺剣>首班のマクシム=ヘルツィークに、その中核上級騎士のダヴィット=チェルニーやテオドル=ドレイシーもいる。


 彼らはある意味でこのブシェク以上に壊滅的打撃を受けた王国軍の立て直しに助力を乞われ、長々とそちらで拘束されていたのだ。

 スタニーク王国の歴史に残る王都防衛戦で<ザヴジェルの刺剣>として共に戦った仲間、リーディア=シェダと天人族のダーシャと顔を合わせるのは、実にその戦火の終息直後以来のことで約三ヶ月ぶりとなる。


 彼らはブシェクが壊滅した戦いには間に合わなかったが、その直後に一度王都戦線を抜けて駆けつけている。

 未だ曖昧にしか公表されていないブシェクの壮絶な戦いの裏側については、その時に聞いて全てを知っている。戦いの主役ともいえる男が行方不明となったことも、これから再会するリーディアとダーシャが未だにその男を探し続けていることも。


「ほら、まだ仮の建物だけどそれが新しいラビリンスの入口。さ、入って入って」


 太守ローベルトに促されるまま、急普請にしては立派な石組の建物に足を踏み入れる一行。

 そして、思わず仰け反るほどの活気に迎え入れられることとなる。そこは様々な種族の人族で溢れかえっていたのだ。


「よおし、今日は飲むぞ! 噂どおり本当に魔獣もいねえし、ここは楽園だぜ!」

「あんた、予備の鎌も忘れずに買ってくるんだよ! 商売道具がなけりゃ刈り入れに差し障るからね!」

「あの、亜人の移住受け入れ窓口はこちらでしょうか? 私ら家族でお願いしたいんですが」


 重そうな袋に魔鉱石を詰め込んで帰還したのであろう迷宮採掘者ディガーの一群や、見るからに農作業を途中で抜けてきたといった風情の中年夫婦、家財道具一式を抱えて希望に目を輝かせた若い家族――そんな人々による活気に満ちた喧騒が、旅装も解いていないザヴジェルの軍人たちの耳に押し寄せてくる。


 彼らザヴジェル軍の面々はこのラビリンスにはまだ入ったことはない。

 彼らが駆けつけた時には発見されておらず、その後の噂を聞いているだけだ。


 感心したような顔で周囲の喧騒を眺め、やがてその視線は大混雑のカウンターを通りすぎ、建物の奥で青い光を放つ複数の転移スフィアに釘付けになった。普通のラビリンスの入口にある転移スフィアはひとつだけなのに、そこにはいくつものそれが簡易窓口付きの間仕切りに区切られ、壁一面に並んでいるのだ。


「あはは、驚いたでしょう? それぞれが違った亜空間と繋がっていてね、一層ずつ潜っていかなくてもここから直接行きたい層に行けるんだ。実に興味深い作りだよね。例えばそれは――」


 ローベルトが指差したその転移スフィアから、ちょうど鹿人族の一団が荷押し車を押して現れた。


「あ、太守様! 見てください、麦がこんなに収穫できました! これから役場に収めに行くんですよ!」

「ほうほう、もう秋も終わりだというのに実に興味深いね。新芽の畑はどうなっているのかな?」

「はい、すくすくと育っています! 本当にここは奇跡のような場所で! 呼んでくださってありがとうございました!」

「あはは、それは私じゃないよ。あ、そこのアマーリエ嬢も彼らの仲間だからね。ほらアマーリエ、パイエルの移民の中で君たちが探していた家族がいただろう? 彼らがそうなんだけど、覚えてるかな?」


 ローベルトに急に話を向けられたアマーリエは僅かに首を傾げ、その後に仄かに微笑んだ。

 そう、かつての戦友が同じ戦友仲間のケンタウロスを介し、保護しようと探していた家族がいたことを思い出したのだ。そうか、無事に見つかり、ここで元気に暮らしているのか――アマーリエの中にあたたかい気持ちと、刺すような切なさが込み上げてくる。


「なんと、そうだったんですか!? 申し遅れました、私がヤルミルです。これが娘のベルタ、そこにいる兄弟がイジーとリジーです。……ほら挨拶しなさい、私たちの恩人ですよ」


