84 決着
「魔法いきます――禁呪、
リーディアの絶叫が<罪深き黒>と呼ばれる亜神に向けて放たれる。
その瞬間、世界が震えた。
空気が消え、コアを掲げたリーディアから怪物に向けて漆黒の衝撃波が走り、全てを飲み込んで。
それはザヴジェルでリーディアの父、ローベルト=シェダが旗下の<白杖>魔法騎士団の全力を注ぎ込んで実現させた禁呪。
丸二日をかけて準備し、三百名の精鋭魔法使いが一糸乱れぬ詠唱を一時間も紡ぎ続けてようやく完成した奇跡の魔法だ。
それをリーディアは下準備もなく、ほぼ無詠唱で行使したのだ。
相手が神域の存在ならば、こちらも神域の存在を出せばいい。
彼女の裡にある神の残滓は最古の神の一柱、創造神ケイオスのものなのだ。格としては圧倒的に上。
だが、いくらそのケイオスの巫女とも言えるリーディアとはいえ、その状態でザヴジェルの時と同じにかの大いなる存在を召喚するところまでは出来ない。代わりに行ったのは、自身の中に揺蕩うその残滓を擬似的に外部へ顕現させること。
「リーディアッ!」
ヤーヒムには分かる。それがどんなに無謀なことかが。
体内に揺蕩っている強大なケイオスの残滓を強引に外に放出したのだ。受け入れる時にあれだけ時間と苦痛を要したものを一瞬で放出する。その急激すぎるバランスの変化に身体がどこまで追随できるか、そして何より、その瞬間的な放出過程に通り道となる人の身がどこまで耐えられるのか。
咄嗟にリーディアの傍らに飛び降り、脇からその華奢な身体をぐいと抱き寄せるヤーヒム。
どこまで出来るか分からないが、彼女が行っているケイオスの残滓の操作を少しでも補佐し、可能であれば空っぽになりつつあるその体内にヤーヒムが持つ残滓を少しでも補充するのだ。
「くはっ」
「リーディアッ!」
そして出来上がる泡立つ混沌のドーム。
それはザヴジェルの時のような巨大なものではない。それでも小山のような暗黒の地竜と、その上に跨る巨大な
ドームの壁の向こうで踊り狂うのは混沌の神の眷族である無形の黒影。存在の根底を喰らう古きものたちだ。
彼らはドームの中にいる<罪深き黒>を執拗に攻撃し、その巨体を数に任せて貪り沸き立っていき――
「リーディアアアア!」
ドームの手前、瓦礫の山の上でリーディアが崩れ落ちた。
同時に泡立つドームが融けるように崩壊し、混沌の先兵達が天へと戻っていく。
残されたのは途轍もない悪臭と、ブシェクの街並みの欠片も残っていない円形の焦土。
僅かに生き延びた暗黒の粘体がその中央で水溜りのように広がり、ブクブクと力なく泡立ちながら、みるみる小さくなっている。力を失い、奈落に還りつつあるのだろう。
そして、残されたもののもうひとつは。
確実に使命を果たした極大魔法の跡地、その手前でヤーヒムの腕に抱かれぴくりとも動かないリーディアだ。
「姫さん!」
「リーナ姉さんっ!」
彼女の生気に満ちていた白桃のような頬には一切の血の気がなく、鮮やかな黄金色の髪が虚しくその顔を縁取っている。この極大魔法の行使の中で、ヤーヒムがどこまで彼女にかかった負荷を軽減できたかは分からない。ほとんど役には立たなかったのではないか、そんな焦りが彼の心を激しく沸き立たせている。
せめてもと慌ただしく己が手首を喰い破り、その血をこれでもかと土色の唇に垂らして――ようやく彼女は弱々しく瞳を開けた。
「あ……出来た、のかな……<罪深き黒>は……ああ、良かった……」
確かにかの存在は今やほとんどこの世界に残っていない。
そういった意味では、彼女は完全に魔法の面でヤーヒムを補佐するというその役目を果たしたのだろう。けれど。
「あは、しばらく魔法は使えそうにないかも……。身体も動かないし」
「無理に動くなリーディア。それだけのことをしたのだ」
「あ……結局手伝ってもらっちゃったんだよね。……ごめんなさい」
