七月二十日、午前八時二十分。
夏休み初日であるその日も、めちゃくちゃ朝から暑かった。
外からは蝉の鳴き声がシャンシャンとうるさく、お昼には三十七℃にもなるらしい。
僕は|透野将太《とおのしょうた》。
自分の部屋から出てリビングのドアを開けると、ひやりとした空気が肌を撫でた。つけっぱなしのエアコンが、かろうじて外界の熱からこの空間を守ってくれている。
それでも、南向きの大きな掃き出し窓から差し込む光は暴力的だった。
まるで意志を持っているかのように真っ直ぐに伸びた光の筋が、白木のフローリングにくっきりとした四角形を描き、その表面をじりじりと熱している。
ローテーブルの上には、母さんが飲みっぱなしにしたのであろう麦茶のグラスが、うっすらと汗をかいている。
テレビがつけっぱなしになっていたから目を向けると、今日はどうも選挙の日なんだそうだ。
まだ学生の僕には早い話だけど、数年後には投票権が得られる。
正直なところ、どこが良いのか、そもそも投票したところで何が変わるのか、まるで分からない。
それよりは、僕の場合は夏休みが始まったばかりのこのタイミングで、できるだけ宿題をすませておきたい。
そんなことを考えていた時、母さんがリビングにやってきた。
ピチピチのTシャツにカーディガンをはおり、下はダメージジーンズ姿。
首から提げた社員用のネームタグには、透野|景子《けいこ》、と印字されている。
テキパキとした動きで、外出支度をしていた母さんは、相当若く見えるタイプらしく、二〇歳すぎぐらいにしか見えない。
年の離れたお姉さんですか、などと間違われることもたびたびある人だ。
母さんは、僕の顔を見るなり、元気な声で注意を飛ばしてくる。
「将太ぁ、ぼうっとしてないで、ちゃんと宿題やりなさいよー」
「今からやろうと思ってたんだって! ほんと母さんはタイミング悪いなあ!」
「そんなこと言って、全然やってないじゃない。夏休みの終わりに全然できてないって散々周りに迷惑かけたんだから、今年は早めに済ませなさいよ」
「分かってるって!」
どうしていつもいつも、人がその気になるタイミングで水を差すんだろうか。
せっかくやる気になっていたのに、スン、と冷めてしまった。
本当にタイミングが悪すぎる……。
「|恵《めぐみ》ちゃんが起きてきたら、冷蔵庫に御飯あるから、出してあげて。母さんこれから仕事行くから。じゃあね行ってきます」
「はーい。気を付けてね」
出勤時間まで余裕がないのだろう。
母さんは日傘を電動自転車に固定すると、慌てて走り去ってしまった。
気を取り直して、宿題やるか。
先延ばしグセがある僕は、毎年夏休み最終日まで宿題が残っていた。
ヒィーヒィー言いながら、雑に溜まった宿題を取り掛かるのは、今年は止めるのだ。
特に読書感想文や自由研究、美術制作を最終日にまとめて片付けるのはマジでキツい。
何年も母さんに泣きながら手伝ってもらっていたから、早めに終わらせろ、と言われても仕方ない。
自分の部屋だと、ついゲームをしたり、動画を見たり、マンガを読んだりして集中できないから、僕はリビングのソファに腰かけて、宿題に取り掛かり始めた。
とりあえず、漢字の書き取りと英単語から始めるか……。
しばらくは、黙々と宿題をしていた。
どれほどそうしていただろうか。
僕にしては珍しく、よく集中できて取り組めた気がする。
トントンと階段を降りる人の音がして、僕の集中は終わりを告げた。
つい先日からうちに居候することになった、遠い親戚の|恵《めぐみ》姉ちゃんだ。
「おはよ~」
「おはよう、めぐ姉」
「将太くんは早起きだねえ……。しかも朝から宿題もやってて偉いなあ」
「たまたまだよ」
「それでも偉い! 若人よ、学び給えー」
「めぐ姉だって若いだろう」
ぼんやりと寝ぼけて間延びした声。
ボサボサの長い茶髪。すごく整った綺麗な顔立ちと、色っぽい泣きぼくろ。
少し色素の薄い灰色の瞳は、今はまぶたが半分閉じられて、ぼやっと焦点があっていない。
あ゛ー、と怠そうな声を漏らす口から覗く歯並びは、とても綺麗だ。
とんでもなくスタイルが良くて、思わずでっっっっかっ、と声が漏れてしまいそうになるぐらい大きな胸とお尻。
逆にコルセットでも巻いているのかと思うようなくびれた腰回り。
肌はシミ一つないぐらいに白くて、滑らかだ。
パツパツのタンクトップに、ドルフィンパンツを着ているけど、形の良いおヘソとか丸出しだし、太ももだってほとんど出ているような格好をしている恵姉ちゃんには、思わず目のやり場に困ってしまう。
この完璧な肉体と、抜け殻みたいな気だるさのアンバランスさが、僕の頭を混乱させる。
綺麗なんだけど、見ていられない。
心臓がバクバクと言っていた。
挨拶に目を合わせたけど、バッと視線を切って、だいぶ終わった宿題に無理やり視線を固定した。
一緒に暮らし始めて数日が経つけれど、全然慣れる気配がない。
そんな僕の動揺にまったく気付いていないのか、恵姉ちゃんはポリポリとお腹を掻いて、ふわあと大きなあくびをすると、キッチンに足を向ける。
ペタペタとスリッパの音が鳴り響き、形の良いお尻と、真っ白な太もも裏が目に入った。
恵姉ちゃんは、まだまだ眠いのか、冷蔵庫の扉にコテンと頭をあずけ、お腹を手で押さえる。
「…………お腹、すいたぁ」
「あ、母さんが冷蔵庫に朝ご飯用意してるって言ってたよ」
「おお、ありがとー。景子さんいただきまーす」
恵姉ちゃんは冷蔵庫を開けると、中からサラダを取り出して、パンを焼きはじめた。
トースターがチーンと焼き上がる音を鳴らすと、アイスコーヒーとサラダ、パンが並んだお盆を手に、僕の向かい側に座る。
トーストの焼ける香ばしい匂いが、彼女の甘い香りと混じり合う。
トロン、とした目は、ぼんやりと朝食に向けられている。
長く細い指がパンをつかみ、口元に運ぶ。
「んー、おいひー!」
恵姉ちゃんは、嬉しそうに目を細めた。
アイスコーヒーの入った保冷マグを手にとって、ゆっくりと飲み、頭を上げていくと、タンクトップの隙間から覗く深い谷間に視線が吸い寄せられて……。
僕は慌てていけない、と思い直して目を逸らした。
頼むから、もうちょっと警戒心を持って欲しい。
ザク、ザクというパンを噛みしめる小気味の良い音を聞きながら、僕はこれから一緒に暮らすことになる日々に、心臓が保つのだろうかと不安になっていた。