第18話 囁きは幽かに

 嬉しい。嬉しかった。胸の中を占める嬉しさに、涙が溢れる。大好きな女の子が、ようやく自分を認識してくれた。俺をその目に写してくれた。俺の名前を呼んでくれた。俺との想い出が消えていないと教えてくれた。俺を、俺を、俺を、俺を、俺を。——けど、このまま俺はここにいられない。

 少年は昏い瞳で、沈む夕陽を眺めていた。暗雲が空を覆い始めている。直に大雨に変わるだろう景色を見つめて、七緒はくつり、と笑いをこぼす。自らを嘲る音色だった。

 己の目的は達せられた。幸福感にこのまま陶酔して、何もかも投げ出して、彼女の隣にただ寄り添っていたい。

 でも、それはできない。もう一仕事、残っている。


「……ばいばい、俺の運命」


 ぽつ、と降注ぐ雫は雨か、それとも涙か。瞬く間に空を覆う重たい雲が、雷雨を伴ってグラウンドを泥濘に変えていく。ガラリと扉を開け、少年は窓枠を踏み越えた。そのまま烏は羽ばたいていく。漆黒の羽を一枚、保健室に落として。後にはもう、影も形もなかった。




 真っ白な天井が、まず目に入ってきた。一瞬保健室かと思ったが、仕切られたカーテンに見覚えがある。おそらく譲の診療所に運ばれたのだろう。よいしょ、と体を起こすと、節々につきりとした痛みがはしる。脇腹あたりに刺すような痛みがあって、呻きながら栞は丸まった。


「起きたか、栞」


 呻き声を聞いて、カーテンが横に引かれる。


「譲……に、五位鷺?」


 マグカップを片手に、白衣の譲がこちらを覗いていた。譲の影からひょっこりと顔を覗かせる少年はどう見ても五位鷺千蔭で、その下で彼に顎を乗せられている雨燕なおがうるうると瞳を揺らしていた。


「栞ちゃぁん!」


 なおに勢いよくがばりと抱きつかれ、体が悲鳴を訴えるものの、大事な友人を取り返したという安堵の方が優った。前にも似たようなことがあったな、と思いつつ、よし、よしとなおの丸い頭を撫でた。


「三日も寝たきりだから、心配したんだよぅ!」

「……え、丸三日、ですか!?」


 傍に置いてあった携帯端末に目を落とす。日時は6月の18日、午前10時。最終期限まであと11日、残りの判は二つ。ギリギリなんとかなるだろうかと、栞は眉根に皺を寄せた。瞼を閉じれば真っ暗な視界にちらつくのは、明るすぎる緑色と暗い赤色の光の応酬。そこでふっと思い出す。この場にいない真っ黒な烏の姿を。


「……片桐、は?」


 お礼を言わなくちゃ、と栞は呟く。確かに彼の残した傷跡はまだ指に残っていたけれど、大事な想い出を忘れていた自分にも落ち度がある。きょろきょろと視線をやっても、他に人影はいないようだった。


「あのさ、その話、なんだけど」


 気まずそうな声をかけてきたのは千蔭だった。なおもしゅんと項垂れている。栞は何事か、と首を傾げた。


「どっかに、消えちまったんだ。兄貴を問いただしても本当に知らないみたいでさ。……あいつの家に書き置きもなし」


 嫌な予感が、栞の胸中を占めていく。暗雲が垂れ込めるように、じわじわと不穏な空気が満ちていくようだ。抗うように息を深く吸い込むと、ずきずきと痛みが声を上げる。体を丸める栞の背を撫でる、優しいなおの手の温もりが、とてもありがたかった。


「なあ、白鳥。あいつを見つけたら——」


 暗い顔をした千蔭が、ぽつりと呟いた。その先の言葉を言おうとして、逡巡しているようだった。自分のしたこと、片桐七緒のしたことがあるから、栞には伝えられない言葉なのだろう。傷つけた相手に対して願うには、あまりに身勝手だと。

