高いところを見るには

 段ボールに入れられた大豆は、一昼夜こたつの中で発酵し、あたりに納豆特有の匂いを漂わせて出来上がりを知らせた。

 起きぬけのぼんやりした頭でも違和感があったけれど、廊下に出るといつもとは明らかに違う、まとわりつくような匂いが建物内に充満していたのだ。


「うわ。なんですか、この匂い」

「なにって。納豆に決まってるでしょうが!」


 無意識に鼻をつまむと、武子さんに咎められた。

 そう言われれば「ああ、そうか」と思うけれども、こんなに全身で納豆を感じたことがないのだから、仕方がない。


「さあ、早く顔洗ってきな。今日からアンタが作った納豆だよ」

「あっ、はい」


 既に皆が部屋におり、僕の準備ができ次第、食事が始まるようだった。決して寝坊したわけではないのだが、納豆の匂いに誘われたのか、いつも遅い太郎さんまでもう座っていて、僕を手で急かす。

 はい、と言ったものの、正直僕が納豆を作ったという実感はない。僕がやったのはひたすら湯たんぽを運ぶ役割だったのだから。

 だが、その思いは膳を前にして変わった。

 昨日まで特に思い入れのなかった納豆が、なんだか特別に思えるのだから不思議だ。確かに僕がしたのは湯たんぽ運びだけなのだけれど、昨日ただの大豆だった姿を見ているからだろうか。小鉢に入れられた納豆がいつもより美味しそうに見える。


「では、いただこうか」

「はい」


 皆一斉に、納豆の小鉢に手が伸びる。

 なにもつけずに納豆をご飯の上に乗せたり、ネギを入れたり、黄身を入れたりと、皆の好みは様々だ。僕は、シンプルに醤油をひとまわし。そして、軽くかき混ぜる。ここの納豆は粘り気が強い上に、大豆の粒が大きいため、少し混ぜただけでも箸に重みを感じるのだ。それを、予め作っていたご飯の窪みにダイブさせる。

 炊き立てのご飯に納豆を絡めながら口を大きく開けて頬張ると思いのほか熱くて、ハフハフと口の中の熱を外に逃がそうとした。


(あっつい。けど、うんまい!)


「真吾は本当に旨そうに食べるなぁ」

「え。そうですか?」


 確かに少しがっつきすぎたかもしれない。

 みことさんは呆れただろうか、と横を見ると、みことさんは目を細めて僕を見ていた。


「私のもやろう」

「えっ、いや、大丈夫ですよ」


 納豆の小鉢を差し出され、遠慮したものの、そのまま押し付けられてしまった。


「みこと様。お代わりでしたら、向こうにまだあるんですから」

「いいんだ。ここで作ったものを旨そうに食べてくれるのは、なんだか嬉しいじゃないか」

「ああ、確かに珍しいかもな」

「なにがですか?」

「ここには、たまに君のような迷い人が来るのさ」


 僕の質問に答えてくれたのは、次郎さんだった。

 なんでも、道に迷ってこの村にやって来る人に休憩場所や食事を提供することは、稀にあるのだと言う。だが、この村の質素な食事が口に合う人は、あまりいなかったようだ。


「最初は物珍し気に口にするんだ。食材はいいからね、そりゃあ旨い。だが、物足りないのだろうな。聞けば、街では洋食や脂っこい濃い味付けのものが多いそうだね。ここの食事も最初は新鮮でも、すぐに飽きるんだろう」

「時代劇みたいだ、なんて言うヤツもいたな」

「なにが時代劇さ。アタシ等にとっちゃ、どの時代も変わらないって言うのに」

「ほら、ばーちゃん食うんだ、なんて言った恐ろしい女もいただろ!」

「あ、いたね。餡をちょびっとつけて食べるんだと。野菜と合うとか言ってたけど、アタシはもう恐ろしくて聞いていられなかったよ!」


 ば、ばーちゃんを食う??

