第6話 幸福


 目を覚ましたのは、光の中だった。


 最初、意識に浮かんだのは淡い光と、心地よい風だ。目を閉じたまま、ぼんやりとそれらを感じる。次に、花の様な香りと、全身に触れる、なめらかで柔らかなものの感触。


「気が付きましたか」


 一言、美しい声が響いた。それは深く暖かく、頭の芯まで染み渡ってくる。そしてまるで、傷を癒す様に、そこにとどまった。一瞬、よぎったのはエラの姿だった。しかし声は違うものだ。


「目を開けなさい、レナク。もう恐怖はありません」


 続けられるその声を聴いて、俺は幸福感に包まれる。祝福された聖なる音色が、この声には含まれている。言われるがまま、目を開けた。




 どこまでも青く、透き通った目が、俺の目をのぞいていた。通った鼻筋と、薄い唇。完璧な顔の輪郭を、豊かな金の巻き毛が覆う。中性的でどこまでも美しいその顔は、暖かく光を発する様で……


「シェミハザ様!」


 俺は叫び、跳ね起きた。なんと俺は、天使団グリゴリの長であり、我らが戦士団の指導者であるシェミハザの、腕と大きな羽にいだかれていたのだ。慌てて離れようとする。


「動かず、ここにいなさい」


 しかしシェミハザは、俺の肩に手をかけ、再び横に寝かせた。

 はっきりとした意識の中で感じるのは、柔らかく、そしてどんな花よりも良い香りのする体と、白く透き通った肌。淡く光を発するそれらと、微笑を浮かべる美しい顔に、俺の中の何かがはじけそうになる。愛とも肉欲とも違うその感覚は、幸福と安らぎそのものか。

 ただし、通常のものとは異なり、翻弄ほんろうされるような激しさを伴っていた。


「レナクよ、私に教えなさい。何がありましたか」


 微笑を浮かべたまま、シェミハザは問うてきた。俺は恍惚とした気分の中で、あったことの全てを語った。語り終えると、シェミハザはさらに、二つの事を問うてきた。


「レナクよ、ではその男は、お前のことを確かにエノクと呼んだのですね」


「はい、その通りです。二回、確かにそう呼ばれました」


 俺は頷いた。するとシェミハザは、ゆったりとした服の間から、小さな木片を出し、見せてきた。


「では、お前のそばに落ちていたというこれは、その男が彫っていたものですか」


「はい、間違いありません」


 それは確かに、男の彫っていた彫刻であった。近くで見ると、何とも形容しがたい、異様な姿をしていた。

 大まかには円筒形で、表面は火のように波打ち、突き出している。そしてそこから、翼や目と思しきものが、無数に飛び出ているのだ。奴らの信仰する悪魔の一人であろうか。


「そうですか。ならばこれは、私が預かっておきましょう」


 シェミハザはそう言うと、彫刻を元あった場所にしまった。


「さあ、レナク、立ちなさい。そしてあなたは今日、日のあるうちに、アルマロリスの砦へ向かわなくてはなりません」


 シェミハザは、そう続けた。アルマロリスとは、天使団グリゴリの一人である。その砦はここから、約63,000キュビト (28km) 北に向かったところにある。俺は尋ねた。


「わがあるじシェミハザよ、どうしてですか。私はそこへ行き、何をすれば良いのでしょう」


 するとシェミハザは、恐ろしいことを言った。


「護符をもらうのです、レナク。あなたは、一度呪われたことにより、あの男と繋がりが出来てしまった。夜が来れば、あなたはどこにいても、再びその者とまみえることでしょう」


 何という事だろう。夜の光景を思い出す。二度とあんなことは経験したくない。

 アルマロリスは、護符術の専門家である。呪術や魔術から身を守るすべを、戦士達に教えているという。だが、日の出ているうちにというのは……


「なんと……では、アルマロリス様のところへ行けば、私は救われるのですね。しかし、私はどのくらい寝ていたのでしょうか。今日の日は、あとどのくらい残されているのでしょうか」


 俺はそう尋ねる。するとシェミハザは、驚くべきことを言った。


「丸一日ですよ、レナク。もう一度夜を越して、今は朝です」


 俺はそんなに眠ってしまっていたのか。すると俺が胸にいだかれていたのは、夜あの男から俺を守るためだったのだろう。

 言い知れぬ感謝の念が湧き上がってくる。それを言葉にして伝えると、シェミハザは変わらぬ微笑を浮かべたまま、言った。


「いいのです。さあ、もうお行きなさい。あの扉の外に、お前を待つものがいます。その者と共に、アルマロリスの砦を目指すのです」


 重ねて謝辞を述べながら、俺はその通りにする。俺がいたところは謁見の間であったらしい。以前には、戦士になる際に一度来ただけであった。俺の身長の倍は高さがあろうかと言う巨大な扉。装飾の施されたそれを出る直前、シェミハザに再び声をかけられた。


「もし万が一、途中で夜になってしまったら、闘いなさい。あの男の使う言葉の一切を無視し、神に祈るのです。口で言葉に答えてはなりません。あの男は、そうする度に繋がりを強め、本来の力をお前の前に表わすでしょう」


 それを聞き、俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。そうか、そうだったのか。


 確かに、俺はあの男を、最初は影の薄い者だとすら思っていた。それが、あの男に声をかける度、その力と存在は膨れ上がって行ったのだ。

 悲鳴もそうだ。俺が悲鳴を上げている間、あの男の力は、どんどんと強くなっていった。もう少しで、俺に直に触れることが出来るまでに、なっていたに違いない。

 あの挑発するような言動も、俺に返事をさせるための手だったのか。単純だが効果的だ。一歩間違えれば、俺はそれに答え、議論を交わしていた。そうなっていたら、もはや身を守ることは、出来ていなかっただろう。今になって、震える思いだった。俺は再び、シェミハザに感謝の辞を述べる。



 そうして、部屋の扉を出た。扉を閉め、待っているというのは誰かと首を巡らせた瞬間――


 エラに、抱きつかれた。

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エノクの空 ~古代の地球で天使と戯れる話~ NewCeteras17 @newceteras

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