 それでも、栞は彼の願いを酌んだ。


「連れ戻します」


 千蔭に注がれるまっすぐな視線。少年は少しだけ躊躇いがちに、その視線を受ける。


「……頼んだ」


 にこりと微笑んだ栞のことを、なおが抱きしめる。大丈夫ですよ、と口に出して言えば、本当に大丈夫な気がした。


「でも、まずは判子が優先です。時間がありませんから」

「そうだよ! もちろん、手伝ってくれるんだよね、五位鷺っ」


 子供達の仲睦まじい様子を、譲はじっと、見つめていた。彼の飲むコーヒーの色のように、先の見えない瞳で。




 6月21日。夏至ではあれども梅雨は深まり、灰色の空を重たい雲が覆っている。ガラス窓の外ではびしゃびしゃと雨が振り続け、いつもよりも活気の少なくなった校舎を、栞は歩いていた。“判子が増えたらまたおいで”——そう告げた少女の言葉を思い出し、美術準備室へと向かうためだ。

 コンコンコン、と扉をノックし、ガラリと引き戸を開ける。狭い部屋には一脚のパイプ椅子。そこに座り込んだ少女は猫のような笑みで、栞の来訪を歓迎した。


「まってたよ、主人公」

「……差羽、先輩」

「8つ、認印を集めたんだってね。おめでとう」


 創は椅子に座りながら横に体を揺らす。猫の尻尾のように、ゆらりゆらりと三つ編みが揺れた。


「ありがとうございます。話を、聞きに来ました」

「ナーイスタイミング」


 おいで、と手招かれ、狭い部屋の机へ案内される。


「これ、昨日紡がれたばかりの話なんだよ」

「また、ゴーストライターですか」


 読んで、と促される。美しい孔雀の絵が表紙に書かれた本だった。ピーコック色の鮮やかな表紙をめくると、豪華な椅子に座った王子様の挿絵が描いてある。

 孔雀と、〈王子〉の物語。

 謎に満ちたこの最高位選定の儀の核心に触れるような気がして、栞は、ふう、と深く息を吐く。ぐっとお腹に力を込め、本を読み始めた。




 むかしむかし、あるところに星の女神さまがおりました。

 星の女神様はいつも一人でおりました。一人で笑い、一人で泣き、一人で歌い、そうして地上に生きるものたちを見守っているのでした。

 そんなある日、彼女に心を奪われた、鳥の一族の中で最も美しい孔雀の王様が星の女神さまに言いました。


「綺麗なあなたの心がほしい」


 ひとりぼっちの女神さまは嬉しくなって、孔雀の王様に心をあげることにしました。それと引き換えに、星の女神さまはこう言いました。


「私の心をあげるから、あなたの命を私にちょうだい」


 そうして、孔雀の王様は、星の女神さまの手となり足となり、鳥の一族をまとめあげました。

 以来、孔雀の体は星の女神のものとなり。

 以来、星の女神の心は孔雀のものとなるのでした。

 星の女神様の恩恵を受けた鳥の一族は、いっとう美しく囀る声を手に入れたといいます。




「この話、君は知ってる?」


 ぱたり、と本を閉じた栞に、創はなんでもないような口調で語りかける。


「いいえ。はじめて、読みました」


 けれどその様々なモチーフを、栞は知っている。誰にも語れぬ"秘密"に近しい物語が、とく、とく、と心拍数をあげていく。


「そっか。この話、ほんとは言詠なら全員知ってるらしいんだけど」

「え」

「アタシたちの同世代は、誰一人として知らなかった。父親世代以上しか知らないなんて、妙だと思わない? しかも、アタシの母親に聞いたら『毎晩読み聞かせに使った』なんて言うんだ。アタシ達一族の成り立ちだから、って。でも、アタシはそれを忘れてる」