 大人の鹿人族の陰に隠れていた三人の子供がおずおずと前に出てきて、それでも元気一杯に大人達と一緒にお辞儀をしてくる。

 皆が程よく日に焼け、良い健康状態であるようだ。アマーリエは彼らに労わりと激励の言葉をかけ、ローベルトに視線を戻した。彼は話が出た流れでラビリンス内に作られた奇跡の麦畑の無限の可能性についてラディム伯と話しこんでおり、ちょっとやそっとでは終わりそうもない。鹿人族の一団を見送った後、アマーリエは咳払いと共に統治者二人組に声をかけた。


「あー、我々はリーナのところに行って良いか? 叔父上は予定どおり父上と兄上と、三人で一緒に麦畑の視察に向かえばいい」

「お、ごめんごめん。じつにわくわくする話でね、話し出したら止まらないんだ。それでリーナとダーシャだよね。二人が住んでいるのは一般公開していないところなんだ。おおーい、窓口の人、ここの人たちを裏の転移スフィアに案内してあげて!」


 この街の太守の大声に、ただでさえ混雑していたカウンターはちょっとした混乱に陥った。

 そして転がるように出てきた中年の男に案内され、アマーリエ達軍人一行は統治者二人と辺境伯次男アレクセイに別れを告げて事務所の中へと入っていく。その先に彼らのかつての戦友、シェダ家のリーディアと天人族のダーシャがひっそりと暮らしているのだ。


 アマーリエは大きく息を吸い、久しぶりの再会に向けて未だ整理をつけきれていない自らの心を励ました。




  ◆  ◆  ◆




「良いところだな。ここでの暮らしには慣れたか?」


 一般非公開の転移スフィアを抜けた先に広がっていた爽やかな草原の、清流ささやく小川のほとり。

 亜空間とは思えないその大自然に溶け込むように建てられた一軒の武骨な屋敷の中庭で、彼ら<ザヴジェルの刺剣>の一部メンバーは三ヶ月ぶりとなる再会を果たしていた。屋敷に迎え入れたのはリーディアとダーシャの二人で、アマーリエ、マクシム、ダヴィット、テオドルの四人を客として招いた格好だ。


「ええ、まあなんとか、ね。この屋敷もたぶん彼が用意してくれたものだし、魔素も濃くてダーシャも暮らしやすいみたい。そうよねダーシャ?」


 やや影の残る微笑みでアマーリエたち訪問者に答えるのは、黄金色の見事な髪を肩口でばっさりと揃えたリーディアだ。

 やや面立ちはやつれ、最後の戦いで身につけたという神々しさもあってまるで別人のようだ。侵しがたい静謐さ、そんなものを強く感じる佇まいとなっている。


「……その顔を見ると、その後はやはり?」

「ええ。こんなラビリンスが突然できたのだもの、もしかしてと思ったけれど……。どこを探しても、さっぱり」

「…………そうか」


 リーディアとダーシャが二人で用意した紅茶に目を落とし、悄然と溜息をつくアマーリエ。

 二人は本当に二人だけでこの屋敷に暮らしているのだ。


 ブシェクの戦いで行方不明となったザヴジェルの英雄、天人族ヤーヒムがヴァンパイアだったということは未だにこの場にいる数人だけの大きな秘密だ。

 そして彼らだけが知るもうひとつの秘密がある。それは、ヴァンパイアはその長い生の果てにラビリンスになるということ。


 そして、彼が姿を消した直後、その場所のすぐそばにラビリンスが出現していたという知らせが入った。

 必死に彼を探し続けていた<ザヴジェルの刺剣>は動揺を隠せなかった。けれども、彼らの知るヴァンパイアは色々な意味で普通と違った。半ば諦めつつも、彼らは荒唐無稽ともいえる一縷の望みに縋ったのだ。あの男ならば、もしかしてその中にいるかもしれない、と。


 アマーリエとてその知らせを聞いた時は大いに取り乱し、王都でのあれこれを放り出して再びブシェクに舞い戻ろうとしていたのだが、壊滅した王国軍の影響は予想以上に深刻であり、王都を救済したザヴジェル軍の看板たる彼女は戻るに戻れなかった。仕方なく全てをリーディアとダーシャの二人に託し、一日千秋の想いで吉報を待ちわびていたのだが――