 僕の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。

 都会では本当にそんなことあるのか、なんて太郎さんに凄まれたけれど、そんなことあるわけがない。僕は必死に首を振った。


「いろんな人間がいたけど、怪我しちゃってるとは言え、食事に飽きず村に長居してるのなんて、真吾ちゃんくらいじゃないかねぇ」

「いやいや、昔居ただろ。ホラ、宗吾――」

「武子」


 みことさんの鋭い声に、武子さんが言葉を飲み込む。だが、その寸前に飛び出してきたのは、僕の祖父の名前だった。

 心臓がドクンと跳ねる。ここに祖父が来たことは知っている。だが、何十年も前の話だ。武子さんの年齢は知らないけれど、もしかして祖父が来た頃を知っているのだろうか。


「宗吾って、祖父のことですか?」

「え~、そういう迷い人もいたような、いないような……」


 視線が泳ぎ出した武子さんを追及しようとした時、玄関の戸がガラガラと大きな音を立てて開いた。


「ごめんくださいまし」

「武子、来客だ」

「は、はい」

「あっ」

「真吾も、早く食べておしまい。開店の準備があるだろう」


 時計を見ると、朝食の時間はとうに過ぎている。僕は残りのご飯を口に詰め込んだ。


「みこと様。お龍ですよ。今年の初物を持ってきてくれました」

「おお、そうか」


 膳を片付けて急いで土間に出ると、納豆とは違った匂いがした。

 なんともスモーキーないい匂いに、思わずスンと鼻を鳴らすと、みことさんが僕を手招きした。


「真吾、これを駒子に届けておくれ」

「なんですか?」


 覗き込んだバケツから、ビニール袋が見える。その中にはグニャリと曲がった黄色い物体が入っていた。何重にもなったビニール袋越しに見ると、質感といい大きさといい、なんだか蛇のように見えた。


「こ、これ……へ、蛇ですか?」

「そんなわけあるか。これは燻り大根だ。燻した沢庵漬けさ」

「まあ、漬けた後だとグニャグニャするから、蛇のように見えなくはないですけどなぁ」


 僕の言葉を受けて苦笑したのは、これを持ってきたお龍さんという女性だった。

 これまでの集まりで、何度か見たことはあるものの、言葉を交わすのは初めてだ。

 背が高くほっそりした姿は、少しみことさんと重なることあり、特に印象に残っていた人だ。

 この寒さの中歩いて来たのだろう。お龍さんは、村の女性たちがよく纏っている角巻きを頭からかぶっていた。そのためか、尖った顎と、その下の細く長い首が目立つ。――と言うか、やけに首を揺らしながら話すので、ついつい目についてしまう。


龍子りゅうこ……お龍は、与吉の嫁だ。与吉の作業小屋の隣にも一軒、煙が出ていた建物があっただろう。お龍はそこで大根を燻しているんだ」

「あぁ~。それで煙が出てたんですね」

「ええ……。空気の入れ替えが大事ですのでね」

「天井からぶら下げているからな。上の方までよく確認して外の空気を入れなければならない。さぞかし難しいと思うがな。お龍はその調整が上手なんだ」

「へぇ~」


 煙が出ていたもう一軒が気になっていたけれど、まさかこんな形で知ることになるとは思わなかった。


「……あれ? でもあの窓、かなり高い場所にありますよね? あの場所からぶら下げてるんだとしたら、天井付近はどうやって確認するんですか?」

「どうって……。目で見ながらに決まっているでしょう」


 ほほ、と可笑しそうに笑うお龍さんの首が、その声に合わせて一層揺れた。


「ところで、お龍。さっきの話だが、私も考えてみよう」

「ええ、お願いしますね、みこと様」


 では、とクニャリと首を曲げ、お龍さんは帰って行った。


「さっきの、って……どうかしたんですか?」

「ああ。注文が入った時だけではなく、この万屋に商品として燻り大根を置かせてくれないか、と相談されてな」

「そうなんですか」

「お龍が言うのも分かるがな。燻り大根の注文は頻繁に入る。この時期は特に初物だから、皆が食べたがるのさ。お龍にしてみれば、日に何度も届けに行くよりも、一度にまとめて卸したいのだろう」