「いや、謝ることではない。――お陰で救われたのだ。ありがとう」
「え……? あ、ええと、その…………うん」
ヤーヒムの腕に抱かれ、至近距離からそのアイスブルーの瞳に覗きこまれているリーディア。
その真っ青だった滑らかな頬に、みるみるうちに瑞々しい薔薇色の血色が戻っていって――
「あー、お二人さん、そろそろいいかな?」
「もう、二人とも。神さまを撃退するなんて、確かにすごいことをやり遂げたとは思うけど」
――そんな二人の世界に水を差したのは、実に楽しそうにニヤニヤしているフーゴと、少しだけ呆れが混じった顔で口をとがらせているダーシャだった。
「リーナ姉さん、無茶しすぎだよ。魔法の後で倒れてる姿に気がついて、私、本当に心配したんだから。本当に……死んじゃったかと思って……あんな言葉のあとだったし…………」
「ほらほら泣くな嬢ちゃん。ハンカチは、えーと、あったあった」
腰のマジックポーチからしわくちゃの白布を取り出し、馬体を屈めてダーシャに差し出すフーゴ。だがその目は、怒りを込めてリーディアを見詰めている。
「けど、無茶しすぎってのは嬢ちゃんの言うとおりだ。もう二度とやらないでくれ、いいな?」
ヤーヒムの腕から身を起こそうとして力が入らないリーディアが、ごめんなさい、と蚊の鳴くような声を出してダーシャにその手を伸ばした。
ダーシャはその手を握り、そのままヤーヒムごとリーディアにひしと抱きついて。
ひとしきりダーシャが泣いて、落ち着いたその後。
動くものなき焦土と化した旧ブシェク跡地の中央で、ヤーヒム達四人が改めて勝利の余波を確かめようと立ち上がった、その瞬間。
頭上から鼓膜が破れんばかりの大音声が世界に降り注いできた。
『貴様らァアアアァアアア! 許さぬぞおおオオオォオオオオ! 全員まとめて死ねええェエエエエエ!!!』
それは、誰もがその守護魔獣と共に滅んだと考えていた、全ての元凶ジガの声だった。
彼は死んではいなかった。ぐわんぐわんと響き渡るその声に呼応し、瓦礫しか残っていなかった旧ブシェクの大地がヤーヒム達を囲むように盛り上がっていく。
そう。
ここはジガの最深層ともいえる亜空間。
主であるジガが生きていて、その青の力が及ぶ限り、地形や環境はその思うがままなのだ。
「なっ! ヤバいぞヤーヒム! 姫さんを寄越せ!」
フーゴが強引にヤーヒムの腕から未だ身体が回復していないリーディアを奪い取り、その逞しい馬脚で俊敏に駆け出した。
ヤーヒムが抱えていれば飛ぶことは出来ず、抱えて走るのであれば馬の下半身を持つフーゴの方が上だ。どこに逃げれば良いか見当もつかないが、それでも四人は急速に隆起しつつある山々の切れ目に望みを託し、そこを目がけて一散に退避していく。
『我から逃げれると思うなァアアアァアア! ここは我が最奥、我自身なるぞォオオォオオオオ!』
降り注ぐジガの声に合わせ、四人の行く手を阻むかのように前方の地面に巨大な裂け目が生まれていく。
混乱を押し殺し、即座に別方向へと進路を変えるヤーヒム達。
くそ、こんなものにどう立ち向かえというのだ――怒りを宿したヤーヒムのアイスブルーの瞳が鋭く周囲を観察する。
起死回生でジガに直接戦いを挑もうにも、その姿はどこにもない。
この亜空間自体に存在を同化させてしまっているのだ。自らの最奥である亜空間だからこそ可能な、完全無敵たるその手段。今思えば、ここにヤーヒム達を引き込んだ時点でジガの勝利は確定していたのだ。
『フハハ、どうしたァアアァアアア、逃げても無駄だぞォオオォオオ』
再び進路上に新たな障害物――今度は瘴気漂う広大な沼地――が姿を現す。
しかもその沼地には無数のリザードマンが同時に召喚されている。彼らはめいめいが鋭い骨槍を構えていて――
「こっちだ!