「たぶん、このラビリンスのコアは、これ。……ふふ、泣きたいくらいに綺麗よね」


 リーディアがそうっと撫でるのは、ブシェクの戦いの翌朝に天から舞い降りてきた紅の宝玉だ。

 どこまでも透きとおったその宝玉は庭に趣味良く配された木立からの木漏れ日をきらきらと反射し、そして自らもそれに負けない複雑な紅の光を放っている。かつて天人族の彼が提供してくれたカラミタやラビリンスのコア以上に貴重であり、おそらくはこの世にふたつとない宝玉。彼女達が求めてやまない懐かしい気配をまとった唯一無二の宝玉だ。


「……まあ、せっかく来てくれたんだから暗い話ばっかりするのはやめましょ。このラビリンスを案内するわ。せっかくだから見ていってあげて? この屋敷もそうだし、あちこちに彼の痕跡を感じるの。そういえば昨日、フーゴも戻ってきたのよ? 皆が来るから時間には顔を出すように言ったのに……ダーシャ、フーゴを呼んできて貰ってもいいかしら?」

「えええ、フーゴおじさん、きっと他のケンタウロス仲間に引っ張られて遠くまで探検に行ってるよ。なんだかみんなあのエリアに大喜びみたいで、『時間までに戻れなかったらすまん、絶対に顔は出すから姫さん達に謝っといてくれ』ってこっそり私に言って行ったし」


 テーブルの隅に座って静かに自ら淹れた紅茶を啜っていたダーシャが、口を尖らせてフーゴの物真似をする。

 その本人の特徴をよく捉えた口調に微笑ましい空気が場に広がり、アマーリエが軍人らしいきびきびした動きで席から立ち上がった。


「くくく、フーゴともずっと会っていないが、その様子だと変わっていないみたいだな。すっかり馳走になったし、ラビリンスも是非見ておきたい。フーゴがいなくても案内をしてもらおうか」

「ふふ、そうね。フーゴは後でマーレにお仕置きしてもらいましょ。じゃあ皆、こっちに来てもらえる?」


 そう微笑んでリーディアが先導したのは、中庭の奥にあるこじんまりとした別棟だ。


「この屋敷もそうなんだけど、私とダーシャが来るまで誰も建物の中には入れなかったの。ものすごく高度な空間封印ね。ここは特に、今でも私かダーシャがいないと無理みたい。あ、フーゴも平気だったわね。まあ、それだけ厳重に何をしまっていたのかというと」


 先行したリーディアに続いて扉を抜けた一行は予想外の光景に息を呑む。別棟の中には、青く光る転移スフィアがずらりと並んでいたのだ。


「ここはね、このラビリンスにある全部の亜空間と繋がっているの。表の一般公開されているスフィアとは別、一種の管理用の裏口みたいなものかしら。まるであの人がここで暮らそうと用意したみたいでしょ?」


 一瞬だけ切なそうな表情を零したリーディアが、淡々とひとつひとつのスフィアを指差して説明していく。


「この先は魔鉱石がいっぱい採れる岩場が広がる亜空間。魔素が異様に濃いせいか、良質なものがたくさん表層に顔を覗かせているらしくて、でも魔獣のような危険なものは一切いないの。野生動物にさえ気をつければ子供でも採りに行けるぐらい。まさにディガーの楽園、為政者の宝物庫ね」


 先ほどラビリンスの表玄関で見かけたそれらしき男達を思い出し、アマーリエ他一行はさもありなんと深々と頷く。


「この先は麦畑が広がっているわ。以前彼がザーズヴォルカのシェダの屋敷に滞在していた時、うちの父と話していたものの完成形ね。なんでも麦の育成に最適の土と気候が維持されてて、あとは濃密な魔素のお陰で異常に生育が良いみたい。中にはもう農民系の亜人家族がたくさん移住してて、父さんたら奇跡の麦畑とか言って夢中になって研究してるの」

