第2話 大工の道具
熊吉の下で働きだして、三年になるだろうか。
これほどまでに一処にいたことのなかった竹蔵だったが、その甲斐はあったというべきだろう。
竹蔵は己の腕が日増しに高まっているのを実感していた。
かつて熊吉の元に訪れた己とは、一回りも二回りも大きくなった。
職場の仲間からも慕われ、竹さん、竹さんと親しげに呼ばれるようになっている。
安定して同じ場所に留まると、さまざまな付き合いが生まれる。
そうして、これまで竹蔵が知らなかった職人たちの裏事情や、熊吉ファミリーのさまざまな繋がりを知ることになった。
たとえば熊吉には娘がいる。
熊のような男の子どもとは思えないような可愛らしい顔立ちをしていて、童顔で年寄りもかなり幼く見えてしまう。
超一流の腕を持つ熊吉が美人な嫁を連れていたとしても不思議ではなかったが、その娘が父親の遺伝子を色濃くついでいなかったのは幸いだっただろう。
熊吉はこの娘を大変可愛がっていて、縁談の話があってもなかなか了承しない。
自分の目にかなった男でないと、娘が不幸になるといってきかないのだった。
職人の親方が、自分たちの働いている職場の人間を自宅に招待するのが珍しくない時代だったから、竹蔵もこの娘さんとは何度か顔を合わせた。
ずいぶんと照れ屋で、竹蔵と顔を合わせると恥ずかしそうに目を逸らし、顔を伏せてしまうのだが、かといって嫌われているというふうにも思えない。
なんとも変わった娘だという印象だった。
さて、職人としてより腕が高まってくると、どうしてもある欲求が生まれてくる。
それはいい道具を扱いたい、というものだ。
弘法筆を選ばずという言葉があるが、じっさいには腕の良い者ほど道具にはこだわる。
いい道具は使用者の腕を高めてくれる。
竹蔵も熊吉の道具を見せてもらったが、これが惚れ惚れするような出来栄えだった。
なんとも艷やかで、品がある佇まいである。
拝んで使わせてもらうと、芯が通っていて、力がよく伝わる。
硬い木でも難なく刃が通るのに、手に返ってくる衝撃は不思議と柔らかだ。
熊吉は千代鶴という名工の手による道具を愛用している。
その名は竹蔵もよく聞き知っていた。
日本でもっとも名の売れた鍛冶師の一人だろう。
竹蔵も千代鶴の手によって道具を作って欲しいと思ったが、受注数は非常に少なく、数年待つこともざらだという。
そして料金も同じ道具とは思えないほど高く、数倍から十倍ほどはするという。
古い鋼をどこからか仕入れてきたり、良質なスウェーデン鋼を仕入れたり、素材からして力の入れようが違うのだと、熊吉から
また一つを作るのに信じられないような時間がかかるのだという。
それで商売が成り立つのだろうか、と不思議になるが、それでも求めるものは後を絶たない。
そのような欲しくなってしまう情報をさんざんと聞かされた後に、連絡はしてくれてもいつになるかわからないと言われたのだから、竹蔵が熊吉を恨んでも、仕方がなかっただろう。
千代鶴の鉋が――売ってる。
とある小さな大工道具屋を覗いたときのことだ。
その道具屋は店の規模こそ小さいが、親方の顔が広く、さまざまな鍛冶職人との交友があるらしく、ときおり石堂だとか、三条鍛冶の誰々だとか、名の知れた一点を販売していることで有名だった。
店の奥まったところに、堂々と鉋が額に飾られていた。
特別展示のようで、値段は書かれていない。
一体いくらになるのだろうか。
そもそも展示品であり、販売されているかどうかも怪しい。
だが、欲しい。
喉から手が出るほどに欲しい。
なんとしても手に入れたい。
店の親方はおらず、小僧が一人店番をしていた。
「あの鉋はいくらだ?」
「あれは売り物やないんですよ」
「どうしても売って欲しい」
「いえ、だから私じゃ売れへんのですわ」
小僧が困惑した表情で、売れない売れないと返事をしてくるが、竹蔵も諦めきれなかった。
ここで手に入れなければ、二度と手に入らない気がしたのだ。
「そこを曲げて。なんぼだったら売ってくれる」
「……60円だったら売ってもええんちゃいますか」
鉋一つに60円である。
平均的な日給が2円。
たかだかノミ一つに平均月収を払えるわけがない、だから諦めろと小僧の顔に書いてあった。
「分かった。じゃあこれで頼む」
「えっ……!?」
小僧がビックリした表情を浮かべていたが、竹蔵は二の句を告げさせなかった。
一度値段を提示した以上、やっぱり売れないと言わせる気はなかった。
これで店主が帰ってくると、なかったことになるかもしれない。
だまし討ちのような形で申し訳ないが、手に入れたい衝動はそれよりも大きかった。
「勘弁してくださいよ」
「早く出してくれ。値を付けたのは君だし、金は払ってる」
「俺親方に怒鳴られちまう」
「いい勉強になったな」
渋々という形で鉋が額から降ろされた。
竹蔵は風呂敷に包むと、すぐに店をあとにする。
小僧は呆然としていて、ありがとうの一言もなかったが、それも気にならないぐらいホクホクとした暖かな気持ちが胸を満たしていた。
素晴らしい切れ味だ。
千代鶴の鉋で材木を削ると、スルスルと滑るようにして削れていく。
その上仕上げ鉋の必要が無いほど、表面がなめらかに仕上がる。
これは良いものが手に入ったと喜ぶ竹蔵に、熊吉が気付いた。
「おっ、お前さんも千代鶴が手に入ったのかい」
「ええ、たまたま道具屋が売ってましてね」
「ほほう、それは運が良かったな」
「まったくですわ」
これからも休みの日は色々な道具屋を覗こうと心に決めた竹蔵だった。
他方、
「バカヤロウ! あれは売り物じゃねえんだよ。どうやって落とし前を付けるんだ!」
「すみません親方!」
という場面があったとか。
職人たちのエピソード 肥前文俊@ヒーロー文庫で出版中 @hizen_humitoshi
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