けれどもヤーヒムは諦めない。
目の前に立ち塞がるものは何であろうと全力で抗っていく。それは社会であろうが己が同族であろうが同じことだ。
ジガとて未だ本物の神ではない。
それに、神であった暗黒の怪物もリーディアの捨て身の一撃で奈落に還すことができたのだ。ジガを相手に諦めるという選択肢は存在しない。
ジガが同族ヴラヌスの次世代の神に近い存在だというのならば、ヤーヒムとて膨大な青の力を宿し、古の創造神の残滓をも宿した新たなヴラヌスなのだ。いみじくもアマーリエは彼を天人族と名付けた。ならば己はその天人族として、相手がヴラヌスの神だろうとも徹底的に抗い、共に歩む仲間の命を守るまで。
「ぐぎゃあああ」
「ぶは!」
「がああああ」
漆黒の翼を広げ五本二対のヴァンパイアネイルの青光を煌めかせたヤーヒムが、追いすがるリザードマンの群れに滑空して片端から斬り飛ばしていく。その圧倒的な蹂躙劇に、さしものリザードマンの大群も気を呑まれて動きを止めた。その隙を縫って、リーディアを背に乗せたフーゴとそれに随伴するダーシャが囲みを突破していく。
ヤーヒムはそれを肩越しに確認しながら【ゾーン】を最大限に拡大し、リザードマンの蹂躙を続けつつも微細な空間のほころびを探していく。
どんなに完全無敵に見えるこのジガという名の亜空間でも、自分の持つ青の力を考えれば何かしらの付け入る隙があるはずなのだ。絶対にそれを見つけ出して――
「きゃああっ!」
「嬢ちゃんッ!」
ダーシャが翼にリザードマンの投槍を受け、フーゴが咄嗟にその身体を拾い上げて駆け去っていく。
いくらヤーヒムが周辺を撫で斬りにしていても、相手の数が数だ。分厚い囲みの後ろから遠距離で攻撃されることまでは防げない。ヤーヒムとの距離が離れつつあったのもいけなかったのだろう。
「ダーシャッ!」
ヤーヒムは中空で鋭く回転し、フーゴ達との距離を縮めるべく大きく翼を羽ばたかせた。
が、そんなヤーヒムの眼前で、ここが好機とばかりに大量の骨槍が逃げるケンタウロス目がけて一斉に投擲された。
弓矢より遥かに重量のある骨槍がぐんぐんと天高くへと昇っていき、中天で一瞬停止する。
時間の流れが緩やかになったかのようなヤーヒムの視界の先で、それら無数の骨槍が空を埋め尽くす雨となって――
「フーゴッ! <護りの指輪>を使えッ!」
ヤーヒムの絶叫に振り向いたフーゴが息を呑み、即座に<護りの指輪>を発動させた。
それはいつぞや彼がツィガーネク子爵から譲り受けたもの。指輪に魔力を込めれば護りの風が全身を包んで飛び道具を弾いてくれるという、まさにこの場に打ってつけの魔法具だ。だが今、彼に襲来してくるのは中天を翳らせるほどの無数の投槍。そこまでの質量に、どこまでその護りが効いてくれるか――
「ぐああっ、クソッタレがああ!」
フーゴの馬体の後ろ腿に、そのうちの一本が深々と突き刺さった。
護りの風に守られ、青光の軌跡を曳く新たな相棒を振り回して降りそそぐ骨槍を片端から切り飛ばしていたフーゴだったが、背中に魔法の使えないリーディアを乗せ、左腕に気絶したダーシャを抱えていては限界もある。
「ぐおおおおお!」
動きを封じられてもなお、獅子奮迅の働きで縦横無尽に青光の軌跡を描き続けていたフーゴ。
だが降りそそぐ骨槍の数が数だ。ヤーヒムが周囲のリザードマンを圧倒しつつもこの一斉投槍を許したように、無数に降りそそぐ骨槍は次々と鈍い音を立ててフーゴの馬体に突き立っていく。
「がはッ!」
短い叫びを漏らし、遂に致命的な一撃を喰らってしまったフーゴ。さしもの彼も数には敵わなかったのだ。
二人を抱えたまま、どう、と倒れ伏し、更に降り注ぐ骨槍の雨がその三人の体を覆っていく。そして、必死に羽ばたきながらも眼前でそこに届かず、全てを目の当たりにしていたヤーヒムは。
「フーゴッ! リーディアッ! ダーシャァアアアッ!」
絶叫と共に飛翔するヤーヒムの視界が紅に染まる。
ヤーヒムの焦りが、怒りが、かけがえのない仲間達に対する想いが、燃え上がる紅の光となってヤーヒムを包んでいるのだ。その光の元となっているのは、ラドミーラが消えてより輝きを失っていた左手の甲の紅玉。かつてのラドミーラの精髄の輝きとは違う、ヤーヒム自身の激情が紅の光となって烈しく紅玉を輝かせているのだ。