「ああ、それはさっき片鱗を見た。太守としての仕事よりよほど本腰を入れてそうだったな」


 くく、と含み笑いを漏らすアマーリエ。

 だが、食料の安定した生産は為政者の仕事の大きな柱だ。しかも外部の天候と断絶されたラビリンス内部での農作ならば、外界が凶作になろうとも無関係で収穫が期待できる。そういった意味では、ここの麦畑の発展に力を尽くす新太守のローベルトは打ってつけの存在とも言える。もちろん他にも要因はあるのだろうが、父ラディム伯の人選にアマーリエは苦笑を禁じ得なかった。


「他にいくつもあるんだけど、あとはコレね。この先にフーゴがいるわ。広い大草原に狩りの獲物がたくさんいるところでね、たぶんフーゴの里の人のために用意されたものだと思うの。フーゴ、これまでも傭兵で稼いだお金でいろいろと里に送っていたでしょう? あの人もそれを知っていたから、きっとフーゴのために作ったんだわ。いつだったか、魔獣が増えすぎてケンタウロスの住める草原が減って困ってるとか、お酒を飲みながらフーゴが零してたもの」


 そういってリーディアは淡い微笑みを浮かべた。

 霊峰チェカルへの旅路、ザヴジェルを縦断したトカーチュ渓谷への旅路、最後のものとなってしまったブシェクへの旅路――その二人にリーディアとダーシャを加えた四人で夜営をした時のことを思い出しているのだろう。その微笑みはすぐに寂しげな表情に変わってしまったが、それを明るいものに切り替えてもう一度口を開く。


「そう。別にフーゴのためって証拠はないんだけれど、きっとそういうことで間違いないわね。だって、草原だけだったらまだしも、ちょっと端に行けばもの凄い広さの人参畑がひろがっているのよ? ケンタウロス以上に喜ぶ種族はいないと思わない?」


 あー、と曖昧な返事を返すアマーリエ以外のマクシム、ダヴィット、テオドル。

 邪魔にならないようにリーディアの後ろに控えていたダーシャがくすくすと笑い出す。


 皆の頭に浮かんでいるのは、行軍中に時おりフーゴが作る特製のシチューのことだ。肉と人参がありゃ疲れも吹っ飛ぶ、そんな彼の信念の下に振る舞われる、本当に肉と人参しか具が入っていないケンタウロスの特製シチュー。アマーリエは平気な顔で食べていたが、マクシムや他の騎士達は正直微妙な思いで口にしていたものだった。


「そして、ここは……」


 ひとつだけ離れて浮かぶ転移スフィアの前で、リーディアが口ごもった。

 それを見たダーシャがそっとその手に自らの手を絡ませ、説明の後を引き取って口を開いた。


「ここはたぶん、ヴァンパイアの場所よ」

「な……」


 自身がヴァンパイアであるダーシャは、父親譲りの透きとおったアイスブルーの瞳でそう断言した。


「この先はいつも夜で、どこよりも濃い魔素が充満しているの。知ってる? ヴァンパイアって充分に濃い魔素の中で生活していれば、血を飲まなくても生きていけるの。私は人狼の血が混じっているからかそこまでこだわらなくて大丈夫だけど……」


 そこまで話して急にダーシャは言葉を途切らせた。

 それを見たリーディアが今度はそっとその肩を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。


「ふふ、最後に血を飲んだ時のことを思い出しちゃったのね。大丈夫、あの人がいなくても、ダーシャが血を飲みたくなったら私のを飲んでいいから」

「ううん……父さん以外の血は飲みたくない、から…………」


 ダーシャの言葉に誰もがこの場にいないその男のことを想い、沈痛な沈黙が広がっていく。

 やがてリーディアが口を開き、今はこの街を襲ったヴァンパイアに眷属にされてしまった人々に入ってもらっている、と補足説明を入れた。スフィアの周辺は封魔の領域で覆ってあるし、眷属にされて日が浅いせいかそれなりに理性が残っている人が多いから、とも付け加える。事実、魔素だけで暮らしていくうちに眷属にされた人々は驚くほどに日々理性的になっていっているのだ。


