第17話 歌声は天高くに

 ほろほろと涙を流して、栞は烏を抱き寄せた。ぐったりとした烏は、その姿を保てず瞬く間に人の姿へと戻る。あれほど恐ろしかった少年を抱き起こしながら、栞は呼吸と心音を確認する。息があるし、心臓もきちんと動いている。だから、大丈夫なはずだ。震えながら唇をかみしめて、少女はぎゅっと目を閉じた。ぽたぽたと、はがれかけた木の板に温かな雫が落ちる。

 心の中で、懐かしい声がする。桜の下でともに語り合った優しい声が、己のうちから語りかけているような気がした。


 ——全部、思い出したかい。なら、君のすべきこと、わかるね?


 《王子》の声が栞に問う。心が震えた。昨日は確かに、彼に怖いことをされたけれど。傷口に塩を塗るような真似をされたけれど。

 でも、かつての彼との想い出は、本物で。確かに、栞の心を支えてくれたから。その恩に報いなければ、かつての少女が救われない。幼かった頃、いまに至るまで大事にしていた想い出に報いるために。栞は七緒をゆっくりと横たえ、スカートの埃を払って立ち上がった。


(わたしのやるべき事、わかります)


 小さく頷いた栞の瞳が、孔雀の色に染まっていた。それは空に輝く恒星のように、ちかちかと煌く。六連星むつらぼしを瞳に宿して、小さな唇から歌がこぼれる。旋律に言葉は乗らない。らら、ららら、と紡がれる歌に、七緒の瞼が微かに動いた。一度歌を止めて、栞は少年に問うた。


「最初の花は、リナリア。そうですよね、片桐」


 七緒はぱちぱちと瞬く。長い睫毛が上下して、瞳孔がきゅう、と小さくなる。目を見開いて、彼は喘ぐように呟いた。


「思い、出したの」

「はい」


 初めて貰った花はリナリアという名前の花だった。図書館に行って、わざわざ植物図鑑を眺めて見つけたのだ。金魚みたいに小さくて愛らしい花に、随分と心が慰められたのを覚えている。白いバラや赤いガーベラを携えて、真っ黒い烏が差し出してくれたのを覚えている。色とりどりの花が枯れてしまうのが惜しくて、祖母にバレないように保管する方法をどうにかひねりだそうと躍起になったものだ。栞は唇をほころばせた。結局、七緒からもらった花々に重たい本を乗せて押し花にして、本の栞にしたのだった——と。忘れていただけで、部屋を探せば出てくるはずだ。確か、一番大好きな本に挟んで、見つからないように本棚の奥にしまい込んだはずだ。


「今でもちゃんと、大事に持ってます」


 少年は瞳を潤ませて、それから目を閉じる。七緒の頬を伝う雫を見届けて、栞は陽一の方へと向き直る。男は、退屈な茶番劇を見ている時のように大きなあくびをしていた。


「で、話は終わった?」

「はい。お待たせしました」


 栞は小さく頷いた。ここが彼の作り上げた舞台だと言うのなら。舞台に上がる役者として彼と対峙するのなら。それに似つかわしい作法であるべきだ。この残酷な演出家に引導を渡すべく、栞は目を閉じた。胸に手を当て、大きく息を吸った。


「わたしは『本の栞ブックマーク』」


 よく通る声で、宣言する。


言詠最高位プリンシパル候補者、白鳥家の次期当主。魔術師としての名は白鳥栞」

「……おや。まだやる気なの、白鳥ちゃん」


 鼻で笑って、男は冷笑した。それでも栞は、陽一から目を逸らすことはしなかった。ただまっすぐその目を見据えて、ニッコリと、いっそ挑発的とも言えるように笑って、告げた。


「あなたのために、歌います」


 胸に当てた手を、空へ伸ばす。天に座す神に捧げるような仕草に、陽一は眉をぴくりと動かした。神のために捧げられる歌や舞を神楽というが、まさしくそれであることを彼は知っていた。脅威ではないはずの小娘の一挙一動に、男は目を奪われる。

 再び栞が唇を開いた。


「『北の十字にわたしは在りて、夏の向こうへ羽ばたこう』」


 歌声が幾重にも響く。それは一人の少女の声にしてはありえざる響きだった。音が重なり、数人で歌っているように聞こえてくるのだから。ハーモニーを生み出しながら、栞は思った。自分にできることなど、たかが知れている。圧倒的な力を持つ魔術師に、為す術などないかもしれない。