 だからさ、と創は続ける。


「キミが隠してるのは"孔雀川"のことでしょ」


 ばくばく、とうるさく騒ぎ始める心臓。悪戯っぽく真実を見通す目に射抜かれて、栞はからからの口で


「……さて、どうでしょう」


 と告げるのでいっぱいいっぱいだった。その様子で真実を語っていると言っても過言ではないが、創はそれ以上の追求をしなかった。


「答えたくないなら無理に答えなくていいよ。アタシがしたいのは尋問じゃなくて忠告だから」


 そうして、再びパイプ椅子へと腰掛ける。孔雀色の本を手にした栞もまた、同様に。


「最高位選定の儀は、バトルロワイヤル式だ。判子は何回押してもいいけど、最終的に全て集めるためには全てに勝たなければいけない。……でも、たったひとつ、例外の家がある。それが孔雀川」


 栞は何も言わず、ただ語られる言葉に耳を傾ける。


「孔雀川は戦わない。代わりに、最高位にもならない。あの家だけは立ち位置が特殊なんだ」


 そう言いながら、創は自分の学生鞄から古びた手記を取り出した。黄ばんだ紙をぺらぺらとめくれば、達筆な文字が書き連ねられていた。


「詳しくはわからないけど。アタシもキミのこと見てたら色々気になってさ、うちにあったかつて差羽家から輩出された最高位の日記を読み解いたんだ。どうにも、孔雀川家の言詠は"神降ろしの器"らしい」

「神降ろし?」

「そう。その身に星の女神を直接宿すための器としての役割なんだって。そしてその時、星の女神と直接対話する役目を担うのが言詠最高位なんだ」

「対話、ですか? 神降ろしをしているのに?」


 神降ろし。祭りの際などに神を招き、人の身に一時的に宿す手段である。人の身に宿すのだから、お告げなどは人の言葉でしてもらえる。わざわざ対話をする必要などないのではないか、と栞は思った。


「ああ、星の女神にこちらの願いを聞いてもらうためだよ。ほら、キミも言われたんじゃない? "最高位になれば願いを叶えることができるかも--"って」

「そういうことだったんですか!?」


 ならば。祖母の悲願も、己の願いも、すべては星の女神次第と言うことだ。両親を目覚めさせてほしいと、一体どうやって主張すべきかという方向に考えが向かいかける。ふるふる、と首を振って、その思考を追いやった。まだ、最高位ではないのだから、今考えるべきことはそれではない。


「みたいだね。ただ、そういう話が前面に出たのは今回限りの特例みたい。いつもなら、一族の繁栄を願うくらいでとどめてる、形式的なものなんだって。だから、なんだか妙だと思ったんだよ。……願いを叶えるというところを強調してこの儀を歪めたいヤツがいる、っていうのが、アタシの出した結論。そして、それは多分烏丸家の人間だと思う」

「そんなことする人が、本当に烏丸にいるんです?」

「憶測だけどね」


 でも、そんな気がしてる。そう呟いて、いつものふざけた調子が嘘のように、創は怜悧な眼差しで栞を見つめた。


「なにか矛盾や違和感を感じたら、警戒すること。いい?」


 忠告の言葉に、少女はこくりと首肯した。


「……ありがとう、ございます」

「いいのいいの」


 礼を述べればまた、創の表情は晴れやかなものになる。烏丸家の不穏な動きのことがぐるぐると頭の中をめぐっていく。ふと、気になって、部屋を出ようとした直前に創の方を振り返った。


「あの」

「なーに」

「差羽先輩は、七番目の烏に気をつけろって言いましたよね」

「言ったね」

「彼、いま行方不明なんです。心当たりありませんか」


 仲良くなったのかい、と驚く創に向かって栞は曖昧に微笑んだ。


「……生憎だけど、知らないな」


 そうですか、と栞は呟く。それからぺこりと一礼して、美術準備室の扉を閉めた。孔雀色の表紙をひと撫でして、創はひとり、黄昏に呟く。


「いってらっしゃい、ヒーロー」

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『本の栞』は星に祈りを 牧野ちえみ @nikuasupara

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