「あの人が何を思ってこの場所を作ったのかは分からないけれど、きっとそれが一番正解に近い気がするの」


 リーディアが泣きそうな顔で話を結び、ラビリンス紹介はここで一旦お開きとなった。

 一行は屋敷に戻り、個々に部屋を案内されて物静かに旅の疲れを癒すのであった。




  ◆  ◆  ◆




「本当に泊まっていかないの? せっかく賑やかになったのに、また寂しくなるわね」

「ああ、すまないなリーナ。王都の周りのアンデッドはとうに駆逐が終わっているのだが、お陰で魔獣の生態系が目茶目茶になっていてな。未だ再建中の王国軍には完全に任せきれないのだ」

「……そっか」


 満月が浮かぶ秋の夜空の下、ブシェクの正門の外に勢揃いしているのは<ザヴジェルの刺剣>の面々。

 夕刻も遅くなってようやくケンタウロスのフーゴも合流して久闊を叙したのも束の間、泊まらずに王都にとんぼ返りをするというアマーリエ達を見送りに出てきていたのだ。リーディアとダーシャがブシェクに生まれた新しいラビリンス、<終生の地>から外に出たのは実に数週間ぶりのことだ。


 話が妙な空気で途切れてしまったリーディアは自らを励ますようにひとつ溜息を吐き、一人離れて夜空を見上げるダーシャに声をかけた。


「ダーシャ、お月様を見てるの? 今日は綺麗ね」

「……うん。みんなには見えないかもしれないけど、五つの影月も全部きれいに満ちているの。ヴァンパイアの言葉でね、<新生の月夜>ホロスコープって言うんだよ。父さんと初めて会ったあの夜と同じ、本当にきれいな夜」

「……そっか」


 再び微妙な空気に戻ってしまって困ったように微笑むリーディアに、フーゴが肩をすくめてこの三ヶ月に何度も口にした言葉を繰り返す。


「ったく、あんの駄ンパイアめ……。あいつは生きてるんだよ。あいつからケイオスの残滓をもらった俺たちなら分かるだろ? いい加減出てきやがれってんだ」

「本当ね、フーゴ。これだけ皆のために環境を整えていて、でも、肝心のあの人はどこにもいないの。この三ヶ月、ダーシャと二人でラビリンスの隅々まで探したわ。でも、見つからないの。本当に、早く帰ってきて……残されたのはこのコアだけなんて……」


 フーゴが元気づけようと努めて明るく口にした言葉は、今この場では逆にリーディアの琴線に触れてしまったようだ。

 久しぶりに懐かしい顔ぶれに会って心が緩んでいたせいか、肌身離さず身につけている紅の宝玉を取り出して眺めるその紫水晶の瞳にみるみる大粒の涙が溢れていく。


「ふふ、マーレは知ってるわよね。私、物語のように魔鉱石を贈られて求婚されるのが夢だったこと。あの人はこんな綺麗な宝玉を私に贈ってくれたのに……いくらどこを探しても……肝心のあの人だけはどこにもいないの…………」


 押し殺した嗚咽を漏らし始め、幼馴染のアマーリエに優しく抱きしめられるリーディア。

 アマーリエが沈痛な顔で何か言葉をかけようと口を開きかけた、その時。




「……父さん?」




 未だ夜空を見上げていたダーシャが、信じられないといった呟きを漏らした。

 見れば月明りを全身に浴びる彼女の様子がおかしい。夜空を見上げたまま両手を口に当て、背中には先程まで召喚していなかったはずの翼が大きく広げられている。人狼化する気配ではないが自分で翼を出した訳でもなさそうな、けれどダーシャ本人はそれらを全く気にせずに、夜空の一点を真ん丸な目で見詰めているのだ。


「――うそ? 父さん? 父さんなの!? ねえ、父さんっ!!」


 今にも夜空に向けて飛んでいきそうなダーシャをフーゴが「どうした? 落ち着けって」と引き止め、ダーシャの視線の先を辿って…………あんぐりと口を開けた。


 夜空に、見たこともない五つの小振りの月が輝いていたのだ。


 それは実に美しく、荘厳で、自然と畏怖の念が湧き起こる神聖な光景で。

 見覚えのあるいつもの月を中心に、五つが円を描くように等間隔で厳かに浮かんでいる。そしてそれら全ての月の光が合わさって、周囲の夜空が静謐な黄金色で波打っているのだ。