 それでも。


「『この瞳は“北天の宝石アルビレオ”』」


 謳い、祈ることはできる。


「『光る宝石はあなたを見つける。あなたは輝いて、煌めいて、明るく彼方でわたしたちを見守り続ける』」


 大切な人や、守ってくれた人のために。自分にできることは、もとよりそれだけだ——。


「『わたしはあなたを待っている、わたしの心があなたを呼ぶ』」


 歌声が、孔雀色に煌めく。音楽が、対峙する男の動きを縫い止めていた。


「はは、歌ってどうにかなるとでも思ってるの」


 男は尚も嘲笑う。けれど、と栞は対峙する男の感情を見抜く。立ち向かう魔術師の想いがわかる。それは、弱いと思っていた相手が、牙を剥いた時の恐れ。窮鼠に噛まれる前の猫の狼狽だ。でなければ、歌うこの喉笛を搔き切るくらいの事、この男には容易いはずなのだから。


「『星の女神よ、わたしはここに』」


 失くしていた記憶が、忘れていた想い出が蘇って、次々と力に変換されていくのがわかる。リズムが心臓の鼓動となり、メロディが神経に乗り、ハーモニーが皮膚を粟立てる。体が熱く、血が湧くように内側でざわめくのがわかる。想いが昂ぶって、身体全てが魔力で満ちていくような感覚。視野が広がって、聴覚が研ぎ澄まされていく。ごう、と耳の奥で血が流れる音が聞こえる。

 ここにあるものがわかる。なにをすればいいのかわかる。遠くに四つ、緑の目を見つける。栞は小さく頷いた。目的を達成するためには何が邪魔かを、意識を集中して瞬時に調べ上げる。己の目的を阻むもの、それは。


(結界が邪魔だ)


 歌いながら、天井へ意識を向ける。明るすぎる緑の天幕を降ろすため、栞は高く、伸びやかに歌いあげる。天へ向けていた腕をそのままに、人差し指で結界を指差す。


「『この歌で、』」


 ぴしり、と結界にひびが入った。


「おいおい、嘘だろ……!」


 半笑いで栞の歌を聴いていた陽一が、その瞬間表情を強張らせた。「」と言葉を紡ぐときに、「」意を付加して天井に亀裂を入れるなど、生半可な術ではない。たかだか15歳の少女にできる芸当ではないはずだ。このままじゃまずい。動かなければ、この歌を止めなければ。だというのに、陽一の体は動かない。この歌を聞き続けたいと、そう思っているかのように。


「『ここに来て、そのためならわたしは』」


 ヒビを広げるために、栞は最後のひと押しだとさらに声量を上げた。


「『このいのちを燃やすわ』」


 指先が燃えるように熱い。体が熱を持って、肉体全てが魔術を行使するための機構になったように、ぞくぞくとした震えがこみ上げる。魂ごと歌になってしまったようだ。肌がざわめいて、心臓の鼓動が大きく聞こえる。最後の気力を振り絞って、栞は声を、言葉を、天まで届くほどに響かせる。


「『そしてわたしも、“星”になる——!』


 高く突き抜ける声が、ひときわ美しく響いた。


 パリンッ……!


 音を立てて、シャラシャラと結界が崩れていく。ガラスの破片のように降り注ぐそれは、落下中に光の粒となって消えていく。光の雨がスポットライトのように、栞を照らす。さながら舞台に立つ役者を輝かせるように。そこにいるのは“スター”であり、舞台の中心を陣取る存在。すなわち、作り出された舞台の行く先を決定する輝ける役者であり、物語の道筋を手引きする目印の枝--枝折しおりだった。


「降参するなら、今ですよ」


 薄茶の髪をなびかせて、『本の栞ブックマーク』がそこに居た。舞台の主導権を奪われた男は、花形役者スターアクターにしてプリマドンナを演じた少女に、数回、拍手を送る。ぱち、ぱち、ぱち。乾いた音を響かせはするけれど、


「まあ、結界解かれたくらいじゃ痛くも痒くもないからねえ」


 光のシャワーの中で、陽一は尚もその態度を変えることはなかった。


「それはどうでしょうね」


 お前の行為に意味などは無いと言いたげな顔に向かって、栞は笑った。息も絶え絶えで、今にも崩れ落ちそうになりながら。膝がガクガクと震える小娘を捉え再起不能にすることなど、いまの陽一には容易いだろう。事実、男はそう考えていた。己の作り出した結界を破るだけで満身創痍なのだ。もはやろくに戦うこともできまい。そう考え、男は足を踏み出す。けれど。