「そうですよね。置いてみたらどうですか?」

「お前は……。そんな簡単な問題ではない」


 みことさんが言うには、需要と供給のバランスが大事なのだそうだ。

 面倒だから、まとめて売りたいから、と品物を万屋に置きたい気持ちは分かる。だが、売れ残ったものは廃棄処分となるし、太助さんのように生の魚が商品である場合、川の生態系への影響も出ると言うのだ。


「燻り大根のように、多少日持ちするものはいいさ。だが、生魚はそうはいかない。大量に持って来られても、売れなければ傷むし、捕りすぎて川の魚が減ってはいけない」

「そうですね……。それなら、納品の時に売れ残りは引き取る決まりにしたらどうですか? それなら過剰納品も防げると思いますけど」


 全国のあちこちにある直売所は、確かそのようなルールで商品を置いているのではなかっただろうか。

 みことさんが僕を真面目な顔でじっと見るから、なにかおかしな事を言ってしまっただろうかと、心がソワソワする。


「ええと……自信は、ないですけど……」

「いや。とてもいい考えだと思う。ありがとう」

「えっ」

「早速、太郎と次郎に相談してみよう。商品を置くには棚がいるだろう。魚には水槽がいいかな」

「あっ、はい。可能なら、それがいいと思います」

「そうか。またなにかいい案が浮かんだら教えてくれ」


 それは決して僕の案ではないのだけれど、それでも少し役に立てたようで、自然と顔がほころんだ。


「ところで、真吾。ひとつ、教えてくれるか?」

「はい。なんですか?」

「街では本当に婆を食う文化があるのか?」

「な、ないですよ! ナイナイナイ! 人を食べるなんて、そんなのあるわけないじゃないですか。妖怪じゃあるまいし!」


 さっきの駒子さんたちの話を、まさかみことさんまで信じているなんて驚きだ。

その迷ってここにやって来た女の子というのが、一体何のことを話していたのかわからないけれど、ここは強く否定しておきたい。

 だけど、みことさんから返ってきたのは、なぜか少し悲しげな表情だった。


「みことさん?」

「妖怪にも、人を食う文化はない。それは人が勝手に作り上げた話だ」


 僕はただ例えとして言っただけなのだけれど、やけにしんみりとした声色に、何も返すことができない。


「人は、自分たちと違うものを煙たがり、恐れ、追い出そうとする。遥か昔、一緒に笑い合った者さえも、一瞬にして憎悪する。愚かで、寂しいものだな」

「ええと……」


 なぜ突然こんなシリアス展開になったのか、僕の頭はまったくついていけない。

 相変わらず返答に困っていると、みことさんは駒子さんを呼ぶと、僕を見ることなく部屋に戻ってしまった。


 土間を箒ではきながら、僕は一体なにを失敗してしまったのかと考えてしまう。そして何度もみことさんとのやり取りを思い起こすが、原因を知ることは出来ない。


(あ~。思考が暗くなるな……。別のことを考えよう)


 そういえば、ばーちゃんと食うとかナントカ、あれは一体なんだったのだろう。

 そんな文化が日本にあるはずもなく、なんだったら日本どころか、世界中にだってないはずだ。そんなの実際にあったらホラー映画の世界じゃないか。

 ええと……、駒子さんたちは何と言っていただろう。

 僕は今朝の会話を思い起こす。


『ばーちゃんを食うんだ』

『餡をちょびっとつけて』

『野菜に合うんだ』



 ――ばーちゃんをくうんだ

 ――あんをちょびっと

 ――やさいに……


 あ!

 もしかしてそれって、バーニャカウダ!

 


 

 

 

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万屋界外の奇妙な日常 雪夏 ミエル @Miel

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