 アマーリエも、マクシム他の騎士達も、頬を涙で濡らしたリーディアも呆然とそんな夜空を見上げてる。


「……嬢ちゃん、コレってまさか、五つの影月てやつか? それと、父さんて――うお!」


 恐るおそるダーシャに問いを投げかけたフーゴの手に、唐突に青く輝く槍が召喚された。

 未だ銘なき彼の愛槍、フーゴしか使えぬ無双の召喚武器だ。


「マジかよ、勝手にこいつが出てくるってことは……ていうかこの感じ……分かるか、姫さん?」


 まさか、と声を震わせて振り返るフーゴ。

 はらはらと涙を流し始めたリーディアがこくりと頷いた。その手に持った紅の宝玉も、脈打つように眩い光を放ち始めているのだ。


 確信を得たフーゴがどことも知れぬ周囲に向かって叫ぶ。


「うおい! そばまで来てんだろ、いるなら出てこいってんだ! 俺たちずっとずっと、ずっと待ってんだぞ! ちきしょう、姫さんや嬢ちゃんたちだけじゃねえ、俺だってお前に会いてえんだよ! いい加減出てきてくれたっていいじゃねえか! ……出てこれるんだよな……そうだって言ってくれよ……本当に、頼むから……」


 フーゴの叫びがいつしかくぐもり、そのくしゃくしゃになった野性味溢れる顔に男泣きの涙が流れ落ちていく。


「お前さん、せっかく百年ぶりに地下牢から脱出したんだからよ……一緒にみんなで外の世界を楽しもうって思ってたのに……いろいろ片付いて、これからって時にラビリンスなんかになりやがって、そんなの……ちきしょう、そんなの、あんまりじゃねえかよ…………」


 皆が静かに涙を流している。そして皆が心から願っている――戻ってこれるなら戻ってきてくれ、と。


 そんな彼らに、影月を含む全ての月から黄金色の静謐な光が降り注いでいる。

 その光が、ゆっくり、ゆっくり強くなって。


 リーディアが手にする宝玉コアの脈動がはっきりと大きくなっていく。

 そして、六つの月に呼ばれるように浮き上がっていって――


 神聖なる<新生の月夜>ホロスコープの光が正視できないほどに強くなり――


 全てを包み込むように呑み込んで――





「ヤーヒムっ!」

「父さん!」





 光が消え去った後、ひとつに戻った月を背にひとつのシルエットが浮かんでいた。

 人系種族は持ち得ない巨大な翼を広げ、ゆっくりと舞い降りてくるその男は。


「ヤーヒム!」

「父さん!」

「こんの、馬鹿野郎!!」

「ヤーヒム!」


 泣きながら飛びついたリーディアとダーシャを固く抱きしめ、フーゴやアマーリエに一斉に囲まれたのは、この世界に三ヶ月ぶりの帰還を果たしたヤーヒムだった。




  ◆  ◆  ◆




「ったくよう、待たせすぎなんだよこの野郎、聞いてんのかあ」


 べろんべろんに酔っぱらったフーゴが、マクシムを相手に説教をしている。

 場所は新たなラビリンスの中にある、リーディアとダーシャが暮らしていた屋敷の大広間だ。


 あれから一行は予定を全て投げ棄て、この屋敷に戻って皆で再会を祝している。

 ダーシャはヤーヒムに甘えるように寄りかかったまま眠っていて、その逆側にはリーディアが、正面にはマクシム以外の騎士達とアマーリエが坐り、かなり夜も更けているが話は尽きない。