「……へぇ」


 陽一はあいまいな笑みを浮かべたまま、ピクリとも動かなかった。——否、動けなかった。


「『五位鷺陽一はそうして、言葉を発したまま己の体が動かないことに気づく』」


 その声は、閉ざされていたはずの入り口から聞こえてきた。どこか五位鷺陽一に似た声色だが、まだ若い。


「『背後には起き上がった雨燕なおが、鋭い鋏を頸に当てている』」


 声は台詞を続ける。台本のト書きに記された事実が、陽一の行動を縛り上げる。いつの間にか目を覚ましたなおが、陽一の背後から首を狙っている。


「白鳥、左の胸ポケットだよ」


 戯曲を紡ぐ制服の少年が、栞に陽一のアキレス腱を伝える。五位鷺千蔭がそこにいた。現実を書き換える台本を片手に、栞にまっすぐな視線を向けていた。栞は身動きの取れない陽一のワイシャツのポケットをまさぐる。そこには、五位鷺の紋が刻まれた判が確かにあった。


「……やるじゃないか、千蔭」


 舌を巻いたよ、と陽一はのたまう。裏切ったと見せかけて、結界を破ってからなおと千蔭で陽一を無力化する。歌を歌っている時、栞は千蔭の視線と表情からそれを汲み取り、見事実行してみせたのだった。陽一と対峙する前に千蔭からその計画の一端を聞かされてはいたものの、実際に『騙される方が悪い』と言われた時には一体どこまでが本当なのかわからなくなってしまった。千蔭が誠実な少年でよかった、と栞は胸を撫で下ろした。


「兄貴の真似をしてみただけだよ」


 口だけは動くらしい陽一は、くつくつと喉を鳴らして栞に声をかける。


「自分の力じゃなく周りを頼って承認を得るんだねぇ、白鳥ちゃん?」

「判子を手に取ったのはわたしです。何か規定に反することでもありやがるんです? 五位鷺先生」


 嫌味ったらしい物言いを、つんと澄ました態度で受け流す。陽一は観念したように

深くため息をついた。


「……いいや。仕方ない、認めよう。あーあ、烏丸本家に怒られちゃうなぁ」


 台紙に8つ目の判を押して、栞は陽一の胸ポケットに判を戻した。それを合図に、千蔭がパタンと台本を閉じる。油断なく鋏を当てながら警戒するなおの緊張をよそに、自由の身になった陽一は何事もなかったかのように踵を返して、朽ちた校舎を後にする。足取りは重そうだったが、その口元がどこか嬉しそうな笑顔だったような気がして、栞は首を傾げた。それからなおの方へ向き直る。張り詰めていた緊張の糸が切れて、栞は全身の力が抜けるのがわかった。倒れそうになったところを、駆け寄ってきたなおに支えられる。


「栞ちゃんっ!」

「なお……遅くなりました」


 ごめんね、と謝れば、くしゃくしゃな顔のままなおが抱きついた。柔らかい女の子の体が、今はとても落ち着く。


「いいんだよ、なおは大丈夫。それよりも、あの子が」


 なおの視線の先には、ぐったりと横たわった片桐七緒の姿があった。なおの肩を借りながら、ふらつく足で七緒に近寄る。


「片桐、片桐っ……!」

「七緒って、呼んでくれなきゃやだ……」

「そんなこと言ってる場合ですか!?」


 揺さぶれば、弱々しい声が聞こえてくる。七緒は捨てられた子犬のような瞳で、千蔭と栞のことを交互に見て、それからゆっくりと目を瞑った。そのうちに規則正しい寝息が聞こえてくる。陽一に蹴られていた傷が痛んでいないかどうかが心配だったが、栞にその判断はつかない。


「五位鷺、なお、とりあえず保健室に行きましょう」

「うん!」


 なおの元気な返事に安堵すると、突然ぐらりと体が傾いで、そのまま倒れていく。


「あ、れ……」


 栞ちゃん、と自分の名前を呼ぶ声が遠い。目の前が急に色褪せて、視界がモノクロになる。目眩に体を支えることができないまま、栞の意識はそこで途切れた。

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