「止めろぉおおおお!」
そしてヤーヒムの雄叫びが奇跡を引き起こす。
空高くから降り注ぐ無数の骨槍の雨のその全てが、雄叫びが響き渡った瞬間に空中でぴたりと静止している。
ヤーヒムは理解した。
狂いたくなるほどの鮮烈な激情が、先祖代々ヤーヒムの血脈の中に千年にも亘って蓄積され続けた、青の力の全てを覚醒させたのだ。いや、そこには彼の中で確かに生きているラドミーラの精髄の力も、胸の深くの
そして奪い取った周辺一帯の亜空間の支配権。
ジガが保持している領域の大きさを思えば局地的なものとはいえ、そしておそらく長時間は保持できないとはいえ、その絶対的な支配の力はジガが及びもつかない遥か高みにある。ジガが出来ないことが、今のヤーヒムには出来るのだ。
だからヤーヒムは操作する。
静止した空中の槍を全て反転させ、飛来してきた時と同等の速度で持ち主であるリザードマンの元へと。
無数の骨槍に埋もれたかけがえのない仲間達を優しくその場で浮遊させ、伸ばしたままの自らの手の、紅玉輝くその前へと。
神の力で跳ね返された自身の骨槍に次々とその身を貫かれ、リザードマンの大群が断末魔を上げて崩壊していく。
投槍に加わらなかった者達の末路はさらに悲惨だ。彼らの足元の沼地が唐突に煮えたぎる溶岩の沼へと変貌し、自身の骨槍で息絶えた者とまとめて焼き尽くされていく。それはフーゴやダーシャ、そしてリーディアを傷つけた者達へのヤーヒムの憤怒の炎だ。
ジガに無数に召喚されたリザードマンが悉く死に絶えていく中、紅の光に包まれたヤーヒムは血塗れの三人を順番に空中から抱き降ろし、優しく地面に寝かしつけた。
三人とも、生の炎は消えてはいない。
無数の骨槍の雨をその身に受けてなお、フーゴが手にした青槍でリーディアとダーシャをぎりぎりまで守っていたのだ。
ヤーヒムはそれぞれの唇に己の血を含ませてなけなしの治癒を施しつつ、左手の甲に輝く紅玉を見遣り、逡巡する。
全ての元凶は、この領域の支配権を巡って未だ執拗に抵抗を続けているジガだ。
彼を完全に滅しない限り、自分達に未来はない。この亜空間から出ることもできないのだ。
戦い方は分かった。
今のヤーヒムは激情という名の底上げはあるものの、神域へと片足を踏み入れているに等しい。あと一歩ヤーヒムが足を踏み出せば、ジガと真っ向から組み合うこともできるだろう。
だが、この先に進めば、おそらくもう仲間達と共に生きることは叶うまい。
色々が混じってしまったヤーヒムがその先でどうなるかは見当もつかないが、神の領域とはそういうものだ。この紅き光に包まれてより、もしかしたらという物がないではないが、それは分の悪い賭け。
リーディアを、ダーシャを、フーゴをここで死なせはしない。
この隔離された亜空間からも救出してみせる。
けれども、彼らが生きるその先の時を、ヤーヒムは共に歩むことが出来なくなるのだ。
思えば彼らと出会ってより、冷たく凍りついていた心が随分と解されてきた。
豪放磊落なくせに妙に心優しいケンタウロスの戦士、フーゴ。自分をまっすぐに父と慕ってくれる宝石のような娘、ダーシャ。
……そして、唯一無二の存在、リーディア。
短き時間であったが、彼らと過ごした日々をヤーヒムは忘れることはないだろう。その身はヴァンパイア、元より永遠を生きる定めだ。この先の長き歳月の中でも隅々までそれらの日々が思い出せるよう、小さなことまで全てを記憶に刻みつけておく。決して忘れることはしない。
そして思い返すたびに噛み締めるのだ。
幸せな日々であった、と。
だが、その前にやることがある。
この先、この地で生きていく彼らのために、滅ぼさなければならない存在がある。
ヤーヒムは最後にもう一度だけ三人の顔を順番に見詰め、大きく息を吸った。
「……さらばだ」
そしてヤーヒムは自らの胸にヴァンパイアネイルを突き立て、紅の光の中に消えた。
―次話『最終話 the Garden of Vampire』―
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