 劇的なヤーヒムの顕現に皆の興奮がひと段落した後に質問攻めにされたのは、やはりこのラビリンスのことと、ジガとの戦いの結果だった。


 ラビリンスは皆の予想どおり、ヤーヒムが作ったものだった。

 本人曰く、神域での激戦の末にジガの力を啜らず、弱体化させた末に奈落の深淵に封印したにすぎないために、現状ではこれが精一杯のラビリンスとのことだった。


 無茶苦茶言ってんじゃねえ、その時はまだ酔いつぶれてはいなかったフーゴが突っ込んだが、本人からしてみればもう少しこだわりたかったらしい。

 ジガの力が強大すぎた故に封印するしかなかったようだが、やはり力を啜っていないせいかラビリンス作成で出来ることに限りができてしまったとのこと。内部に魔獣が一匹も召喚されていないのはそのせいらしい。


「魔獣は魔獣で、その素材もまた有用だとは思うのだが……」


 そう言った時には、そんなのいなくていいから、と皆が笑った。

 ヤーヒムが戻ってきた、それだけでいいのだ。


 とはいえ、今のヤーヒムは種族として考えるとかなり特殊な存在らしい。普通の過程でヴルタになった者であれば、空間創造の力と魔獣召喚の力は程度に多少の差はあれど混在している。一般のラビリンスの内部がことごとく魔獣で溢れていることを考えれば、さもありなんという話だ。


 けれど、今のヤーヒムに魔獣召喚の力は全くない。

 それが<青の血脈>というある意味で操作された生い立ちがゆえなのか、体内の重要器官、守護魔獣を召喚するえにしの器をケイオスの残滓が占拠しているがゆえなのか、或いはそのふたつが合わさってのことなのかは分からない。


 ただ、普通のヴルタのように完全な結晶体にならずに肉体を持って帰ってこれた、その一端がそこに起因するものであることには間違いはない。


 後はもうひとつ、最後の重要な賭けに勝った、ということもそこにはある。

 冷徹な青ではない、紅の光が暴走した状態のコアを自ら抜きだし、リーディアに託しておいたことが功を為したのだ。時間はかかったが、それを依り代にして<新生の月夜>ホロスコープの助けも借りてこうして戻ってこれた。説明もなく自らのコアを受け取ったリーディアが、そのまま捨てずに持っていてくれたことには感謝してもしきれない――



「ぶぁかやろー! ひめさんがどんなおもいであれを持っていたと思ってんだあ!」



 かなりのペースで飲み続けていたフーゴの突然の大声に、思わず説明を止めるヤーヒム。

 フーゴはそのまま酔いつぶれて突っ伏してしまったが、隣を見ればリーディアがなんとも複雑な表情でその紫水晶の瞳を見開いている。


「くくく、ヤーヒムよ、少しは女心という物を勉強しないといけないぞ。いいか、夢見がちな我が幼馴染のリーナには、小さな時からひとつの夢があって――」

「ちょっとマーレ、それはいいから! ……いいのよヤーヒム、戻ってきてくれたのが一番だから、ね?」


 そう微笑むリーディアに、これは話の持っていき方を失敗した、とヤーヒムは臍を噛む。

 そういうつもりではなかったのだ。彼とて以前、ダヴィットの求婚用としてコカトリスの魔鉱石を融通した時のことは覚えている。あれよりずっと考えてはいたのだ。


 だから。


「……すまない。話し方が悪かった。我はこう言いたかったのだ、代わりにこれを、と」


 そう言って手のひらの亜空間から取り出したのは――息を飲むほどに美しい腕輪(ブレスレット)。


 単一の紅の宝玉で形作られた幅広のそれは、手首にぴったりと周るだけの素朴な形。

 けれどその宝玉の内部には複雑で精緻な深紅の霧のようなものがゆるやかに循環していて、もしそれを手首に通したのならば、角度によってはまるで深紅の霧をそこにまとったように見えるであろう極上の品。


 ――神具。


 目にした全員の頭にその言葉が浮かぶ。

 その人の世に非ざる造形といい、宿している力といい、あまりに現実離れした神々しさを持つ腕輪だった。


「……代わりに、これを贈るつもりだった。神域で我の一部を凝縮させて作ってみた腕輪だ。指輪や首飾りの大きさには収まらず、こんな腕輪になってしまった。受け取っては、もらえぬか?」


 リーディアは腕輪を見詰めたまま固まっている。

 否、その場で固まっていないのは、ヤーヒムにもたれて微笑みながら眠っているダーシャと、酔いつぶれて突っ伏しているフーゴだけだというべきか。あまりといえばあまりの展開に、誰もが思考を麻痺させてしまっているのだ。


 ダーシャのささやかな寝息だけが響くその沈黙に、ヤーヒムは更に言葉を重ねていく。


「……正直なところ、ヴァンパイアの血を持つダーシャは別として、ケイオスの残滓を宿したリーディアとフーゴの寿命がどうなるかは分からない。おそらくは従来のものよりもかなり長くなるだろう。我と生の長さは異なるかもしれぬが、それでも」


 ヤーヒムが言わんとしていることが、麻痺していたリーディアの思考に浸透してきたのだろう。

 リーディアはその透きとおった紫水晶の瞳を大きく見開き、込み上げる涙で潤ませながらまっすぐにヤーヒムを見詰めている。


 ヤーヒムはそんな彼女を見て再度確信した。


 常に己に寄り添い、凍った心を融かしてくれたかけがえのない相手。

 何よりも大切で、何を差し出しても惜しくはない、そう断言できる相手。

 これからの生を共に分かち合いたい唯一無二の相手は、眼前のこの黄金色の髪の乙女しかあり得なかった。


 ひと呼吸の間を置き、ヤーヒムが続きを口にする。


「……リーディア。二人の生が重なる限り、我と共に生きてくれないか」

「ええ、ええ、ええ…………もう、置いていかないで」


 心の中の幸福がそのまま溢れ出したかのような涙を流しながら何度も頷くリーディアに、約束する、そう答えてヤーヒムはその左手を取り、紅の腕輪をそっと通した。




 ――孤独が定めのヴァンパイアに、共に生を歩む伴侶ができた瞬間だった。




 マクシムと騎士二人が一斉に立ち上がり、盛大に拍手をする。

 アマーリエは一瞬だけ反応が遅れたもののそれを祝福の涙で押し流し、おめでとう、と心からの笑顔で拍手に加わる。


 ダーシャが何事かと眠そうな目を開くが、リーディアの手首に通された腕輪と幸せそのものの涙を見て全てを悟り、「私の父さんと母さん、なんだね」と二人に抱きついて自分も幸せそうに笑う。


 フーゴは飲み過ぎたのか起きる気配はないが、明日説明してやればいいだろう、そう判断してヤーヒムは今の一瞬を心ゆくまで味わっていく。



 ……これが、生きるということ。



 ヤーヒムの胸は言葉に出来ないもので満たされ、はち切れんばかりだ。

 戻ってこれてよかった、心からそう実感している。


 状況だけ考えれば、今のヤーヒムはジガが目指していた新たな天空神――クラールを名乗るには烏滸がましいほどに未熟だ。

 今はまだ、ささやかなこのラビリンスを辛うじて維持できているだけに過ぎない。かの創造神ケイオスが自分に望むものは薄々理解しているが、それを実現できるようになるにはまだまだ悠久の時が必要だ。


 けれども、今のヤーヒムはヴルタという名の物言わぬ孤独な結晶ではない。

 生きて、息をして、リーディアとダーシャをその腕に抱き締め、心から信頼できる仲間達と今という時間を共有しているのだ。


 それはこれからも続いていく。

 今日も、明日も、明後日も。


 これからはこのラビリンスを安住の地として、ザヴジェルの面々と共にこの地を発展させながら皆で生きていく。


 時に外に出、ダーシャと街に買い物に出たり、フーゴの傭兵業を手伝ったりするのも良いだろう。

 あるいは、皆と旅をしてみても良いかもしれない。まだ知らぬことの多いこの世界を、リーディアやダーシャ、フーゴらと見て回ってもいい。


 そうして色鮮やかに時を重ね、己が世界を色鮮やかにゆっくりと広げていくのだ。


 そう。

 ヴラヌスという己が種族の運命に必死に抗い。

 その果てに辿り着いた、このささやかな己が世界ラビリンスを。





 そして、時が満ちる遥かな未来――






 世界の未来は、常に己の裡にある。






< 叛逆のヴァンパイア・第四部 「the Garden of Vampire」 ―了― >



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叛逆のヴァンパイア 圭沢 @keizawa

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